ⅶ 高起三拍の四段動詞 [目次に戻る]
三拍動詞の中には、例えば下二段の自動詞「明く」(あく HL)に対する四段の他動詞「明かす」(あかしゅ HHL)がそうであるように、他動詞化形式素 aʃ ――例えば下二段「明く」の語幹(不変化部分)は厳密にはak、四段「明かす」の語幹は厳密には akaʃ です――を含むものや、下二段の自動詞「上(あ)ぐ」(あンぐ HL)に対する四段の他動詞「上がる」(あンがる HHL)がそうであるように自動詞化形式素 ar を含むもの、さらには、「流る」(なンがるう LLF。流れる)と「流す」(なンがしゅう)とがそうであるように、同じ語幹が r に終わるものは自動詞、s に終わるものは他動詞というタイプのものなどもあって、特にはじめの他動詞化形式素 aʃ を含むものは数多(あまた LLH)あります。
現代東京では終止形がLHHというアクセントで言われる次の一連の四段動詞は平安時代の京ことばでは高起式であり、終止形はHHLと発音されます。
あかす【明】(あかしゅ HHL) 「あかるい」という言葉は平安時代にはなく、そうした意味は当時は「あかし」(あかしい HHL)で示しました。その「あかし」などとも式を同じくします。
あがる【上】(あンがる HHL) 「思いあがる」は現代語ではよい意味では使いませんけれども、平安時代の京ことばでは「プライドを持つ」といった意味の、善悪の評価を伴わないものとして使いました。と申せば次を想起する方も多いでしょう。
我はと思ひあがりたまへる御方がた、(更衣ヲ)めざましきものにおとしめそねみたまふ 源氏・桐壺。われふぁと おもふぃい あンがれる おふぉムかたンがた、めンじゃましきい ものに おとしめ しょねみ たまふう LHHL・LLFHHLH・LLHHHHH、LLLLFLLH・LLHLHHLLLF。
あくぶ【欠・欠伸】(あくンぶ HHL) 今は「あくばない」「あくびった」などは言いませんけれど(言ってもよいのです)、古くは四段の「あくンぶ HHL」という動詞がありました。名詞「あくび」(あくンび HHH)も昔からあって、この名詞が現代東京において⓪で言われるのは動詞「あくぶ」の高起性の名残と申せます。名詞「あくび」は動詞「あくぶ」の連用形から派生したとも、その逆であるとも考えられること、例えば「かこつ」(かことぅ HHL)と同趣です。なお、「けんしん」と読む「欠伸」という熟語があるそうで(「あくび及び背のび」という意味)、改名はこちらの「欠伸」に「あくびのびす」(あくンび のンびしゅう HHLLLF)という訓みを与えます。「あくび」をするという意味の「欠(けん)」はもともとこの字体であるのに対して、「欠く」「欠ける」という意味の「欠(けつ)」は旧字では「缺」、かれとこれとは(かれと これとふぁ HLHHHHH)もともとは別なのでした。
あそぶ【遊】(あしょンぶ HHL) 名詞「あそび」は「あしょンび HHH」なのでした。
あそびをせむとやむまれけむ
たはぶれせむとやむまれけむ
あそぶこどものこゑきけば
わがみさへこそゆるがるれ
梁塵秘抄。あしょンびうぉ しぇムうとやあ ムまれけム / たふぁンぶれ しぇムうとやあ ムまれけム / あしょンぶ こンどもの こうぇえ きけンば わあンがあ みいしゃふぇこしょ ゆるンがるれ HHHHHFLF・HHLLH・HHHHHFLF・HHLLH・HHHHHHH・LFHLL・LHHHHHL・HHHHL。古典的なアクセント、非古典的なアクセントの差は、下降拍の長短(二つの「や」、および「声」の末拍)を考えに入れなければ、特にないと思われます。発音はと申せば、「たふぁンぶれ」「こうぇえ」「しゃふぇ」は平安末には「たわンぶれ」「こいぇぇ」「しゃいぇ」と言われることが多かったかもしれません。
あたる【当】(あたる HHL) 「付近」を意味する名詞「辺(あた)り」を、顕天平そのほか複数の資料が「あたり HHL」と言われるとします。この「辺り」はむろん「当たること」ではありませんが、一般に動詞「当たる」と同根と見られています。現代京都では、「当たること」は「あたり HHH」ですが、「辺り」は「あたり HLL」です。この「あたり HLL」は「あたり HHL」からの変化(核のさかのぼり)として理解できます。
あらす【荒】(あらしゅ HHL) 名詞「嵐」が「あらし LLL」だったことは、図名そのほかから確かなようです。動詞「荒らす」はHHL、形容詞「荒し」はHHFでした。木々を荒らすからあらしなのだとすれば、例外的に式が一致しないということなのかもしれません。「吹くからに」(ふくからに LHHLH)の歌は後に引きます。
あらふ【洗】(あらふ HHL)
いだく【抱】(いンだく HHL) 現代語では例えば希望は「いだく」もので、「だく」ものではないわけですが、平安時代にはどちらも「いだく」でまかなっていました。東京では『26』の昔から「いだく」は②で言われてきていますけれども、「だく」は⓪です。アクセントに関して言えば、つづまった「だく」の方に昔の京ことばの名残が認められると申せます。
うかぶ【浮】(うかンぶ HHL) 自動詞として四段の「浮く」(うく HL)、同じく四段の「浮かぶ」(うかンぶ HHL) の二つがあり、これらに対する他動詞として下二段の「浮く」(うく HL)、下二段の「浮かぶ」(うかンぶ HHL) の二つがありました。四段の「浮かす」の成立は遅れるようですけれども、これは下二の「浮く」の没落と関係があるのかもしれません。「浮かびたり」(うかンびたりい HHLLF)は「不安定だ」「うわついている」「不確かだ」といった意味でも使われました。
世の中といふもの、さのみこそ今も昔もさだまりたることはべらね。中についても(就中、特ニ)女の宿世は浮かびたるなむあはれにはべりける。源氏・帚木。
よおのお なかと いふ もの、しゃあのみこしょ いまも むかしも、しゃンだまりたる こと
ふぁンべらねえ。なかに とぅいても うぉムなの しゅくしぇえふぁ うかンびたるなムう あふぁれえに ふぁンべりけ
る HHLHLHHLL、LHLHL、LHL・HHHL・LLHLLHLL・RLLF。LHHLHHL・HHLLLLLH・HHLLHLF・LLFHRLHHL。「宿世(すくせ)」は呉音で、中古音から、一漢字一記号としてLLと推定されます。
うたふ【歌】(うたふ HHL) 名詞「歌」は「うた HL」です。
うづむ【埋】(うンどぅむ HHL) 「うずめる」「うめる」を意味する四段活用の他動詞です。現代語では「うずめない」「うずめて」というところを旧都では「うづめず」「うづめて」ではなく「うづまず」(うンどぅまンじゅ HHHL)、「うづみて」(うンどぅみて HHLH)と言いました。とは申せ現代語「うずめる」が⓪で言われるのは、昔の四段動詞「うづむ」がHHLだった名残です。
おくる【送・贈】(おくる HHL) 名詞「送り」(おそらくHHHでしょう)には「見送り」という意味のほかに(はるか先の方で例を引きます)、「葬送」という意味などもありました。もっとも「野辺の送り」という言い方は平安時代の文献にはあらわれないようです。「野辺」はあって、「のンべえ LF」と言われました。「呑兵衛(のんべえ)」は現代東京では「ノンべー」ですが、中井さんの辞典によれば現代京都では、「ノンベー」なのだそうです。野辺の呑兵衛。
おごる【驕】(おンごる HHL) 「おごれる人も久しからず」は、古典的には「おンごれる ふぃともお ふぃしゃしからンじゅ HHLHHLF・LLHLHL」、鎌倉時代には「うぉンごれる ふぃとも ふぃしゃしからンじゅ HHLLHLL・LLHLHL」と言われることが多かったでしょう。人にごちそうするという意味で「おごる」というようになったのは江戸時代だそうです。
おそふ【襲】(おしょふ HHL) 「押す」(おしゅ HL)に由来するそうです。
おどす【脅】(おンどしゅ HHL) 自動詞「怖(お)づ」(おンどぅ HL)に対する他動詞で(他動詞化形式素 oʃ が介入しています)、「怖がらせる」「驚かす」くらいの、特に犯罪的でない行為を言うことが多かったようです。
およぶ【及】(およンぶ HHL) 元来「及び腰になる」を意味したようで、そこから現代語と同じ意味でも使うようになりました。
やむことなき人の、碁打つとて、(着物ノ)紐うち解き、ないがしろなるけしきに拾ひ置くに、おとりたる人の、ゐずまひもかしこまりたるけしきにて、碁盤よりは少し遠くて、及びて、袖の下はいま片手してひかへなどして打ちゐたるもをかし。(三巻本などでは「碁をやむことなき人の打つとて」の段〔141〕。前田家本が「やむことなき人の、碁打つとて」とするのを採りますけれども、以下は三巻本に拠ります)。
やむ こと なきい ふぃとの、ごお うとぅうとて、ふぃも うてぃい ときい、ないいンが しろなる けしきに ふぃろふぃ おくに、おとりたる ふぃとの、うぃンじゅまふぃも かしこまりたる けしきにて、ごおンばんよりふぁ しゅこし とふぉくて、およンびて、しょンでの したふぁ いま かたて しいて ふぃかふぇ なンど しいて うてぃい うぃいたるも うぉか
しい HHLLLFHLL・R・LFLH・HHLFLF・LFHHHLHLLLH・HHLHHH・LLHLHHLL・HHHHL・LLLHLLHLLLHH、RHHLLH・LHL・HHLH・HHLH・HHHHLH・LHLLLFH・HHLRLFH・LFFLHL・LLF。「拾ひ置く」は、相手の石をとったり(相手の石を囲むとその石を取って盤から除(の)けます)、自分の石を置いたりする、というのではないでしょうか。順序が逆のようにも見えますけれど、平安時代の京ことばでは「立ち居る」(たてぃい うぃる LFHL)と言ったり「居立つ」(うぃい たとぅう FLF)と言ったりしますし、「よしあし」(善悪)とも「あしよし」(悪善)とも言います(後者は『蜻蛉の日記』の天禄二年〔971〕四月の記事や、時代はくだりますが定家の『近代秀歌』に見えています)。「男女(めを)」は「めうぉ LL」でしたし、のちにも申しますが「優劣」のことを昔は「おとりまさり」(おとり ましゃり LLLHHH)と言いました。引用は、身分の高い人がラフな格好で碁を打つそのお相手を、身分の劣る人が、きちんとした身なりをして、かしこまって、碁盤から離れたところにいて務める時、その人が打とうとして中腰になり、例えば右手を伸ばし、右の袖が盤を乱さないよう左手で押さえたりして打つ、そのさまが面白い、と言っています。情景が目に見えるようです。
わざと負けて、「強うもおはしますかな」〔とぅようもお おふぁし ましゅかなあ LHLF・LHLLHLF。お強くていらっしゃいますなあ〕なんて言ったかもしれません。そういう言い方ができたことは、次の一節から明らかです。
「苦しきまでもながめさせたまふかな。御碁を打たせたまへ」と言ふ。「いとあやしうこそはありしか」とはのたまへど、打たむとおぼしたれば、盤とりにやりて、我は、と思ひて先せさせたてまつりたるに、いとこよなければ、手直してまた打つ。「尼上、疾うかへらせたまはなむ。この御碁、見せたてまつらむ。かの御碁ぞいと強かりし。僧都の君、はやうよりいみじう好みたまひて、けしうはあらずとおぼしたりしを、『いと碁聖大徳(きせいだいとこ)になりてさしいでてこそ打たざらめ、御碁には負けじかし』とのたまひしに、つひに僧都なむ、ふたつ負けたまひし。碁聖が碁にはまさらせたまふべきなめり。あないみじ」と興ずれば、さだ過ぎたる尼びたひの見つかぬがものごのみするに、むつかしきこともしそめてけるかな、と思ひ、心地あしとて臥したまひぬ。源氏・手ならひ
「くるしきいまンでも なンがめしゃしぇえ たまふかなあ。おふぉムごうぉ うたしぇえ たまふぇえ」と いふ。「いと あやしうこしょふぁ ありしか」とふぁ のたまふぇンど、うたムうと
おンぼしたれンば、ばん とりに やりて、われふぁと おもふぃて しぇん(二拍ともほぼでたらめ) しぇしゃしぇ たてえ まとぅり
たるに、いと こよなけれンば、てぇえ なふぉして また うとぅう。「LLLFLHL・LLLLF・LLHLF。LLHHH・LLFLLF」L・HL。「HL・LLHLHLH・LLHL」LH・HLLHL、LLFLLLHLHL、LH・LHHHLH、LHH、L・LLHH・LH・HHLLFHHLLHH、HL・HHHHLL、L・LLHH・HLLF。「あまうふぇ(後半推定)、とおう かふぇらしぇえ たまふぁなム。こおのお おふぉムご、みしぇえ たてえ まとぅらムう。かあの おふぉムごンじょ、いと とぅよかりし。LLLL、RL・LLLFLLLHL。HH・LLHH、LFLFHHHF。FL・LLHHL、HL・LHLLH。しょうンどぅうの きみ、ふぁやうより いみンじう このましぇえ たまふぃて、けしうふぁ あらンじゅと おンぼしたりしうぉ、『いと きいしぇい だいとこに なりて しゃしい いンでてこしょ うたンじゃらめえ、おふぉムごにふぁ まけンじかしい』と のたまふぃしに、とぅふぃいに しょうンどぅうなムう、ふたとぅ まけ たまふぃし。LHHHHH、LHLHL・LLHL・LLLFLLHH、LHLHLHLL・LHLLLHH、『HL・LLHLLLLHLHH・LFLHHHL・LHLLF、LLHHHH・HHHLF』L・HLLLHH、LFH・LHHLF、HHL・HLLLLH。きいしぇいンが ごおにふぁ ましゃらしぇ たまふンべきいなんめり。あな いみンじ」と きやうンじゅれンば、しゃンだ しゅンぎたる あまンびたふぃの み
いも とぅかぬンが ものンごのみ しゅるに、むとぅかしきい こともお しい しょめてけるかなあ、と おもふぃい、ここてぃ あしいとて ふしい たまふぃぬう。「LLHHRHH・HHHLLLLLFHLHL。LLLLH」L・LHHHLL、HHLHLH・LLLHLL・RLLLHH・LLLHLHHH、HHHHFLLF・FHLHHLLF、L・LLF、LLLLFLH・LFLLHF。浮舟があんまり沈んでいるのを見かねて、お世話役である少将の尼が碁でも打ちましょうと言い、浮舟が、下手でしたと返答するものの、打ってもよいという様子なので打つことにして、自分のほうが強いだろうと思い先手を譲ったところ、何と浮舟のほうがずっと強いので、今度は自分が先手で打ちます。やっぱり負けたようです。少将の尼は、尼上がお帰りにならないかしら、この盤面を御覧に入れましょう、私は尼上にも大負けしました、僧都(尼上の兄・横川の僧都)も碁がお好きで、碁聖大徳(伝説的名人)を気取ってでしゃばって打つのはよくなかろうが、あなたには負けませんとおっしゃったものの、三番勝負で二番お負けになりました、あなたは僧都にはお勝ちになるでしょう、まあすばらしい、とはしゃぐので、浮舟は、軽い気持ちではじめてしまったけれど、いろいろと厄介なことになりそうだ、と思い、気分が悪いといって横になってしまったのでした。二十歳前後の女性がかなりに囲碁が強く、反対に内親王のもののけ調伏を依頼されたりもする六十余歳の高徳の僧が囲碁に関してはどうやら年季の入った下手の横好きらしい、という設定が面白いと思いますけれども、しかしせっかく強いのに、それが浮舟の心を多少とも明るくするのに役立たないどころか、かえって暗くしてしまう、というように書き手は作ってゆきます。こういう文章と比べると、下位者の下位者ぶりを描写しておもしろがる清女のそれが浅く見えてしまいますけれども、しかし、自分を紫女の側に置き、そこから清女の文の浅さを言いつのって喜ぶとしたら、それは、清女がそこにおいてしたのと似たようなことをすることかもしれません。
かこふ【囲】(かこふ HHL) 名詞「かこひ」(「かこふぃ HHH」でしょう) もあるにはあったようです。
かこむ【囲】(かこむ HHL)
かざる【飾】(かンじゃる HHL) 名詞「飾り」は「かンじゃり HHH」です。
かすむ【霞】(かしゅむ HHL) 名詞「霞」は「かしゅみ HHH」です。
春立つといふばかりにやみ吉野の山もかすみて今朝は見ゆらむ 拾遺・春1・壬生忠岑(みンぶの たンだみね HHH・LLHH)。ふぁるう たとぅうと いふンばかりにやあ みよしのの やまもお かしゅみて けしゃふぁ みゆらム LFLFL・HHHHLHF・HHHHH・LLFHHLH・LHHLHLH
かたる【語】(かたる HHL)
いかにしてかく思ふてふ事をだに人づてならで君にかたらむ 後撰・恋五961・敦忠。いかに しいて かく おもふ てふ ことうぉンだに ふぃとンどぅてならンで きみに かたらム HLHFH・HLLLHLH・LLHHL・HHHHLHL・HHHHHHH(最後の「む」は「いかにして」の〝結び〟として連体形です)
すると「かたらふ」は「かたらふ HHHL」であり、「ほのかたらふ【仄語】」は「ふぉのかたらふ LHHHHL」でしょう。清濁のことから申せば、色葉字類抄が「風聞」を「ほのぎく」〈平上上平〉と訓むのですが、これは「ほの聞く」のことにちがいないので、「ほのかたらふ」も「ほのがたらふ」かもしれませんけれど、紫式部日記に「ほのうち霧りたる」(ふぉの うてぃい きりたる LHLFHLLH)とあったくらいで、接辞「ほの」は本体に密着するわけではないと見て、「ほのかたらふ」とも言った、「ほの聞く」こそ「ふぉのきく LHHL」とも言えた、というように考えておきます。「ほのぐらし【仄暗】」も「ふぉのンぐらしい LHHHF」でよいのでしょう。いずれにしても接辞「ほの」を冠する場合、「ほのか」(ふぉのか LHL)のアクセントが生かされるのです。 をちかへりえぞしのばれぬほととぎすほのかたらひし宿の垣根に 源氏・花散る里(ふぁな てぃる しゃと LLHHHH)。うぉてぃかふぇり いぇええンじょお しのンばれぬ ふぉととンぎしゅ ふぉのかたらふぃし やンどの かきねに LLLHL・ℓfFHHHHH・LLLHL・LHHHHHH・LHLHHHH。「をちかへる【復返・変若返】」(若返る)は諸家が「をち」を「をとこ」(うぉとこ
LLL)や「をとめ」(うぉとめ LHH)と同根と見るのに倣って低起式と見るべきでしょう。顕昭が袖中抄や散木集注で高起動詞としますけれど、散木集注における注から彼が語義を誤解していることが明らかなので(「お(ママ)ちかへりとハ百千かへりなり」)採れません。低起式と見る場合でも「をち」を動詞の連用形と見るかそれから派生した名詞と見るかの選択を迫られますが、後者と見て、LFではなくLLと発音されたと考えます。
斎(いつき)の昔を思ひいでて
ほととぎすそのかみ山の旅まくらほのかたらひし空ぞ忘れぬ 新古今・雑上1486・式子内親王。いとぅきのむかしうぉ おもふぃいいンでて/ふぉととンぎしゅ しょおのお かみやまの たンびまくら ふぉのかたらふぃし しょらンじょ わしゅれぬ LHLL・HHHH・LLFLHH/LLLHL・HHLLLLL・HHHHL・LHHHHHH・LHLHHHH。参考歌として次を引いておきます。
聞かばやなそのかみ山のほととぎすありし昔の(=昔ト)同じ声かと 後拾遺・夏183。きかンばやな しょおのお かみやまの ふぉととンぎしゅ ありし むかしの おなンじ こうぇえかあと HHLHL・HHLLLLL・LLLHL・LLHHHHH・LLHLFFL。顕昭の『後拾遺抄注』が「そのかみやま」に〈上上平平平平〉を差しています。一般名詞「そのかみ」(図名が「しょのかみ HHHH」とします。このアクセントは「その上(かみ)」〔しょおのお かみ HHLH〕が一語化したことを語るのでしょう)と歌枕「神山」(かみやま LLLL)とが重ねられています。
かはす【交】(かふぁしゅ HHL、かふぁしゅう LLF) 「交ふ」のところで申したとおり、高起式と低起式とがあったと見ておきます。
かはる【代・変】(かふぁる HHL) 名詞「代はり」はおそらく「かふぁり HHH」でしょう。上の「かはす」とこの「かはる」とは、形式的には他動詞と自動詞との関係で、自動詞には「る」(「何々がかわる」)、他動詞には「す」(「何々をかわす」)がついていますが、例えば「流る」(なンがるう LLF。流れる)と「流す」(なンがしゅう)とがそうであるような単純な関係(何かを流せばその何かが流れる)ではありません。
かよふ【通】(かよふ HHL) 名詞「通ひ」はおそらく「かよふぃ HHH」でしょう。
「あはれ、いと寒しや」「今年こそ、なりはひにも頼むところ少なく、田舎のかよひ(田舎ヘノ行商)も思ひかけねば(期待デキナイノデ)、いと心ぼそけれ」「北殿こそ(北隣サン)、聞きたまふや(聞コエテイマスカ)」 源氏・夕顔(「朝顔」は「あしゃンがふぉ LLHL」なので、「ゆふンがふぉ HHHL」と見ておきます)。光る源氏が夕顔と一緒に近くの家における庶民のやりとりを聞いています。仮に三つに割りました。あふぁれえ、いと しゃむしいやあ。ことしこしょ、なりふぁふぃにも たのむ ところ しゅくなく、うぃなかの かよふぃも おもふぃい かけねンば、いと こころンぼしょけれ。きたンどのこしょ、きき たまふやあ LLF、HLLLFF。HHHHL、LLLLHL・LLHHHHLLHL、HHHHHHHL・LLFLLHL、HLLLLLLHL・HHHLHL・HLLLHF。「きたどの」の後半二拍は推定。「北」は「きた HL」、「殿」は「との LL」。
からす【枯】(からしゅ HHL) 「烏」は「からしゅ LHH」です。
かをる【香】(かうぉる HHL) 名詞「香り」は「かうぉり HHH」。
橘のかをりし袖によそふればかはれる身ともおもほえぬかな 源氏・胡蝶。たてぃンばなの かうぉりし しょンでに よしょふれンば かふぁれる みいともお おもふぇいぇぬかなあ LHHLL・HHHHHHH・HHHLL・HHLHHLF・LLLLHLF。光る源氏が、夕顔の娘・玉鬘(たまかンどぅら LLLLH)に対して、例の「五月まつ花たちばな」の歌を踏まえつつ詠んだ歌。橘の薫った袖は二重のメトニミーで、袖をその一部とする衣を、そしてさらにその衣を着ていた人(夕顔)を意味します。つまり「もと」(もと LL。上の句)は、あなたをあなたのおかあさんによく似ていると思うと、というのですけれども、すると、「すゑ」(しゅうぇ HH)は、諸注の見るところとは異なり、あなたをあなたのおかあさんと別人とは思えない、という意味だとは思えません。それでは歌のもとと末とで意味が(訳し方で多少ごまかせるとはいえ結局)似通いすぎます。そもそも「身」は「あなた」を意味できないでしょう。光る君は、あなたをあなたのおかあさんとよく似ていると思うと、私も自分自身が変わったとは思えません、と言っているのだと思います。あなたはあなたのおかあさんと変わらず、今の私は昔の私と変わらないと言えば、玉鬘は母と源氏とのあいだに何があったか知っているので、光る源氏が何を言いたいかは明らかです。
きざす【兆】(きンじゃしゅ HHL)
きざむ【刻】(きンじゃむ HHL) この動詞から派生した名詞「きざみ」(きンじゃみ HHHでしょう)は、「等級」「機会」といった、現代語にはない意味でよく使われました。
きらふ【嫌】(きらふ HHL) 「人見知り」といった意味らしい「面(おも)ぎらひ」という言葉が『蜻蛉の日記』(天延二年〔975〕四月)に見えています。「面(おも)」は袖中抄が〈平平〉(おも LL)を、毘・高貞が〈平上〉(LHないしLF)差す言葉で、初拍が低い以上、「ものがたり」(ものンがたり LLLHL)などがそうだったのと同じく、「おもぎらひ」は「おもンぎらふぃ」と言われたと考えられます。
くくる【括】(くくる HHL) 「くくり染め」(=しぼり染め)にするという意味もあると申せば、次の歌を思い出される方も少なくないでしょう。
ちはやふる神代(かみよ)も聞かず立田川からくれなゐに水くくるとは 古今・秋下294、伊勢物語106。てぃふぁや ふる かみよも きかンじゅ たとぅたンがふぁ からくれなうぃに みンどぅ くくるとふぁ HHHLH・LLHLHHL・LHHHH・LLLHLLH・HHHHLLH。「かみよ」には顕府(8)と伏片294とが〈平平上〉を差します。「LL+H→LLH」は例外もあるとはいえ基本の型と言ってよいものであり、「あさと【朝戸】」(あしゃと LLH)、「あすか【明日香】」(あしゅか LLH)、「かひこ・かひご【卵=卵(かひ)子】(かふぃこ・かふぃンご LLH。「蚕」は「かふぃこ LHL」)、「くしげ【櫛笥】」(くしンげ LLH)、「せきど【関戸】」(しぇきンど LLH)などがこのアクセントで言われます。ちなみに同様に「LL+F→LLF」も基本の型と言えることが、例えば「あさひ【朝日】」(あしゃふぃい LLF)、「くさば【草葉】」(くしゃンばあ LLF)、「たまな【玉名】」(たまなあ LLF)、「たまも【玉藻】」などから知られます。『研究』研究篇上に、「体言二拍+体言二拍」の複合名詞のアクセントに関して「前部成素が低起式、後部成素が台頭型LH・LFのものはその高さを保ってLLLH・LLLF型になる傾向が強い」とあるのですが(p.157。表記は変更しました)、この傾向はほかの拍数の名詞についても広く認められます。
「からくれなゐ」のアクセントは推定ですけれども、「唐(から)」は「から LH」、「呉の藍(あゐ)」(くれの あうぃい HHHLF)のつづまったものである「くれなゐ」は(とはいえHHLFではなく)「くれなうぃ HHLL」、低起二拍名詞と高起四拍名詞との複合は多くの場合LLLHLLというアクセントをとるのでした。「巾着(きんちゃく)」の口は紐でキュッとしまるようになっていますけれど、指貫(さしぬき)の裾などをそのようにしてある、その紐のことを「くくり」と言ったのだそうです。おそらくこの「くくり」はHHHと言われたでしょう。布の一部を同じように紐でくくってそこ以外が染まるようにするのがくくり染めです。
くだす【下】(くンだしゅ HHL)
くだる【下】(くンだる HHL)
くらす【暮・暗】(くらしゅ HHL) 世界が「あかく」(あかく HHL)なるまで時をおくることが「明かす」(あかしゅ HHH)ことであるように、世界が「くらく」(くらく HHL)なるまで時をおくることが「暮らす」ことです。すると「明かし暮らす」(あかしくらしゅ HHLHHL)が「生活する」「日々を生きる」ことを意味するとしても不思議ではありません。例えば源氏・薄雲(「うすゅンぐも」か。後半推定。「あまぐも【雨雲】」は「あまンぐも LLLL」)の冒頭に、「冬になりゆくままに川づらのすまひ(生活ハ)いとど心細さまさりて、(明石ノ君ハ)うはのそらなる心地のみしつつあかしくらすを」などあります。ふゆに なりい ゆく ままに かふぁンどぅらの しゅまふぃ いとンど こころンぼしょしゃ ましゃりて、うふぁの しょらなる ここてぃのみ しいとぅとぅ あかし くらしゅうぉ HLH・LFHHHHH・HHHLLLLL、HHH・LLLLHH・HHLH、HLLLHLH・LLLHLFHH・HHLHHHH」などあります(「かはづら」には有力なヴァリアントとして「かつら【桂】」〔かとぅら〕があって、秋山さんの全集本などはこちらを採っています)。生活することを現代語で「暮らす」というのは、(「ピアノフォルテ」の「フォルテ」がとれたように)「明かし暮らす」の「明かし」のとれた言い方なのでしょう。なお「くらす」には「暗くする」という意味もあって、「心をくらす」(こころうぉ くらしゅ LLHHHHL)など使います。
かきくもり日かげ(日ノ光)も見えぬ奥山に心をくらすころにもあるかな 源氏・総角(あンげまき HHHH)。かきい くもりい ふぃかンげも みいぇぬ おくやまに こころうぉ くらしゅ ころにも あるかなあ LFLLF・HHHLLLH・LLHLH・LLHHHHH・HLHLLHLF
くらふ【食】(くらふ HHL) 「食」を当てることが多いわけですけれども、『土左』(12/27)に、今も使う「酒をくらふ」(しゃけうぉ くらふ HHHHHL)という言い方がでてきます。
かぢとり、もののあはれもしらで、おのれしさけをくらひつればはやくいなんとて、「しほみちぬ。かぜもふきぬべし」とさわげは、(一行ハ)ふねにのりなむとす。
かンでぃとり、ものの あふぁれえもお しらンで、おのれし しゃけうぉ くらふぃとぅれンばふぁやく いなムうとて、「しふぉ みてぃぬう。かンじぇも ふきぬンべしい」と しゃわげンば、ふねに のりなムうと しゅう HHHL、LLLLLFFHHL、HHHL・HHHHHLLHL・LHLHHFLH、「LLLHF。HHL・LHHHF」L・LLHL、LHH・HLHFLF。
けづる【削】(けンどぅる HHL) 源氏・若紫に、幼い紫の上のおばあさんが孫の「髪をかきなでつつ」(かみうぉ かきい なンでとぅとぅ LLH・LFLHHH)、「けづることをうるさがりたまへど、をかしの御髪(みぐし)や」(けンどぅる ことうぉ うるしゃンがり たまふぇンど、うぉかしの みンぐしやあ HHHLLH・LLLHLLLHL・LLHLHHHF)と思うところがあります。
けぶる【煙】(けンぶる HHL) 「けむる」の古形。アクセントを注記したものを知りませんけれども、名詞「けぶり」は確かに「けぶり HHH」です。いま引いた「若紫」の巻の一節の少し前に、若紫を描写して、「まゆのわたりうちけぶり」(まゆの わたり うてぃい けンぶり)というところがあります。秋山さんの頭注には「眉墨でかいた引き眉ではなく、生えたままの眉のさまを言ったもの。眉の輪郭がうぶ毛と区別できず初々しい感じ。」とあります。なるほど。やはりもっと長く引いておきましょう。長いので小分けにします。意味は注しません。
清げなる大人二人ばかり、さては童女(わらはべ)ぞ、出で入り遊ぶ。中に、十ばかりにやあらむと見えて、白き衣(きぬ)、山吹などのなれたる着て、はしり来たる女子(をむなご)、あまた見えつる子どもに似るべうもあらず、いみじく生ひさき見えて、うつくしげなる容貌(かたち)なり。髪は扇を広げたるやうにゆらゆらとして、顔はいと赤くすりなして立てり。
きよンげなる おとな ふたりンばかり、しゃてふぁ わらふぁンべンじょ、いンでえ いり あしょンぶ。なかに、とうぉンばかりにやあ あらムと みいぇて、しろきい きぬ、やまンぶき なンどの なれたる きいて、ふぁしりい きいたる うぉムなンご、あまた みいぇとぅる こおンどもに にるンべうもお あらンじゅ、いみじう おふぃしゃき みいぇて、うとぅくしンげなる かたてぃなりい。かみふぁ あふンぎうぉ ふぃろンげたる
やうに ゆらゆらと しいて、かふぉふぁ いと
あかく しゅりい なして たてり。LLLHL・LHLHHLLHL、LHH、LLHHL、LFHLHHL。LHH、HLLHLHFLLHL・LHH、LLFLH、LLHLRLL・LHLH・FH、LLFRLH・HHHL、LLHLHLH・HHLH・HHHLFLHL、LLHL・LLLLLHH、LLLLLHL・HHHLF。LLH・LLLH・HHLLHLLH・HLHLLFH、HHH・HLHHLLFLHH・LHL。
「何ごとぞや。童女と腹だちたまへるか」とて、尼君の見あげたるに、すこしおぼえたるところあれば、子なめりと見たまふ。
「なにンごとンじょやあ。わらふぁんべと ふぁらンだてぃ たまふぇるかあ」とて、あまンぎみ(後半推定)の みいい あンげたるに しゅこし おンぼいぇたる ところ あれンば、こおなんめりと みいい たまふう。
「LHHHLF。LLHHH・LLHLLLHLF」LH・LLLLL・ℓfHLLHH、LHL・LLHLHHHH・LHL、HLHHLLℓfLLF。「おひさき」を低平連続としたのは、低起二拍動詞の連用形が二拍一類を従える「ありさま」「いけにへ」「ほしいを【干魚】」「ほしとり【干鳥】」がLLLLで(ありしゃま、いけにふぇ、ふぉしいうぉ、ふぉしとり)、これが多数派の行き方だからです。
「雀の子を犬君(いぬき)が逃がしつる。伏籠(ふせご)のうちに籠めたりつるものを」とて、いとくちをしと思へり。このゐたる大人、「例の、心なしのかかるわざをしてさいなまるるこそ、いと心づきなけれ。いづかたへかまかりぬる。いとをかしう、やうやうなりつるものを。烏などもこそ見つくれ」とて、立ちて行く。髪ゆるるかにいと長く、めやすき人なめり。少納言の乳母とぞ人言ふめる[原文「めるは」]。この子の後見(うしろみ)なるべし。
「しゅンじゅめの こおうぉお いぬき(末拍推定)ンが にンがしとぅる。ふしぇンごの うてぃに こめたりとぅる ものうぉ」とて、いと くてぃうぉしいと おもふぇり。こおのお うぃいたる おとな、「れいの、こころ なし(推定)の、かかる わンじゃうぉ
しいて しゃいなまるるこしょ、いと こころンどぅき なけれ。いンどぅかたふぇかあ まかりぬる。いと うぉかしう やうやう なりとぅる ものうぉ。からしゅ なンど
もこしょ みいい とぅくれえ」とて たてぃて ゆく。「LHHHHH・LLLH・LLHLH。LLLL・HLH・LHLHLHLLH」LH、HL・LLLFL・LLHL。HH・FLH・LHL、「LHL、LLHLHL・HLHHLHFH・LLLLLHHL、HL・LLLLL
LHL。LHHLHF・LHLLH。HL・LLHL・LHLL・LHLHLLH。LHHRLHHL・ℓfLLF」LH、LHHHL。
かみ ゆるるかに いと なンがく、めやしゅきい ふぃとなんめり。しぇうなあごんの めのととンじょお ふぃと いふめる。こおのお こおのお うしろみなるンべしい
LL・LLHLH・HLLHL、LLLFHLLHHL。LLLHHH・HHHLF・HL・HLHL。HHHH・LLLLHLLF。
尼君、「いで、あなをさなや。言ふかひなうものしたまふかな。おのがかく今日明日におぼゆる命をば何ともおぼしたらで、すずめ慕ひたまふほどよ。罪うることぞ、と常に聞こゆるを、心うく」とて、「こちや」と言へば、ついゐたり。
あまンぎみ、「いンで、あな うぉしゃなやあ。いふ かふぃ なあう ものしい たまふかなあ。おのンが かく けふ あしゅに おンぼゆる いのてぃうぉンば なにともお おンぼしたらンで、しゅじゅめ したふぃ たまふ ふぉンどよお。とぅみ うる ことンじょお、と とぅねえに きこゆるうぉ、こころ ううく」とて、「こてぃやあ」と いふぇンば、とぅいい うぃいたりい
LLLL、「HL、LLLLHF。HHHHRL・LLFLLHLF。HHH・HL・LHLLH・LLLH・LLHHH・
LHLF・LLHLHL、LHH・HHLLLHHLF。LHLHLLF、L・LFH・HHHHH、LLHRL」LH、「HLF」LHLL、LFFLF。
つらつきいとらうたげにて、眉のわたりうちけぶり、いはけなくかいやりたる額つき、髪(かむ)ざし、いみじううつくし。「ねびゆかむさまゆかしき人かな」と、目とまりたまふ。さるは、限りなう心を尽くしきこゆる人にいとよう似たてまつれるがまもらるるなりけり、と思ふにも、涙ぞおつる。
とぅらとぅき いと らうたンげにて、まゆの わたり うてぃい けンぶり、いふぁけ(推定) なあく かいい やりたる ふぃたふぃとぅき、かムじゃし(後半推定)、いみンじう うとぅくしい。「ねンびい(推定) ゆかム しゃま ゆかしきい ふぃとかなあ」と、めえ とまり たまふう。しゃるふぁ、かンぎり なあう こころうぉ とぅくし きこゆる ふぃとに いと よおう にい たてえ まとぅれるンが まもらるるなりけり、と おもふにも、なみンだンじょ おとぅる LLHL・HL・HHHHHH、LHLHHL・LFHHL、LLLRL・LFHLLH・HHHHL、LLLL、LLHL・LLLF。「LFHHHHH・HHHF・HLLF」L、LHHLLLF。LHH、LLLRL・LLHH・HHLHHHH・HLH・HLRL・FLFHHLHH・LLLLHLHHL、L・LLHHL、LLHL・LLH。
こほる【凍】(こふぉる HHL) 名詞「氷」は「こふぉり HHH」と言われました。
おほぞらの月の光し清ければ影見し水ぞまづこほりける 古今・冬316。おふぉンじょらの とぅきの ふぃかりしい きよけれンば かンげえ みいしい みンどぅンじょ まあンどぅ こふぉりける LLLHL・LLLLLLF・LLHLL・LFLHHHL・RLHHLHL。昨晩あたり水面(みなも)に月が映じていたけれど、その清らかな月の光が、まず水を凍らせたよ。物理的にはありえない因果関係を主張することで、月光の清冽さを強調する趣です。
ころす【殺】(ころしゅ HHL) 少しだけ「厚労省」みたいです。さがす【探】(しゃンがしゅ HHL)
さぐる【探】(しゃンぐる HHL)
さそふ【誘】(しゃしょふ HHL)
花の香を風のたよりにたぐへてぞうぐひすさそふしるべにはやる 古今・春上13。ふぁなの かあうぉお かンじぇの たよりに たンぐふぇてンじょ うンぐふぃしゅ しゃしょふ しるンべにふぁ やる LLLHH・HHHLHLH・LLHHL・LLHLHHH・HHLHHHH。いい風が吹く。これを利用しない手はない。この風に花の香りを伴わせて、うぐいすのいるところに届け、これが案内しますからどうぞ、ということにする。
花さそふ嵐の庭の雪ならでふりゆくものはわが身なりけり 新勅撰・雑一1054。ふぁな しゃしょふ あらしの にふぁの ゆうきならンで ふりい ゆく ものふぁ わあンがあ みいなりけり LLHHH・LLLLHHH・RLHLL・LFHHLLH・LHHLHHL
さとす【諭】(しゃとしゅ HHL) 神仏が何かを告げるという意味で使ったようで、現代語の「こんこんと諭す」「説諭する」というニュアンスはないようです。名詞「さとし」(神仏の告げ)は「しゃとし HHH」。
さとる【悟】(しゃとる HHL) 仏教にかかわらない文脈において「理解する」「詳しく知る」といった意味で使うことも多い言葉です。形式上は、前項の「さとす」とこの「さとる」との関係は、例えば「見す」(みしゅう LF)と「見る」(みるう LF)との関係とパラレルです。名詞「悟り」も、広く「理解」「理解力」「詳しい知識」といった意味で使えます。この名詞もおそらく高平連続で言われたでしょう。
さはる【障】(しゃふぁる HHL) 現代語の「触(さわ)る」に当たるのは「触(ふ)る」(ふるう LF)です。「雨にさはりて」(あめえに しゃふぁりて LFHHHLH。雨に邪魔されて)などいうことも多く、また、「さしつかえ」といった意味の、「さはること」(しゃふぁる こと HHHLL)という言い方もさかんに使われました。この「さはること」と名詞「障(さは)り」(しゃふぁり HHH)とは同義です。同根の動詞に下二段の「障(さ)ふ」(しゃふ HL)があります。
さらす【晒・曝】(しゃらしゅ HHL) こういう他動詞があるということは、下二段の「晒(さ)る」(しゃる HL)という自動詞があるということではないか? じっさい「晒(さ)る」(しゃる HL)という自動詞があって、他動詞「晒す」の受け身形「晒される」をもってその訳語とすることができます。「されこうべ」「しゃれこうべ」――室町時代頃に出来た言葉のようです――は、風雨にさらされた頭部にほかなりません。
多摩川にさらす手(た)づくりさらさらになにそこの子のここだ愛(かな)しき 万葉集3390。たまンがふぁに しゃらしゅ たンどぅくり しゃらあしゃらあに なにそ こおのお こおのお ここンだ かなしきい LLLHH・HHHLLHL・LFLFH・LHLHHHH・LHLHHHF。「手(た)づくり」は手作りの布で、それがさらさらしているように「さらさらに」(改めて改めて。何度見ても)この娘(こ)がこんなにもいとしいのはなぜなのか、といぶかっています。
しづむ【沈】(しンどぅむ HHL)
御簾(みす)まきあげて、(光ル源氏ガ紫ノ上ヲ)端にいざなひきこえたまへば、女君、泣きしづみたまへるためらひて(泣キ沈ンデイラッシャルノデスガソレヲ落チ着カセテ)ゐざり出でたまへる、月かげにいみじうをかしげにて(オ美シイタタズマイデ)ゐたまへり。源氏・須磨。みしゅ まき あンげて、ふぁしに いンじゃなふぃ きこいぇ たまふぇンば、うぉムなンぎみ、なき しンどぅみ たまふぇる ためらふぃて うぃンじゃり いンでえ たまふぇる、とぅきかンげえに いみンじう うぉかしンげにて うぃい たまふぇり。HHHLHLH・HHH・ LLHLHHLLLHL・HHHHH・HLHHLLLHL・LLHLH・HHLLFLLHL・LLLFH・LLHL・LLLLHH・FLLHL。須磨へと出立する時刻の迫った光る君が――当時の習慣として出発は未明です――、都に残る紫の上の、昇って間もない月の光に照らされた容姿をとくと見つめて、目に焼き付けようとしています。まあ、自分が浮気したせいで都にいられなくなったわけですけれど。
しぼむ【萎】(しンぼむ HHL)
在原業平はその心あまりてことば足らず。しぼめる花の色なくてにほひ残れるがごとし。古今・仮名序。ありふぁらの なりふぃらふぁ しょおのお こころ あまりて ことンば たらンじゅ。しンぼめる ふぁなの いろ なあくて にふぉふぃ のこれるンが ごとしい。LLLHL・LLHLH・HHLLH・LLHH・LLLHHL・HHLHLLL・LLRLH・LLL・LLHLHHLF。「在原」のアクセントは「菅原」(しゅンがふぁら LLLH)からの推定です。「すげ・すが【菅】」は「しゅンげ・しゅンが LL」。
しめる【湿】(しめる HHL)
うちしめりあやめぞかをるほととぎす鳴くや五月の雨の夕暮 新古今・夏220・良経。うてぃい しめり あやめンじょ かうぉる ふぉととンぎしゅ なくやあ しゃとぅきの あめえの ゆふンぐれ LFHHL・LHHLHHH・LLLHL・HHFHHHH・LFLHHHH。すでに引いた「ほととぎす鳴くや五月」の歌を本歌として取っています。
しるす【記・印・験】(しるしゅ HHL) 名詞「しるし」は「しるし HHH」。この名詞には「効果」「効験(こうけん、こうげん)」という意味もあります。
すかす【透】(しゅかしゅ HHL) 「透く」は「しゅく HL」でした。
すかす【賺】(しゅかしゅ HHL) 「おだてる」「だます」「機嫌を取る」といった意味。『89』は③としますけれども、『26』『58』『98』が⓪とするのでここに置きます。現代語で「なだめすかす」「なだめたりすかしたりする」などいう時の「すかす」で、「気取る」といった意味の「すかす」とは異なります。なお、現代語「なだめすかす」はLHHHHLと発音されることが多いかもしれませんが、これは複合動詞としての発音で、ここから「すかす」を単独で言う時の発音を導くことはできません。分けてLHLLHHと言うこともできます。
すがる【縋】(しゅンがる HHL) 「山深み杖にすがりて入る人の心の奥のはづかしきかな(やま ふかみ とぅうぇに しゅンがりて いる ふぃとの こころの おくの ふぁンどぅかしきいかなあ LLLHL・LHHHHLH・HHHLL・LLHLLHL・LLLLFLF)と西行が詠んでいます(山家集)。「老人述懐」というお題で詠まれたもので、山の奥から心の奥に思いが向かった趣です。山に入るのは想像上の自分であり、この「はづかし」は今も使う意味で使われているのだと思います。考えさせる歌です。
話題は変わりますけれども、ジガバチ(似我蜂)という蜂がいるそうで、「すがる」――「蜾蠃」というおそろしげな漢字を当てるそうです――という別名を持ちます。こちらは「しゅンがる HHH」。それから、例の「酸(す)し」(しゅしい LF)から派生した動詞に「すっぱがる」を意味する「酸(す)がる」があります。「しゅンがるう LLF」と言われたのでしょう。少数派低起三拍動詞のことは後に見ますけれども、「酸がる」は特に少数派に属すると見るべき理由がありません。
すがるなく秋のはぎはら朝たちて旅ゆく人をいつとか待たむ 古今・離別366。しゅンがる なく あきいの ふぁンぎふぁら あしゃ たてぃて たンび ゆく ふぃとうぉ いとぅとかあ またム HHHHH・LFLLLLH・LLLHH・HLHHHLH・LHLFLLH。寂に「スカルハ鹿ノ別名也」とあるそうで(『研究』資料篇)、万葉歌に見えている「すがる」は蜾蠃だとしても、古今のこの歌の「すがる」などについては両説あるようです。「朝たちて」は毘・訓が「あさだちて」と濁らし、〈平平上平上〉を差しますけれども、これは「いろづく」(いろンどぅく LLHL)などと同趣の「あさだつ」という一語の動詞の連用形と解するからで、ここはそう見なくてはならないわけではありません。ただ「あさだつ」(あしゃンだとぅ LLHL)は確かにその存在を確認できる四拍動詞です。ついでに申せば「ゆふだつ」(ゆふンだとぅ HHHL)という動詞もあります。こちらは「夕方出発する」という意味ではなく、「夕方、波・風・雨などがにわかに起こり立つ」(岩波古語)という意味です。
すくふ【掬・救】(しゅくふ HHL) 「救ふ」は「掬ふ」から生まれた語義でしょう。
すくむ【竦】(しゅくむ HHL)
すさぶ・すさむ【荒】(しゅしゃンぶ HHL、しゅしゃンぶう LLF) いろいろと厄介な言葉です。「すさむ」とも言いましたけれども、元来は「すさぶ」だったようです。この動詞は例えば何かを「気ままにおこなう」といった意味で使われました。現代語で「生活がすさむ」などいう「すさむ」が⓪で言われるのはこの動詞が往時の都では高起式でも言えた名残ですが、この語義は新しいものです。高起式でも低起式でも言われたようです。同根である下二段の「すさむ」への注記かもしれないものも併せて示せば、改名の複数の注記、前田本『色葉字類抄』、『永治二年本古今和歌集』(清輔本なのでした)、『顕昭 散木集注』(顕昭は清輔の父親顕輔の猶子)がこの動詞を高起式としますけれども、梅や訓が、そして顕昭の『袖中抄』も、この動詞を低起式とします。なお改名は派生語である名高い古今異義語「すさまし(すさまじ)」は低起式とします。この形容詞の末拍も清濁両様あるようですけれども、古くは清んだと見ておきます(しゅしゃましい LLLF)。
すすぐ【濯】(しゅしゅンぐ HHL)
すすむ【進】(しゅしゅむ HHL)
すする【啜】(しゅしゅる HHL)
そそく【注】(しょしょく HHL) 図名の記述から三拍目の清んだことは明らかです。「そそく/そそぐ」「むつまし(むとぅましい HHHF)/むつまじい」など、今昔で清濁の異なる言葉はたくさんありますけれども、今昔で清濁の異ならない言葉のほうがずっと多いことも確かですから、むやみに疑う必要はありません。
たかる【集】(たかる HHL) 『土左』ももうすぐ終わるというあたりに、「こ、たかりてののしる」(こ、たかりて ののしる H、HHLH・HHHL〔子供が集まって騒いでいる〕)とあります。
たたむ【畳】(たたむ HHL) 名詞「畳」は「たたみ HHH」です。平安時代には敷き詰めなかったようです。
たまる【溜】(たまる HHL)
たわむ【撓】(たわむ HHL)
ちかふ【誓】(てぃかふ HHL) 名詞「ちかひ」はおそらく「てぃかふぃ HHH」でしょう。
忘らるる身をば思はず誓ひてし人の命の惜しくもあるかな 拾遺・恋四870。わしゅらるる みいうぉンば おもふぁンじゅ てぃかふぃてし ふぃとの いのてぃの うぉしくもお あるかなあ HHHHH・HHHLLHL・HHLHH・HLLLLHL・LHLFLHLF。永遠の愛を誓ったにもかかわらずその誓いを破った男に対して、あなた天罰でおなくなりになるでしょう、ご愁傷様、と言っています。
ちがふ【違】(てぃンがふ HHL) 平安時代には「交差する」というような意味だったようで、この意味は現代語「すれちがう」などに残っています。何と言っても『枕草子』冒頭近くの「夏は夜。(…)蛍のおほく(=たくさん)飛びちがひたる」(なとぅふぁ よる。(…)ふぉたるの おふぉく とンび てぃンがふぃたる HLHLH。(…)LLHL・LHL・HLHHLLH)にこの意味の「ちがふ」が見られます。改めて申せば、これを「ちごー」と発音することで古文にふさわしい発音ができたと考えるとしたら、それは錯誤です。
ちらす【散】(てぃらしゅ HHL) 「散る」は「てぃる HL」でした。
つかふ【使】(とぅかふ HHL) 下二段の「仕(つか)ふ」も終止形は同じアクセントです。名詞「使ひ」は「とぅかふぃ HHH」でしょう。
つづく【続】(とぅンどぅく HHL) 名詞「続き」は「とぅンどぅき HHH」でしょう。
つなぐ【繋】(とぅなンぐ HHL) 一つのミステリー。図名そのほかが「つなぐ」を高起式としますけれども、その図名は「綱(つな)」を「とぅな LL」とします。こういうこともあります。ただ、「つな」は低起式なのだから「つなぐ」をLLFと発音してもよいだろうし、実際そう発音する人もいただろう、と考えてよいのではないでしょうか。少なくとも「とぅなンぐう LLF」は「とぅなぐう LHF」や「とぅなンぐ HLL」が奇妙であるようには奇妙でないでしょう。
とばす【飛】(とンばしゅ HHL) 「飛ぶ」は「とンぶ HL」でした。
とまる【止・泊】(とまる HHL) 「止まる」と「泊まる」とは、やまとことばとして分けるには及ばないでしょう。名詞「とまり」は「とまり HHH」です。この名詞には「終着点」「最終的に落ち着く所」「(最終的に落ち着く所としての)本妻」といった意味もあります。
年ごとにもみぢ葉ながす龍田川みなとや秋のとまりなるらむ 古今・秋下311・貫之。としンごとおに もみンでぃンばあ なンがしゅ たとぅたンがふぁ みなとやあ あきいのンとまりなるらム LLLFH・LLLFLLH・LHHHH・HHHHLFL・HHHLHLH
花は根に鳥は古巣に帰るなり(鳴キ声デソレトシラレルノデス)春のとまりを知る人ぞなき 千載・春下122・崇徳院。ふぁなふぁ ねえにい とりふぁ ふるしゅに かふぇるなり ふぁるうの とまりうぉ しる ふぃとンじょお なきい LLHLH・HHHLLLH・LLHHLLLHHL・LFLHHHH・HHHLFLF
ならす【鳴】(ならしゅ HHL) 「鳴る」は「なる HL」でした。
ならぶ【並】(ならンぶ HHL) 「ならびなし」(ならンび なしい HHHLF) のような言い方もよく目にされます。
にぎる【握】(にンぎる HHL) 「にぎり」という名詞の誕生は後世のことのようです。
ぬらす【濡】(ぬらしゅ HHL) 下二段「濡(ぬ)る」は「ぬる HL」でした。
ねぶる【眠】(ねンぶる HHL) 「ねむる」は後代の言い方です。名詞「ねぶり」は「ねンぶり HHH」です。なお「舐(ねぶ)る」は「ねンぶるう LLF」。『今昔』や『宇治拾遺』に見えています。
のぞく【覗】(のンじょく HHL) 「除(のぞ)く」は、東京では「のぞく」だが「のンじょくう LLF」なのでした。「覗く」は今と同じ意味でも使われましたけれども、それとは別に「どこそこにのぞく」という言い方があって、これは「どこそこに面する」というような意味です。この意味の「のぞく」には「臨」の字が当てられるそうです。
人々、渡殿(渡リ廊下)より出でたる泉に臨きゐて(座ッテ)、酒飲む。源氏・椎がもと(しふぃンが もと LLLLL)。ふぃとンびと、わたンどのより いンでたる いンどぅみに のンじょき うぃいて、しゃけ のむう。HHLL、HHHLHL・LHLH・LLLH・HHLFH、HHLF。「渡殿」を「わたンどの HHHL」としたのは推定で、結局のところ、HHLL、HHHHの可能性も高く、これらのうちのどれか一つだったのか、複数だったのかも分かりません。「わたどの」は「わたりどの」のつづまったもので、「渡る」は「わたる HHL」、「殿」は「との LL」ですから、上の三つ以外には考えられないということは申せます。大きな原則から申せば、前部成素が動詞の連用形に由来するものは複合名詞全体が 前部成素の式に応じて高平連続、低平連続になることがさしあたり多いのですけれども(『研究』研究篇上。例えば「おりどの【織殿】」〔おりとの HHHH〕、「くらべむま【競馬】」〔くらンべムま HHHHH〕)、しかし「高起三拍+LL」のものは、「ひつじぐさ【未草】」(ふぃとぅンじンぐしゃ HHHHL。「羊・未」は「ふぃとぅンじ HHH」、「草」は「くしゃ LL」)のようなアクセントも有力だからで、前部成素が動詞の連用形に由来する場合でも、例えば図名が「わたりもり【渡守】」や「わたしもり【渡守】」に〈上上上上平〉を差します(わたりもり、わたしもり HHHHL。「渡る」は「わたる HHL」、「守」は「もり LL」)。後部成素に「殿」を持つものでは、「産殿」に〈上上平平〉(うンぶどの HHLL)、「細殿」に〈上上上上〉「ふぉしぉンどの」(「細し」は「ふぉしょしい LLF」なので式保存の例外ということになります)、「八尋殿」に〈上上上上〉(やふぃろンどの HHHHH)と〈上上上平平〉(やふぃろンどの HHHLL)とが差されます。「織殿」は「おりとの HHHH」だったことも含めて、「渡殿」のアクセントを推測することの困難さがはっきりしてきます。
のぞむ【望・臨】(のンじょむ HHL) 名詞「のぞみ」は「のンじょみ HHH」で、東京でも『26』以来⓪が主流です。
のぼる【登・昇】(のンぼる HHL)
はこぶ【運】(ふぁこンぶ HHL)
はづす【外】(ふぁンどぅしゅ HHL) 「ハズス」と「ファんドゥシュ」と。「聞き耳(聞イタ感ジ)、異なるもの」の上位に入りそうです。
はふる・はぶる【放】(ふぁふる・ ふぁンぶる HHL) 現代語「放(ほう)る」の前身です。第二拍は清濁両様あったと見ておきます。現代語に「ほうる」に近い意味の「ほっぽる」や「ほっぽらかす」があるのに似て、平安時代の京ことばにも「はふらかす・はぶらかす」(ふぁふらかしゅ・ふぁンぶらかしゅ HHHHL)、「はふらす・はぶらす」(ふぁふらしゅ・ふぁンぶらしゅ HHHL)といった動詞がありました。これらを高起動詞とするのは、寂・訓1064が「はぶらさじ」に〈上上上上上〉(ふぁンぶらしゃンじい HHHHF)を、梅が「はふらさじ」に〈上上上上上〉(ふぁふらしゃンじい HHHHF)を差しなどしているからで、じつは総合索引によれば書紀に「放」を当てる「はふる」を「ふぁふるう LLF」と訓むところがあるのだそうですけれども、これは誤点と見られます。なお、「葬」を当てる「はふる・はぶる」を「放」を当てる「はふる・はぶる」に由来すると見る向きが多いのですけれども、前者の変化した「はうぶる」――現代語「葬(ほうむ)る」の古い言い方――に図名が〈平平上平〉を差しなどするので、少なくとも平安時代には二つは異なる式で言われていたと見られます。「葬」の方の「はふる・はぶる」のことは後にも申します。
ひろふ【拾】(ふぃろふ HHL)
ふたぐ【塞】(ふたンぐ HHL) 「蓋(ふた)」(ふた HH)から。名詞「綱」は「とぅな LL」だが動詞「つなぐ」は「とぅなンぐ HHL」でした。こういう厄介な事情は「ふた」と「ふたぐ」とにはないようです。
ふるふ【振・振・奮】(ふるふ HHL)
まがる【曲】(まンがる HHL)
まつる【祭・奉】(まとぅる HHL) 名詞「祭」は「まとぅり HHH」のようです。「賀茂の祭」は「かもおの まとぅり LFLHHH」で、「葵祭」という言い方の初出は近世初期だそうです(「葵」は「あふふぃ HHH」でした)。ちなみに鳥の「鴨」は「かも LL」。伝統的な現代京ことばでは「鴨」は「賀茂」と同じく「かもぉ」と言われたり、LLからの正規変化として「かも HL」と言われたりするようです。
まなぶ【学】(まなンぶ HHL) 平安時代には、幸いまだ連用形を名詞として使うことはなかったようです(あの名詞、大嫌い)。
まねぶ【学】(まねンぶ HHL) 現代語でも言う「真似」(まね HH)に由来する動詞です。「学」という漢字を掲げたのは「なまぶ」という意味で「まねぶ」ということもあるからで、この漢字には「真似をする」という意味はないようです。平安時代の京ことばでは「…するふりをする」という意味で「…するまね(を)す」という言い方をしました。
例の(例ニヨッテ)、内裏(うち)に日かず経たまふころ、さるべき方の忌み待ちいでたまひて(要スルニ方違(かたたがえ)エヲウマク利用シテ)、にはかに(左大臣ノ屋敷ニ)まかでたまふまねして、道のほどより(途中カラ空蝉ノイル紀伊ノ守ノ屋敷ニ)おはしましたり。源氏・帚木。
れいの、うてぃに ふぃかンじゅ ふぇええ たまふ ころ、しゃるンべきい かたの いみ まてぃい いンでえ たまふぃて、にふぁかに まかンで たまふ まね しいて、みてぃの ふぉンどより おふぁし ましたりい。LHL、HLH・HHHℓfLLHHL、LLLFHLLLL・LFLFLLHH、LHLHLHLLLH・HHFH、HHHHLHL・LHLLHLF。
まはす【回】(まふぁしゅ HHL) 「めぐらす」(めンぐらしゅ HHHL)が好まれるとは言え「まふぁしゅ HHL」とも言いました。
まはる【回】(まふぁる HHL) 「めぐる」(めンぐる HHL)が好まれるとは言え「まふぁる HHL」とも言いました。
みがく【磨】(みンがく HHL)
むせぶ【咽】(むしぇンぶ HHL) 下二段の「むす咽】」(むしゅ HL)と式を同じくします。
むかふ【向】(むかふ HHL)
むしる【毟】(むしる HHL)
むすぶ【結・掬】(むしゅンぶ HHL) 名高い「結ぶ」と申せば、時代は下りますが、『方丈記』の「よどみに浮かぶうたかたはかつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし」でしょう。古典的にはこれは、「よンどみに うかンぶ うたかたふぁ かとぅう(一方デハ) きいぇ かとぅう むしゅンびて(形ヅクラレテ) ふぃしゃしく とンどまりたる ためし なしい LLLHHHH・HHHHH・LFHL・LFHHLH・LLHLHHHLLH・LLLLF」と言われました。平安時代にも「結ぶ」にはこうした意味がありました。そう申せば「結露」の「結」なども「形づくられる」という意味です。
「結ぶ」はまた、両の手のひらを結び合わせることや――「おむすび」はこの意味で「結びて」作るからこういうのでした――、そうすることで水を掬(すく)うことを意味します(こちらは「掬(むす)ぶ」とも書きます)。
志賀の山越え(トイウ峠道)にて、山の井に女の、手あらひて水をむすびて飲むを見て、よみてやる
むすぶ手のしづくににごる山の井のあかでも君に別れぬるかな 貫之集
古今・離別404にも収められていますけれども、こちらでは「離別」の部にあって、その詞書も「女」を避け「人」とした、より穏やかなものです(撰者の一人である貫之の意向だったのでしょう)。拾遺・雑恋1228にも見えていて、こちらの詞書は私家集のそれと同内容ですが、ただ『古今』も『拾遺』も「あかでも人に」とします(直接性が減ります)。しンがの やまンごいぇにて やまの うぃいにい うぉムなの てえ あらふぃて みンどぅうぉ むしゅンびて のむうぉ みいて、よみて やる LHLLLLLHH・LLLLH・HHLL・LHHLH・HHHHHLHLHHRH・LHHHH / むしゅンぶ てえのお しンどぅくに にンごる やまの うぃいのお あかンでもお きみに わかれぬるかなあ HHHLL・LLLHLLH・LLLLL・LHLFHHH・LLHHHLF
ゆがむ【歪】(ゆンがむ HHL)
ゆする【揺】(ゆしゅる HHL) 現代語「ゆする」は他動詞であり、木や人をゆすったりするわけですけれども、平安時代にはこの動詞には、今と同じ他動詞としての用法のほか(と言っても「強請(ゆす)る」という意味はありません)、自動詞として、「世、ゆする」(よお、ゆしゅる H・HHL)なども言います。世の中がゆれるくらい人々が騒ぐという意味のようです。
ゆづる【譲】(ゆンどぅる HHL) 現代語では「ゆずり」という名詞は、「親ゆずり」のような複合語にはよくあられるものの、単独ではあまり使いませんけれど、平安仮名文には、「移譲」「譲渡」「譲位」といった意味の名詞「譲り」(ゆンどぅり HHHでしょう)がしばしばあらわれます。
わかす【沸】(わかしゅ HHL) 「沸く」は「わく HL」でした。
わたす【渡】(わたしゅ HHL) 名詞「渡し」(わたし HHH)は「渡すこと」のほかに「(船を対岸に)渡す場所」なども意味しました。「渡し守」は「わたりもり HHHHL」でした。
かささぎの渡せる橋に置く霜の白きを見れば夜ぞふけにける 新古今・冬620・家持。かしゃしゃンぎの わたしぇる ふぁしに おく しもの しろきいうぉ みれンば よおンじょお ふけにける LHLLL・HHLHHLH・HHLLL・LLFHLHL・LFLHHHL。ちなみに「かささぎ」と同じようにLHLLというアクセントで言われた四拍の和語はごく少なく、「いくばく」「しばらく」「そこばく」(「幾らか」というより「たくさん」「あれこれ」という意味)、「つはもの」(①武器。②兵士)、「なでしこ」、「ねむごろ」(「ねもころ」の変化したもの)、「はしたか」(鷂。現代語「はいたか」はこれの転じたもの)、「やうやく」(次第に)、その転じた「やうやう」くらいで主なものは全部です(いくンばく、しンばらく、しょこンばく、とぅふぁもの、なンでしこ、ねムごろ、ねもころ、ふぁしたか、やうやく、やうやう)。
わたる【渡】(わたる HHL) 名詞「渡り」(渡ること)は「わたり HHH」ですけれども、「辺(あた)り」(あたり HHL)と近い関係にある「辺(わた)り」はHHLだったかもしれません。
わらふ【笑】(わらふ HHL) 「童(わらは)、藁を笑ふ」は「わらふぁ わらうぉ わらふ LLH・LHH・HHL」。「笑(わら)ひ」という名詞は平安時代のものには登場しないようで、例えば広辞苑はその例文として太平記の例を挙げます。源氏・帚木の「さすがに忍びて笑ひなどするけはひ」(しゃしゅンがに しのンびて わらふぃ なンど しゅる けふぁふぃ LHHH・HHLH・HHLRLHH・LLL。「けはひ」は推定。低起式であることはほぼ確実です)を挙げる辞書もありますけれど、これはケアレス・ミスでしょう。「…したりする」を意味する「…しなどす」の「…し」のところに来るのは動詞の連用形であって、この「帚木」の一節から名詞「わらひ」を取り出すことはできません。「忍び歩(あり)」(しのンびありき HHHHHL)という名詞などはありましたから、「忍びわらひす」(しのンびわらふぃしゅう HHHHHLF) という言い方ならば当時としてもできたかもしれません。ちなみに上の「帚木」の引用は大島本の本文で、『源氏物語大成』によれば、「河内本」「別本」は「さすがに忍びて物うち言ひ笑ひなどするけはひ」であり、青表紙本の中にも「さすがに忍びて物いひゑ笑ひなどするけはひ」とするものや、この「ゑ」を見せ消(け)ちにしたものがあります。「ゑわらふ」には改名の一本が〈上上上(平)〉を差しますから、「うぇえ わらふ HHHL」と言われたと見られます。この「ゑわらふ」は「いを寝(ぬ)」(いいうぉお ぬう LHF)と同趣の言い方と見られます。
ついでに「笑はす」(わらふぁしゅ HHHL)のことを少々。現代語「笑う」には自動詞としての用法と他動詞としての用法とがあるので(「彼女は笑った」/「彼女は私を笑った」)、それに対応して「笑わせる」は二通りの用法を持ちます。例えば「彼は面白いことを言って彼女を笑わせる」という時は彼女が笑うわけで、この文には「彼女が笑う」が埋め込まれています。こうした言い方は昔もあって、例えば『今昔』(28-43)に「ものをかしく言ひて人笑はするさぶらひ」(もの
うぉかしく いふぃて ふぃと わらふぁしゅる しゃンぶらふぃ LL・LLHLHLH・HL・HHHHH・HHHH)という言い方が見えています。他方、例えば「人に歌を歌わせる」は「『人が歌を歌う』という状態を作り出す」という意味ですから、同じように「人に彼女を笑わせる」は「『人が彼女を笑う』という状態を作り出す」「彼女が人から笑われるようにする」「彼女が人の笑いものになるようにする」という意味になりますけれども――この場合、笑うのは「人」であり「彼女」ではありません――、この「人に彼女を笑わせる」というような言い方は現代語ではあまり見かけません。しかし平安時代の京ことばでは事情が異なっていて、実際次のような例があります。
まろを人に言ひ笑はせたまふなよ。栄花・初花(ふぁとぅふぁな HHLL)。まろうぉ ふぃとに いふぃ わらふぁしぇ たまふなよお LHH・HLH・HL・HHHL・LLHLF。「人、まろを言ひ笑ふ」(ふぃと まろうぉ いふぃ わらふ HL・LHH・HLHHL。人が私のことを話題にして笑う)ということにならないようお願いしますよ、と言っています。
人に笑はせたまふな 源氏・浮舟。ふぃとに わらふぁしぇ たまふな。HLH・HHHLLLHL。文脈は紹介しませんけれども、薫の浮舟宛の文(ふみ)の最後にある文句で、「まろを」「我を」といった言葉が省かれています。私が人に笑われる種を作りたもうな。命令文(禁止文を含む)の主語は二人称ですから、ここでは「あなたは人に私を笑わせる」という文が埋め込まれていて、現代語ではこういう内容は「あなたのせいで(アイロニカルには、〝おかげで〟)私は人から笑われる」といった言い方で示します
かの人々笑はせよ。落窪・巻二。かあの ふぃとンびと わらふぁしぇよお。FLHHLL・HHHLF。あの人々(ヒロインをいじめる継母たちの一行)がほかの人々に笑われるようにせよ。あの人々をみんなの笑いものにしたてよ。ヒーロー道頼が側近に言う台詞で、「人々に」といった言い方が省かれています。「かの人々」に面白いことを言えというのではありません。ちなみに「笑はす」の同義語として「笑はかす」(わらふぁかしゅ HHHHL)があって、『宇治拾遺』に見えています。現代口語に「笑(わら)かす」という言い方がありますけれども、これは「笑わかす」のつづまったものです。
をどる【踊】(うぉンどる HHL) ピョンと跳ねることを言います。つまり「舞ふ」(まふ HL)とは異なる動作を指します。
うつくしき(カワイラシイ)もの 瓜に描(か)きたる児(ちご)の顔。すずめの子の、(コチラガ)ねず鳴きするに(鼠ノ鳴キマネヲスルト)をどり来る。二つ三つばかりなる児の、いそぎて這ひくる道に(途中ニ)いとちひさき塵などのありけるをめざとに(目ザトク)見つけて、いとをかしげなる指(および)にとらへて大人などに見せたる、いとうつくし。枕・うつくしきもの(146)。
うとぅくしきい もの うりに かきたる てぃンごの かふぉ。しゅンじゅめの こおのお ねンじゅなき(ないし、ねンじゅなき) しゅるに うぉンどり くる。ふたとぅ みとぅンばかりなる てぃンごの、いしょンぎて ふぁふぃい くる みてぃに いと てぃふぃしゃきい てぃりの
ありけるうぉ めンじゃとに みいい とぅけて、いと うぉかしンげなる およンび
に とらふぇて おとな なあンどに みしぇたる、いと うとぅくしい。LLLLFLL LHH・LHLH・LLLHH。LHHHHH、LLHL(ないし、LLLL)HHH・HHLLH。HHLHLLHLHL・LLL、LLHH・LFLHHHH・HLLLLF・HHH・LHHLH・LHLH・ℓfLHH・HLLLLLHL・LLLH・LHHH、LHLRLH・LHLH、HLLLLF。「ねず鳴き」は「ねずみ鳴き」のつづまったもので、「ねずみ」は「ねンじゅみ LHH」、「鳴く」は「なく HL」、「ねずみ鳴き」は、「ねンじゅみなき LLLHL」あるいは「ねンじゅみなき LLLLL」でしょう。「こころがへ」(心を別のと取りかえること)に毘・訓540が〈平平平平平〉(こころンがふぇ LLLLL)を、顕天片540が〈○○○上平〉(こころンがふぇ)を差しています。この顕天片の〈○○○上平〉は「こころ LLH」のアクセントを保持した〈平平上上平〉ではなく毘・訓と同じ〈平平平上平〉を意味するでしょう。改名に「刷毛」を「あぶらひき」「あぶらびき」と訓み、〈平平平上平〉を差すところがあります。「あぶら」は「こころ」と同じくLLH(あンぶら)と言われました。他方、図名が「こころざし【志=心差】」に〈平平平平平〉(こころンじゃし LLLLL)を差しています。次に、「めざと」の二三拍目のアクセントも推定です。LLL、LLHなどかもしれません。「目」は「め
L」、「さとし」は「しゃとしい HHF」。改名や色葉字類抄が「実白の稲」に〈上上平平平上〉(みンじろの いね HHLLLH)を差していて、ここには「白し」(しろしい LLF)のアクセントは反映されていません。「あしたかの蜘蛛」〈平平平平平平上〉(改名。あしたかの くもう LLLLLLF)では、もとのアクセントのままですけれども、これは前(さき)に申した現代東京の「きつねそば」と同じく、そのままで複合名詞としてのアクセントとして奇妙でないものになるからです。
ちなみに、「すずめ」「ねずみ」は平安時代の京ことばと現代東京とでアクセントを同じくしますけれども、動物や植物を意味する次の三拍語はこれらと同趣です。
うさぎ【兎】(うしゃンぎ)、きつね【狐】(きとぅね)、かもめ【鷗】(かもめ)、つぐみ【鶫】(とぅンぐみ)、ひばり【雲雀】(ふぃンばり)、さそり【蠍】(しゃしょり)、しらみ【虱】(しらみ)、みみず【蚯蚓】(みみンじゅ)、かへる【蛙】(かふぇる)、むなぎ【鰻】(ムなンぎ)
あやめ【菖蒲】(あやめ)、かへで【楓】(<かへるで【蛙手】。かふぇンで)、くわゐ【慈姑】(くわうぃ)、ささげ【大角豆】(しゃしゃンげ)、さしぶ【南燭】(=シャシャンボ! しゃしンぶ)、すすき【芒】(しゅしゅき)、すみれ【菫】(しゅみれ)、すもも【李】(しゅもも)、なづな【薺】(なンどぅな)、ぬかご【零余子】(ぬかンご)、ひさこ【瓢】(>ひさご。ふぃしゃこ)、よもぎ【蓬】(よもンぎ)
ただし、「烏」は、また「尾花」は、平安時代の京ことばでは「からしゅ LHH」、「うぉンばな LHH」でしたけれども、現代東京ではいずれも『26』以来①で言われます。
をはる【終】(うぉふぁる HHL) 連体形「をはる」(うぉふぁる HHH)はちょっと「魚春(うおはる)」みたいです(深い意味はありません)。名詞「終はり」は「うぉふぁり HHH」、「尾張」は「うぉふぁり LLL」です。
[次へ] [「動詞の…」冒頭に戻る]