e 四拍動詞 [目次に戻る]
i 東京アクセントが参考になるもの [目次に戻る]
終止形が四拍の動詞のなかにも、東京におけるそのアクセントから往時の京ことばにおける式を推測できるものがあります。例えば東京では「扱う」は「あつかう」、「扱った」は「あつかった」と発音できますけれども、この「あつかう」「あつかった」というアクセントは、旧都において「あつかふ」が高起式だったことをしのばせます(「あとぅかふ HHHL」)。「あつかう」「あつかった」のように③でいう東京人もいるでしょうけれども、ひかえめに言っても「あつかう」「あつかった」と言いうることから、古くは高起式だったろうと推測できます。
実は、四拍動詞におけるこうした推測は、必ず正しいわけではありません。例えば「戦う」は東京では『26』以来⓪で言われますけれども、平安時代の京ことばでは「戦(たたか)ふ」は「たたかふ LLHL」と言われました。「叩(たた)く」(たたくう LLF)に由来するので低起式、と思ってよいようです。四拍動詞においても、東京で高く終わるから旧都では高起式だったろうという推測は必ずしも成り立ちません。しかし記憶の便ということでは、次の十数の四段動詞や下二段動詞は平安時代の京ことばでは高起式であり、現代東京ではその流れを汲んでLHHH、LHHHHと発音することができると考えて差支えありません。
いただく【頂・戴】(いたンだく HHHL) 最も高い所が「いただき」(いたンだき HHHH)で、ものをそこに位置させる動作が「いただく」(いたンだく HHHH)ことです。源氏・常夏(とこなとぅ HHHL)で、例の近江の君(あふみの きみ LLHLHH)が、「(オ父サマカラ)御ゆるしだにはべらば、水を汲みいただきても仕うまつりなむ」(おふぉムゆるしンだに ふぁンべらンば、みンどぅうぉ くみ いたンだきても とぅかう まとぅりなムう。LLHHHHHL・RLHL、HHH・HLHHHLHL・HHLHHLHF。お許しさえございましたら、水を汲み、頭に載せてでもお仕えする所存です)と言っています。現代語で「もらう」の敬語として「いただく」と言うのは、ものを拝領する時、そのものを押しいただく(「うやうやしく顔の上にささげる」〔広辞苑〕)ところから来たのでしょう。例えば卒業証書を両手で受け取る時、頭をできるだけ低くすれば、卒業証書は「いただき」に位置することになります。
うかがふ【伺・窺】(うかンがふ HHHL)
うしなふ【失】(うしなふ HHHL)
うたがふ【疑】(うたンがふ HHHL)
おこたる【怠】(おこたる HHHL) 名高い古今異義語。「(病気が)なおる」を意味するとする向きもありますけれども、これは言い過ぎです。「おこたる」には病が快方に向かうという意味があったのであって、「全快する」という意味あいは「おこたり果つ」(おこたり ふぁとぅう HHHLLF)といった言い方で示したようです。
おこなふ【行】(おこなふ HHHL) 仏道の修業をすることも意味できたことは周知です。源氏・薄雲に「終はりのおこなひ」(うぉふぁりの おこなふぃ HHHHHHHHでしょう)という言葉がでてきます。極楽往生を願うための勤行、といった意味のようです。「終はりのおこなひ」を、わが生涯も終わりに近づいたと思う人が自分の後世を願うための勤行、とする向きもありますけれど、「終はり」には「臨終」という意味があるわけで、もしかしたらこの「終はりの」は「臨終のための」、ということは「臨終正念のための」、という意味かもしれません。格助詞「の」は今よりも多様に使われたのでした。
かさなる【重】(かしゃなる HHHL)
したがふ【従】(したンがふ HHHL) 前半は「下」(した HL)に由来するようなので、高いのは当然と申せます。
つまづく【躓】(とぅまンどぅく HHHL) 「爪突く」に由来するそうで、「爪」は「とぅめ HH」です。「突く」は「とぅく HL」でした。
はたらく【働】(ふぁたらく HHHL) 「動く」(うンごくう LLF)の同義語です。例えば気絶している人は「はたらかぬ人」(ふぁたらかぬ ふぃと HHHHHHL)です。
ふたがる【塞】(ふたンがる HHHL) 「ふさがる」の古形。「蓋」(ふた HH)の派生語です。
まさぐる【弄】(ましゃンぐる HHHL)
あくがる(あくンがる HHHL) 「あこがれる」(⓪)の古形ですが、古今異義であり「さまよう」といった意味で使われたことは有名です。和泉式部の次の歌は人口に膾炙しています。
もの思へば沢の蛍も我が身よりあくがれいづる魂(たま)かとぞ見る 後拾遺・雑六1162。もの おもふぇンば しゃふぁの ふぉたるも わあンがあ みいより あくンがれ いンどぅる たまかあとンじょお みる LLLLHL・HHHLLHL・LHHLL・HHHLLLH・LLFLFLH
うづもる【埋】(うンどぅもる HHHL) 「うずもれる」の古形です。
冬のいと寒きに、思ふ人とうちかさねてうづもれ臥したれば、鐘の音のただものの底なるやうに聞こゆるこそをかしけれ。枕・冬のいと寒きに(前田家本〔223〕。三巻本の「忍びたる所にありては」〔70〕――しのンびたる ところに ありてふぁ ――の段では「思ふ人と」が抜けていて面白くありません)。 ふゆの いと しゃむきいに、おもふ ふぃとと うてぃい かしゃねて うンどぅもれ ふしたれンば、かねの おとの たンだあ ものの しょこなる やうに きこゆるこしょ うぉかしけれ HLLHLLLFH・LLHHLH・LFHHLH・HHHLLHLHL・HHHHLL・LF・LLLHHLHLLH・HHHHHL・LLLHL。冬、同衾していると、鐘の音のこもって聞こえるのが面白い、というのです。清女はあっけらかんとこういうことを書く人でした。
おぼほる【溺・惚】(おンぼふぉる HHHL) 現代語「おぼれる」の古形「おぼる」(おンぼる HHL)は「おぼほる」(おンぼふぉる HHHL)のつづまったもので、古事記の昔からこの縮約形はあったようですけれども(精選版『日本国語大辞典』)、好まれたのはつづまらない言い方です。通行の『源氏』本文には十の「おぼほる」と一つの「おぼる」とが見えていて、その一つの「おぼる」は源氏・蜻蛉の「(アノ人ハ)いかばかり思ひ立ちてさる水に溺れけむ」(いかンばかり おもふぃい たてぃて しゃる みンどぅに おンぼれけム HLLHL・LLFLHH・LHHHH・HHLLH)という匂う宮の心中思惟ですけれども、青表紙本、河内本、別本にこの最後を「おぼほれけむ」(おンぼふぉれけム HHHLLH)とするものがあります。なおこの動詞は「正常な判断力を失う」という転義を持ちます。前(さき)に見た「そらおぼれ」(おそらく、しょらおンぼれ LLLHL)の「おぼれ」はこの「おぼほれ」のつづまったものです。
こしらふ【誘】(こしらふ HHHL) 現代語の「こしらえる」のもとの形とはいえ意味はまったく異なり「機嫌をとる」「なだめすかす」を意味したこと、申した通りです。
次に、古い東京アクセントが参考になる高起四拍動詞を並べてみます。現代東京では③で言われるものの、『26』では⓪で言われたか、⓪でも言われたかした動詞たちです。
あぢはふ【味】(あンでぃふぁふ HHHL) 平安時代には「味(あぢ)」という名詞はありませんでした。あったのは動詞「あぢはふ」から派生した名詞「あぢはひ」(あンでぃふぁふぃ HHHH)です。動詞「あぢはふ」は、『26』『43』が⓪③、『58』が③⓪、『89』が③としますから、東京では昔は主として、そして近年まで多くは、「あじわった」のように言ったのでした。
いななく【嘶】(いななく HHHL) 『26』は⓪②③、『43』は⓪③としますが、『58』は③⓪とし、『89』は③とします。
うつぶす【俯】(うとぅンぶしゅ HHHL) この「うつ」を「内(うち)」(うてぃ HL)の古形とする辞書があります。確かに式は合います。なお、「うつぶす」の「ぶす」は「伏す」(ふしゅう LF)の連濁したもの。「うつぶす」は『26』『43』が⓪とします。『43』は「うっぷす」も立項していて、こちらは③。『58』は「うつぶす」「うっぷす」をいずれも⓪③、『89』は「うつぶす」を③としていて、⓪から③への移り行きが明らかにたどれます。
さきだつ【先立】(しゃきンだつ HHHL) 「先に立つ」(しゃきに たとぅ HHHLH)こと。『26』は⓪③としますから(『43』も『58』も③)、明治時代には「さきだった」なども言ったのでした。旧都の「さきだつ」は現代語の「さきだつ」と同一視できるわけでもないようで、例えば伊勢物語の第十四段に、
年頃あひ馴れたる妻(め)、やうやう床離(はな)れて、つひに尼になりて姉の先立ちてなりたるところへ行くを
としンごろ あふぃい なれたる めえ、やうやう とこ ふぁなれて、とぅふぃいに あまに なりて あねの しゃきンだてぃて なりたる ところふぇ ゆくうぉ LLLL・LFLHLHR、LHLL・HHLLHH・LFH・LHHLHH・HHH・HHHLH・LHLHHHHL・HHH
とあるのにおける「先立ちて」などは、今ならば「先に」といった言い方をするところでしょう。次の歌の詞書にも同趣の「さきだちて」が見られます。
もの言はむとてまかりたりけれど、さきだちて棟用(むねもち)がはべりければ、「はやかへりね」と言ひいだしてはべりければ
かへるべきかたもおぼえず涙川いづれか渡る浅瀬なるらむ 後撰・恋四888
もの いふぁムうとて まかりたりけれンど、しゃきンだてぃて むねもてぃンが ふぁンべりけれンば、ふぁやあ かふぇりねえと いふぃ いンだして ふぁンべりけれンば LLHHFLH・LHLLHHLL、HHHLH・HHHLH・RLHHLL、「LFLLHF」L・HLLLHHRLHHLL / かふぇるべきい かたもお おンぼいぇンじゅ なみンだンがふぁ いンどぅれかあ わたる あしゃしぇなるらム LLLLF・HLFLLHL・LLHHL・LHHFHHH・HHHLHLH。さる女性とお話しようと出向きましたが、先に棟用(むねもち)が来ていましたので、早く帰れということばが家の中からございましたので詠みました歌。いったいどこに帰ったらよいのか分りません。そもそも我が身の周囲の涙の川のどこの浅瀬を渡るのでしょう。
ちなみに、現代語では例えば「夫にさきだたれる」など言いますけれども、これに当たる平安時代の京ことばの言い方は、「をとこに遅(おく)る」(うぉとこに おくる LLLHHHL)です。ただし、「さきだたる」という言い方はないということではないので、例えば、『蜻蛉』の天禄三年(972)二月の条に「さきだたれにたれば」(しゃきンだたれにたれンば)とあります。先手を打とうとしたら反対に打たれた形になってしまったので、といった意味のようです。
それから、「おくれさきだつ」という言い方は平安時代の歌や散文にしばしばあらわれる言い方です。この言い方を含む「おくれさきだつほど」(おくれ しゃきンだとぅ ふぉンど HHLHHHHHL)も繰り返しあらわれる言い方で、一方がこの世を去り他方がまだこの世にとどまっている、その間の期間を言うようです。
ややもせば消えをあらそふ露の世に遅れさきだつほど経ずもがな 源氏・御法。みのり HHH)。やあやも しぇえンばあ きいぇうぉ あらしょふ とぅゆうの よおにい おくれ しゃきンだとぅ ふぉンど ふぇえンじゅもンがなあ RHLHL・HHHLLLH・LFLHH・HHLHHHH・HLRLHLF。ともすれば争うようにして消えるはかない世に、愛する人にさきだたれ自分がまだこの世にいるこんな期間など、なければよいのに。
岸の上の菊は残れど人の身は遅れさきだつほどだにぞ経ぬ 和泉式部集。きしの うふぇの きくふぁ のこれンど ふぃとの みいふぁあ おくれ しゃきンだとぅ ふぉンどンだにンじょお ふぇえぬう LLLHLL・LLHLLHL・HLLHH・HHLHHHH・HLHLFLH。
そほふる(しょふぉふる HHHL) 現代語「そぼふる」の古形です。「そぼふる」は『26』⓪。『43』『58』③。
つかはす【遣】(とぅかふぁしゅ HHHL) もともとは動詞「使ふ」(つかふ HHL)が尊敬の「す」を従えた言い方だから高起式、と見てよいようです。『26』『43』『58』は⓪。『89』は④③。割合最近に変化したようです。
とばしる【奔】(とンばしる HHHL) 「飛び走る」(とンび ふぁしるう HLLLF)のつづまったものと思っても実害はないでしょう。『26』は⓪。
はばかる【憚】(ふぁンばかる HHHL) 「人目をはばかる」(ふぃとめうぉ ふぁンばかる HHHH・HHHL)も「人目にはばかる」(ふぃとめに ふぁンばかる HHHH・HHHL)も言える言い方で、いずれも『源氏』に見えています(「蛍」〔ふぉたる LLH〕、「藤袴」〔ふンでぃンばかま HHHHL〕)。「人目につつむ」 ふぃとめに とぅとぅむう HHHHLLF) とも「人目をつつむ」(ふぃとめうぉ とぅとぅむう HHHHLLF)とも言えるのでした。「はばかる」は『26』が⓪、『43』『58』が⓪③、『89』が③とします。「つかわす」と同じく割合最近変化したわけです。
ふるまふ(ふるまふ HHHL) 「振る」(ふる HL)と関係のある言葉のようです。これも『26』は⓪としますけれど、すでに『43』『58』が③とします。
ほどこす【施】(ふぉンどこしゅ HHHL) これも『26』は⓪。『43』は⓪③、『58』は③⓪、『89』は③。着実に有核化してきています。
まじなふ【呪】(まンじなふ HHHL) 名詞「まじなひ」はおそらく「まンじなふぃ HHHH」でしょう。『乾元本(けんげんぼん)日本書紀』などを根拠にHHHLと見る向きもありますけれど、これは『書紀』巻第一に見えている「禁厭之法」を「まじなひやむるのり」〈上上上平上上上上平〉と訓むのによったのでしょう。しかし「禁厭」(きんよう、または、きんえん)とは「まじないをして悪事・災難を防ぐこと」(広辞苑。「きんえん」の項)だそうですから、「まじなひやむるのり」〈上上上平上上上上平〉は「おまじないをして悪事・災難が止(や)むようにする方法」を意味するでしょう。すなわちこの「まじなひ」は動詞の連用形と見られれます。なお「まじなふ」は『26』も『43』も⓪とします。『58』は⓪③、『89』は③。昔の東京では「まじなった」と言ったようです。
むつかる(むとぅかる HHHL) 現代語で「子供がむずかる」などいう時の「むずかる」(むづかる)の古形で、大人が気分を害することも言います。形容詞「むずかしい」の古形「むつかし」(むとぅかしい HHHF)はこの動詞と同根で、この形容詞は古くは「困難だ」を意味することはなく(それは「かたし」〔かたしい HHF〕)、「不快だ」と言った生理的な嫌悪感を指しました。『26』『43』は「むづかる」を⓪とし(「むつかる」はなし)、『58』は「むずかる」「むつかる」を⓪とし、『89』は二つを③④⓪とします。
やはらぐ【和】(やふぁらンぐ HHHL) 『26』は⓪とします。「てんきが やわらいだ」だったのですね。
わづらふ【煩・患】(わンどぅらふ HHHL) 『26』も『43』も『58』も⓪とします。『89』は③④。「わづらはし」「わづらはしい」「わづらはしさ」「わづらはす」「わづらはせる」「わづらひ」を、『26』はいずれも⓪とします。割合最近まで「わずらった」など言っていたのです。
今度は同趣の下二段動詞を並べます。
さまたぐ【妨】(しゃまたンぐ HHHL) 「さまたげる」を『26』は⓪(「さまたぐ」は③⓪)、『58』は⓪④、『89』は④とします。
たくはふ【蓄】(たくふぁふ HHHL) 「たくはへる」を『26』は⓪(「たくはふ」は③)、『43』は④、『58』は④③⓪とします。
なぐさむ【慰】(なンぐしゃむ HHHL) 『26』は下二段の「なぐさむ」を⓪とします。「なぐさめる」は立項されていませんけれども、『43』と『58』とが「なぐさめる」を⓪④としますから(『89』は④)、東京ではもともと「なぐさめる」と言ったのでした。それから、「歌によって彼女の気持ちはなぐさんだ」といった言い方は、現代語としてもうほとんど聞かれないのではないでしょうか。つまり五段動詞の「なぐさむ」はすでに現代語と言えないかもしれませんけれど(もっとも「うまく行ったらおなぐさみ」などはかろうじて言うでしょう)、古くは下二段の「なぐさむ」に対する自動詞として四段の「なぐさむ」もよく使われました。これは他動詞「なぐさめる」を受け身にした「慰められる」をもって訳語とすることができます。
『更級日記』の治安元年(1021)の記事に、伝染病が蔓延し(「世の中いみじうさわがしうて」〔よおのお なか いみンじう しゃわンがしうて HHLH・LLHLLLLHLH〕)、世話になった乳母もなくなりなどした時期のこととして、次のようにあります。
(私ガ)かくのみ思ひ屈したるを、心もなぐさめむと心ぐるしがりて、母、ものがたりなどもとめて見せたまふに、げにおのづからなぐさみゆく。紫のゆかり(『源氏』ノ「若紫」ノ巻カトサレマス)を見て、続きの見まほしくおぼゆれど、人かたらひなどもえせず(誰カニ相談スルコトモデキズ)、誰(たれ)も(帰京シタテデ)まだ都なれぬほどにて、え見つけず。いみじく心もとなく(ジレッタク)ゆかしく(続キヲ見タク)おぼゆるままに、「この(アノ)源氏(ぐゑんじ)のものがたり、一の巻よりしてみな見せたまへ」と心のうちに祈る。
かくのみ おもふぃい くっしたるうぉ、こころも なンぐしゃめムうと こころンぐるしンがりて、ふぁふぁ、ものンがたり なンど もとめて みしぇえ たまふに、げに おのンどぅから なンぐしゃみ ゆく。HLHL・LLF・HLLLHH、LLHLHHHHFL・LLLLLLHLH・LH、LLLHLRL・LLHH・LFLLHH、LH・HHHHH・HHHLHL。むらしゃきの ゆかりうぉ みいて、とぅンどぅきの みまふぉしく おンぼゆれンど、ふぃとかたらふぃ なンどもお いぇええ しぇえンじゅう、たれも まンだあ みやこ なれぬ ふぉンどにて、いぇええ みいい とぅけンじゅ。いみンじく こころもとなあく ゆかしく おンぼゆるままに、「こおのお ぐうぇんじいの ものンがたり、いてぃの まきより しいて、みな みしぇえ たまふぇえ」と こころの うてぃに いのるう。LHHLL・HHHHRH・HHHH・LLLHLLLHLL・HHHHHHRLF・ℓfHL、HHL・LF・HHHLLHHLHH、ℓfℓfLHL。LLHL・LLLLLRL・HHHL・LLLHHHH、「HH・LLLHH・LLLHL・LLLHLHLFH・HLLFLLF」L・LLHLHLH・LLF。「屈」は呉音も漢音も高平調と推定されます。「屈す」は一般には促音を含む「くっす」という言い方で言われたでしょう。これは「くっしゅ HHL」としても「くっしゅ HLL」としても同じことなのでした。「人かたらひ」は「人をかたらふ」(ふぃとうぉ かたらふ HLHHHHL)を名詞にしたもので、「うひかうぶり」のつづまった「うひかぶり」に袖中抄が〈上上上上上〉(「うふぃかンぶり HHHHH」)と〈上上上上平〉(「うふぃかンぶり HHHHL」)とを差すのに倣うと、「ふぃとかたらふぃ HHHHHH」ないし「ふぃとかたらふぃ HHHHHL」と言われたと考えられます。
まつはる【纏】(まとぅふぁる HHHL) 現代語では五段の「まつわる」を使いますが、古くは、四段活用もあるものの、下二段活用が多いようです。『26』は下二段の「まつはる」を⓪で言われるとします(「まつはれる」は立項せず)。この「まつはる」に対応する他動詞は「まつはす」(まとぅふぁしゅ HHHL)ですが、『26』はこちらは③とします。
やはらぐ(やふぁらンぐ HHHL) これも『26』は⓪とします(「やはらげる」は立項せず)。
よこたふ(よこたふ HHHL) 「横」は「よこ HH」です。『26』は「よこたふ」も「よこたへる」も⓪とし、『43』も「よこたえる」を⓪とします。『58』は④③、『89』は④とします。
さて、平安時代の京ことばでは終止形が四拍になる動詞のなかには、見たとおり、東京では⓪で言われるもの、言われたものもありますけれど、その数は多くありません。昔の四拍動詞の多くは現代の東京語ではLHHLやLHHHLというアクセントで言われるのであり、これらのなかには旧都では高起式だったものも低起式だったものもあるので、東京では低く終わるということは往時のアクセントについて多くを語りません。例えば「あざける」は東京では③のLHHLというアクセントで言われますけれども(『26』もそう)、平安時代の京ことばでは高起式です(「あンじゃける HHHL」)。つまり、「東京で高く終わるならば旧都では高起式」は、「戦ふ」のような例外はあるものの基本的には正しい命題ですが、その裏(reverse)は成り立ちません。
ただ、東京アクセントはもう役立たないということではありません。と申すのは、東京における派生名詞のアクセントから、昔の京ことばのアクセントを推測できる場合があるのです。例えば現代東京では「いつわり」は④で、「いきおい」は③で言われますけれども、このように派生語が⓪以外のアクセントで言われるところから「いつはる」「いきほふ」(こういう動詞がありました)は、古くは低起式だったろうと正しく推測できます(「いとぅふぁる LLHL」「いきふぉふ LLHL」)。
もっとも例外もあります。例えば名詞「訪(おとず)れ」は東京で④で言われうるから旧都では動詞「おとづる」は低起式だったろうとすることはできません。実際にはそれは高起式で、「おとンどぅる HHHL」と発音されました。これは「音」(おと HL)にはじまる動詞だからです。
これに関連して、「訪れ」は東京では⓪でも言えるから古くは高起式だったと推測できる、とすることはできないことを申します。「東京で派生語が⓪以外の場合、旧都では動詞は低起式のことが多い」は確かに言えることですけれど、以下に見るとおり、「東京で派生語が⓪の場合、旧都では動詞は高起式のことが多い」とはまったく言えないからです。
以上を前置きとして、以下に、終止形が四拍になる動詞で、派生語の東京におけるアクセントから古くは低起式だったことが正しく推察されるものを並べます。まず四段動詞。
あきなふ【商】(あきなふ LLHL) 名詞「あきなひ」は「あきなふぃ LLLL」か、「あきなふぃ LLHH」でしょう。低起四拍の派生名詞は、低平連続調が多いとは言え、のちに見るとおり、LLHHもありえます。名詞「あきなひ」には改名が「平平〇〇」、顕昭の『拾遺抄注』が〈〇平平平〉を指しますから、たんに合わせればLLLLですけれども、二つは異なっていて前者はLLHHを意味するとも解せます。なお名詞「あきなひ」を『26』も『43』も③とします。『58』『89』『98』は②③、大辞林(2006)は②。四拍目が特殊拍なので下がり目が一つ前に来るのは自然として、なぜかさらに一つさかのぼりました。以下にも見ますが名詞「うらなひ」は『26』も『43』も『58』も③で、今も「うらない」とは言いません。ちなみに現代京都では「あきない」「うらない」のようです。
あやまつ【誤】(あやまとぅ LLHL) 名詞「あやまち」は「あやまてぃ LLLL」。現代語では例えば女性が「あやまち」をしたというと相当深刻な事態が想像されますが、酸っぱいものを鮨鮎に吐(は)きかけてしまった『今昔』の物売りの女は、「あやまちしつ」(あやまてぃ しいとぅう LLLLFF)と思っていました。それも無論深刻でしたけれど、平安時代には「あやまち」はちょっとした失敗も言ったと考えられます。『26』は動詞「あやまつ」を③、名詞「あやまち」を⓪としますけれども、動詞が低く終わることも、派生名詞が高く終わることも多くを語らないのでした。ただ現代東京で「あやまち」は④で言いうるのですから、昔の東京でも④で言えたかもしれず、それは旧都において「あやまつ」が低起式だった名残かもしれません。
あやまる【誤】(あやまる LLHL) 名詞「あやまり」は「あやまり LLLL」。『26』は動詞を③、名詞を⓪としますけれども、「あやまち」と同じくこれも現代東京では④ないし③で言い得ます。
あらがふ【抗】(あらンがふ LLHL) 名詞「あらがひ」は「あらがひ LLLL」でしょう。『26』は動詞も名詞も③とします。今は「あらがい」とはあまり言わないでしょうけれども、『26』の③は旧都における「あらがふ」の低起性の名残と見ることができます。
あらそふ【争】(あらしょふ LLHL) 名詞「あらそひ」は「あらしょふぃ LLLL」でしょうけれども、この名詞を『26』も『43』も③とします。これは「あらそふ」がかつてLLHLと言われた名残ですが、『58』は③⓪、『89』は⓪③とします。この動詞を形容詞「荒し」(あらしい HHF)と関連付けるのはあまり説得的でありません。
いきほふ【勢】(いきふぉふ LLHL) 名詞「いきほひ」(いきふぉふぃ LLLL)は「活気に満ちる」といった意味の動詞「いきほふ」の派生語です。やはり「息(いき)」(いき LH)と関係があるのでしょう。『26』は動詞も名詞も③。
いつはる【偽】(いとぅふぁる LLHL) 名詞「いつはり」に関して、顕昭本の一つ(顕天平614)に、普通は〈平平平平〉と言うが、我が養父である顕輔卿(1090~1155)は〈平平上上〉と言った、とあります。顕輔の幼少期のころ成立した図名にも、「いつはり」〈平平上上〉という注記が複数見えています。すると遡行して、平安中期には「いとぅふぁり LLHH」と言われたと見られます。「いざなひ」(いンじゃなふぃ LLHH)のような言い方は孤例といったものではないのです。前(さき)に名詞「あきなひ」は「あきなふぃ LLHH」かもしれないと申したのは、こうした例があるからでした。『26』は名詞「いつはり」を④とします。『43』は③④、『58』は④⓪③、『89』は⓪④③。⓪は新しい言い方です。
うらなふ【占】(うらなふ LLHL) 平安時代には「占い」のことはたんに「うら」(うら LH、ないし、うらあ LF)ということが多かったようです。名詞「うらない」は『26』『43』『58』が③、『89』が⓪③です。
さうぞく【装束】(しゃうンじょく LLHL) 名詞「さうぞく」(しゃうンじょく LLLL)を動詞化したもの。ちなみに「彩色(さいしき)」(呉音で、おそらく「しゃいしき LLLL」)を動詞化した「さいしく」(しゃいしく LLHL)も栄花・もとのしづく(もとのしンどぅく LLLLLL)に見えています。「なげく」(なンげくう LLF)や「ダブる」「トラブる」と同タイプの言い方です。
たのしぶ【楽】(たのしンぶ LLHL) 「楽しむ」の古形。名詞「楽しみ」は「たのしみ LLLL」でしょう。『26』は④、『43』は③④、『58』は④③⓪とします。古今集の仮名序の一節にこうあります。
たとひ時うつり、事さり、楽しび、悲しび、行きかふとも、この歌の文字(もんじ)あるをや。
たとふぃ とき うとぅりい、こと しゃり、たのしンび、かなしンび、ゆき かふともお(ないし、ゆきかふともお)、こおのお うたの もんじ あるをやあ。LLL・LLLLF、LLHL、LLLL、HHHH、HLHLLF(ないし、HLLHLF)、HHHLLLHL・LHHF。
にぎはふ【賑】(にンぎふぁふ LLHL) 名詞「にぎはひ」は、あるいは、「いつはり」(いとぅふぁり LLHH)や「いざなひ」(いンじゃなふぃ LLHH)などと同じく「にンぎふぁふぃ LLHH」だったかもしれませんけれども、連用形までこうだったとは考えにくいと思います。連用形までそう見る見方のあるのは、『顕府』が『和漢朗詠集』(十一世紀はじめ)などに見えているところの、
高き屋にのぼりてみればけぶり立つ民のかまどはにぎはひにけり
を引いて「にぎはひ」に〈平平上上〉を差すからで、「にぎはふ」が後に見る少数派低起三拍動詞に似たアクセントをとるとすればこれはありうることですけれども、同趣の例をほかに見つけることはむつかしいようですから、今は誤点と見ておきます。たかきい やあに のンぼりて みれンば けンぶり たとぅ たみの かまンどふぁ にンぎふぁふぃにけり LLFRH・HHLHLHL・HHHLH・LLLHHHH・LLHLHHL
へつらふ【諂】(ふぇとぅらふ LLHL) 名詞「へつらひ」を『26』が③とします。
よろこぶ【喜】(よろこンぶ LLHL) 名詞「よろこび」(よろこンび LLLL)は、「お礼」や「お祝い」といった意味でも使われました。この名詞を、『26』は④、『43』は③⓪、『58』は④③⓪、『89』は⓪④③としますから、⓪は近年さかんになった言い方のようです。
次に上二段動詞を一つ。
ほころぶ【綻】(ふぉころンぶ LLHL) 名詞「ほころび」を『26』が③とします。
以下は下二段動詞です。
あつらふ【誂】(あとぅらふ LLHL) 広く注文すること一般を言いました。名詞「あつらへ」は「あとぅらふぇ LLLL」でしょう。この名詞を『26』は③とします。
あらはる【現】(あらふぁる LLHL) 「顕」や「露」を当てる「あらは」(あらふぁ LHL)と同根。「発覚する」「露見する」も意味しました。名詞「あらはれ」は『43』③④、『58』が④③、『89』が⓪④とします。
朝ぼらけ宇治の川霧たえだえにあらはれわたる瀬々のあじろ木 千載・冬420・定頼(公任の子。と申すより、小式部の内侍に意地悪なことを言った、あの中納言です)。あしゃンぼらけ うンでぃいの かふぁンぎり たいぇンだいぇに あらふぁれ わたる しぇンじぇの あンじろンぎ LLLHL・LFLHHHL・LLLLH・LLHLHHH・HLLHHHH。「たえだえに」への注記を知りませんが、顕天片・顕大1078が「しのびしのびに」に〈上上上○○○○〉を差しています。「しのぶ【忍】」は高起式で(「しのンぶ HHL」)、その連用形に由来する「しのび」がHHLでなくHHHで言われているのは、これが派生名詞としてあるからでしょう。すると「しのびしのびに」は「しのンびしのンびに」(HHHHHHH)であり、「たえだえに」は「たいぇンだいぇに LLLLH」でしょう。「しのびしのび(に)」〈上上上○○○〉や高貞902の「かへるがへる(も)」〈平○上○○○〉などについて「六拍語は複合の度合いがゆるいと考えられるのでそれぞれの反復ではなかろうか」と『研究』研究篇上にあるのは(p.413)、その通りだと思います。寂650が「瀬々」に〈上平〉を差しますが(「しぇンじぇ HL」)、複合の度合いが高い場合、こんなふうにもとのアクセントは維持されるとは限りません。
「編む」は確かに「あむう LF」、編んだものとしての「網=編み」は申したとおり「あみ LL」ですけれども、「あみしろ(網代)」の音便形「あむしろ」ないし「あむじろ」はなぜか「あムじろ HHHH」で(総合索引)、そのつづまった「あじろ(網代)」も、『26』以来東京において⓪で言われることも考えると、「あンじろ HHH」と言われたと思われます(語源が忘れられることはままあるでしょう)。するとこれと「木」(きい L)とからなる「あじろ木」は「あンじろンぎ HHHH」でよいと見られます。このタイプの言い方では、例えば「衣手」(ころもンで HHHH)がそうであるように(伏片317が〈上上上上〉を差しています。「衣」は「ころも HHH」、「手」は「てえ L」)、高平連続調になるのが基本だからです。
おとろふ【衰】(おとろふ LLHL) 「劣る」(おとるう LLF)と関係の深い言葉です。名詞「おとろへ」を『26』は「⓪、又は、③」と、『58』が「③、④」とします。
かむかふ・かむがふ・かうがふ【勘】(かむかふ・かむンがふ・かうンがふ LLHL) 現代語「考える」のもとの言い方ですけれども、「先例や文書に照らし合わせて罪の程度を定める」といった意味だったようで、「思考する」といった一般的な意味は持ちません。現代語の「考える」に近いのは、「思ふ」(おもふう LLF)、「思ひたどる」(おもふぃい たンどるう LLFLLF)、「思ひめぐらす」(おもふぃい めンぐらしゅ LLFHHHL)そのほかでしょう。名詞「考へ」は『26』以来東京では③で言われます。
ことつつ【言伝】(こととぅとぅ LLHL) 「ことづて」という名詞は現代語だと言えても(『26』『43』はこれを④とします)、「ことづてる」をそう言うことはむつかしいでしょう。下二段「伝ふ」は「とぅたとふ HHL」で高起式ですけれども、「こととぅとぅ LLHL」の三拍目の式はこのことに由来するのではありません。例えば「色」(いろ LL)と「付く」(とぅくう LF)とからなる「色づく」は「いろンどぅとく LLHL」なのでした。さて次の歌(古今・夏152)における下二段の「ことつつ」(こととぅとぅ LLHL)を諸辞典が「伝言する」という意味とするのは腑に落ちません。
やよや待て山ほととぎすことつてむ我世の中に住みわびぬとよ やよやあ まてえ やまふぉととンぎしゅ こと とぅてムう われ よおのお なかに しゅみい わびぬうとよお HLFLF・LLLLLHL・LLLLF・LHHHLHH・LFHLFLF。ちょっと待ちなさい、山に帰るほととぎすよ。私はこの世の中には住みにくくなってしまったと、あちらの人に伝えておくれ。
この「ことつてむ」は「伝言しよう」ではなく「伝言を頼もう」と解されなくてはならないでしょう。すると「ことつつ」には「伝言を頼む」という意味があるのです。なおこの歌は山ごもりしている友人に伝言を頼んだもの、とする向きもありますけれど、ほととぎすが「死出(しで)の田長(たをさ)」(しンでの たうぉしゃ LLLLHL)の異称を持つ、この世と冥界とを行き来する鳥とされるのであってみれば、ほとんど自殺願望を表明した歌と解することもできます。参考に次を引いておきます。うみたてまつりたりける皇子(みこ)の亡くなりて又の年、ほととぎすを聞きて
しでの山越えて来つらむほととぎす恋しき人の上かたらなむ 拾遺・哀傷1307・伊勢。うみ たてえ まとぅりける みこの なあく なりて またの とし、ふぉととンぎしゅうぉ ききて HLLFHHLHL・HHH・RLLHH・HLLLL・LLLHLH・HLH / しンでのやま こいぇて きいとぅらムう ふぉととンぎしゅ こふぃしきい ふぃとの うふぇ かたらなムう LLLLL・HLHRHLF・LLLHL・LLLFHLL・HLHHHLF。女流歌人が傷んでいるのは、宇多天皇とのあいだに生まれ、五歳でなくなった我が子なのだそうです。第二句の終わりを終止形ととったのは、ほととぎすよ、お前は今しがたこれこれこうして来たのであろう、それならばこれこれこうしてくれまいか、という骨格の言い方と見たからです。
わきまふ【弁】(わきまふ LLHL) 四段の「分く」(わくう LF)と関係のある動詞でした。名詞「わきまへ」を『26』は④とします。
ⅱ 東京アクセントが参考にならないもの [目次に戻る]
まずは、「戦ふ」がそうであったように、東京で動詞が高く終わるから旧都では高起式だったろうと推測すると間違う、という例を並べなくてはなりません。さしあたり少ないと申せます。
くははる【加】(くふぁふぁる LLHL) 下二段の「加ふ」(くふぁふう LLF)も、現代東京における「加える」のアクセントが参考にならないのでした。四段動詞「加はる」は、古今集声点本が下に引く歌に見えている「くははる」に〈平平平上〉を差すことからLLLHとするとする向きもありますけれども、これは連体形のアクセントなのであって、終止形は「くふぁふぁる LLHL」です。
奈良へまかりける時に、荒れたる家に女の琴弾きけるを聞きて、詠みて入れたりける
わびびとの住むべき宿と見るなへになげき加はる琴の音ぞする 古今・雑下985・良岑宗貞(よしみねの むねしゃンだ LLHHH・HHHL。出家して遍昭〔ふぇんじやう LLLHH。呉音〕と名乗った人です。ならふぇえ まかりける ときに、あれたる いふぇに うぉムなの ことお ふぃきけるうぉ ききて よみて いれたりける HLF・LHHHLLLH・HLLHLLH・HHLL・LFHLHLH・HLH・LHH・HLLHHL / わびンびとの しゅむンべきい やンどと みる なふぇに なンげき くふぁふぁる ことおの ねえンじょお しゅる HHHHH・LLLFLHL・LHHLH・LLLLLLH・LFLFFHH。失意の人の住みそうな家だと見る折しも、嘆く気持ちのこもった琴の音が聞こえてきます。
うなだる【項垂】(うなンだる LLHL) 下二段動詞。『26』が⓪とします。「頷(うなづ)く」(うなンどぅく LLHL)と同じく、「うなじ」(うなンじ LLL)と同義という名詞「うな」にはじまります。下二段の「垂る」(たるう LF)は「垂らす」を意味する他動詞でした。
おちぶる【零落】(おてぃンぶる LLHL) これも下二段。『26』が⓪とします。前(さき)に申したとおり、「落つ」(おとぅう LF)と「あぶる」(あンぶる HHL)とを重ねてつづめた言い方でした。
さて、今しがた「さしあたり少ない」と申したのは、こういう事情があるからです。例えば「誘」を当てる「いざなう」は現代東京では③で言われますけれども(『89』『58』『43』とさかのぼっても③)、『26』は⓪とします(名詞「いざなひ」は⓪で今と同じ)。しかし平安時代の京ことばでは「いざなふ」は「いンじゃなふ LLHL」と言われました(ハ行転呼音で言うと in-the-nowみたい)。今でも「いざゆかん」など言いますけれども、この「サア」といった意味の「いざ」――この「いざ」が変化して「サア」になったそうです――は、『研究』研究篇下(p.384)の説くとおり、平安時代の京ことばではおそらくLFと言われました(「いンじゃあ LF」)。「いざなふ」はこの「いざ」に、「商ふ」(あきなふ LLHL)、「音なふ」(おとなふ HHHL)などに見られる接辞「なふ」の添うたものですから、「いざ」と同式なのは当然です。ちなみに名詞「いざなひ」は平安時代の京ことばでは低平連続調ではなく「いンじゃなふぃ LLHH」のようです。改名の一つに〈平平上上〉という注記のあることだけが根拠ですけれども、少しさき、「いつはる」のところで見るとおり、そうしたアクセントだとしてもまったく不思議でありません。長くなりましたけれども、要するに、昔の東京では「いざなふ」は高く終わるのに、旧都ではそれは低起式でした。『26』からの知識がかえって正しい推測を妨げるような趣ですが、じつは同趣の動詞が少なくありません。以下に気づいたものを並べます。十ほどあります。
いさかふ【諍】(いしゃかふ LLHL) 名詞「いさかひ」はおそらく「いしゃかふぃ LLLL」でしょう。『26』は動詞「いさかふ」を(名詞「いさかひ」も)⓪としますけれど、旧都では低起式でした。『58』も『89』も動詞「いさかう」を③としますから(現代語と認定されているわけです)、戦前のある時期に有核化したことが知られます。
ささやく【囁】(しゃしゃやく LLHL) 同じ意味の「ささめく」(しゃしゃめく LLHL)のほうがずっと多く使われますけれども、「ささやく」も少数ながら見られるようです。その「ささやく」を『26』と『43』が⓪または③とし、『58』が③⓪とするので(『89』は③)、「ささやいた」は割合こちらまで聞かれた言い方だということになります。
しがらむ【柵】(しンがらむ LLHL) 現代語において「人間関係のしがらみ」といった比喩的な意味で使われる「しがらみ」は、この動詞の連用形から派生した言葉です。もともとは、「シガラムコト」および「水ヲ塞クトテ杙(クヒ)ヲ打チ横ニ竹木ヲ縛ツタモノ」(『26』。アクセントは⓪)を意味しました。動詞「しがらむ」はやはり『26』によれば「カラミツケルコト」および「竹木ヲカラミツケテしがらみヲ作ル」ことを意味しました(やはりアクセントは⓪)。美妙斎はこの動詞「しがらむ」の語源を「しげ(繁)からむ(絡)ノ義」としていて、確かに動詞「繁る」は「しンげるう LLF」であり、また後にも見ますけれど形容詞「繁し」は「しンげしい LLF」、その連用形「繁く」は「しンげく LHL」です。次の歌の「しがらみ」は動詞「しがらむ」の連用形です。
秋萩をしがらみ伏せて鳴く鹿の目には見えずて音のさやけさ 古今・秋上217。梅・京秘が「しがらみ」に〈平平上平〉を差しています。あきふぁンぎうぉ しンがらみ ふしぇて なく しかの めえにふぁ みいぇじゅて おとの しゃやけしゃ LLHLH・LLHLLHH・HHLLL・LHHLHLH・HLLLLHH。秋萩をからめつつ倒して鳴く鹿の、目には見えないながら、音のさやかであることよ。
毘・訓はこの「しがらみ」に〈平平平上〉を差しますが、どうやらこれは名詞「しがらみ」のアクセントを記したようです。次の歌における「しがらみ」は名詞で、顕昭の『後拾遺抄注』が〈平平平上〉を差しています。
見渡せば波のしがらみかけてけり卯の花さける玉川の里 後拾遺・夏175・相模。みいい わたしぇンば なみの しンがらみ かけてけり ううのお ふぁな しゃける たまンがふぁの しゃと ℓfHHLL・LLLLLLH・LHHHL・LLLLHLH・LLLHLHH
次の歌の「しがらみ」も名詞です。
山川に風のかけたるしがらみは流れもあへぬもみぢなりけり 古今・秋下303 やまンがふぁに かンじぇの かけたる しンがらみふぁ なンがれも あふぇぬ もみンでぃなりけり LLLHH・HHHLHLH・LLLHH・LLHLLLH・LLLHLHL。第四句は「流れあへぬ」(なンがれえ あふぇぬ LLFLLH。流れ切れない)に助詞「も」の介入した言い方ですけれども、助詞を従えることで、文節末にあった「流れ」が文節中に位置するのでその末拍は高平化する、…といったことを後に詳しく申します。
はびこる【蔓延】(ふぁンびこる LLHL) 『26』も『43』も⓪、『58』は③。
ひれふす【平伏】(ふぃれふしゅ LLHL) 『26』は⓪、『43』なし、『58』は③⓪。『89』は③。
まどろむ【微睡】(まンどろむ LLHL) 「目」(め L)がトロンとする、という理解でよいようです。『26』は⓪、『43』『58』は③。
もよほす【催】(もよふぉしゅ LLHL) 「うながす」「せきたてる」といった意味で使われた言葉で、「計画し、実行する」といった意味や、「兆候を見せる」といった意味は後世のものです。『26』『43』は⓪、『58』は⓪③。『89』は③④⓪。
いましむ【戒】(いましむ LLHL) ここからは下二段。「戒む」は元来は「忌む」(いむう LF)に漢文脈で使われる使役の「しむ」の添うた、「謹慎させる」といった意味の言い方だったそうですけれども、図名が〈平平上平〉を差すので、一語の動詞「いましむ」のあることは確実です。と申すのは、図名に「帯びしむ」〈平平平上〉(おンびしむう LLLF)、「かうぶらしむ」〈平平平平平上〉(かうンぶらしむう)のような、使役の「しむ」に終わる言い方が見えているからで、〈平平平上〉ではなく〈平平上平〉と差される「戒(いまし)む」はすでに動詞です。『26』は「いましむ」は③としますけれども、「いましめる」は⓪とし、『43』も『58』も⓪④とします。『89』は④。
しほたる【潮垂】(しふぉたる LLHL) 「潮」は「しふぉ LL」、下二段の「垂る」(たるう LF)は「垂らす」を意味する他動詞でした。図名は三拍目を清ましますけれども、それでも、「潮を垂らす」という言い方をそのまま反映した「しふぉたるう LLLF」というアクセントで言われたのではありませんでした。さて諸辞典が「しほたる」に「しずくが垂れる」「涙で袖が濡れる」といった訳語を与えます。しかし「しずくを垂らす」「涙を落とす」といった言い方と見なくてはなりません。どちらでも同じ、ということはないので、下二段の「垂る」を現代語に引かれて自動詞と見てしまうと、例えば源氏・若菜下の、
式部卿宮も御うまごをおぼして、御鼻のいろづくまでしほたれたまふ。
しきンぶきやうの みやも おふぉムムまンごうぉ おンぼして おふぉムふぁなの いろンどぅくまンで しふぉたれ たまふう。LLLLHHHHHL・LLHHHLH・LLHH・LLHHHH・LLLHLH・LLHLLLF。
の「しほたれたまふ」における主格敬語が涙へのものになってしまいます(二重主語としても「宮が涙がお垂れになる」などは言わないでしょう)。なお、すはだかの人間は原理的にしほたれられないということはないでしょうから、語義に袖をからませるのは変です。
最後に、小学館『古語大辞典』のこの項の語誌において竹岡正夫さんは、「潮垂る」に由来する意識は古くからあったろうが、本当の語源はそこにはなく、「しほしほと泣く」といった言い方で使う「しほしほと」と同源だろうとなさいます。そういえば、現代語「しょぼたれる」は「しょぼしょぼ」に由来するのでしょう。この「しほしほと」は「しふぉしぉと LLLLL」と言われたのかもしれません。『26』は「しほたる」を⓪とし、『43』はなし、『58』は「しほたれる」を⓪とします。『89』は④。
まぬかる【免】(まぬかる LLHL) 「まぬがれる」の古形です。『26』は「まぬかる」を⓪とし、『43』『58』は「まぬかれる」を④とします。
改めて申せば、四拍動詞の場合、東京において動詞が低く終わることも、派生名詞が反対に高く終わることも、旧都におけるアクセントについて多くを語らないのでした。以下に並べるのは、東京では『26』以来③で言われ、派生名詞はほとんどが⓪で言われるか、言うとすれば⓪になるだろうもので、それゆえ東京アクセントが参考にならないものです。基本語からの派生語で、そのアクセントを知れば済むものは、おおむね省きます。
まず、四拍の高起四段動詞から。「あぢはふ」のように、明治時代には『26』は⓪でも言えたがのちに③に変化した動詞も少なくなかったのであってみれば、以下に並べる動詞も江戸時代の江戸では⓪だったのかもしれず、そうだとすればそれは旧都においてそれらが高起式だった名残です。
あざける【嘲】(あンじゃける HHHL)
あざむく【欺】(あンじゃむく HHHL)
あなづる【侮】(あなンどぅる HHHL) 現代語「あなどる」の古形ですけれども、古今同義とは申せないようです。この動詞から派生した形容詞に「あなづらはし」(おそらく「あなンどぅらふぁしい HHHHHF」でしょう)があって、諸辞典がこの形容詞には「あなどって当然だ」といった意味のほかに、「遠慮が要らない」「気が置けない」という意味もあるとします。小学館の古語大辞典には、中古の和文ではこちらの意味の用例が「比較的多い」とあります。確かに、例えば『枕』の「にくきもの」(にくきい もの LLFLL)の段(25)のはじめに、
いそぐことあるをりに来て長言(ながこと)するまらうと。あなづらはしき人ならば「のちに」など言ひてもやりつべけれども、さすがに心恥づかしき人、(ソウモ言エナイノデ)いとにくく、むつかし。
いしょンぐ こと ある うぉりに きいて、なンがこと しゅる まらうと。あなンどぅらふぁしきい ふぃとならンば「のてぃに」とても やりとぅンべけれンど、しゃしゅンがに こころ ふぁンどぅかしきい ふぃと、いと にくく むとぅかしい。LLHLL・LHLHHRH・LLHLHH・HHLL。HHHHHHF・HLHLL「LLH」LHL・HLHHHLL、LHHH・LLHLLLLFHL、HL・LHLHHHF。「長言(ながこと)」は「なンがこと LLHL」と見ておきます。「言」(こと LL)は「年」(とし LL)や「月」(とぅき LL )や「浜」(ふぁま LL)と同じアクセントで、これらが低起形容詞の語幹を先立てる場合、「古年」(ふるとし
LLHL)、「長月」(なンがとぅき LLHL)、「長浜」(なンがふぁま LLHL)のようなアクセントがとられます。
とあるのにおける「あなづらはしき人」は、「心はづかしき人」(要するに、ずっと目上の人や、一目も二目も置くべき人)以外の人であり、ということは、「あなどってよい人」「見さげたい気持ちになる人」「あなどられて当然の人」とは限りません。「重んじなくてよい人」くらいのところではないでしょうか。すると「あなづる」も、現代語の「あなどる」は古今同義とは言えないのであり、必ずしも「低く見る」「侮蔑する」というような心情を含意しなかったと考えられます。『紫式部日記』のはじめの方に、
しめやかなる夕暮に、宰相の君とふたり、ものがたり(雑談ヲ)してゐたるに、殿の三位の君、すだれのつま引きあげてゐたまふ(オ座リニナリマス)。年のほどよりはいとおとなしく(大人ッポク)心にくきさまして、「人はなほ心ばへこそかたきものなめれ」など、世のものがたり(男女関係ニマツワル話ヲ)しめじめとしておはするけはひ、人のをさなしとあなづりきこゆるこそあしけれ(間違イダ)と、恥づかしげに(立派ナ様子ニ)見ゆ。
しめやかなる ゆふンぐれに、しゃいしやうの きみと ふたり、ものンがたり しいて うぃいたるに、とのの しゃムうぃいの きみ、しゅンだれの とぅま ふぃき あンげて うぃいたまふう LLHLHL・HHHHH、HHHHLLHHH・HHL、LLLHLFH・FLHH、LLLLHLLHH、LLHLHL・HLHLH・FLLF。としの
ふぉンどよりふぁ いと おとなしく こころ にくきい しゃま しいて、「ふぃとふぁ なふぉお こころンばふぇこしょ かたきい ものなんめれ」なあンど、よおのお ものンがたり しめンじめと しいて おふぁしゅる けふぁい、ふぃとの うぉしゃなしいと あなンどぅり きこゆるこしょ あしけれと、ふぁンどぅかしンげに みゆう LLLHLHLH・HLLLLHL・LLHLLFHHFH、「HLH・LF・LLLLLHL・HHFLLFHL」RL、HHLLLHL・HHLLLFH・LHHH・LLL、HLL・LLLFL・HHHLHHHHHL・LLHL、L・LLLLLHLF。「おとなし」は周知のとおり「大人」(おとな LHL)に由来する形容詞で、一般の低起形容詞と同じアクセントで言われたと推測しておきます。「しめじめ」も「湿る」(しめる HHL)を参考にした推定です。
とあるのにおける「あなづる」も、「軽んじる」「重んじない」というくらいに見てよいので、当時十七だったという若き日の頼通――『研究』研究編上を参照すると「よりみてぃ HHHH」だった公算が大きいでしょう――を人々が見くびり馬鹿にしていたということではないのでしょう。
あはれぶ (あふぁれンぶ HHHL) 感動詞の「あはれ」に岩紀104が〈平平上〉を差します。これをただちにLLH(あふぁれ LLH)と解してよいかは疑問で、総合資料はLLF(あふぁれえ)とします。じっさい例えば図紀94が「あはれ」に〈平平平〉を差すのを〈平平東〉の誤写と見うるわけで、ここでも「あふぁれえ LLF」と見ておきますけれども、LLFと見てもLLHと見ても、「あふぁれンぶ HHHL」は「例外のない規則はない」の一例ということになります。もっとも、「あはれ」が低起式である以上「あはれぶ」をLLHLと発音する人もいただろうと考えてもよいかもしれません。理性的なものは現実的なのでした。
あやぶむ【危】(あやンぶむ HHHL) 現代語「あやうい」が⓪であることが示唆するとおり「あやふし」は「あやふしい」(HHHF)、よって「あやぶむ」も古くは高起式、と考えてよいパタンです。
うやまふ・ゐやまふ【敬】(うやまふ・うぃやまふ HHHL) 聞き耳が近いのでどちらも言うということでしょう。厄介なことに、「うやうやし・ゐやゐやし」は低起式で、「うやうやしい・うぃやうぃやしい LLLLF」と言われました。
おとなふ【音】(おとなふ HHHL) 名詞「おとない」はもう現代語とは言えないでしょうけれど、言うとすれば⓪でしょう。『26』が③としますけれども、ここに置いておきます。
かかやく【輝】(かかやく HHHL) 「かがやく」の古形です。今と同じ意味のほかに、「顔から火が出る(=赤面する)」も意味できました。『58』が名詞「かがやき」を④③としますけれども、『89』は⓪④③とします。
くつろぐ【寛】(くとぅろンぐ HHHL) 元来「隙間ができる」といった意味だったようです。
くるめく・くるべく(くるめく・くるンべく HHHL) 現代語「目くるめく」は東京ではたいてい一息に「めくるめく」と言われますけれども、「目がくるめく」ということなのですから、「め、くるめく」と言ってよいわけです。「目、くるめく」(めえ、くるめく L・HHHL)という言い方は高名の木のぼりも使っていましたけれども、早く『今昔』や『宇治拾遺』にも見える言い方です。擬音「くるくる」に由来することは明らかで、「くるま」(くるま HHH)もまた、くるくると回るから車です。くるくると回る部分を持つ、糸を縒る道具を「くるべき」(くるンべき HHHH)と呼んだそうです。「くるくると」はさしあたり、元来は「くるくると HLHLL」と言われたと想像されます。
さきはふ【幸】(しゃきふぁふ HHHL) はじめの二拍は「咲く」(しゃく HL)に由来するようです。この四拍動詞自体は平安時代にはあまり使われませんでしたけれども、「幸(さいは)ひ」(しゃいふぁふぃ HHHH)はこの音便形「さいはふ」からの派生語で、この名詞は、現代同様、平安時代にもさかんに使われました。ただ、「幸福」よりもむしろ「好運」に近い意味だったようです。「好運な人」を「さいはひびと」と言いましたが、この名詞はおそらく「しゃいふぁふぃンびと HHHHHL」と言われたでしょう。
さぶらふ【候】(しゃンぶらふ HHHL) 貴人のそばにさぶらって(控えて)仕える人を「さぶらひ」(しゃンぶらふぃ HHHH)と言いました。この言葉が「さむらい」に転じてゆくのは室町時代くらいのようです。
さへづる【囀】(しゃふぇンどぅる HHHL) 人を主語とするメタフォリックな使い方もありました。
ただよふ【漂】(たンだよふ HHHL)
たなびく(たなンびく HHHL) 古今集声点本には、この動詞を高起式とする伏片、家、梅、毘・高貞のようなものと、低起式とする寂や訓のようなものとがあります。後者を誤点とする必要はないのでしょうけれども、高起式で言えることに疑いはありません。初拍の「た」を次の「たばかる」(たンばかる HHHL)の「た」と同じ大きな意味は持たない接辞とする見方に立っても、あるいは「棚」(たな HH)と同根の接辞とする見方に立っても、高起式です。ちなみに「靡く」は多数派低起で、「なンびく」(なンびくう LLF)と言われました。
たばかる(たンばかる HHHL) 今では悪い意図に発する行為について言いますけれども、古くは広く「工夫する」「計画する」といった意味で使いました。この「た」は確かに特に意味のない接辞と申せて、それが証拠に「はかる」(ふぁかるう LLF)だけでも同じような意味が出ます。名詞「たばかり」を『26』は④とします。
たふとぶ【尊】(たふとぶ HHHL) 「とーとぶ」ではなく、「た・ふ・と・ンぶ」と言われました。
たゆたふ (たゆたふ HHHL) 前(さき)に紹介した「ゆたのたゆたに」という言い方の「たゆた」はこの動詞に由来するか、その逆かなのでしょう。『26』は「たゆたふ」を何と①とします。たゆたう! おおきに余談ながら、意外にも①で言われるということでは、「赤とんぼ」が昔の東京では①で言われたとものの本にあったことが思い出されます。実際『58』によれば「赤とんぼ」は、1958年時点で「古くは」①で言われたようです。『43』には「アアカトンボ」(表記は変えました)とありますがこれは誤植で、①ということでしょう。ただ、意外にも『26』では「赤とんぼ」は⓪。はっきり「全平」と記されています。①でも③でもなく⓪。明治の東京では「あかとんぼが たゆたう」と言ったようです。
つぶやく【呟】(とぅンぶやく HHHL) 「粒(つぶ)」と同根とされるのはもっともでしょう。「円(つぶ)ら」が「とぅンぶら HHH」なので「粒(つぶ)」も「とぅンぶ HH」でしょう。
つらぬく【貫】(とぅらぬく HHHL)
白露に風の吹き頻(し)く秋の野はつらぬきとめぬ玉ぞ散りける 後撰・秋中308。しらとぅゆうに かンじぇの ふきい しく あきいの のおふぁあ とぅらぬき とめぬ たまンじょお てぃりける LLLFH・HHHLFHH・LFLLH・HHHLHHH・LLFHLHL。真珠の首飾りを構成する真珠が、糸(古い言い方では「緒(を)」〔うぉお H。カーリングみたい〕。「尾」は「うぉお L」)が切れて散らばる、そのイメージです。ちなみに高起動詞「頻(し)く」(しく HL)と現代語で「雨が降りしきる」など言う時の「しきる」とは同根の動詞です。平安時代の京ことばでは「降りしく」(ふりい しく LFHL)と言い「降りしきる」とは言いませんでしたが、「しきる」(しきる HHL)や「うちしきる」(うてぃい しきる LFHHL)は見られて、例えば源氏・明石に、「その年、おほやけにもののさとししきりて、ものさわがしきことおほかり」(しょおのお とし、おふぉやけ(推定)に ものの しゃとし しきりて 、もの しゃわンがしきい こと おふぉかりい HHLL、LLHHH・LLLHHH・HHLH、LLLLLLFLL・LHLF)とあり、同・桐壺に「まうのぼりたまふにも、あまりうちしきるをりをりは、うち橋、渡殿のここかしこの道にあやしきわざをしつつ」(まうのンぼり たまふにも、あまり うてぃい しきる うぉり うぉりふぁ、うてぃふぁし、わたンどのの ここ かしこの みてぃに あやしきい わンじゃうぉ しいとぅとぅ LHHHLLLHHL、LLL・LFHHH・LHLHH、LLLH、HHHHH・LHHLLLHHH・LLLFHLH・FHH)とあります。今は「降りしきる」は④で言われることが多いでしょうけれど、『26』は⓪とします(むかしの なンごり)。それから「しきりに」(しきりに HHHH)は昔もよく使われました。
とどろく【轟】(とンどろく HHHL)
五月雨の空もとどろにほととぎす何を憂しとか夜たたなくらむ 古今・秋夏160・貫之。しゃみンだれの しょらも とンどろに ふぉととンぎしゅ なにうぉ うしいとかあ よたた なくらム HHHHH・LHLHHHH・LLLHL・LHHLFLF・LHHHLLH。この「よたた」は問答・伏片が〈平上上〉を差し、家・梅が〈平上平〉を差し、寂が〈○上平〉――前者と同趣でしょう――を差すところの、そして『問答』が「終夜之心也」とするところの、「夜うたた」(よおうたた LHHH)のつづまったらしい言い方です。岩波古語や広辞苑は立項せず、「日国」や小学館古語大辞典などは立項する言い方です。「夜、ただ(タダタダ)」(よお
たンだあ LLF)と解すべきはでないとは思いませんけれど、俊成たちに敬意を表することにします。
おほうみの磯もとどろに寄する波われてくだけてさけて散るかも 金槐集・雑 おふぉうみのいしょも とンどろに よしゅる なみ われて くンだけて しゃけて てぃるかもお LLLHL・HHLHHHH・HHHLL・HLHLLHH・LHHHHLF
とぶらふ【訪】(とンぶらふ HHHL) 「問(と)ふ」(とふ HL)と関連のある言葉だというところから式が知られます。現代語の「とむらう」の古形ですが、意味はこれよりもずっと広くて、病気見舞いや災害に遭った人を見舞うこと、そうした人に見舞状を出すこと、さらには一般に人のもとを訪ねることも意味できました。今は入院中の人に「とむらいに来た」とは言いにくいでしょう。特定の語義で使うことが多くなるとほかの語義では使いにくくなるということが、しばしば起こります。
ともなふ【伴】(ともなふ HHHL) 「供」(とも HL)、「友」(とも HH)に由来します。
ののしる (ののしる HHHL) 今と同じく「罵倒する」という意味で使うこともありましたけれど、ずっと頻繁に、「大声を出す」「羽振りを利かせる」「たいそうな評判を得る」といった、「罵」の字を当てられない意味で使われました。
はぐくむ【育】(ふぁンぐくむ HHHL) 「先(さき)に立つ」(しゃきに たとぅ HHHLH)ことが「先立つ」(しゃきンだとぅ HHHH)ことだったように、語源的には「羽」(ふぁあ F)に「含(くく)む」(くくむ LLH)ことが「はぐくむ」(ふぁンぐくむ HHHH)ことです。ちなみに、「袖にくるんで持っている」という意味の「袖ぐくみに持(も)たり」(しょンでンぐくみに もたり HHHHLH・LHL)という言い方が源氏・末摘む花に見えています。
ほとほる【熱】(ふぉとふぉる HHHL) 現代語「ほとぼりがさめる」の「ほとぼり」は元来この動詞の連用形です。現代語「熱くなる」が「発熱する」という文字通りの意味のほかに「かっとなる」「怒(いか)る」という比喩的な意味を持つのと同じことが「ほとほる」(ふぉとふぉる HHHL)にも言えます。「火照(ほて)る」とのつながりを考えたくなりますけれども、「火」は「ふぃい L」、「ほてる」は「ふぉてるう LLF」で、「ほとほる」とは式が異なります。『26』は「ほとほる」を③としますが、名詞「ほとほり」(発音はホトオリ)と「その転」とする「ほとぼり」とを④とします。ありようは「訪る」(おとンどぅる HHHL)と似ていて、派生名詞が低く終わるから旧都において動詞は低起式だったろうと推測すると間違ってしまいます。ちなみに『43』はこの名詞を⓪、『58』『89』は⓪④とします。明治時代にも名詞「ほとぼり」は⓪で言えたのかもしれませんけれども、その場合でも、派生名詞が高く終わることは旧都の動詞のアクセントについて多くを語らないのでした。いっそ、英語の hot は高起式だから、とおぼえますか。
みちびく【導】(みてぃンびく HHHL) 「道」は「みてぃ HH」、「引く」は「ふぃく HL」。
みなぎる【漲】(みなンぎる HHHL) 「水」は「みンどぅ HH」。
むさぼる【貪】(むしゃンぼる HHHL)
明け方も近うなりにけり。鶏の声などは聞こえで、御嶽精進にやあらむ、ただ(タダタダ)翁びたる声に額(ぬか)づくぞ聞こゆる。立ち居のけはひ、堪へがたげに行なふもいとあはれに、朝(あした)の露に異ならぬ世を、何を貧る身の祈りにか、と聞きたまふ。源氏・夕顔。
あけンがたも てぃかう なりにけり。とりの こうぇえ なンどふぁ きこいぇンで、みたけしやうンじんにやあ あらム、たンだあ おきなンびたる こうぇえに ぬかンどぅくンじょ きこゆる。たてぃうぃの けふぁふぃ たふぇンがたンげに おこなふも いと あふぁれえに、あしたの とぅゆうに ことおならぬ よおにい なにうぉ むしゃンぼる みいのお いのりにかあと きき たまふう。HHHHL・LHL・LHHHL。HHHLFRLH・HHHL、HHHHHHLLHF・LLH、LF・LLHLLHLFH・HHHHL・HHHH。LHHHLLL・LLLLLH・HHHHL・HLLLFH、LLLLLFH・LFHLH・HH・LHHHHHH・HH・LLLHFL・HLLLF。
やしなふ【養】(やしなふ HHHL) 名詞「やしなひ」はおそらく「やしなふぃ HHHH」でしょう。この言葉には「食事」といった意味があります。『今昔』の、芥川の短編「藪の中」の原話となった物語(29-23)に「昼のやしなひせむとて藪の中に入るを」とあるのは、「ふぃるの やしなふぃ しぇえムうとて、やンぶの なかに いるうぉ HLLHHHH・HFLH・HHHLHH・HHH」など言われたでしょう。名詞「やしなひ」は『26』が③、『43』が⓪③、『58』『89』が⓪としていて、変遷が明らかです。
やすらふ(やしゅらふ HHHL) 諸辞典が「休む」や「安(やす)し」との意味的なつながりを指摘しますけれども、「休む」は「やしゅむう LLF」、「安し」は「やしゅしい LLF」で、「やすらふ」とは式が異なります(それゆえ意味的連関はないと申すのではありません)。広く「行動をしない」こと、「行動を控える」ことを指します。次の歌に見られるように「ためらう」も意味しますが、「ためらう」とは、どうしようか迷ってしかるべき行動をしないことです。
やすらはで寝なましものを小夜(さよ)更けてかたぶくまでの月を見しかな 後拾遺・恋二680。やしゅらふぁンで ねえなましい ものうぉ しゃよ ふけて かたンぶくまンでの とぅきうぉ みいしかなあ HHHHL・FHHFLLH・HHLHH・LLLHLHL・LLHLHLF。「小夜(さよ)」は現代京都ではHLのようですけれど、顕天平594注が「さよのなかやま」に〈上上(上平平平平)〉(しゃよ〔の なかやま〕 HH〔H・LLLL〕)を差しています。
わななく【戦慄】(わななく HHHL) おンぼろンどぅきよは「わななくわななく」(わななく わななく HHHLHHH)言葉を発していましたけれども、枕草子にもこの言い方が見えています。
きさらぎ(仮にやまとことばで読んでおきます)つごもりごろに、風いたう吹きて空いみじう黒きに(黒イノニ加エテ)雪すこしうち散りたるほど、黒戸(くろど)(トイウ場所)に主殿司(とのもづかさ)来て、「かうてさぶらふ(ゴメンクダサイ)」といへば寄りたるに、「これ、公任の宰相殿の」とて(何カガ)あるをみれば、ふところ紙に、
すこし春ある心地こそすれ
とあるは、げにけふのけしきにいとようあひたるを、これが本(上ノ句)はいかでか付くべからむ(ドウ付ケタラヨイダロウ)と思ひわづらひぬ。「(殿上ノ間ニハ今)たれたれか(ドウイッタ方ガタガイラッシャイマスカ)」と問へば、「それそれ(アノ方コノ方)」といふ。(ソノ方ガタハ)皆いと恥づかしき(身モスクムヨウナ方ダガ、ソノ)中に宰相の(宰相ヘノ)御いらへをいかでかことなしびに言ひいでむ、と心ひとつに苦しきを、御まへに(中宮ニ)御覧ぜさせむとすれど、上おはしましておほとのごもりたり。主殿司は「とくとく」といふ。げに遅うさへあらむは(ドウセ碌ナモノハデキナイノニ加エテ出来ルノモ遅イデハ)いととりどころなければ、さはれ(エエイ)とて、
空さむみ花にまがへて散る雪に
とわななくわななく書きてとらせて、いかに見たまふらむとわびし、これがことを聞かばや、と思ふに、(ソノ一方デハ)そしられたらば(酷評サレテイルノナラバ)聞かじ、とおぼゆるを、「俊賢の宰相など、『なほ(ヤハリ)内侍に奏してなさむ(帝ニ奏上シテコノ人ヲ内侍ニシヨウ)』となむさだめたまひし」とばかりぞ、左兵衛の督(かみ)の中将にておはせし(当時中将デイラッシャッタ今ノ左兵衛ノ督ガ)、語りたまひし。枕・二月つごもり頃に(102)。原文「見たまふらむ」を「見たまはむ」としました。
きしゃらンぎ とぅンごもりンごろに、かンじぇ いたう ふきて しょら いみンじう くろきいに ゆうき しゅこし うてぃい てぃりたる ふぉンど、くろンどに とのもンどぅかしゃ きいて、「かうて しゃンぶらふ」と いふぇンば よりたるに、「これ、きムたふの しゃいしやうンどのの」とて あるうぉ みれンば LLHL・LLLLHLH、HHLHLLHH・LHLLHLLLFH・RL・LHL・LFHLLHHL、LLLH・LLLLHLRH、「HLHHHHL」LHLL、HLLHH、「HH、HHHLL・HHHHHHHH」LH・LHHLHL、ふところンがみに、/しゅこし ふぁるう ある ここてぃこしょ しゅれ/と あるふぁ、げに けふの けしきに いと よおう あふぃたるうぉ、これンが もとふぁ いかンでかあ とぅくンべからム、と おもふぃい わンどぅらふぃぬう。HHHHHLH、/LHLLFLH・LLLHLHL/L・LHH、LHLHLLLLH・HLRL・LHLHH・HHHLLH・HRHF・LLHLLH、L・LLFHHHLF。「たれ たれかあ」と いふぇンば、「しょれ しょれ」と いふ、みな いと ふぁンどぅかしきい なかに しゃいしやうの おふぉムいらふぇうぉ いかンでかあ ことなしンびに いふぃ いンでム、と こころ ふぃととぅに くるしきいうぉ、おふぉムまふぇに ごらムじぇしゃしぇムうと しゅれンど、うふぇ おふぁし まして おふぉとのンごもりたりい。とのもンどぅかしゃふぁ「とおく とおく」と いふ。「HHHHF」L・HLL・「HHHH」LHH、HLHLLLLLFLHH・HHHHLL・LLHHHHH・HRHF・LLLLLH・HLLLH、L・LLHLHLH・LLLFH、LLHHHH・LLLLLLFLHLL、HLLHLLHH、LLLLLHLLF。LLLLHLH「RLRL」LHL。げに おしょうしゃふぇ あらムふぁ いと とりンどころ なけれンば、しゃあふぁあれえとて、/しょら しゃむみ ふぁなに まンがふぇて てぃる ゆうきに/と わななく わななく かきて とらしぇて、いかに みいい たまふらムと わンびしい、これンが ことうぉ きかンばやあ、と おもふに、しょしられたらンば きかンじい、と おンぼゆるに、LH・HHLHHLLHH・HL・LLLHLLHLL、LFF、LH/LHLHL・LLHLLHH・HHRLH/L・HHHLHHHL・LHHLLHH、HLHℓfLLHLHL・HHF。HHHLLH・HHLF、L・LLHH、HHHLLHL・HHFL・LLLHH、「としかたの しゃいしやう なンど、『なふぉお ないしに しょう しいて なしゃムう』となム しゃンだめえ たまふぃし」とンばかりンじょお、しゃあふぃやううぇえの かみの てぃゆうンじやうにて おふぁしぇし、かたり たまふぃし。「LLHLL・HHHHLRL、『LF・LLLHRFHLLF』LHL・LLFLLLH」LLHLF・RLHHLLLHL・LLHLLLHH・LHHH、HHLLLLH。「公任」(きむたふ)の「公」はもともと「君」と同じく「きみ」(きみ HH)でしょうから、「きん」ではなく「きム」。「たふ」はもともとは「堪ふ」と同じく「たふう LF」。すると、『源氏』の登場人物の「惟光」(これみつ)と語構成が同じですから、『研究』研究篇上で秋永さんがそうなさった通り、はじめの三拍はHHHでしょう。末拍は、詳細を省きますが、確率論的には低いと見るのが穏当です。「宰相」などの漢字音は推定。根拠は省いてしまいます。「さはれ」は「さはあれ」(しゃあふぁあ あれえ LHLF)のつづまったもので、「さもあらばあれ」(しゃあもお あらンば あれえ LFLHLLF)のつづまった「さまらばれ」に図名が〈平東上平東〉(しゃあまあらンばれえ LFHLF)を差すのに倣って、「しゃあふぁあれえ LFF」と発音されてよいと思います。
それにしても清少納言は、今の暦で言えば四月の初旬頃だというのに、「風いたう吹きて、空いみじう黒きに、雪すこしうち散りたる」というありさまのある日、「少し春ある心地こそすれ」という句を贈られたのでした。彼女、「げに今日のけしきにいとよう合ひたるを」と書きつけていますけれど、少し春がある気持ちがするという内容の句は、その日の様子に「いとよう」合っているとは思えません。ではなぜそうあるのでしょう。「名歌新釈」2にも書いたのですけれど、要するにアイロニーです。
次に、四拍の低起四段動詞を並べます。
あづかる【預】(あンどぅかる LLHL)
あまぎる【天霧】(あまンぎる LLHL) 「あめ【雨】」も「あめ【天】」も「あめえ LF」ですけれども、「あま【雨】」も「あま【天】」も「あま LL」のようです。今も使う「霧」は平安時代の京ことばで「きり HH」でしたが、これは動詞「霧る」(きる HL)からの派生語です。いつぞや「梅の花それとも見えず久方のあまぎる雪のなべて降れれば」(古今・冬334。ムめのふぁな しょれともお みいぇンじゅ ふぃしゃかたの あまンぎる ゆうきの なンべて ふれれンば HHHLL・HHLFLHL・HHHLL・LLLHRLL・LHHLHLL)を引きました。「あまぎる」の連体形「あまぎる LLLH」ではこの「霧る」の式は保存されません。複合動詞の後部成素ではこういうことは珍しくありません。
あらはす【現】(あらふぁしゅ LLHL) 「あらはなり」は「あらふぁなり LHLHL」です。
いきづく【息吐】(いきンどぅく LLHL) 「息(いき)」は「いき LH」、「吐(つ)く」は「とぅく HL」。現代語では「いきづく」は、何と申しますか、しゃれた表現として好む向きもある言い方ですけれども、平安時代の京ことばではこの動詞は「ぜいぜいと息をする」「ため息をつく」といった意味で使われるばかりです。
いさよふ (いさよふ LLHL) 「十六夜」と書いて「いざよい」と読ませるというその「いざよう」はもともとは「いさよふ」(いしゃよふ LLHL)でしたけれども、平安末期には「いざよふ」(いンじゃよふ LLHL)と言ったようです。西暦千年ごろは「いさよふ」だったと見ておきます。この動詞は、諸書が、現代語で「さあ、わからない」などいう時の「さあ」の古形「いさ」(いしゃあ LF)に由来するとします。そうだと思ってよいのでしょう。さて古今・恋四690に、
君や来む我やゆかむのいさよひに槙の板戸もささず寝にけり きみやあ こおムう われやあ ゆかむの いしゃよふぃに まきの いたンども しゃしゃンじゅ ねえにけり HHFLH・LHFHHHH・LLLLH・HHHLLHL・LHLFHHL
という歌があります。内容から推して女性の歌です。今日は十六夜。あなたがいらっしゃるのだろうか。それともあなたはいらっしゃらなくて、あなたをお慕いする私が夢の中であなたのもとに行くのだろうか。ぐずぐずしていて、結局、戸を差さずに寝てしまいました。『問答』によれば、ある人が俊成に、この歌の「いさよひ」は〈上上上上〉と発音するのか、そもそもどういう意味か、何日目かの夜をいうのか、といった質問をしたところ、俊成は「いざよひ」〈平平平平〉と読むのであり、十六夜をいうのであると答えた、ということです。周知の向きも多いことながら、陰暦十六日の夜の月は前日よりも一時間くらいおそく出るので見る側が「ぐずぐずしている」と思う、というところからその月を「いさよひ」ないし「いざよひ」と言うのだそうです。
いたはる【労】(いたふぁる LLHL) 名詞「いたはり」はおそらく「いたふぁり LLLL」でしょう。諸書を参照すると、この名詞には、「いたわること」といった現代語の言い方では覆いつくせない、「引き立て」「特別な配慮」、さらには「病気」といった語義もあります。形容詞「いたはし」(いたふぁしい LLLF)はこの動詞と同根のようです。
いとなむ【営】(いとなむ LLHL) 何であれせっせと行なうことを意味したようですが、それもそのはずということのようで、「暇(いとま)なし」(いとま なしい LLLLF)と同義の「暇(いと)なし」(いと なしい LLLF)という言い方があり、これから、「ひまがないひまがないという」「ひまながる」といった意味の動詞「いとなむ」が生まれたのたそうです。
いふかる【訝】(いふかる LLHL) 現代語「いぶかる」の古形。上代には「いふかる」、改名では「いふかる」「いぶかる」両様なので、上代に限らず平安時代にも第二拍は清んだ、ないし清みえたと見ておきます。派生語「いふかし」(いふかしい LLLF)の清濁についても同じことが申せます。この形容詞が、今と同じような意味だけでなく、いぶかしい気持ちを晴らすべく何かを見たいとか、聞きたいとか、誰かに逢いたいといった意味を持つことは周知です。
いろどる【彩】(いろンどる LLHL) 動詞「とる」(とるう LF)のアクセントは反映されません。
うそぶく【嘯】(うしょンぶく LLHL) 古くは「豪語する」という意味はありませんでした。「うそ」は「口をすぼめて強くはき出す息」のことで、そうした息をはくことを「うそを吹く」(うしょうぉ ふくう LLHLF)、「うそぶく」(うしょンぶく LLHL)と言ったようです。ちなみに、虚言のことを平安時代には「そらごと」(しょらンごと LLLL)や「いつはり」(いとぅふぁり LLHH)と言いましたが、室町時代頃それらにかわって覇権を握った「うそ」は、「口をすぼめて強くはき出す息」という意味の「うそ」から転じたものだという説得的な見方があります。「嘘」という漢字は「口からふうっと息をはき出す」という意味だそうで、この漢字が「虚言」の「虚」や、「すすり泣き」を意味する「歔欷」の「歔」に通ずることなども思いあわせられます。
うつろふ【移】(うとぅろふ LLHL) 「うつる」(うとぅるう LLF)が反復を意味する「ふ」を従えた「うつらふ」の変化した言い方です。
うながす【促】(うなンがしゅ LLHL)
うなづく【頷】(うなンどぅく LLHL) この「うな」は、「うなじ」(うなンじ LLL)と同じ意味の名詞「うな」なのだそうです。なるほど。
うらやむ【羨】(うらやむ LLHL) この「うら」は、「裏」(うら LL)や「浦」(うら LL)と同根の「心(うら)」(うら LL)で、他人からは見えないものとしての「心」という意味、「やむ」は「病む」(やむう LF)です。やはり「やむ」の式は保存されていません。「うらやましい」は当然に「うらやましい LLLLF」です。
うるほす【潤】(うるふぉしゅ LLHL)
うるほふ【潤】(うるふぉふ LLHL)
おとしむ【貶】(おとしむ LLHL) 「落つ」(おとぅう LF)や「落とす」(おとしゅう LLF)と縁のあることは明らかですから、低起式なのは当然と言えます。
おどろく【驚】(おンどろく LLHL) 「はっと目が覚める」「はっと気づく」といった意味もあるのでした。はっとでなくゆっくり目を覚ます時には「寝覚む」(ねえ しゃむう HLF)など言ったのでしょう。「寝覚む」を一語の動詞を見ないことはすでに申しました。
おぼめく【朧】(おンぼめく LLHL/おンぼめく HHHL) 顕昭の『拾遺抄注』が〈平平上平〉とするのでここに置きますけれども、改名は〈上上〇〇〉とします。「記憶がおぼろだ」など言う時の「おぼろ」は「おンぼろ HHL」のようですから、この言い方と縁のある「おぼめく」は高起式だったと見るほうがよいかもしれません。「まごつく」「首をひねる」「とぼける」といった意味で使われました。
おもむく【赴】(おもむく LLHL) 「面(おも)」は「おも LH」、「向く」は「むく HL」。下二段の「おもむく」という動詞もあって、ある方向に向かわせる、という意味で使いました。
かうぶる【被】(かうンぶる LLHL) 上代の「かがふる」(かンがふる LLHL)の変化したものです。もともとは「頭にかぶる」ことで、この「かぶる」は「かうぶる」の変化したものにほかなりません。東京は「かぶる LHL」だから「かうぶる」は低起式だと思っても実害はないでしょう。この「頭にかぶる」という語義から「上位の存在から何かをいただく」といった意味が生じました。名詞「かうぶり」は「かうンぶり LLLL」で、この変化したものが現代語の「冠(かんむり)」です。
かしづく【傅】(かしどぅく LLHL)
かたぬぐ【肩脱】(かたぬンぐ LLHL) 上衣を半分脱いで下衣の肩を出すことを言うそうです。「肩」は「かた LH」。「脱ぐ」は「ぬンぐう LF」でした。動詞の低起性が維持されていません。
かたぶく【傾・片向】(かたンぶく LLHL) 現代語「かたむく」の古形。対応する他動詞は下二段の「傾く」(かたンぶく LLHL)。ちなみに「片手」は「かたて LLL」、「片時も」は「かたときもお LLLLF」です。
かたよる【片寄】(かたよる LLHL)
きしろふ(きしろふ LLHL) 「うつる」(うとぅるう LLF)から「うつろふ」(うとぅろふ LLHL)が派生するように「軋(きし)る」(きしるう LLF)――東京でLHLと言われる――から派生した動詞で、「人との間に摩擦を起こす」「人としのぎをけずる」を意味します。
ことわる(ことわる LLHL) 「事を割る」(ことうぉ わる LLH・HL)というところから出来た動詞で、現代語の「事を分けて説明する」といった言い方からも連想されるとおり、「説明する」とか、「(これはこう、あれはああと)判断する」といった意味で使います。古くは「拒絶する」という意味はありませんでした。それは例えば「いなぶ」(いなンぶう LLF)。
さいなむ【苛】(しゃいなむ LLHL) 「さきなむ」の音便形なので第二拍は「い」です。平安仮名文ではもっぱらこの音便形が使われたようです。現代語の「さいなむ」よりも〝強い〟動作を示 すことが多かったようで、小学館の古語大辞典は「①叱る。責める。咎める。②詰問する。なじり問う。③責め苦しめる。いじめる。折檻する」とします。もしかして「(からだを)裂く」(しゃくう LF)から来たのではないでしょうか。
さまよふ【彷徨】(しゃまよふ LLHL)
しりぞく【退】(しりンじょく LLHL) 「尻」「後(しり)」は「しり LL」でした。
そこなふ【損】(しょこなふ LLHL) 源氏・若紫に、手ならいをする若紫が「書きそこなひつ」(かきい しょこなふぃとぅう LFLLHLF)というところがあります。書きまちがえてしまった。ないし、書きまちがえてしまいました。今の子供たちは「書きそこなってしまった」「書きそこなってしまいました」とは言いませんね。
たたずむ【佇】(たたじゅむ LLHL) 「立つ」(たとぅう LF)と無縁とは考えられないわけで、その低起性から「たたずむ」のそれも知られます。「たたずまふ」という動詞もあって(たたンじゅまふ LLLHL)、これから派生した「たたずまひ」(たたンじゅまふぃ LLLHL、ないし、たたンじゅまふぃ LLLLL)は平安仮名文によく登場します。
たまはる【賜】(たまふぁる LLHL) 「たうばる」(たうンばる LLHL)、「たばる」(たンばる LHL)はこの変化した形です。
ためらふ(ためらふ LLHL) 知られているとおり平安時代には「躊躇する」という意味はなく(それは「やすらふ」〔やしゅらふ HHHL〕)、「気持ちを落ち着かせる」「病状を落ち着かせる(=療養する)」といった意味で用いられました。
ちかづく【近付】(てぃかンどぅく LLHL) 形容詞「近(ちか)し」は「てぃかしい LLF」。「ちかづく」において「付く」(とぅくう LF)の式は保存されていません。対応する他動詞として下二段の「ちかづく」がありました。
つぐのふ【償】(とぅンぐのふ LLHL) 「つぐなう」の古形です。次は『蜻蛉』の康保三年(966)五月の記事。
「今年は節(せち)きこしめすべし(帝ガ端午ノ節会(セチエ)ヲ催サレル予定ダ)」とていみじう騒ぐ。いかで見む(ドウカシテ見タイ)と思ふに、ところぞなき。「見むと思はば」とあるを(夫ガ言ウラシイノヲ)聞きはさめて(小耳ニハサンデイテ)、(ソノ夫ガヤッテキテ折ヨク)「双六(すぐろく)打たむ」と言へば、「よかなり(It sounds good)。物見(ものみ)つぐのひに(私ガ勝ッタラ見物ニ連レテイッテクダサイ)」とて、目うちぬ(「ケッキョク私ガ勝ッタ」という意味のようです)。
「ことしふぁ しぇてぃ きこし めしゅンべしい」とていみンじう しゃわンぐう。いかンで みいムうと おもふに、ところンじょ なきい。「みいムうと おもふぁンば」と あるうぉ きき ふぁしゃめて、「しゅンぐろく うたムう」と いふぇンば、「よおかんなり。ものみとぅンぐのふぃに」とて、めえ うてぃぬう 「HHHH・HH・HHLLLLF」LHLLHL・LLF。HRH・LHL・LLHH、HHHL・LF。「LFLLLHL」L・LHH・HLLLHH、「HHLLLLF」L・HLL、「RLHHL。LLLLLHLH」LH、LLHF。
つくろふ【繕】(とぅくろふ LLHL) 「作る」「繕ふ」の関係は「移る」「移ろふ」のそれと平行します。
つちかふ【培】(とぅてぃかふ LLHL) 「土を飼ふ」(とぅてぃうぉ かふ)こと、すなわち、(植物を育てるために植物に)土を与えることでした。
つつしむ【慎】(とぅとぅしむ LLHL)
つのぐむ(とぅのンぐむ LLHL) 新芽が角(つの)のように出て来る、という意味。「角(つの)」は「とぅの LL」です。
ときめく(ときめく LLHL) 現代語で「今をときめくスター」など言う時の「ときめく」は「心がときめく」のそれではなく、「時めく」で、「時」は「とき LL」、「めく」は動詞を作る接辞です。『源氏』劈頭の文にもあらわれていました。
他方、「心ときめきす」(おそらく、こころときめき しゅう LLLLLHLF)という言い方があって、すると「心がどきどきする」という意味で「心、ときめく」ということが可能だと考えられますけれども、前者が好まれ好まれるようであるのは、散文では「尽きず」(とぅきンじゅ HHL)は好まれずもっぱら「尽きせず」(とぅきしぇンじゅ HHHL)が使われるようなのと似ています。こちらの「ときめく」が「ときめく HHHL」なのか「ときめく LLHL」なのか分かりませんけれども(どちらかではあるでしょう)、「心ときめき」は、「こころときめき LLLLLHL」の可能性が高いでしょう。低起三拍名詞が動詞から派生した名詞を従えるタイプの複合名詞では、「傀儡師(くぐつまはし)」(くンぐとぅまふぁし LLLLHL。「くぐつ」は「くンぐとぅ LLH」、「まはす」は「まふぁしゅ HHL」)、「こむらがへり」(こむらンがふぇり LLLLHL。「こむら」は「こむら LLH」、「かへる」は「かふぇるう LLF」)、「をとこざかり」(うぉとこンじゃかり LLLLHL。「をとこ」は「うぉとこ LLL」、「さかる」は「しゃかる HHL」)のように、前部成素の二拍目三拍目のありようや動詞の式によらず共通のアクセントをとると考えられるからです。
ちなみに、後半が派生名詞でない場合は、
LH○+○○→LHHHL
LH○+○○○→LHHHHL
LH○○+○○→LHHHHL
LLH○+○○○→LLHHHHL
のような規則に従うことが多いようで、実際、例えば「立田」は「たとぅた LHH」、「姫」は「ふぃめ HL」、「たつたびめ」は「たとぅたンびめ LHHHL」、つまり「LHH+HL→LHHHL」であり、「菖蒲(あやめ)」は「あやめ LHH」、「草」は「くしゃ LL」、「あやめぐさ」は「あやめンぐしゃ LHHHL」、つまり「LHH+LL→LHHHL」であり、「尿(ゆばり)」は「ゆンばり LHH」、「袋」は「ふくろ LLL」、「膀胱(ゆばりぶくろ)」は「ゆンばりンぶくろ LHHHHL」、つまり「LHH+LLL→LHHHHL」、「打ち掛け」は「うてぃかけ LHHH」、「衣(きぬ)」は「きぬ LH」、「うちかけきぬ」は「うてぃかけきぬ LHHHHL」、つまり「LHHH+LH→LHHHHL」であり、「兵(つはもの)」(武器のことです)は「とぅふぁもの」、「庫(くら)」は「くら LL」、「兵庫(つはものぐら)」は「とぅふぁものンぐら LHHHHL」、つまり「LHLL+LL→LHHHHL」であり、「弓弦(ゆみづる)」は「ゆみンどぅる LLHL」、「袋」は「ふくろ LLL」、「ゆみづるぶくろ」は「ゆみンどぅるンぶくろ LLHHHHL」、つまり「LLHL+LLL→LLHHHHL」です。
ふたたびちなみに、すると、もともとは一般名詞だったらしい「枕草子」――枕になるような分量の分厚い紙を綴じたもの、という意味にとっておきます――はどうでしょう。古くは「枕草子」は「まくらさうし」ないし「まくらざうし」と、「の」なしで言われたようです。「枕」は「まくら LLH」、「草子」は「しゃうしい HHH(漢音)」というところまではよいとして、「枕草子」は、「まくらしゃうし LLLLHL」など言われたか「まくらしゃうし LLHHHL」など言われたか、いずれかだろうというところまでしか分かりません。後者も考えうるのは、弓の的を「いくは」(いくふぁ LLH)と言い、それを掛けるために土を盛ったところを「いくはどころ」と言ったらしいのですけれども(「ところ」は「ところ HHH」。ちなみに「いくはどころ」の同義語に「あむつち」【垜・堋・安土】〔あむとぅてぃ HHHH〕ないし「あづち【垜・堋・安土】」〔あンどぅてぃ HHH〕があるそうです)、この「いくはどころ」に図名が〈平平平平上平〉(いくふぁンどころ LLLLHL)を差しているからです。
ととのふ【整】(ととのふ LLHL)
なづさふ(なンどぅしゃふ LLHL) 上代には「水に浮かぶ」といった意味、平安時代には「なつく」「なれ親しむ」といった意味で使われたと言いますけれども、転義なのかどうか、事情がよく分かりません。
にほはす【匂】(にふぉふぁしゅ LLHL) 終止形をLLLFと見る向きもありますけれど、この見方は、
なに人(びと)か来て脱ぎかけし藤袴くる秋ごとに野辺をにほはす 古今・秋上239。なにンびとかあ きいて ぬンぎい かけし ふンでぃンばかま くる あきいンごとおに のンべえうぉ にふぉふぁしゅ LHHHF・RHLFLLH・HHHHL・LHLFLFH・LFHLLLH。誰が来て衣を脱いで掛けた藤袴が、毎秋、野辺を匂わせるのか。
における「にほはす」に『毘』の〈平平平上〉を差すのによったのでしょう。しかしこの「にほはす」は「なにびとか」の結びゆえ連体形です。一首は「なに人(びと)の来て脱ぎかけし藤袴か来る秋ごとに野辺をにほはす」における係助詞「か」が前に出たので、平安時代の京ことばでは係助詞や副助詞はしばしばそういうふるまいをします。例えば『源氏』のはじめの方に出てくる「うたてぞなりぬべき人の御さまなりける」(うたてンじょ なりぬンべきい ふぃとの おふぉムしゃまなりける)は、「うたてなりぬべき人の御さまにぞありける」(うたて なりぬンべきい ふぃとの おふぉムしゃまにンじょ ありける)における「ぞ」が前に出たのです。
ちなみに、この「にほはす」を動詞「にほふ」(にふぉふう LLF)が使役の「す」を従えた言い方と見る見方もあります。たしかに、例えば、
梅が香を桜の花ににほはせて柳が枝に咲かせてしがな 後拾遺・春上82。ムめが かあうぉお しゃくらの ふぁなに にふぉふぁしぇて やなンぎンが いぇンだに しゃかしぇてしかなあ HHHHH・HHHHLLH・LLLHH・HHHHHHH・HHLHLLF。梅の香りを、桜の花のところで匂うようにさせ、その桜の花を柳の木の枝に咲かせてみたいよ。
における「にほはす」などはそうでしょうけれども、「なに人か」の歌の「にほはす」は、
花の香をにほはす宿に尋(と)めゆかば色にめづとや人の咎めむ 源氏・紅梅(こうンばい LLLL。漢音)。ふぁなの かあうぉお にふぉふぁしゅ やンどに とめえ ゆかンば いろに めンどぅうとやあ ふぃとの とンがめム LLLHH・LLLHLHH・LFHHL・LLHLFLF・HLLLLLH。花の香りをただよわせるお家(うち)に尋ねて行ったら、この色好みめと人にとがめられてしまうでしょう。
におけるそれと同じく四段動詞であること、語形から明らかです。
はうぶる【葬】(ふぁうンぶる LLHL) 「ほうむる」の古形です。
はげます【励】(ふぁンげましゅ LLHL) 現代語とは異なり善意に出るものとは限りません。すなわち「たきつける」「あおる」「挑発する」といった意味にもなります。
ひしめく【犇】(ふぃしめく LLHL)
ひらめく【閃】(ふぃらめく LLHL) 「雷(かみ)、鳴り、ひらめく」(かみ、なり、ふぃらめく LL、HL、LLHL。かみなりが起こり、閃光が走る)という言い方が、源氏・須磨(しゅま HL)や同・明石(あかし HLL)、大鏡・時平などに見えています。それから、太刀などもひらめいたようで、『今昔』にそうした「ひらめく」に対応する他動詞「ひらめかす」(ふぃらめかしゅ LLLHL)が見えています。すなわち、前(さき)に伊勢物語の、女人を盗む話を引きましたけれども、『今昔』に読まれるその再話(27-7)の一節にこうあります。
太刀を抜きて、女をばうしろの方におしやりて(自分ハ)起きゐて、ひらめかしけるほどに、かみもやうやう鳴りやみにければ、夜も明けぬ。しかるあひだ、女、声もせざりければ、中将あやしむで見かへりてみるに、女のかしらのかぎりと着たりける衣どもとばかり残りたり。
たてぃうぉ ぬきて、うぉムなうぉンば うしろの かたに おし やりて おきい うぃいて ふぃらめかしける ふぉンどに、かみもお やうやう なり やみにけれンば、よおもお あけぬう。しかる あふぃンだ、うぉムな、こうぇえもお しぇえンじゃりけれンば、てぃゆうンじやう、あやしムで みいい かふぇりて みるに、うぉムなの かしらの かンぎりと きいたりける ころもとンばかり のこりたりい。LLHHLH、HHLHH・LLLLHLH・HLHLH・LFFH・LLLHLHLHLH・LLF・LHLL・HLHLHHLL、LFHLF。LLHHHL、HHL、LFFHLHHLL・LLHLLL・LLHLH・ℓfLLHH・LHH、HHLL・LLLLLLLH・FLHHL・HHHHHHL・LLHLF。「かしらのかぎり」は「頭部だけ」という意味です。
ほのめく(ふぉのめく LLHL) 「ほのか」は「ふぉのか LHL」なのでした。
ほほゑむ【微笑】(ふぉふぉうぇむ LLHL) 「頬(ほほ)」は資料によってLLともLHともされますが、現代京都のHLからはLL説(ふぉふぉ LL)のほうが分がよいと言えます。「笑む」は「うぇむ HL」で、東京アクセントも現代京都アクセントも参考にならないのでした。
まかなふ【賄】(まかなふ LLHL) 「任(まか)す」(まかしゅう LLF)の「まか」と同じなのだそうです。名詞「まかなひ」を『26』が③としています。
またたく【瞬】(またたく LLHL) 「目」(ま L)と「叩く」(たたくう LLF)とから成ります。
今度は四拍の高起下二段動詞を並べます。
あきらむ【明】(あきらむ HHHL) 改名(観智院本・仏中)は〈平平上○〉としますけれども、動詞「明く」(あく HL)や形容詞「あかし」(あかしい HHF)と同式と見て、『倶舎論』(総合索引)が〈上上上平〉を差すのを採ります。「明らかにする」「説明する」といった意味で使われました。「諦める」という語義はありませんでした。「諦める」といった意味で使われたのは、例えば「思ひ絶ゆ」(おもふぃい たゆう LLFLF)や「思ひとぢむ」(おもふぃい とンでぃむう LLFLLF)のような言い方です。
おとづる【訪】(おとンどぅる HHHL) この「おと」は申したとおり元来「音」(おと HL)です。すなわち「おとづる」はもともとは「音」(おと HL)を立てるという意味であり、そこから訪問を知らせるために何かしらの音を立てる、訪問する、便りを送る、というように語義が広がったようです。名詞「おとづれ」を『26』が④、『43』が⓪、『58』『89』は⓪④とします。 夕されば門田の稲葉おとづれて葦の丸屋に秋風ぞ吹く 金葉・秋183。ゆふ しゃれンば かンどたの いなンば おとンどぅれて あしの まろやに あきかンじぇンじょ ふく HHHLL・HHHHLHL・HHHLH・HHHHHHH・LLLHLLH。「門(かど)」は「かンど HL」、「田」は「たあ L」。「門田」への注記を知りませんけれども、「HL+L→HHH」は例外の少ない規則のようで――実際「垣根」「人目」「昼餉(ひるげ)」は「かきね HHH」「ふぃとめ HHH」「ふぃるンげ HHH」と発音されました――、「かンどた HHH」だったと見てよいと思われます。ちなみに「HH+L→HHH」も例外の少ない規則のようで、例えば「あしび【葦火】」「いそな【磯菜】」「たけだ【竹田】(地名)」「とりめ【鳥目】」「ひげこ【髭籠】」「ひらだ【平田】」「もろて【諸手】」は「あしンび HHH」「いしょな HHH」「たけンだ HHH」「とりめ HHH」「ふぃンげこ HHH」「ふぃらンだ HHH」で「もろて HHH」と発音されました。
「HL+R→HHH」も基本的に成り立つようです。例えば「屋」は単独では「やあ R」ですけれども、「いはや【岩屋】」「かはや【厠=川屋】」「つかや【塚屋】」「ひとや【獄=人屋】」といった言い方に差される〈上上上〉は言いにくいHHRではなくHHHでしょうから(総合索引もそう見ています。いふぁや、かふぁや、とぅかや、ふぃとや)、「丸」(まろ HH)を先立てる「まろや」も「まろや HHH」でよいのでしょう。
くはたつ【企】(くふぁたとぅ HHHL) 図名は三拍目を清ましています。元来は「つま先を立てる」という意味だったそうで、平安時代には今と同じ「計画する」という意味で使われましたけれども、この転義の経緯はわかりません。名詞「くはだて」は『26』が④、『43』が⓪④、『58』がう④⓪③、『89』が⓪④です。
さきだつ【先立】(しゃきンだとぅ HHHL) 四段の「さきだつ」に対応する他動詞です。
さすらふ【流離】(しゃしゅらふ HHHL) まれに四段活用でも使われましたけれども、基本的には下二段活用です。今は「さすらえない」はさすらうことができないという意味ですが、古くは「さすらへず」(しゃしゅらふぇンじゅ HHHHL)は第一義的には「流離わない」を意味しました。
たはぶる【戯】(たふぁンぶる HHHL) 「たわむれる」の古形です。『26』は名詞「たはぶれ」および「たはむれ」を④としますけれども、そこから旧都における「たはぶる」の低起性を言うことはできません。東京では名詞「たはむれ」は戦前に平板化がはじまったようで、『43』が⓪④、『58』が④⓪、『89』が⓪④とします。
なずらふ【準・擬】(なンじゅらふ HHHL) 今は「なぞらえる」としか言いませんけれども、古くは、むしろ「なずらふ」が好まれました。あるものを別の何かに準じて考える、あるものを別の何かと見なす、といった意味で使われました。古くは四段にも活用して、「なずらひ」という名詞も使われました。
年月に添へて(帝ハ亡キ)御息所(みやすんどころ)の御ことをおぼし忘るる折(をり)なし。なぐさむやとさるべき人々(ヲ)まゐらせたまへど、なずらひに(桐壺ノ更衣ニ準ズル存在デアルト)おぼさるるだにいと難(かた)き世かなと、うとましうのみよろづにおぼしなりぬるに 源氏・桐壺。
とし とぅきに しょふぇて みやしゅムどころの おふぉムことうぉ おンぼしい わしゅるる うぉり なしい。なンぐしゃむやあと しゃるンべきい ふぃとンびと まうぃらしぇ たまふぇンど、なンじゅらふぃに おンぼしゃるるンだに いと かたきい よおかなあと、うとましうのみ よろンどぅに おンぼしい なりぬるに LLLLH・HLH・HHHHHHLL・LLHHHH・LLFHHHH・LHLF。HHHHFL・LLLF・HHLL・LHHLLLHL、HHHHH・LLLLHHL・HLHHFHLFL、HHHHLHL・LLHH・LLFLHHHH
最後に、四拍の低起下二段動詞を並べます。
あたたむ【暖・温】(あたたむ LLHL) 「あたたか」は「あたたか LLHL」、「暑し」は「あとぅしい LLF」。
あらたむ【改】(あらたむ LLHL)
うらぶる(うらンぶる LLHL) 「うらやむ」(うらやむ LLHL)のところで見た、他人からは見えないものとしての「心」という意味の「うら」と、「あふれる」「落ちぶれる」を意味する下二段の「あぶる」(あンぶる HHL)とからなる「うらあぶる」のつづまった言い方のようです。
くづほる(くンどぅふぉる LLHL) 現代語の「くずおれる」は、気力が尽きて倒れたり座り込んだりすることを意味しますけれど、古くは、体力や気力の衰えることを意味しました。源氏・桐壺に、桐壺の更衣の父親は、生前、妻にこう言っていたとあります。
この人(桐壺ノ更衣)の宮づかへの本意(ほんい)、かならず遂げさせたてまつれ。我なくなりぬとて(シンデシマッタカラトイッテ)、くちをしう思ひくづほるな。
こおのお ふぃとの みやンどぅかふぇの ふぉんい、かならンじゅ とンげしゃしぇえ たてえ まとぅれ。われ なあく なりぬうとて、くてぃうぉしう おもふぃい くンどぅふぉるなあ。HHHLL・HHHHLL・LLL、HHHL・LLLFLFHHL。LH・RLLHFLH、LLLHL・LLFLLHLF。
ことつく【言付】(こととぅく LLHL) 「言(こと)」も「事(こと)」も「こと LL」です。動詞「ことつく」でも「付く」(とぅくう LF)の式は保存されません。この動詞は現代語「ことづける」のもとの言い方であり、古くも「伝言する」という意味で使えましたが、より頻繁には「かこつける」「口実にする」という意味で使いました。
したたむ(したたむ LLHL) 現代語では「手紙を認(したた)める」といった言い方でしか使いませんけれども、この語義は後世のもので、平安時代には「準備する」「後始末をする」そのほかの意味で使われました。
たまはす【給】(たまふぁしゅ LLHL) 四段の「たまふ」よりも一段敬意の強い言い方です。
ととのふ【整】(ととのふ LLHL)
ながらふ【長】(なンがらふ LLHL) 現代語「生きながらえる」などに残っています。形容詞「長(なが)し」(なンがしい LLF)からの派生語です。
例ならずおはしまして位など去らむとおぼしめしけるころ、月のあかかりけるを御覧(ごらむ)じて
心にもあらでこの世にながらへば恋しかるべき夜半の月かな 後拾遺・雑一860。
れいならンじゅ おふぁし まして くらうぃ なンど しゃらムうと おンぼしい めしける ころ、とぅきの あかかりけるうぉ ごらムじいて LHLHL・LHLLHH・HHHRL・HHFL・LLFLHHLHL、LLL・HHLHHLH・LLLFH / こころにも あらンで こおのお よおにい なンがらふぇンば こふぃしかるンべきい よふぁあの とぅきかなあ LLHHL・LHLHHHH・LLLHL・LLHLLLF・LFLLLLF。心ならずも生きながらえたならば、この月のことが懐かしく思われるにちがない。体調がまったくすぐれない上に、ほとんど失明状態だったという三条天皇の歌で――『大鏡』に「御目を御覧ぜざりしこそいといみじかりしか」(おふぉムめえうぉ ごらムじぇンじゃりしこしょ いと いみンじかりしか LLHHH・LLLHLLHHL・HL・LLHLLHL)とあります――、このさき完全に目を見なくなったら、という思いで詠まれたのでしょうけれども、実際にはこう詠んだ翌年譲位したのに続き、その翌年には薨去したと言います。
ながらへばまたこの頃やしのばれむ憂しと見し世ぞ今は恋しき 新古今・雑下1843・清輔。なンがらふぇンば また こおのお ころやあ しのンばれム うしいと みいしい よおンじょお いまふぁ こふぃしきい LLLHL・HLHHHLF・HHHHH・LFLLHHL・LHHLLLF
ずいぶん長くなってしまいました。五拍以上の動詞は、割愛します。それらの多くは、例えば「あげつらふ」(あンげとぅらふ HHHHL)は動詞「挙(あ)ぐ」(あンぐ HL)のそれから、「よみがへる」(よみンがふぇる LLLHL)は名詞「黄泉(よみ)」(よみい LF)のそれからそのアクセントを推定できるというように、多くは特にそれ自体としてアクセントを考えるに及びません。
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