ⅷ 多数派の低起三拍四段動詞 [目次に戻る]

 例えば「思ふ」(おもう LLF)は多数派低起三拍動詞であり、東京においてそれが「おもう」ではなく「おう」LHLと言われるのはその名残だと申せます。ただ例えば「とふぉしゅう LLF」「とふぉう LLF」と言われた「通す」「通る」は、東京では、やはり低く終わるにしても、「とす」「とる」ではなく「おす」「おる」です。これは第二拍に特殊拍(長音)を持つために下がり目が初拍に来るのです。まずそうした動詞から見てしまいます。と申しても、もうほんの少ししかありません。

 まうす【申】(まうしゅう LLF) 古くは「まをす」(まうぉしゅう LLF)でしたけれども、平安時代にはすでに「まうす」だったようです。

 かへす【帰・返・反】(かふぇしゅう LLF) 名詞「かへし」は「かふぇし LLL」です。東京の「えす」の二拍目は二重母音の後半ということになるのでしょう。次も同じ。

 かへる【返・帰・孵】(かふぇう LLF)

 そこでこう申せます。以下のたくさんの、現代東京において終止形がLHLというアクセントで言われる四段動詞は、平安時代の京ことばでは低起式であり、終止形はLLFと発音される。

 あふぐ【扇】(あふンう LLF) 名詞「扇(あふぎ)」は「あふンぎ LLL」。「あおぐ」と「おおぎ」とは無関係に見えますけれども、「あふぐ」と「あふぎ」との関係は明らかです。東京では名詞「扇」は、近年は⓪が多いかもしれませんが(「オーギガ」)、『26』以来長らく③で言われてきました(「オーギガ」)。多数派低起三拍動詞の連用形から派生した名詞は③で言われることが最も多いようで、「あふぎ」(おおぎ)ももともとはそうでした。以下、派生名詞がこのタイプである場合、特に注しません。
 ちなみに、現代語では「扇(あふぎ)」(あふンぎ LLL)は畳(たた)めるもの、「団扇(うちは)」(うてぃふぁ LLL)は畳めないものとして区別されますけれども、畳める「扇」というものは平安前期にこの日本で発明されたものだそうで(のちに中国経由でヨーロッパに伝わります)、奈良時代などには「扇」は「団扇」を意味しました。「団扇」は元来「打ち羽」なのだそうで、確かに式は合います(「羽」は「葉」と同じく「ふぁあ F」)。なお「仰ぐ」は「あふンぐ HHL」でした。

 あます【余】(あましゅう LLF)

 あまる【余】(あまう LLF)  名詞「余り」は「あまり LLL」です。

 あゆむ【歩】(あゆう LLF)  名詞「歩み」はおそらく「あゆみ LLL」です。仏典に由来する「羊の歩み」(ふぃとぅンじの あゆみ HHHHLLL)という成句があります。屠所(としょ)に引かれて行く羊の歩みということで、死の近づいてくることの譬えです。現代東京では「歩み」は③であり(『43』も『58』も③)、⓪で「あゆみが」というと女性の名になってしまいますけれども、『26』ではなぜか⓪ですから(動詞「あゆむ」は②)、何らかのミスでなければ、人でも抽象名詞でも「あゆみをめてはなない」など言われたのです。

 あをむ【青】(あうぉう LLF) 「青(あを)し」は「あうぉい LLF」です。

 いそぐ【急】(いしょンう LLF) 「準備」を意味する「いそぎ」はおそらく「いしょンぎ LLL」でしょう。「いそがし」は「いしょンがい LLLF」。

 いだす【出】(いンだしゅう LLF) 自動詞「出(い)づ」(いンどぅう LF)に対する他動詞。

 いたむ【痛・傷・悼】(いたう LLF)

 いとふ【厭】(いとう LLF) 

 いどむ【挑】(いンどう LLF)  「張り合う」といった意味や、「言い寄る」といった意味もあります。名詞「いどみ」はおそらく「いンどみ LLL」でしょう。

 いのる【祈】(いのう LLF) 名詞「祈り」は「いのり LLL」。今の京都では「いのり HHH」と言われるようですけれども、近世の資料には「いのり HHL」と「のり HLL」とがあって、前者は「いのり LLL」からの正規変化、後者はその正規変化した言い方からの下がり目の前へのずれ、現代京都の言い方は近世に成立した「いのる」からの派生と解せます。

 憂かりける人を初瀬の山おろしよはげしかれとは祈らぬものを 千載・恋二708・俊頼。うりけふぃうぉ ふぁとぅしぇの やまおお ふぁンげえとふぁ いのら ものうぉ RLHHL・HLHHHHH・LLLHLF・LLHLFLH・LLLHLLH。「祈れども逢はざる恋」(いのンどお あふぁンじゃ こふぃ LLHLF・LHLHLL。いくら祈っても成就しない恋)という題で詠まれた歌。こんなに冷たいとは思わなかったあの人のことについて私が祈ったのは、初瀬の山おろしよ、こんなにきびしくあってほしいということではありませんでした。奈良県は初瀬にある長谷寺の観音さまと初瀬に吹くという激しい山おろしの風とが重ね合わされています。「憂かりける」の「ける」は文末に位置しないせいで現代語に直訳しにくい種類のもの。無論、あの人はつくづく冷たい人だなあと思うその気持ちを言っています。次に、格助詞「を」には、「…について」「…に関して」「…において」といった意味があります。例えば源氏・桐壺に「この(更衣ノ)御ことにふれたることをば(帝ハ)道理をも失はせたまひ」(こおのお おふぉ ムことに ことうぉンば だうりうぉうしなふぁしぇ たまふぃい HHLLHHHH・LHLH・LLHH・LLLHL・HHHHLLLF)とあり、同・帚木に「宮ばらの中将は、中に(特ニ)親しくなれきこえたまひて、あそび、たはぶれをも人よりは(他ノ人ヨリモ)心やすくなれなれしくふるまひたり」(みやンばら 〔後半二拍推定〕 てぃうンじやうふぁ、なかに したく なきこいぇ たまふぃてあしょンび たふぁンぶれうぉ ふぃふぁ ここしゅう なれなれふるまふぃたい。HHHHH・LLHHHH、LHH・LLHL・LFHHLLLHH、HHHHHHHHL・HLHLH・LLHLHL・LLLLHL・HHHLLF)とあるのから知られます。いずれの「…を」も、動詞が「を」格を要求するのに応じて置かれているのではないところがポイントです。最後に、平安時代の京ことばでは、今ならば「…したことがない」など言うところを、たんに「…ず」と言いました。例えば『竹取』で暴風や雷に見舞われた大伴御行(おふぉともの みゆき LLHHHHHH)が「まだかかるわびしき目見ず」(まンる わンびしきい めえ みンじゅ LF・HLH・HHHFLRL)と言いますし、源氏・須磨でも、やはり暴風雨に遭遇した源氏の家来たちが「かかる目は見ずもあるかな」(めえふぁあンじゅお ああ HLHLH・RLFLHLF)と言っています。ちなみにこの意味で「…せし事なし」などは言いませんでした。「…せし事なし」は、以前何々したという事実は今は存在しない、といった意味の oxymoronic な言い方で、こういう奇妙な言い方が自然であるような文脈は普通はないでしょう。

 いはふ【祝・斎】(いふぁう LLF) 名詞「いはひ」はおそらく「いふぁふぃ LLL」でょう。名詞「祝ひ」は『89』が②⓪③としますが、『26』も『43』も『58』も②とします。③でないのは、第三拍が特殊拍なので下がり目が一つ前に来たのです。

 いやす【癒】(いやしゅう LLF) 自動詞「癒(い)ゆ」(いう LF)に対する他動詞。

 うがつ【穿】(うンがとぅう LLF)

 うごく【動】(うンごう LLF)

 うつす【移】(うとぅしゅう LLF) 名詞「うつし」は「うとぅし LLL」。

 うつる【移・映】(うとぅう LLF)  名詞「うつり」はおそらく「うとぅり LLL」でしょう。引っ越しのことを「家(いへ)うつり」と言いましたけれども、これは「いふぇうとぅり LLLHL」と言われたと考えられます(「家」は単体でも「いふぇ LL」)。

 うばふ・むばふ【奪】(うんばう・ムばふう LLF) 最近の東京は「うばう」も聞かれるようですけれど(実際大辞林も〔2006〕②⓪とします)、(大辞林がそうするとおりまだ)主流は②かもしれません。

 おこす【起】(おこしゅう LLF) 「起こす」は二つの自動詞「起く」(おう LF。起きる)と「起こる」(おこう LLF)とに対する他動詞です。例えば「道心を起こす」(だうし〔daushimうぉ おこしゅう LLLHH・LLF)など言います。なお下二段の「遣(お)こす」(おこしゅ HHL)という動詞があって、「来させる」「送ってくる」を意味します。現代語の「よこす」に似たところもあるものの、東京の「よす LHL」(『26』もこれ)からは昔の都でのアクセントをたどれませんし、こちらは五段動詞です。「送る」が「おくる HHL」であることと結びつけても実害はありません。

 おこる【起】(おこう LLF) 「盛んになる」「大挙する」「ぶりかえす」など、さまざまな意味で使われましたけれども、ただ「怒(いか)る」(いかる HHL)、「腹立つ」(ふぁらンとぅ LLHL)は意味しません。名詞「おこり」は低平連続調と見ておきます。

 もろこしにもかかることのおこりにこそ世もみだれあしかりけれと、やうやうあめの下にもあぢきなう人のもてなやみぐさになりて 源氏・桐壺 もろこし ことの おこりにこしょ よおもお みンだえ ありけれと ややう あえの も あンでぃきなふぃとの もてなやみンしゃりて LLLLHL・HLHLLLLLLHHL・HHLLF・LHLHHLL・LHLL・LFLHLHL・LLLRL・HLL・LLLLLHLH・LHH。 

 おとす【落】(おとしゅう LLF) 自動詞「落つ」(おとぅう LF)に対する他動詞です。「言い忘れる」といった意味の現代語「言い落す」は古今異義であって、平安時代の京ことばでは「言ひ落とす」(ふぃ おとしゅう HLLLF)は「けなす」といった意味で使われました。

 おとる【劣】(おとう LLF) これも「落つ」(おとぅう LF)に由来する言葉のようです。名詞「劣り」はおそらく「おとり LLL」でしょう。いつぞやも申したとおり、これと反対語「まさり」(まさり HHH)とをこの順で並べた「おとりまさり」(おとりましゃり LLLHHH)という言い方があります。「優劣」を意味し、「おとりまさりあり」「おとりまさりなし」など言います。「優劣」とは並び方が逆で、「まさりおとり」とは言わないようです。

 おもふ【思】(おもう LLF) 名詞「思ひ」は「おもふぃ LLL」。この名詞には「喪(も)に服すること」「喪に服する期間」といった意味もあります。名詞「思い」が現代東京において②で言われるのは(『26』がすでにそうです)、「祝い」におけると同じく末拍が特殊拍だからです。

 およく【泳】(およう LLF) 図名によれば末拍は清みます。改名では末拍は濁っていますから、変化は十二世紀に起こった可能性が高いでしょう。

 おろす【下】(おろしゅう LLF)  名詞「おろし」は「おろし LLL」。この名詞には「おさがり」といった意味もあり、神仏への供物を人間が「おろし」としていただいたり、貴人の飲食物や衣服を家来が「おろし」としていただいたりしました。

 かかる【懸・掛・罹】(かかう LLF)  他動詞「懸く」(かう LF)に対する自動詞です。

 かぎる【限】(かンぎう LLF) 名詞「限り」は「かンぎり LLL」です。例えば「ある限り」(あ かンぎり LHLLL)で「そこにいる人全員」といった意味になりなどします。

 かなふ【叶】(かなう LLF)

 かわく【乾】(かわう LLF) 「かはく」(かふぁく)ではありません。大和の国から都に瓜を運ぶ人らが宇治(うンでぃい LF)の北にある「成らぬ柿の木」(ならぬ かきの きい LLHHHHL)と呼ばれる木のもとで休んでいると、「年いみじう老いたる翁」(とし いみンう おきな LL・LLHL・LHLH・LHH)があらわれて、「その瓜、一つ我に食はせたまへ。のど乾きて術(ずち)なし(ドウシヨウモアリマセン)」(しぉおのお 、ふぃとぅ われに くふぁしぇえ たまふぇえ。のムど かわきて じゅてぃない HHLH、LHL・LHH・LLFLLF。LH・LLHH・LLLF)と言うが、人びとは与えない。すると…という説話が『今昔』に見えています(「外術(げじゅつ)を以て瓜を盗み食はれたる語(こと)」〔28-40〕)。

 我が袖は潮干(しほひ)に見えぬ沖の石の人こそ知らねかわくまもなし 千載・恋二760。わあンがあ しょンでふぁ しふぉふぃ みいぇ おきの しの ふぃしょ しらねえ かわく まあもお ない LHHHH・LLLHLLH・LLLHLL・HLHLHHF・LLHHLLF

 きしむ【軋】(きしう LLF) 擬音「きしきし」に由来する動詞ですが、この擬音のアクセントが「き LHLH」なのか「きしきし LLLL」なのかは分かりません。「きしむ」は低起式なので、どちらかではあるのでしょう。しばらく前者とすれば、『枕』の「にくきもの」(にくい もの LLFLL。頭にくるもの)の段(25)の一節「墨の中に石のこもりて(入ッテイテ)きしきしときしみたる」は、「しゅみの なかに いしの こもりてと きしLLLLHH・HLLLLHH・LHLHLLLHLH」といったアクセントで言われたと考えられます。

 きほふ【競】(きふぉう LLF) 「きおう」という現代語はありませんが、「競(きそ)う」はあって②で言われます。平安時代にも「競(きそ)ふ」はあって「きしょう LLF」と言われましたが、同じ意味で聞き耳も近い「競(きほ)ふ」(きふぉう LLF)が好んで使われたようです。

 くくむ【含】(くくう LLF) 「くくむ」はほとんど現代語とは言えないでしょうけれども、「含む」や「くるむ」に近い言葉のようなので、ここに置いておきます。のちにも見ますが「はぐくむ」は「くくむ」を含んでいます。

 くぐる【潜】(くンぐう LLF) 上代には「くくる」だったそうすけれども、図名はすでに「くぐる」とします。「括(くく)る」は「くくる」(くくる HHL)です。

 くさる【腐】(くしゃう LLF) 「臭(くさ)し」(くしゃい LLF)や、尾籠ながら「糞(くそ)」(くしょ LL)と同根だそうです。これらの「く」などを、東京人は無声化させやすいのでした。

 くじる【抉】(くンじう LLF) 

 くだく【砕】(くンだう LLF) 

 風をいたみ岩うつ波のおのれのみ砕けてものを思ふ頃かな 詞花・恋上210。かンじぇうぉふぁ うとぅ なみの おのれい くンだけて ものうぉ おもふ ころかあ HHHLHL・HLLHLLL・HHHLF・LLHHLLH・LLHHLLF。第二句までは「おのれのみ砕けて」と言おうとして置かれています。

 くづす【崩】(くンどぅしゅう LLF) 下二段の「くづる」(くンどぅう LLF)と対をなします。

 くばる【配】(くンばう LLF) 「目をくばる」という、「耳を貸す」や「手を貸す」と同じく、考えようによってはグロテスクな言い方が現代語にありますけれども、「目をくばる」は昔も言った言い方で、例えば『落窪』巻三や『枕草子』の「病は」(183。やふぃふぁ LHLH)の段などにも見えています。それは古今異義であって、平安時代の京ことばでは「目をくばる」(めえうぉ くンばう LHLLF)は「一人一人、ないし一つ一つに目を止める」といった意味の言い方でした。すなわち『落窪』の用例では「色なる」(いろる)男が居並ぶ女性たちに「目を配る」のであり、『枕』の用例でも、男のお坊さんが、女性たちに「目を配りつつ[オ経ヲ]読みゐたるこそ、罪や得(う)らむとおぼゆれ」(伝能因本。めえうぉお くンばりとぅとぅ うぃいたるこしょ、とぅみやあ うと おンぼゆえ LHLLHHH・LFFLHHL・LHFRLHL・LLLF)というのです。

 くもる【曇】(くもう LLF) 「雲」は「くも LL」です。

 くゆる【燻】(くゆう LLF) 青空文庫全文検索によっても、現代語の辞典がこの動詞を立項しないのは問題であるように思いますけれども、それはともかく、現代語の辞典も「くゆらす」は立項します。「葉巻をくゆらて」と「葉巻をくゆらて」とでは後者がちゃんとした言い方だと思う向きもあるでしょうけれども、国語辞典は五段の「くゆらす」(③)を主とし、下一段の「くゆらせる」(④)は従とします。とまれそれらのアクセントからは「くゆる」が平安時代の京ことばで低起式だったことをしのべます。ちなみに往時の都でも「くゆらす」(くゆしゅ LLHL)は、四段、下二段、いずれにも活用したようです。ただし用例はごく少ししかないようですし、『源氏』にはこれらと同義の「くゆらかす」(くゆらしゅ LLLHL)が、「初音」(ふぁとぅね HHH)の巻にあらわれます。「くゆらす」と「くゆらかす」とが同義なのは、現代語「笑わせる」と「笑わかす」とが同義なのと一般です。

 くるふ【狂】(くるう LLF) 

 くろむ【黒】(くろう LLF) 「黒し」は「くろい LLF」。

 こがす【焦】(こンがしゅう LLF) 平安時代の京ことばにこういう動詞があり、現代語に「焦げる」があるのですから、昔から下二段の自動詞「焦ぐ」はあったのかもしれませんが、文献に見えはじめるのは14世紀のようです。下二段動詞「焦がる」(こンがう LLF)は『源氏』などに見えていて、これは今の「焦がれる」とは異なり「焦げる」も意味できたようですから――今は「恋い焦がれる」とは言っても「ハンバーグが焦がれる」とは言いません――、下二段の「焦ぐ」は下二段の「焦がる」におされてあまり使われなかったのでしょう。

 このむ【好】(このう LLF) 名詞「好(この)み」はおそらく「このみ LLL」でしょう。『26』『43』『58』は名詞「好み」を③としますけれども、『89』は①③。最近は①が多いでしょうから、流れは明らかです。

 こぼす【零・溢】(こンぼしゅう LLF) 下二段の「こぼる」(こンぼう LLF)と対をなします。

 こほつ【毀】(こふぉとぅう LLF) 「こわす」のもともとの形だから低起式、と思っていいのでしょう。室町時代ごろ「こぼつ」に変わり、そしてその頃「こはす」も使われるようになったようです。下二段の「こほる」(こふぉう LLF)と対をなします。

 こもる【籠】(こもう LLF)

 さがる【下】(しゃンがう LLF) 「あがる」(あンがる HHL)とは式が異なります。

 さくる【噦】(しゃくう LLF) 下二段の「垂る」(たう LF)のところで名詞「噦(さくり)」に申し及び、「しゃっくり LLLL」と言われた可能性を考えました。『26』はこの名詞「さくり」および「しゃっくり」を①とします。上の「好み」は伝統的な東京アクセントでは③で、近年①が多くなったのでしたけれども、これは明治時代にすでに①です(江戸時代には③だったのかもしれません)。以下にもこのタイプのものがあらわれます。

 さます【覚】(しゃましゅう LLF) 「覚む」は「しゃう LF」でした。

 さやぐ(しゃやンう LLF) 「そよぐ」(しょよンう LLF。そよそよと音をたてる)の母音交替形です。

 笹の葉は深山もさやにさやげども我は妹(いも)思ふ別れ来ぬれば 万葉133・柿本人麻呂(かきのもとの ふぃとまろ HHHLLL・HHHH)。国司を務めていた岩見の国(島根県西部)から妻を残して京にもどる時の作で、以下は平安中期の発音です。しゃしゃの ふぁふぁ みやまも しゃ しゃやンンどお われふぁ おもう わかえ きいぬれンば HHHFH・HHHLLFH・LLHLF・LHHLHLLF・LLFRHLL。「かきのもと」には毘135が〈平平平平平〉を差しますけれども、「柿」は「かき HH」ですから、解せません。二条家嫡流相伝という室町時代のさる古今集声点本が〈上上上上上平〉を差しますが、低平連続調からの正規変化に過ぎないと見て、語源的なアクセントをとっておきます。「ひとまろ」は顕府(31)に注記があります。『古今』の1097番目の歌の「さやにも」に寂・訓が〈平上平平〉を差すので(袖中抄は〈平上上平〉)、その第二拍は下降調と見るのが穏当です(詳細後述)。人麻呂の歌における「さやに」は掛詞ではないでしょうか。「深山もさやに」は「深山もくっきりと(見え)」ということであり、「さやにさやぐ」は「さやぐ」を強調した言い方です。

 さわぐ【騒】(しゃわンう LLF) 名詞「騒ぎ」は「さわぎ LLL」。この名詞もすでに『26』が①とします。

 しげる【茂】(しンげう LLF)

 八重葎しげれる宿の(我ガ家ノ)さびしきに人こそ見えね秋は来にけり 拾遺・秋140。やふぇむンぐら しンげる やンの しゃンびしに ふぃしょ みいぇえ あふぁ いにけり HHHHL・LLHLLHL・LLLFH・HLHLLLF・LFHRHHL

 しだる【垂】(しンだう LLF) 現代語には「しだれる」という下一段動詞がありますけれども、平安時代の京ことばにあったのは四段の「しだる」(しンだう LLF)です。「しだれやなぎ」も旧都では「しだりやなぎ」で、これは「しンだりやンぎ LLLLHL」と言われました。すると「しだりざくら」――俊頼らの歌に見えています――も「しンだりンじゃら LLLLHL」と言われたでしょう。「柳」(やなンぎ HHH)と「桜」(しゃくら HHH)とはアクセントを同じくするのでした。

 あしひきの山鳥の緒のしだり尾のながながし夜をひとりかも寝む 拾遺・恋三778・人麻呂 あしふぃきの やまンりの うぉおのお しンだりうぉの なンがなンが よおうぉお ふぃねえムう HHHHH・LLHLLLL・LLLLL・LLLLHLH・LHLHLHH。「あしひきの」については『研究』研究篇上(pp.187-189)に論があります。平安時代には「あしひきの」は「足引きの」(「足」は「あし LL」)ではなく「葦引きの」(「葦」は「あし HH)と観念せられていたようで、ここでは図紀69が〈上上上上上〉を差すのに拠っておきます。「しだり尾」のアクセントは、例えば「作り田」が「とぅくりンだ LLLL」であるのに倣った推定です(「作る」〔とぅくう LLF〕は「しだる」と同じ多数派低起三拍、「田」も「尾」と同じく低平調)。「ながながし」は語幹とみられ、すると末拍は拍内下降しません。

 あすも来むしだり桜の枝ほそみ柳の糸にむすぼほれけり 散木奇歌集 あしゅお こおう しンだりやンぎの いぇンだ ふぉしょやなンぎの とに むしゅンぼふぉり LLFLF・LLLLHLL・HHLHL・HHHHLHH・HHHHLHL

 しなふ【撓】(しなう LLF) 「しなう」は現代語とは言えないかもしれませんが、「竹刀(しない)」は立派な現代語でしょう。「撓(しな)う」はシナルことであり、「撓い竹」というもので作るから「しない」なのだそうです。この「竹刀」は現代東京では①、『89』も①としますけれど、『58』は①②、『43』は②、『26』も②ですから、明治以来②だったものが、戦後①に座を譲っていったようです。この「しなる」は、「しなう」の転じたものらしく(『89』は「東北方言」とします)、例えば岩波国語辞典第五版(1994)はまだ「しなる」を立項していません。竹は元来「しなう」ものだったのでしょう。
 平安時代には「竹刀」はなかったようですが、藤の花(ふんでぃの ふぁな HHHLL)が長く垂れるさまを「しなひながし」(しなふぃ なンがい LLLLLF)と言ったりしました。『枕』の「木の花は」(きいのお ふぁなふぁ LLLLH)の段に、「藤の花、しなひ長く色よく咲きたる、いとめでたし」(ふンでぃの ふぁな、しなふぃ なンく いろ よしゃきたと めンでたい HHHLL、LLLLHL・LLRL・HLLH、HLLLLF)とあります。それから、「しなやか」という言葉は今も昔もありますけれど(旧都では「しなか LLHL」)、この言葉は「しなふ」と同根だそうです。なるほど。

 しのぐ【凌】(しのンう LLF)

 しばる【縛】(しンばう LLF) 「後手(しりへで)に縛(しば)らる」(しりふぇンで しンばらぅ LLLLH・LLLF)という言い方が図名に見えています。どうも穏やかでありません。

 しぶる【渋】(しンぶう LLF) 例えば『大鏡』(おそらく「おふぉかンみ LLLHL」でしょう)の道長伝に「入道殿(にふだうどの)の世をしらせたまはむことを、帝(みかど)いみじくしぶらせたまひけり」(にふンだうンのの〔「どの」のアクセントはあてずっぽうです〕よおうぉお しらしぇ たまふぁ ことうぉみかンど いみンく しンぶらしぇえ たまふぃけり LLLLHLL・HH・HHLLLLHLLH・HHH・LLHL・LLLFLLHHL)とあります。 

 しぼる【絞】(しンぼう LLF)

 ちぎりきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山波越さじとは 後拾遺・恋四770。てぃンぎな かたみに しょンでうぉ しンぼりとぅとぅ しゅうぇの まとぅま なみ こしゃンじいとふぁ HHLHL・LLHHHHH・LLHHH・HHHLLHL・LLHHFLH。いつぞや引いた「君をおきてあだし心を」の歌を踏まえて、お互い相手を裏切らないと約束しましたよねえ、と語気鋭く迫るおもむきです。「かたみに」の三拍目は推定。「お互いに」を意味するこのイディオムは「片身に」に由来するようで、すると、「片枝(かたえ)」に寂・訓1099が〈平上上〉を差し、「片辺(かたへ)」に梅・問答・毘・訓168が〈平上上〉を、京秘168が〈平上平〉を差すので(二拍目が高いところがポイント)、「かたみに」は「かたみに LHHH」か「か LHLH」です。「身」は「みい H」、「枝(え)」は「いぇえ H」か「いぇえ F」、「辺(へ)」は「ふぇえ H」か「ふぇえ F」。「片枝」「片辺」がLHH、LHF、いずれなのかは分かりません。三拍目が低いかもしれないのは、例えば「舟」は「ふ LH」、「子」は「こお H」、「舟子(ふなこ)」は「ふこ LHL」、というような例もあるからです。

 しらむ【白】(しらう LLF) 「白し」は「しろい LLF」です。

 すぐす【過】(しゅンぐしゅう LLF) 「すごす」(しゅンごしゅう LLF)とも。「過ぐ」は「しゅンう LF」でした。

 難波潟みじかき葦(あし)のふしのまも逢はでこの世をすぐしてよとや 新古今・恋一1049・伊勢。なにふぁンがた みンじかあしの ふしの まあもお あふぁンで こおのお よおうぉお しゅンぐしてよとあ LHHHL・LLLFHHH・LLLHL・LHLHHHH・LLHHLLF。繰り返しになりますが「葦」は「あし HH」です。近世京都でもそうであるようで(総合資料)、現代京都の「あ 」や『26』以来の東京の「し HL」からは旧都のアクセントを偲べません。

 すぐる【選】(しゅンぐう LLF) 現代語で「よりすぐる」「えりすぐる」というその「すぐる」です。

 すずむ【涼】(しゅンじゅう LLF)

 すだく【集】(しゅンだう LLF)

 すべる【滑】(しゅンべう LLF)

 すます【澄・清】(しゅましゅう LLF) 「澄む(清む)」(しゅう LF)と同式です。四段動詞であり、例えば「邪念を払う」といった意味の「心(ヲ)澄ます」(ここしゅましゅう LLHLLF)という言い方で申せば、「心澄ませて」ではなく「心澄まして」(ここしゅまして LLHLLHH)というのでなくてはなりません。
 心を澄ませば心が澄みます。源氏・幻(まンぼろ LLLH。後半二拍推定)で、紫の上に先だたれたことですべてを失った心地のしている光る源氏は、子息・夕霧を相手に、

 ひとり住みは殊に変はることなけれど(以前ト特ニ変ワラナイケレド)、あやしうさうざうしくこそありけれ(妙ニサビシイモノダネ)。(出家シテ)深き山住みせむにも、かくて身をならはしたらむは、こよなう心澄みぬべきわざなりけり。
 ふぃとりンじゅみふぁ、こに かふぁる こと なれンど、あやしゃうンじゃうししょ ありけれ。ふかい やまンじゅみ しぇえムにも、て みいうぉお ならふぁしたらムふぁ、こよう ここ しゅみぬンべきンじゃり。LLLLLH・LFH・HHHLLLHLL・LLHL・HHHHHLHL・LHHL・LLF・LLLLHHHL・HLH・HH・LLHLLLHH・LLHL・LLH・LHHHF・HLLHHL。

と言うのですけれども、そう言いながらも父親がぼんやりと空ばかり眺めるのを見て、息子は、

 かくのみおぼしまぎれずは(オ気持ガマギレナイヨウダッタラ)、(出家者トシテノ)御おこなひにも心澄ましたまはむことかたくや(ムツカシイノデハナイカ)。
 み おンぼい まンぎンじゅふぁ、おふぉムおこなふぃにも ここ しゅまい たまふぁ こと かたあ。HLHL・LLFLLHLH・LLHHHHHHL・LLH・LLFLLLHLL・HHLF。

と思っています。ここ、しゅう。ここ、しゅましゅう。魅力的な言い方です。

 すまふ【住】(しゅまう LLF) 「住む」も低起式の「しゅう LF」でした。平安仮名文では「住まふ」は現代語の「暮らす」「生活する」に近いことが多く、名詞「住まひ」(しゅまふぃ LLL)も現代語の「住まい」(「住居」「家」)よりも「暮らし」「生活」に近いようです。現代東京ではというと、この名詞「住まい」を『26』は②①、『43』は②、『58』は②①、『89』は①とします。「竹刀」におけると同じく、②が退潮し①の天下になったようです。ちなみに「相撲」は元来「すまひ」(しゅまふぃ HHH)です。「争」や「拒」を当てる四段動詞「すまふ」(しゅまふ HHL)の連用形を起源とする名詞です。「すもう」が⓪なのは、動詞「すまふ」の高起性の名残にほかなりません。

 せまる【迫】(しぇまう LLF)

 そそく【噪】(しょしょう LLF) 「せかせかと動く」といった意味の動詞で、近世に成立したらしい「そそくさ」と関連のある言葉のようです。これからの派生語に「そそかし」という形容詞があります。現代語の「そそっかしい」とは同一視できないようで、例えば源氏・横笛(よこンぶいぇ HHLL)に、

 うち笑ひて、何とも思ひたらず、いとそそかしう這ひ下(お)り騒ぎたまふ。
 うてぃわらふぃお おもふぃンじゅ と しょしょかう ふぁふぃい おい しゃわンい たまう。LFHHLH・LHLF・LLHLHL・HLLLLHL・LFLFLLFLLF。

とあるのは、満一歳と一か月ほどの薫のことを言っています。この歳の子供がそそっかしいということはないわけで、「そそかしう」は「ちょこちょこと」といったほどの意味と見られます。ちなみに「思ひたらず」は「思っている様子がなく」といった意味なのでした。

 そよぐ【戦】(しょよンう LLF)

 きのふこそ早苗とりしかいつのまに稲葉そよぎて秋風の吹く 古今・秋上172。きのしょ しゃなふぇ とりか いとぅ まあにい ンば しょよンぎて あきかンじぇの ふ HHLHL・HHHLLHL・LHLHH・LHLLLHH・LLLHLLH。「いつの」を「いとぅの LHH」としないことについては後述。「吹く」は主格の「の」付きの語句の修飾先なので連体形です。「稲葉」には伏片307が〈平上平〉を差し、同・172が〈平上上〉を差します。

 風そよぐ楢の小川のゆふぐれは禊ぞ夏のしるしなりける 新勅撰・夏192・家隆。かンじぇ しょよン ならの うぉンがふぁの ゆふンぐれふぁ みしょンぎンじょとぅの しるしりける HHLLH・LLLHHHH・HHHHH・HHLFHLL・HHHLHHL 。「小川」への注記を知りませんが、接辞「小(を)」にはじまる三拍語であり、現代京都でもHHH、現代東京でも⓪ですから、すべて高いと見てよいと思います。

 そろふ【揃】(しょろう LLF)

 たがふ【違】(たンがう LLF) 「寸分たがわぬ何々」のような言い方は今でもするので、ここに置きます。「ちがふ」は「てぃンがふ HHL」で、式が異なります。

 たぐふ【類】(たンぐう LLF) 現代語には「たぐわない」「たぐいます」など使う動詞はありませんけれども、名詞「類(たぐい)」があります。この名詞のアクセントは、『26』『43』が①とし、『58』は①②③、『89』は⓪③②とします。⓪以外は古い京ことばで動詞「たぐふ」が低起式だった名残と申せます。ちなみに古語としての名詞「類(たぐひ)」(たンぐふぃ LLL)には「仲間」という意味があります。例えば源氏・若紫で光る源氏が「『たぐひになさせたまへ』といと聞こえまほしきを」(たンぐふぃなしゃしぇえ たまふぇえと きこいぇまふぉしきうぉ LLLH・LLFLLFL・HL・HHHHHHFH。お仲間にならせてくださいと是非申し上げたいので)と言っています。これに対応して、「仲間としてよりそう」「仲間になる」「お似合いである」「つりあいがとれる」といった意味が動詞「たぐふ」にはありますけれど、加えてこの動詞は「何々にたぐふ」というように使われることもあって、例えば源氏・夕顔で、お仕えしてきたご主人さまに先だたれた女房は、「(火葬ノ)煙にたぐひて(御主人様ノモトニ)慕ひ参りなむ」(けンぶりに たンぐふぃて したふぃ まうぃりなムう HHHH・LLHH・HHL・LHHHF)と言いますけれども、これは煙と一緒になって後(あと)を追いたいというのです。なお、現代語では「たぐえる」と言いませんが、古くは下二段の「たぐふ」(たンぐう LLF)もあって、「仲間としてよりそわせる」「仲間にする」といった意味で使われました。

 たくむ【巧】(たくう LLF) この動詞は平安仮名文にはあまりあらわれませんが、名詞「匠(たくみ)」は『源氏』の「雨夜の品さだめ」(おそらく、あよの しなしゃンだめ LHLL・HHHHL。「品」は「くしな HH」、「さだむ」は多数派低起)などにも出てきます。東京の「たむ」というアクセントは旧都の「たくむ」(たくう LLH)の名残であり、名詞「匠」も「たくみ LLL」でした。昔の京ことばでは、大工さんに限らず、手先の巧みさ・器用さを生かして物を作る人はみな「匠」で、例えば「金工(かなだくみ)」(かなンだくみ HHHHL)は金(きん)や鉄などの細工をする人です。「絵だくみ・画工」(おそらく「うぇンだみ LLHL」でしょう)という言葉もありました。名詞「たくみ」は現代東京では⓪で言われますけれども、『26』『43』は何と①です。くみ。『58』は①⓪、『89』は⓪で、戦後平板化したことが分かりますとします。現代京都は「たくみ」。

 たたく【叩】(たたう LLF)

 ただす【正】(たンだしゅう LLF)  「正(ただ)し」は「たンだい LLF」です。

 たたる【祟】(たたう LLF) この動詞は「立つ」――「立ちあらわれる」といった意味の「立つ」――に由来する言葉で、「立つ」はLFですから低起式なのは当然だと申せます。名詞「祟り」はおそらく「たたり LLL」でしょう。祟りなどいうものはないでしょうが、ただお酒は祟ります。東京では動詞「たたる」は、『26』『43』『58』が②としますが、『89』は③②、『大辞林』(2006)は⓪②なので、近年変化のきざしがあるということかもしれません。名詞「祟り」は『26』の昔から①で言われてきているようです。

 たどる【辿】(たンどう LLF) 平安時代の京ことばではこの動詞は多義で、今と同じような意味でも使いましたけれど、ここでこうするとこうなる、するとああなる、すると…、というように考えを進めることも、また、五里霧中の状態であることも、「たどる」と言いました。この名詞形「たどり」(おそらく「たンどり LLL」でしょう)にも、「思慮」といった、現代語にはない意味があって、「たどりふかし」(たンどり ふかい LLLLLF)、「たどり うすし」(たンどり うしゅしい LLLHHF)など言いました。 

 たのむ【頼】(たのう LLF) 古今異義語として名高いものの一つで、「頼る」「信用する」「期待する」といった意味で使うこと、周知のとおりです。名詞「頼み」は「たのみ LLL」で、「頼りになるものやこと」といった意味。「たのめない」「たのめて」など使う現代語「たのめる」は「頼むことができる」を意味しますけれども、平安時代の京ことばでは「たのめず」(たのンじゅ LLHL)、「たのめて」(たのめて LLHH)など使う下二段の「たのむ」は、申さば〝たのませる〟ことで、多くは交際相手の女性に対して男性が「裏切らないと約束する」「必ず訪問すると約束する」といった意味で使います。下二段の「たのむ」を四段のそれの「他動詞形」とする向きもありますけれど、「うとむ」について申したのと同じく、それでは四段の「たのむ」が自動詞であるかのようです。なお「たのもし」は「たのもい LLLF」。

 たふす【倒】(たふしゅう LLF)  『日葡辞書』(1603)にはtauosu(=tawosu)とあるそうですから、ハ行転呼が完了したあと、さらに「う」が「うぉ」になったようです。

 たまふ【給】(たまう LLF) 下二段の「たまふ」も多数派低起動詞です。例えば「さなむ思ひたまふる」(しゃあム おもふぃい たまふ LHL・LLFLLLH)は、学校文法がどう言おうと、「さなむ思ひはべる」(しゃあム おもふぃい ふぁ LHL・LLFRLH)と同義の、「そう存じます」というような改まりかしこまった言い方であり、「さなむ思ひたまへはべる」(しゃあム おもふぃい たまふぇえ ふぁ LHL・LLFLLFRLH)はその改まりかしこまる度合いのさらに高い言い方です。詳細は「『源氏物語』の現代語訳について――敬語の観点から――」を御覧ください。

 たゆむ【弛】(たゆう LLF)

 たをる【手折】(たうぉう LLF) 「手」は「てえ L」なのでここに置きますけれども、じつは毘・訓54がこの動詞を高起式とします。「綱(つな)」は「とぅな LL」であるにもかかわらず「繋(つな)ぐ」は高起式の「とぅなンぐ HHL」だったのと同趣なのかもしれませんけれど、「つなぐ」は図名が〈上上平〉とするのに対して、「たをる」を高起式とするのは結局のところ鎌倉期の資料です。強引かもしれませんけれども、低起式でも言えたと考えてここに置いておきます。

 つかむ【摑】(とぅかう LLF)

 つくる【作】(とぅくう LLF)

 つつむ【包・慎】(とぅとぅう LLF) 今も言う「包む」と、「遠慮する」「はばかる」「用心する」「控える」といった意味の、「慎」を当てる「つつむ」とは同根です。後者の「つつむ」には、「もののきこえをつつみて」(ものの きこいぇうぉ とぅとぅみて LLLHHHH・LLHH。源氏・須磨〔しゅま HL〕)、「院をつつみきこえたまひて」(うぃんうぉ とぅとぅ きこいぇ たまふぃて LLH・LLFHHLLLHH。院〔朱雀院〕に対して遠慮をいたしなさって)のように「を」格をとる言い方のほかに、「人目につつむ」(ふぃとめに とぅとぅう HHHHLLF。源氏・宿木〔やンどり LLLH〕など)なども言います。これは「人目があるので用心する」といった意味ですから、こうした「つつむ」は自動詞です。「人目をつつむ」も言う言い方で(『俊頼髄脳』に見えています)、「人目つつみ」(ふぃとめとぅとぅみ HHHHHL)という名詞もあり、歌で「堤」(とぅとぅ LLH)とかけて使われます。派生語「つつまし」(とぅとぅまい LLLF)も、「気おくれする」「はばかられる」といった意味の名高い古今異義語です。

 思へども人目つつみの高ければかはと見ながらえこそ渡らね 古今・恋三659。おもふぇンどふぃとめとぅとぅみの たかれンば ふぁと みいなンがら いぇしょ わたらねえ LLHLF・HHHHHLL・LLHLL・FHLLHHH・ℓfHLHHHF。愛してはいるものの、人目をはばからなくてはならないので、あのかたの姿を目にしながら、突き進めない。堤が高くて川を目の前にして渡れない、という意味が重なっています。

 つどふ【集】(とぅンどう LLF)

 ともす【点・灯】(ともしゅう LLF) 古くは「灯(とも)る」とは言わなかったようです。名詞「ともし」は「ともし LLL」で、「ともしび」(ともしンび LLLL)と同じ意味で使ったり、かがり火(かンがりンび HHHH)などを使って鹿(しか LL)を狩ることを意味したりしました。

 ながす【流】(なンがしゅう LLF)

 なげく【嘆】(なンげう LLF) いつぞや申したとおり、名詞「なげき」(なンげき LLL)は「長息」(ながいき)の変化したものと言いますから(「長し」は「なンがい LLF」、「息」は「い LH」)、もともとは「ため息をつく」を意味したらしい動詞「なげく」は、名詞から作られた動詞という意味で、「ダブる」「トラブる」「ググる」などと同趣と申せます。『蜻蛉の日記』の天暦九年冬の次の記事はよく知られています。

 これより、夕さりつかた、「内裏(うち)に。のがるまじかりけり」とて出づるに、心得で人をつけて見すれば、「町の小路なるそこそこになむとまりたまひぬる」とて来たり。さればよと、いみじう心憂しと思へども、言はむやうも知らであるほどに、二三日ばかりありて、あかつきがたに門(かど)をたたく時あり。さなめりと思ふに憂くて開(あ)けさせねば、例の家とおぼしきところにものしたり。つとめて、なほもあらじと思ひて、

 なげきつつひとり寝る夜の明くるまはいかに久しきものとかは知る

と例よりはひきつくろひて書きて、うつろひたる菊にさしたり。かへりこと、「あくるまでもこころみむとしつれど、頓(とみ)なる召使の来あひたりつればなむ。いとことわりなりつるは。

 げにやげに冬の夜ならぬまきの戸もおそくあくるはわびしかりけり」

 これより、ゆふしゃりとぅかた、「てぃ。のンがるまンじりけり」と いンどぅるに、ここ いぇンで ふぃうぉ とぅけて みしゅンば、「てぃの うンでぃる しょしょこにう、とまり たまふぃぬる」とい。しゃンばおと、いみンう ここいと おもふぇンどお、いふぁム やうしらンで ある ふぉンど、HHLL、HHHHHHL、「HLH。LHHHHLHHL」LH・LLHH、LLHRL・HLHLHH・LLHL、「HLLHLLHL・LHLHHLF・ HHLLLHHH」LHRLF。LHLFL、LLHLLLHLFL・LLHLF・HHHLLF・HHLLHHLH、ふとぅか みかンばかり ありてあかとぅきンがに かンどうぉ たた とき あい。しゃありと おもふにて あけしゃしぇねンば、れいいの いふぇと おンぼしところに ものいたい。とぅとめて(後半二拍推測)、なふぉお あらンいと おもふぃて、HHH・HHHHLLHH、HHHHHLH・HLH・LLHLLLF。LHLHLL・LLHH・RLH・HHHHHL、LHHLLL・LLLFHHHH・LLFLF。LLLL、LFFLLFL・LLHH、/ なンげきとぅとぅ ふぃぬる よおのお あくる まあふぁあ い ふぃしゃしい ものとかふぁ しる LLHHH・LHLHHLL・HHHHH・HLHLLLF・LLLHHHH / と、れいいよりふぁ ふぃき とぅくふぃきて、うとぅふぃた きく しゃい。かふぇりこと、「あくるまンも こころみうと いとぅンど、とみる めしとぅかふぃのい あふぃとぅンばム。と ことわりりとぅるふぁ。/ げえにいやあ げえにい ふゆの よおぬ まきの とおもお おしょあくるふぁ わンびしりけり L・LHLLH・HLLLHLH・LHH、LLHLLH・LLH・LHLF。LLLLL、「HHHLHL・LLLLFL・FLHL、LLHL・LHHHHH・ℓfLHLHLHLHL。HL・LLLLHLLHH。/ LHFLH・HLLLLLH・HHHHL・HHLHHHH・HHHLHHL。夕方、夫(兼家)が、どうしても参内しなくてはならないのだったと言って出かけるが、どうもあやしいと思い尾行させると、実際目的地は町の小路というところだったので、道綱の母は、やっぱりだ、女だ、と思うものの、ただ様子を見るだけにしておくと、二三日して、まだ暗い時分、夫とおぼしき人が来て門をたたきます。開けさせないでいると、町の小路に向かったようです。夜が明けてから、このままにはしないぞと思って、一人で寝ると夜明けまでが長いことなどあなたはご存じありますまいという歌を、わざと他人行儀なふうに書き、菊の花の色の変わったのを添えて、自分への愛情のおとろえを訴えると、夫は、白々しい言い訳をしてから、確かにあなたは夜明けが長かったでしょうけれども、戸がなかなか開かないのものつらいものだ、と返事をしたのでした。「小路(こうぢ)」は「こみち(小道・小路)」(みてぃ HLL)の変化したもののようですから、「うンでぃ」、ないしもっと踏み込めば「ムでぃ」だったでしょう。なお、ここの「つとめて」を「翌朝」と訳すのは問題ではないでしょうか。

 なつく【懐】(なとぅう LLF) 派生語「なつかし」(なとぅかい LLLF)は「親しみやすい」といった意味の名高い古今異義語です。

 猫はまだよく人にもなつかぬにや、綱いと長く付きたりけるを、ものに引きかけまつはれにけるを(マツワリツイテイタ、ソレヲ)、逃げむとひこしろふ(ヒッパル)ほどに、御簾(みす)のそば(ハシガ)、いとあらはに引きあけられたるを、とみにひき直す人もなし。源氏・若菜下
 ねふぁ まンあ よふぃも なとぅかぬにやあ、とぅな と なンく とぅりけうぉ、ものに ふぃき かまつふぁにけうぉ、にンげうと ふぃこしろふ ふぉンどみしゅの しょンば、と あふぁに ふぃあけられたるうぉ、とみに ふぃき なふぉしゅ ふぃお ない。LFHLF・RLHLHL・LLLHHF・LLHLLHL・LHLHHLH、LLHHLLF・HHHLHHLH、LLFLHHHHHHLH・HHHLL・HLLHLH・HLHHHLLHH・LLHHLLLH・HLFLF。「猫」はLFだと思います。『倶舎論音義』が〈平上〉を差すので(総合索引)、LHかLFということになりますけれども、武田佳子さんの「大阪方言アクセントにおける二拍5類語の現在 : 三世代話者の読み上げデータからのケーススタディ」(2009、web)によれば、現在の大阪では「猫」はHLで言われるがかつてはLFで言われたそうです。現代京都もHLですが、中井さんの『京ア』の「猫」の項に「奥村氏内省報告L2、地域差か」とあります。二拍五類語は昔からアクセントを変えないものの多いことを考えても、古くは「ねお LF」だったと見るのが自然でしょう。

 なづむ【泥・煩】(なンどぅう LLF) 「なかなか暮れない」といった意味の現代語「暮れなずむ」の「なずむ」は「なづむ」の子孫ですけれども、古今同義ではありません。もっとも、この動詞には「思いどおりにゆかないので苦しむ」「難渋する」といった意味があって、「行きなづむ」(き なンどぅう HLLLF)といった言い方もありますから、「日、入りなづむ」(ふぃい、り なンどぅう F・HLLLF)といった言い方ならば平安時代の京ことばとして可能かもしれません
でしょう。

 きときてはかはのぼりぢのみづをあさみふねもわがみもなづむけふかな 土左日記・二月七日。きいと きいてふぁ かふぁのンぼりンでぃの みンどぅうぉ あしゃみ ふも わあンがあ みいもお なンどぅあ ℓfLRHH・HHHHHLL・HHHHHL・LHLLHHL・LLHLHLF。「川」は「ふぁ HL」ですから「川のぼり路」の五拍目までは高いと見られ、末拍は、伏片465(後に引きます)が「かよひ路」に〈上上上平〉(かよふぃンでぃ HHHL)を差しなどしているので、低いと見られます。

 いはけなき鶴(たづ)の一声聞きしより蘆間になづむ舟ぞえならぬ 源氏・若紫。いふぁけない たンどぅの ふぃとこうぇききしより あしまに なンどぅンじょ いぇえ なら LLLLF・LHLLLLF・HHHLL・HHHHLLH・LHLℓfLLH。「いはけなし」のアクセントは推定です。「葦」は「あし HH」、「間」は「まあ HH」なので、「あしま HHH」のアクセントは現代語の「きつねそば」などと同趣と申せます。なおこの歌では副詞「え」に「江」(いぇえ F)が響きます。改めて申せば掛詞はアクセントの一致を求めません。あなた(幼い紫の上)の声をお聞きしてから私(葦間でとどこおる舟)は複雑な気持ちです。

 なびく【靡】(なンびう LLF) 男の誘惑に負けやすい女性を形容することの多い言葉に「なびきやすなり」(なびきやすい)という言い方があります。これは「なンびきやしゅり LLLLLHL」と言われたでしょう。例えば「ひたひびろ【額広】」は「ふぃたふいンびろ HHHHL」(「ひたひ」は「ふぃたふぃ HHH」、「ひろし」は「ふぃろい LLF」)、「みじろのいね【実白稲】」は「みンじろの い HHLLLH」(「実」は「みい H、「しろし」は「しろい LLF」、「あしたかのくも【足高蜘蛛】は「あしたかの くお LLLLLLF」(「あし」は「あし LL」、「たかし」は「たかい LLF」)と発音されましたけれども、これらは名詞と形容詞の語幹とが一つの複合名詞を作り、そういうものとして発音されることを示しています。三番目の例は「なびきやす」も低平連続であることを示すでしょう。なお、平安時代の京ことばでは「なびきやすし」という言い方はしません。ちなみに申せば、「あたたかし」「やはらかし」という形容詞もありません。あったのは「あたたかなり」(あたり LLHLHL)、「やはらかなり」(やふぁり LLHLHL)という言い方です。これらを形容動詞と呼ばないこと、副詞と「あり」とのつづまったものと見ることは、のちの話題です。

 なほす【直】(なふぉしゅう)

 なほる【直】(なふぉう LLF)

 なやむ【悩】(なやう LLF)

 こほりとぢ石間(いしま)の水はゆきなやみそら澄む月の影ぞながるる 源氏・朝顔(あしゃンふぉ)。こふぉり とンでぃい いしまの みンどぅふぁ ゆき なやい しょ しゅとぅきの かンえンじょお なンがるHHHLF・HHHHHHH・HLLLF・LHLHLLL・LFFLLLH。女たらしを夫に持つ私は悲しいという意味の、アレゴリカルな歌。石間の水(つまり私)は行きわずらい(生きわずらい)、空行く月(つまり光る源氏)は流れてゆきます。「流るる」(なンがる LLLH)に「泣かるる」(なかるる HHHH)が響きます。掛詞は清濁の差を問わず、またアクセントの一致を求めないのでした。

 ならす【馴・均】(ならしゅう LLF) 「鳴らす」は「ならしゅ HHL」でした。

 ならふ【習・倣】(ならう LLF) 名詞「ならひ」は「ならふぃ LLL」。現代東京でこの名詞が②で言われるのもセオリーどおりです。同根の動詞に「ならはす」(ならふぁしゅ LLHL)や、その名詞形「ならはし」(ならふぁし LLLL)があります。

 にがす【逃】(にンがしゅう LLF) 「逃ぐ」は「にンう LF」でした。

 にがむ【苦】(にンがう LLF) 形容詞「苦(にが)し」は「にンがい LLF」です。

 にくむ【憎】(にくう LLF)  現代語では「憎む」は通例かなり強い感情を意味しますけれども、平安時代の京ことばではこの動詞は、「不快感をあらわにする」「いやな顔をする」というほどの意味でも、ということは一つの感情ではなくそれに発す行為を示す時にも使われました。

 「異人(ことひと)の言はむやうに。心えずおほせらる」と中将にくむ。源氏・帚木。ことふぃ いふぁム やう。ここ いぇンじゅ おふぉしぇらう」と てぃうンじやう にくう 「LLLHL・HHHLLH。LLHRL・LLLLH」L・LLHHH・LLF。頭の中将が光る源氏に、あなたのお言葉とは思えません、合点のゆかないことをおっしゃいます、といって顔をしかめる、といった場面です。「異人(ことひと)」のアクセントは「商人(あきびと)」(あきンび LLLH)のそれに倣いました。

 にごる【濁】(にンごう LLF) 名詞「濁り」は「にンごり LLL」。

 はちす葉(ば)の濁りに染(し)まぬ心もて何かは露を珠(たま)とあざむく 古今・夏165。ふぁてぃしゅンばの にンごりに しまぬ ここにかふぁ とぅうぉ たまと あンじゃむく HHHLL・LLLHHHH・LLHLH・LHHHLFH・LLLHHHH。心きよらかなはずの蓮が、何ゆえ、その葉の上に置く露は宝石かと誤解させるようなことをするのか、といきどおって見せています。「蓮(はちす)」(ふぁてぃしゅ HHH)は当時から「極楽」(ごくらく LLLL)に咲く花とされ、また当時は、仏教語「濁世」(ぢよじょくせ)(でぃよくしぇえ。LLLL)などを背景に、今ならば「けがれる」という動詞を使うような場面で「にごる」を使いました「澄む」(しゅう LF)と「濁る」とが反意語の関係にあることも思い出されます。

 になふ【担】(になう LLF) 「荷(に)」は「に L」です。

 にほふ【匂】(にふぉう LLF) 

 初瀬(はつせ)に(ツマリ長谷寺ニ)まうづるごとにやどりける人の家(民家)に久しくやどらで、ほど経てのちにいたれりければ、かの家のあるじ、「かくさだかになむやどり(オ泊メスル場所)はある」と言ひいだしてはべりければ、そこに立てりける梅の花を折りてよめる

 人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香ににほひける 古今・春上42・貫之。
 ふぁとぅしぇにンどぅンご やンどりけふぃとの いふぇ ふぃしゃく やンどンで、ふぉンど ふぇえて のてぃに いたりけれンば、あの いふぇの あるン、「く しゃンう やンどりふぁ」と ふぃ いンだして ふぁりけれンば、しょこにムめの ふぁなうぉ うぉりてる HHHH・LHLHLFH・LLHHLHLLLLH・LLHL・LLHL、HLRHLLH・HHLHHLL・FLLLLLLH、「HLLHLHLF・LLLHLH」L・HLLLHH・RLHHLL、LHHLHLHL・HHHLLH・LHHLHL/ ふぃふぁしゃあ ここしらンじゅ ふるしゃとふぁ ふぁなンじょむかしの かあにい にふぉふぃける HLHLF・LLHLHHL・LLHHH・LLFHHHH・HHLLHHL。さあ、あなたの心が昔と同じかどうか分かりませんけれど、梅の香りは昔と同じですね。時に指摘されるとおり、「言ひいだして」(家の中から詠みかけてきて)とあるからには「あるじ」は女性でしょう。あるじが貫之の不実を責めてみせたのに対して、貫之もあるじの誠実を疑ってみせています。流火先生の『百首通見』には、「おまえの色香もまだ抜けていない、と女あるじを適当にからかっている」とあります。
 さて「ふるさと」――周知のとおり生まれ育った土地に限らず、ということは「故郷(こきょう)」とは限らず、かつて住んだなじみの土地も指しました(この歌でもそう)――を「ふるしゃと LLHH」としたのは推定で、これは低起形容詞「古し」(ふるい LLF)の語幹と二拍一類名詞「里」(しゃと HH)とからなる複合名詞ですけれども、そのアクセントを記した文献のないらしいことは遺憾です。「やまざと(山里)」は「やまンじゃ LLLH」ですけれども(「山」は「やま LL」)、前部成素の性格が違うので、これを参照すればよいと申せません。「ふるさと」と同趣の組成を持つ「くろがき【黒柿】」「くろがね【鉄】」「くろとり【黒鳥】」「ながぶえ【長笛】」がいずれもLLLLで言われること(くろンがき、くろンがね、くろとり、なンがンぶいぇ)は無視できませんけれども、これらのうち「くろとり」を除く三つは連濁しているのに対して、「ふるさと」は連濁していません。「ふるざと」ではないのです。その点では同組成のかつ連濁しない「くろこま(黒駒)」「しろかね(白金=銀)」「しろたへ(白妙)」「むまさけ(美酒)」がLLHHであること(くろこま、しろかね、しろたふぇ、ムましゃけ)こそ注目されて、「ふるさと」は「ふるしゃと」であり、「くろとり」もまた「くろとり」と言えた、と見ておくことにします。『研究』研究篇上の「一般に複合の度合が弱いものは全部成素の式、後部成素のアクセント型を生かすが、その際は連濁しない傾向がある」という指摘(p.197)が適用されると見るわけです。近世の資料には「ふるさと」をHLLLとするものもあり、現代京都でもHLLLで、これらはLLHHからの正規変化と見うるわけで心づよいのですけれども、ただ別の近世の資料にはHHLLとあるそうで、これはLLLHからの変化と解されます。じつは「ふるさと」と同じ組成の「にがたけ(苦竹か。連濁なし)」には梅・寂・毘・訓が〈平平平平〉を差すほか、伏片・家・京秘が〈平平平上〉を差していますし(451の物の名の歌の題)、改名の一本は「ながふえ(長笛)」にやはり〈平平平上〉を差していますから、「ふるしゃ LLLH」はありうる言い方で、悩ましいことです。

 「にほふ」はまた、「美しく照り映える」といった、嗅覚にかかわらない意味でも使われました。名詞「にほひ」は「にふぉふぃ LLL」。

 春雨ににほへる色もあかなくに香さへなつかし山吹の花 古今・春下122。ふぁるしゃにふぉふぇる いろお あかなくに かあしゃふぇ なとぅかい やまンきの ふぁな LLLFH・LLHLLLF・LLHHH・HHHLLLF・LLHLLLL。美しい色だけでも見飽きないのに香りまで慕わしい、と言っています。

 いにしへの奈良の都の八重ざくらけふここのへににほひぬるかな 詞花・春27。いにしふぇの らの みやこの やふぇンじゃくら け ここふぇ にふぉふぃぬるあ HHHLL・HLLHHHH・HHHHL・LHLLHLH・LLHHHLF。ここでも「にほふ」は視覚的意味で使われています。「やへざくら」への注記を知りませんが、「やへ」は「ふぇ HL」、「さくら」は「しゃくら HHH」で、「やへむぐら」(やふぇむンぐら HHHHL。「むぐら」は「むンぐら LLL」。後述)、「にはざくら」(にふぁンじゃくら HHHHL。「には」は「にふぁ HH」)、「文(ふみ)づくえ」(「ふみンどぅくいぇ HHHHL。「文(ふみ)」は「み HL」、「つくえ」は「とぅくいぇ HHH」)などから「やふぇンじゃくら HHHHL」と見てよいようです。
 「ここのへ」を「ここふぇ LLHL」と見るにことついて。『研究』研究篇上〔五・3〕に準拠しつつ(pp.460)、

  ふたつ HHL       ふたへ HHL
  やつ HL           やへ HL
  ここのつ LLHL   ここのへLLHL
ような対応を見ればそうするのが自然だということになると思います(ふたとぅ、ふたふぇ、とぅ、ふぇ、こことぅ、ここふぇ)。「ひとつ」は「ふぃとぅ LHL」であるのに対して「ひとへ」は「ふぃとふぇえ LLF」ですが、これは「ひとめ【一目】」は「ふぃと LLH」、「ひとたび【一度】」は「ふぃとンび LLHL」、「ひとよ【一夜】」は「ふぃとよLLL、ないし、ふぃと LLH」などなどであるのと同じことです。
 さて接尾辞「重(へ)」はもともとは下降調をとり、低い拍の次では「ふぃとふぇえ LLF」に見られたようにそのアクセントを保って本体に連なるが、高い拍の次では「ふたふぇ HHL」以下に見られたように低まるようです。これは例えば「はちす【蓮】」(ふぁてぃしゅ HHH)と「葉」(ふぇあ F)とからなる複合名詞「はちすば」が「ふぁてぃしゅンば HHHL」と言われるのと同じことです。
 参考までに数詞を含む言い方を少し並べて置きましょう。推定されるだけのものにはアステリクスを付します。

 ひとつ(ふぃとぅ LHL)
 ふたつ(ふたとぅ HHL)
 みつ(とぅ HL)
 よつ(とぅ HL)
 いつつ(いとぅとぅ LLL、いとぅとぅ LLH)
 むつ(とぅ HL)
 ななつ*(ななとぅ LLL、ななとぅ LLH)
 やつ(とぅ HL)
 ここのつ(こことぅ LLHL)
 とを(うぉ HL)

 ひとへ(ふぃとふぇえ LLF)
 ふたへ(ふたふぇ HHL)
 みへ*(ふぇHL)
 よへ*(ふぇ HL)
 いつへ*(いとぅふぇえ LLF)
 むへ*(ふぇ HL)
 ななへ(ななふぇえ LLH)
 やへ(ふぇ HL)
 ここのへ*(ここふぇ LLHL)
 とへ(ふぇ HL)

 ひとり(ふぃり LHL)
 ふたり(ふたり HHL)
 みたり(みたり HHL)
 よたり(よたり HHL)
 いつたり*(いとぅり LLHL)、
 むたり*(むたり HHL)、
 ななたり*(ななり LLHL)、
 やたり*(やたり HHL)、
 ここのたり*(ここのたり LLHHL)、
 とたり*(とたり HHL)

 すると、「ひとり」は「ひとたり」(ふぃとり LLHL)のつづまったものなのでしょう。

 にらむ【睨】(にらう LLF)

 ぬすむ【盗】(ぬしゅう LLF) 『伊勢物語』第六段の次の物語はよく知られています。

 昔、男ありけり。女のえ得(う)まじかりけるを年をへてよばひわたりけるをからうして盗みいでて、いと暗きに来けり。あくた川といふ川を率(ゐ)ていきければ、草の上に置きたりける露を、「かれは(アレハ)なにぞ」となむ男に問ひける。ゆくさき多く(遠ク)、夜(よ)もふけにければ、鬼あるところとも知らで、雷(かみ)さへいといみじう鳴り、雨もいたう降りければ、あばらなる蔵に女をば奥におしいれて、男、弓、やなぐひを負ひて、戸口にをり。はや夜もあけなむと思ひつつゐたりけるに、鬼、はやひとくちにくひてけり。(女ハ)「あなや」といひけれど、(男)雷なるさわぎにえ聞かざりけり。やうやう夜もあけゆくに見れば、ゐて来(こ)し女もなし。あしずりをして泣けどもかひなし。

 しらたまか何ぞと人のとひしとき露とこたへて消えなましものを 

 むかし、うぉとこ ありけり。うぉムなの いぇえ ううまンりけうぉ、としうぉ ふぇえて よンばふぃ わたうぉ、かぬしゅい いンでてくらきいけり。あくたンがふぁ(ないし、あくたンがふぁ)といふ かふぁうぉ うぃて いれンば、くしゃの ふぇに おきたりける とぅうぉ、「ふぁンじょ」とム うぉとこに とふぃる。HHH、LLLLHHL。HHLL・ℓfLLHLHHLH、LLHRH・HHLHHLHLH、LHLFH・LLFLHH、HLHHFH・RHL。HHHHH(ないし、HHHHL)LHHHLH・FHHLHLL、LLLHLH・HLLHHLLFH、「HLHLHL」LHL・LLLHHLHL。ゆくしゃきふぉく、よおお ふけにけれンば、おに ある ところしらンで、かみしゃふぇ いみンり、あお いう ふりけれンば、あンばら くらに、うぉムうぉンば くに お、うぉとこ、ゆみ、やなンぐふぃうぉふぃて、とンぐてぃにうぉり。ふぁあ よおあけうと おもふぃとぅとぅ うぃいたりけ、おに、ふぁあ ふぃとくてぃ(後半二拍推定)ふぃてけり。HHHHLHL、LFLHHHLL、LLLHHHHLFHHL、LLHH・HLLLHLHL、LFF・LHLLHHLL、HHHLHLLH・HHLHH・LHHHLHLH、LLL、LL、HHHLH・LHH、HLLHHL。LF・LFHHLFL・LLHHH・FLHHLH、LL、LFLLLLH・LHHHL。「あなあ」と ふぃれンど、かみ なる しゃわンぎ、いぇきかンじゃりけり。ややう よおゆくに ンば、うぃ こおしい うぉムお ない。あしンじゅりうぉ して なけンどお、かふぃ い。/ しらあ なンじょと ふぃとの とふぃし とき とぅうと こたふぇて きなましい ものうぉ 「LLF」L・HLHLL、LLHHLLLH・ℓfHHLHHL。LHLL・LFHLHHH・LHL、FHLH・HHLFLF。LLLLHFH・HLLF・HHLF。/ LLHLF・LHLLHLL・HHHLL・LFLLLHH・HLHHFLLH。「消えなましいものを」は可能態でしょう。あれは真珠ですか、何ですか、とあの人が問うた時、露ですよと答えて消えてしまうこともできただろうに、と言っています。鬼は着物も食べてしまってから忽然と姿を消したのでした。

 ねたむ【妬】(ねたう LLF)

 ねぶる【舐】(ねンぶう LLF) 「眠(ねぶ)る」は「ねンぶる HHL」でした。

 のこす【残】(のこしゅう LLF)

 のごふ【拭】(のンごう LLF) 「ぬぐう」の古い言い方です。「手拭(てぬぐい)」は古くは「たのごひ」(たのンふぃ LLHL)と言われました。この「た」は無論「手(て)」(てえ L)で、例えば今でも言う「たなごころ」(たなンごこ LLLLH。手のひら)は「手の心」(てえのおここ LLLLH)という意味です。

 のこる【残】(のこう LLF) 名詞「残り」は「のこり LLL」。この名詞は現代人が「心残り」というところのものも意味できて(当時は「心残り」とは言いませんでした)、「残り多かり」(のこり おふぉい LLLLHLF) はよく目にされる言い方です。「残りなく」がしばしば「残らず、すっかり」といった意味で使われたことは岩波古語の説くとおりで、例えば源氏・夕顔において惟光(これみつ)(秋永さんが「これみとぅ HHHH」ないし「これみとぅ HHHL」と推定なさっています)は光る源氏に、人の家をのぞき見した結果を報告して、「きのふ、夕日の残りなくさし入りてはべりしに文(ふみ)かくとて居(ゐ)てはべりし人の顔こそ、いとよくはべりしか」(きのふ、ゆふふぃの のこり なく しゃふぁべりしに ふみ かうとて うぃふぁべりし ふぃとの かふぉこしょ、と よく ふぁべりか HHL、HHLL・LLLRL・LFHLHRLLHH・HLLFLH・FHRLLH・HLLHHHL・HL・RLRLLHL」と言っています。「夕日」は、「入江」「初音」が「いりいぇ」「ふぁとぅね」であるのに倣って「ゆふふぃ」だったろうとと見ておきます(「HH+F→HHL」)。これは現代京都の「うひ 」をHHLからの変化と見ることですけれども、「あなた」「かなた」「こなた」「しょなた」「あンどぅき」「あふぃンだ」「かンどぅら」「きのふ」「くらま」「むしゅめ」「もンぐしゃ」「うぇくンぼ」「うぉムな(<うぉみな)」と発音された「あなた」「かなた」「こなた」「そなた」「小豆(あづき)」「あひだ」「かづら」「きのふ」「鞍馬(くらま)」「むすめ」「もぐさ」「ゑくぼ」「をむな(<をみな)」が現代京都では①で言われることを思えば、これは不自然なことではありません。
 源氏・総角に「この君のかく添ひゐて残りなくなりぬるを」(こおのお きみの かしょふぃ うぃ のこり なく なりぬるうぉ HHHHH・HLHLFH・LLLRL・LHHHH)とあるのでは、「残りなし」は、大君が薫に顔を見られおでこを触られなどして「何もかも知られてしまった」(秋山さんの頭注の言い方)と感じていることを言っています。同・若菜下のおしまいのあたりにある、「大将の君(夕霧)ぞ『あるやうあることなるべし。好(す)き者(柏木)はさだめて我がけしきとりしことには忍ばぬにやありけむ』と思ひよれど、いとかくさだかに『のこりなきさまならむ』とは思ひよりたまはざりけり」(たしやうの きみンじょ「あ やう あことるンべい。しゅきものふぁ しゃんだめて わあンがあ けしき とり ことにふぁ しのンばぬにやあ あ」と おもふぃれンど、く しゃン「のこり なしゃまならう」とふぁ おもふぃり たまふぁンじゃりけり。LHLLLLHHL・「LHLL・LHLLHLLF。LLLLH・LLHH・LH・LLLLLHLLHH・HHHHHF・LHLH」L・LLFHLL、HLHL・LHLH・「LLLLF、HHLLF」LH・LLFHLLLHLHHL)における「のこりなきさまならむ」は、岩波の新大系の脚注の言うとおり、柏木と女三宮との関係が「いきつく所までいって」いるだろうということでしょう。夕霧は事情はおそらく自分の思っているとおりなのだろうと思ったものの、そこまで進んでいるとは思っていなかった、というのです。

 のばす【延】(のンばしゅう LLF)

 ばかす【化】(ばかしゅう LLF)  下二段の「化(ば)く」は「ばう LF」でした。 

 はかる【計・謀】(ふぁかう LLF) 「秤(はかり)」というものは古くからあったようです。この名詞はいつぞや申したとおり「ふぁり LHL」というアクセントで言われました。

 夜をこめて鳥の空音(そらね)は謀るともよに逢坂の関はゆるさじ 後拾遺・雑二939・清少納言。よおうぉおめて とりの しょふぁ ふぁかよおにい あふしゃかの しぇきふぁ ゆるしゃンい LHLHH・HHHLHLH・LLHLF・HHLLLLL・LLHLLLF。詳細は省きますけれど、ご存じの向きも多かろうとおり、かなりきわどい言葉づかいをしています。「空音(そらね)」はさしあたり、「稲葉」(「稲」は「い LH」、「葉」は「ふぁあ F」)が「いンば LHL」であるのなどに倣って、「しょね LHL」と見ておきます(「空」は「しょ LH、「音」は「え F)。

 はげむ【励】(ふぁンげう LLF) 

 はさむ【挟】(ふぁしゃう LLF) 「鋏(はさみ)」は「はしゃみ LLL」でした。

 はじく【弾】(ふぁンじう LLF) 「つまはじき【爪弾】」は典型的な古今異義語で、古くは、人差し指や中指の爪の先を親指の腹にかけてはじく動作を意味したそうです。不満や嫌悪の情を持つ人がこれをしたとか。「爪」は「とぅめ HH」で、同組成の「とりあはせ【闘鶏=鶏合】」「さきばらひ【先払】」や、近い組成(二拍二類+多数派低起三拍)の「ひとだまひ【人給】」、「ふゆごもり【冬籠】」がいずれもHHHHL(とりあふぁしぇ、しゃきンばらふぃ、ふぃとンだまふぃ、ふゆンごもり)ですから、「つまはじき」も「とぅまふぁンじき」と言われたでしょう。

 はしる【走】(ふぁしう LLF)

 はたす【果】(ふぁたしゅう LLF) 「果つ」は「ふぁう LF」でした。

 はなつ【放】(ふぁなとぅう LLF) 「放す」の古い言い方。「消す」も「消つ」(とぅ HL)でした。

 はやす【栄・映・生・囃】(ふぁやしゅう LLF) 何と「生(は)やす」から「林(はやし)」(ふぁやし LLL)なのだそうです。「林」は『26』も『43』も③。『58』は③で「新・姓」は⓪とします。『89』は⓪③。伝統的な東京アクセントは③で、戦後のある時期まで、「向こうに林がある」は「むおに はやしが ある」ではなく「むこおにやしる」と発音されたのでした(『26』も『43』も『58』も名詞「むかふ」「むこう」を⓪としています)。「林」は③で言わないと、はやしたもの、という気持ちがあまり出ません。

 はやる【早・逸・流行】(ふぁやう LLF) 気持ちがはやる、という時の「はやる」も、流行するという意味の「はやる」も、静かだったものが盛んになるという点で共通するということのようです。「二条河原の落書」(「この頃都にはやるもの 夜討強盗にせ綸旨〔…〕)に見えますけれども、この「この頃都にはやるもの」という言い方はすでに平安末期の『梁塵秘抄』に見えています(こおのお こみやこに ふぁやもの HHHLHHHH・LLHLL)。「はやる」はまた、『源氏』のはじめの文にあらわれる「時めく」(ときく LLHL)や「栄ゆ」(しゃかゆ HHL)の同義語としても使われたようです。流行という意味で「はやり」という名詞を使うのは、近世になってからのことだとか。

 はらむ【孕】(ふぁらう LLF) 「腹(はら)」は「ふぁら LL」。ちなみに「原」は「ふぁ LH」。現代語では「妊娠する」「懐妊する」に圧されてこの大和ことばはあまり使われませんけれども、平安仮名文にはよくあらわれます。『落窪』『源氏』そのほかに「はらみたまふ」(ふぁらい たまう LLFLLF)という言い方が見えています。現代語「おはらみになる」には何か皮肉なニュアンスがこもりそうです。

 ひがむ【僻】(ふぃンがう LLF) 「僻」を当てましたけれども、現代語としての「ひがむ」よりもだいぶ多義で、「ひねくれる」や、岩波古語の言い方を借りれば「正気をなくす」「耄碌する」も意味できます。「ひが耳」は「聞きまちがい」、「ひが目」は「見まちがい」、「ひが心」は「考えちがい」という意味で、これらの「ひが」と「ひがむ」の「ひが」とは異なるものではないでしょう。「馘首(かくしゅ)」は首を切ることですが、「馘」という漢字はまた「みみきる(耳切)」「みみきり」とも訓むようで、改名がその「みみきり」に〈平平平平〉を差しています。すると「ひがみみ」も「ふぃンがみみ LLLL」でよさそうです。「ひがめ」は「ふぃンがめ LLL」、「ひが心」は「ふぃンがころ LLLHL」と見ておきます。

 ひかる【光】(ふぃかう LLF) 名詞「ひかり」は「ふぃかり LLL」です。

 ひさかたの光のどけき春の日にしづごころなく花の散るらむ 古今・春下84・紀友則(きいのお とものり LLHHHL)。ふぃしゃかたの ふぃかり のンどけい ふぁうの ふぃしンどぅンごころ なく ふぁなの てぃるら HHHLL・LLLLLLF・LFLFH・LHHHLRL・LLLHLLH。「なぜ」を補って解釈しなさい、と教えられるわけですけれど、「のどかな春の日に花があわただしく散っている…」とだけ言えば、なぜそうなのだろうという気持ちが自然に伴ってくる、というように解するのがよいと思います。さて「しづごころ」には浄弁本拾遺が〈平上○○○〉を差していて、この注記の信頼度は高いと考えられます。はじめの二拍は明らかに「静か」(しンどぅか LHL)のそれを反映していますけれども、後に見るとおり低起三拍語を前部成素とする複合名詞でははじめの二拍はその前部成素のはじめの二拍を保存するのが一般だからで、「しづごころ」のはじめの二拍はそれに準じて考えられると思います。次に、終わりの三拍はHHLでしょう。前部成素に高起二拍語を持つ五拍語は、一般に後部成素のアクセントのありようにかかわらず、HHHHLというアクセントで言われます。三つだけ引きます。

 ふぢごろも【藤衣】(ふンでぃンごろも HHHHL。ふンでぃ HH、ころも HHH)
 いしだたみ【石畳】(いしンだたみ HHHHL。しHL、たたみ HHH)
 やへむぐら【八重葎】(やふぇむンぐら HHHHL。ふぇ HL、むンぐら LLL。浄弁本拾遺が〈(上上)上上平〉を差しています。訓は〈上上平平平〉) 

 前部成素が低起式の場合、

 かはごろも【皮衣】(かふぁンごも LLLHL。かふぁ LL、ころも HHH) 
 あさがれひ【朝餉】(あしゃンがふぃ LLLHL。あしゃ LL、かれふぃ LLL〔<かれいひ【乾飯】 LLLL〕

のように大抵LLLHLのアクセントで言われます(それゆえ例えば「山ざくら」は「やまンじゃら LLLHL」だろうというような推定が安心しておこなえます)。後部成素が「心」(ここ)のような台頭型のアクセントである場合、「かみよ【神代】」(かみ LLH)などについて言えたように、

 たまかづら【玉鬘】(たまかンどぅ LLLLH。たま LL、かンどぅ LLH)
のようなアクセントをとることも多いのですが、それでもやはり、

 たまくしげ【玉櫛笥】(たまくンげ LLLHL。たま LL、くしン LLH)

のような言い方も見られます。「しづ心」は「しンどぅンごこ」「しンどぅンごろ」とも言われたのかもしれませんけれど、はじめの二拍を〈平上〉とする注記を重んじて「しンどぅンごころ」を採っておきます。前(さき)に「さしもぐさ」への〈平上上○○〉という注記を〈平上上上平〉と解したのは、こうした訳合いによってのことでした。

 ひねる【捻】(ふぃねう LLF)

 ひびく【響】(ふぃンびう LLF) 名詞「響き」は「ふぃンびき LLL」。源氏・浮舟の最後のところで、浮舟が「鐘の音(おと)の絶ゆる響きに音を添へて我が世つきぬと君に伝へよ」(かねの おとの たゆふぃンびきに ねうぉ しょふぇわあンがあ よお とぅうと きみに とぅたふぇお HHHHLL・LLHLLLH・FHHLH・LHHHLFL・HHHHHLF)と詠んでいます。源氏・薄雲には「(藤壺ノ遺骨ヲ墓所ニ)をさめたてまつるにも(ニツケテモ)世の中ひびきて悲しと思はぬ人なし」(うぉしゃえ た まとぅるによおのお ふぃンびきて かなしいと おもふぁぬ ふぃと ない。LLF・LFHHHHL・HHLH・LLHH・HHFL・LLLHHLLF)とあります。

 ひやす【冷】(ふぃやしゅう LLF) 「冷ゆ」は「ふぃう LF」でした。

 ひらく【開】(ふぃらう LLF) 現代語では「扉が開(ひら)きます」とも「扉を開(ひら)きます」とも言えますけれど、平安時代には、四段の「ひらく」は他動詞としてしか使われなかったようで、何かが自然に開(ひら)く、という時には下二段の「ひらく」(=ヒラケル)や、四段の「開(あ)く」を使ったようです。四段の「ひらく」の自動詞の用例として、源氏・若紫で光る源氏が「(優曇華(ウドンゲ)ノ花ハ)時ありてひとたびひらくなるは、難(かた)かなるものを」(とき ありて ふぃとンび ふぃらくなふぁかたんなる ものうぉ LLLHH・LLHL・LLHHLH・HHLHHLLLH。時いたってただ一度開くと申しますけれど、そういうことはまずないようです)と言うのを引く辞書もありますが、この「ひらく」は下二段のそれでしょう。三省堂の『例解古語』もそう見ています。ちなみに、『源氏物語大成』によれば河内本は「ひらくなるは」以下を「ひらくるは、ありがたかなるものを」(ふぃらくるふぁ ありンがんなる ものうぉ LLLHH・LLLHLHHLLLH)としていて、こちらのほうがよいよかもしれません。

 ふくむ【含】(ふくう LLF) 同じ「含」を当てる動詞に「くくむ」(くくう LLF)がありましたけれども、さらに「ふふむ」(ふふう LLF)もあります。

 ふける【耽】(ふけう LLF) 『新古今』の仮名序に、和歌というものは神代の昔にはじまり「その流れ今に絶ゆることなくして、色にふけり、心を述(の)ぶるなかだちとし、世ををさめ、民をやはらぐる道とせり」(しょおのお なンがれ いまに たゆこと な、いろふけい、こころうぉ のンぶ なかンだてぃと い、よおうぉお うぉしゃえ、たみうぉ やふぁらンぐる みてぃしぇりい HHLLL・LHH・LLHLLRHFH、LLHLLF、LLHHLLH・LLLLLF、HHLLF、LLH・HHHHH・HHLHL)とあります。久保田淳さんはこの「色にふけり」を「恋愛に夢中になって」「恋愛に没頭し」と翻訳なさり、「恋歌を詠むことをいい、非難した表現ではない」と注釈していらっしゃいます(角川文庫)。和歌は一つには「人が恋愛に没頭するなかだち」なのだ、人は和歌を介して恋愛に没頭するのだ、と良経はいうわけですが、この「なかだち」は「手段」というよりも「きっかけ」という意味ではないでしょうか。人は和歌をきっかけとして恋愛に夢中になると言われているのだと思います。『後拾遺』の仮名序において撰者通俊は、白河天皇の命で自詠も入れたことについて、「この集もてやつすなかだちとなむあるべき」(こおのお しいふう もやとぅしゅ なかンだてぃとム あるンべい HHLL・LHLLH・LLLLLHL・LLLF)と言っていて、岩波文庫本はこれを「この撰集をわざとみすぼらしくするきっかけとなるであろう」と翻訳しています。

 ふせく【防】(ふしぇう LLF) 後代「ふせぐ」と言われるようになりました。

 あらき風ふせきし蔭の枯れしより小萩がうへぞしづ心なき 源氏・桐壺。あらきかンじぇ ふしぇき かンえの かれしより こふぁンぎンが もとじょお しンどぅンごろ ない HHFHH・LLLHLFL・HHHLL・HHHHLLF・LLLHLLF。アレゴリーによって、我が娘のなくなった今、我が娘の守っていた我が孫(幼い光る源氏)のことが心配ですと、その孫の父親である桐壺の帝に向かって訴えるという、帝の怒りを買いかねない内容の歌です。

 ふとる【太】(ふとう LLF) 『今昔物語集』に、しばしば、恐怖のあまり「かしらの毛ふとる」(かしらの けえ ふとう LLLLℓF・LLF)という言い方が出てきます。

 ふらす【降】(ふらしゅう LLF) 「降る」は「ふう LF」でした。『大鏡』(「おふぉかンみ LLLHL」と見ておきます)の兼通伝に、大宅世継(おほやけのよつぎ)――「おふぉやけのよとぅンぎ LLHHH・HHH」でしょう。「世継」のアクセントは推測ですけれども、「日継」が「ふぃとぅンぎ HHH」なのでこれでよいはずです――が、「あはれ、翁らが心にだに、いみじき宝を降らしてあつかはむと言ふ人ありとも年ごろの女どもをうち捨ててまからむはいとほしかりぬべきに」(あふぁえ、おきならンが こころにンだ に、いみンじい たからうぉ ふらして あとぅかふぁムうと いふ ふぃと あお としンごろの うぉムなンうぉてぃしゅからムふぁ いとふぉりぬンべき LLF、LHHHH・LLHHHL、LLLF・LLLH・LLHH・HHHHFL・HHHL・LHLF・LLLLL・HHLHLH・LFHLH・LHHHH・LLLHLHHHFH)と言うところがあります。財産のある女性をあらたな正妻としたさる貴族、「徳につきたまへる」(とくに とぅい たまふぇる HHH・LFLLHL)と世人(よひと)(よふぃと HHL)にうわさされたさる貴族について、私ら庶民の感覚で言っても、たとい財宝を雨と降らしてお世話しようという人があらわれたとしてもそれになびいて長年連れ添った妻を捨てるなぞとんでもないという気持ちになりそうなものだのに、というのです。

 ふるす【古】(ふるしゅう LLF) 「古し」(ふるい LLF)と同式です。「着ふるす」「使いふるす」といった言い方で現代語に残っています。

 秋といへばよそにぞ聞きしあだびとの我をふるせる名にこそありけれ 古今・恋五824。あいとふぇンば しょンじょ ききし あンだンびとの れうぉ ふるしぇにこしょ ありけれ LFLHLL・HLHLHHH・HHHHH・LHHLLHL・FHHLLHHL。以前は「秋」という言葉なんて私にはよそごとだったけれど、じつはこの言葉は、あの浮気者が私を賞味期限切れとすることを指す名詞だったのだ。

 この他動詞に対する自動詞が上二段の「古る」(ふう LF)で、現代語に「ふ(ない)」「ふ(した)」「ふる」など活用する動詞が残っていれば面白いのに、と思います。それから、平安時代の京ことばでは、この「古る」の連用形から派生した名詞「古り」(おそらく「ふり LL」)を使った「古りす」を、「古る」と同じ意味でよく使います。「ふるびる」の古形である上二段の「ふるぶ」もありました。

 ほてる【火照る】(ふぉてう LLF) 『新撰字鏡』(西暦900年ごろの成立でした)に見えているそうです。「火」は「ふぃい L」。「日」は「ふぃい F」。古人は太陽を火の玉と見ていたとは断じられないわけですけれども、太陽のせいで暖かいことは分かっていたと考えられますから、どちらかがいま一つから別れたのでしょう。ちなみに「氷(ひ)」――「氷雨」(「ふぃしゃえ LLF」と見ておきます)の「氷」――は「火」と同じく「ふぃい L」です。

 ほどく【解】(ふぉンどう LLF)

 ほふる【屠】(ふぉふう LLF)

 まがふ【紛】(まンがう LLF) 現代語に「まごうかたなき何々」といった言い方があります。

 わたの原こぎいでて見ればひさかたの雲居にまがふ沖つ白波 詞花・雑下382。たの ふぁ こンい いンでて ンば ふぃしゃかたの くもうぃまンがおきとぅ しらなみ HLLLH・LFLHHLHL・HHHLL・LLLHLLH・LLLLLLL。「沖」は現代京都(「おき HH」)とは異なり古くは「おき LL」だったようです(『研究』研究篇上pp.46-47)。「しらなみ」は、『近松浄瑠璃譜本』(総合資料)から知られる近世のHHHLをLLLLからの正規変化と見ておきます(現代京都ではHHHHだそうです)。実際、「波」(なみ LL)と同じアクセントの「かし【樫】」「たま【玉】」に終わる「しらかし」「しらたま」がこのアクセントで言われますし(しらかし LLLL、しらたま LLLL)、構成の似た「あつもの【羹=熱物】」「くろつち【黒土】」「わかづの【若角】」も「あとぅもの LLLL」「くろとぅてぃ LLLL」「わかンどぅの LLLL」と言われます。ただ、成素のアクセントを同じくする「しらきく【白菊】」「しらはぎ【白萩】」は「しらき LLLH」「しらふぁン LLLH」のようですし、同趣の「ながたち【長太刀】」「ふかぐつ【深沓】」「ふかぜり【深芹】」は「なンがたてぃ LLLH」「ふかンぐとぅ LLLH」「ふかンじぇ LLLH」のようですし、またやはり低起形容詞の語幹と二拍三類名詞とからなる「あをくさ【青草】」「あをやま【青山】」「ながはま【長浜】」「ふること【古言・古事】」「ふるとし【旧年】」「わかくさ【若草】」は「あうぉしゃ LLHL」「あうぉま LLHL」「なンがふぁま LLHL」「ふると LLHL」「ふるし LLHL」「わかしゃ LLHL」と言われたようです。あなわンどぅらふぁし

 まじる【混・交】(まンじう LLF) 

 いざけふは春の山辺にまじりなむ暮れなばなげの花のかげかは 古今・春下・素性。いンじゃあ けふふぁ ふぁうの やまンまンじりなムンば なンげの ふぁなの かンかふぁ LFLHH・LFLLLFH・LLHHF・HLHLLLL・LLLLFHH。「なげの」は有力な古今集声点本がすべて「なの」とし〈平上平〉を差しますけれど、毘・高貞680の「めづらしげ」〈平平平平平〉(めンどぅらしンげ LLLLL)や毘65の「惜しげ」〈(平平)平〉(うぉしンげ LLL)によっておきます。これらの「け」は無論「気」で(呉音)、単独では「けえ L」のようです。なお袖中抄は「寝よげに」に〈上上上(上)〉(ねよンげに HHHH)を差しますが、これは「気(け)」のアクセントについて多くを語りません。例えば「あや【文】」(あや LL)と「め【目】」(め L)との複合した「あやめ」は「あやめ LLL」ですが、「とり【鳥】」(とり HH)と「目」の複合した「とりめ」は「とりめ HHH」です。

 まどふ【惑】(まンどう LLF)  『問答』が前項の「いざけふは」の歌の三句目を「まどひなむ」とした上で〈平平上○○〉を与えています。「まどはす」は「まンどふぁしゅ LLHL」。

 まねく【招】(まねう LLF)

 まもる・まぼる【守】(まもう・まンぼう LLF) この「ま」は「目」(めえ L)なので、低起式なのは当然といえます。「守(も)る」は「もう LF」でした。 

 まよふ【迷】(まよう LLF)  源氏・玉鬘(たまかづら)(たまかンどぅ LLLLH)に、たくさんの牛車がてんでんばらばらに動くさまを「まよふ」と言うところがあります。下に引く源氏・総角では大君の髪を形容して「まよふ筋なく」(まよ しゅンでぃく LLHLHRL)と言っているのは、きれいなストレートだというのです。「筋(すぢ)」(しゅンでぃ LH)は線のこと、線状のもののことで、一本一本の髪の毛も「筋」です。この言葉は今昔でずいぶん印象を異にします。

 白き御衣(おほんぞ)に、髪はけづることもしたまはで程へぬれど、まよふ筋(すぢ)なくうちやられて、日頃にすこし青みたまへるしも(青ザメテイラッシャルノデカエッテ)、なまめかしさ(シトヤカナ美シサガ)まさりて、ながめいだしたまへる目見(まみ)、額(ひたひ)つきのほども、見知らむ人に見せまほし。
 しろい おふぉムじょおに、かみふぁ けンどぅる ことい たまふぁンで ふぉンど ふぇえぬれンど、まよ しゅンでぃ く うぃい やらふぃンごろに しゅし あうぉい たまふぇも なまめかししゃ ましゃなンがえ いンだい たまふぇる まみ、ふぃたふぃとぅきの ふぉンどお、みしらム ふぃみしぇまふぉい LLF・LLHHH・LLH・HHHLLF・ FLLHL・HLRHLL・LLHLHRL・LFHHLH・HHHH・LHL・LLFLLHLHL・LLLLHH・HHLH・LLFLLFLLHL・LL・HHHHLL・HLF・ℓfHHHHLH・LLLLF。

 みだる【乱】(みンだう LLF) 四段動詞の「みだる」は現代語の「みだ」と同義の他動詞で、現代語とは言えませんけれども、ただ「みだりに何々してはいけない」など言う時の「みだりに」は、この四段動詞に由来します。「みだりに」は平安時代にも今と同じ意味で使った言い方です(みンだり LLLH)。何かをむやみにすることは秩序をみだすことだという発想から成立したのでしょう。
 「みだす」は『三代実録』に見えているそうですが(広辞苑)、仮名文では使わなかったかもしれません。源氏・椎が本(しふぃンが もと LLLLL)の別本の本文、「をのこはいとしも親の心をみだらずやあらむ」(うぉのふぁ も おやの こころうぉ みンだンじゅあ あら HHLH・HLHL・LLLLLHH・LLHLF・LLH。男の子はあまり親の心を乱さないのだろうか)における「みだらず」を、青表紙本も河内本も「みださず」としますが、青表紙本でも「みだす」はここにしか見えず、ほかの十数か所では四段の「みだる」を使うようです。

 もどく【擬】(もンどう LLF) よく知られているとおり、「真似をする」「似せる」――「雁(がん)もどき」の「もどき」はここからきています――という意味と、そこから転じた「非難する」「批判する」「悪口を言う」といった意味とで使われます。源氏・賢木(しゃかき LLL)に、「なにごとも、人にもどきあつかはれぬ際はやすげなり」(なにンごとも、ふぃ もンどあとぅかふぁれぬ きふぁふぁ やしゅンげり。LHHHL、HLH・LLFHHHHHH・LLH・LLLHL)という鋭い観察があります。名詞「もどき」はおそらく「もンどき LLL」でしょう。「もどかし」(もンどかい LLLF)は「非難したい(批判したい、悪口を言いたい)気持ちだ」という意味ですから、やはり古今同義語ではありません。

 もどる【戻】(もンどう LLF) 『源氏』では「宿木」の巻に一度あらわれますけれども、それは東国なまりの、「声うちゆがみたる者」(こうぇえ うてぃゆンがみた もの LF・LFHHLLH・LL)の発話中のものです。都びとは「帰る」(かふぇう LLF)を好んだのかもしれません。

 やすむ【休】(やしゅう LLF)

 やつす【窶】(やとぅしゅう LLF) 現代語として「身をやつす」は、相当みすぼらしい姿をすることを言うでしょうけれども、平安仮名文では、「華やかでない格好をする」という程の意味でも使いました。この動詞が「目立たない姿をさせる」といった意味で使われたことは、記す価値がありそうです。例えば、

 御車(みくるま)もいたくやつしたまへり。源氏・夕顔(ゆふンがふぉ HHHL)。みくるまも いく やとぅい たまふぇり。HHHHL・LHL・LLFLLHL。

は、「お車(牛車)もたいそう目立たない姿にさせていらっしゃる」というのであり、

 さうじみをなほなほしくやつして見むことは、いみじくあたらしう思ひなりぬ。同・東屋(あづまや)(あンどぅまや LLLL)。しゃうンじみうぉ なふぉなふぉく やとぅして みいムう ことふぁ、いみンあたらしう おもふぃい なりぬう LLLHH・LLLLHL・LLHH・LHLLH・LLHL・HHHHL・LLFLHF。「さうじみ」は「正身」。呉音のようですから、LLLHと推定されます。

とあるのは、浮舟(うきふね HHHL)の母が、娘に平凡な、華やかでない姿をさせるのは(=そんな格好しかできないところに娘を嫁がせるのは)勿体ないと思うようになった、というのです。

 やとふ【雇】(やとう LLF) 

 やどす【宿】(やンどしゅう LLF) 「宿(やど)」は「やン LH」です。

 やどる【宿】(やンどう LLF)

 やぶる【破】(やンぶう LLF) 四段の「破(や)る」(やう LF)も近い意味です。「論破する」といった意味でも使ったようで、例えば源氏・常夏(とこなとぅ HHHH)において近江の君(あふきみ)が「例の、君の、人の言ふこと破りたまひて。めざまし」(れの、きみのふぃとの いふ こと やンぶい たまふぃて。めンじゃまいしい LHLHHHHLLHHLLLLFLLHH。LLLF)と言っています。この「破る」には「言ひ破る」(ひ やンぶう HLLLF)というヴァリアントがあります。この複合動詞は源氏・蜻蛉に見え、同・浮舟にもその主格敬語形「のたまひやぶる」(たまふぃい やンぶう HLLFLLF)があらわれます。

 ゆるす【許】(ゆるしゅう LLF) 四段の他動詞「さらす」(しゃらしゅ HHL)に対して、「さらされる」を意味する上二段の自動詞「さる」(しゃる HL)があったように、四段の他動詞「ゆるす」(ゆるしゅう LLF)に対して「許される」を意味する上二段の「許(ゆ)る」(ゆう LF)があります。もっともその初出は平安末期(『長秋詠藻』)のようで、平安中期にはもっぱら「ゆるさる」(ゆるしゃう LLLF)が使われたのかもしれません。

 (美声ノ持チ主ノイルノヲ聞キツケタ光ル源氏ハ)いとうれしくて、(近ヅイテ)ふと袖をとらへたまふ。女、おそろしと思へるけしきにて、「あなむくつけ。こは誰(た)そ」とのたまへど、(源氏ハ)「何かうとましき(コワイコトナンテアリマセン)」とて、

 ふかき夜のあはれを知るも入る月のおぼろけならぬちぎりとぞおもふ

とて。(抱キ上ゲテ庇(ヒサシ)ノ間(マ)マデ運ビ)やをら(ソット)いだきおろして、戸はおしたてつ。あさましきにあきれたるさま、いとなつかしうをかしげなり。わななくわななく、「ここに人」とのたまへど、「まろは(私ハ。『まろは何とかでおじゃる』の『まろ』とは同一視できません)皆人(みなひと)にゆるされたれば、召しよせたりともなでふことかあらむ(何トイウコトモアリマセン)。ただしのびてこそ(ドウカ静カニシテイテクダサイネ)」とのたまふ声に、この君なりけり(アノ御方ダッタノダ)、と聞きさだめて、いささかなぐさみけり。源氏・花の宴(ふぁなの いぇん LLLLL)。
 と うれと(「ふ」のアクセント推定) しょンでうぉふぇ たまう。うぉムな、と おしょろいと おもふぇる けしきにて、「あな むくとぅけ(四拍推定。HHHHかも)。こおふぁあ たあしょお(コーファーターしょー。笑ってはいけません)」と たまふぇンど、「なにかうとましきい」と HLLLHLH、HL・HHHLHLLLF。HHL、HLLLLFL・LLHLLLLHH、「LLLLLL。HHHL」L・HLLHL、「LHFHHHHF」LH、

  ふかい よおのお あふぁうぉ しるいる とぅきの おンぼぬ てぃンぎりとンじょお おも

やうぉら いンだき おろして、とおふぁあ おし たてとぅう。/ LLFLL・LLFHHHL・HHLLL・LLHL(後半二拍推定)HLH・HHHLFLLH / LH。HHH・HHLLLHH、HH・HLLHF。あしゃまししゃに あきれたる しゃまと なとぅかう うぉかしンげり。わななわななく、「ここに ふぃと」と たまふぇンど、「まろふぁ みなふぃとに ゆるしゃンば、めしぇたお な ことあ あら。たンしのンてこしょ」と たまうぇに こおのお きみりけりと き しゃンだめて いしゃしゃなンぐしゃり。HHHHHH・HHLLHHH、HL・LLLHL・LLLLHL。HHHLHHHL、「LHHHL」L・HLLHL、「LHH・HHHHH・LLLHLHL、LFHLLHLF・LHLHLLF・LLH。LF・HHLHHL」L・HLLHLFH・HHHHLHHLL・HLLLHH・LLHL・HHHLHL。

 ゆるふ【緩】(ゆるう LLF) 現代語「ゆるむ」のもとの言い方「ゆるぶ」は、もともとは「ゆるふ」だったようです。例えば図名は「慢」に「ゆるひて」〈平平上上〉(ゆるふぃて LLHH)という訓みを与えています。

 よどむ【淀】(よンどう LLF) 名詞「よどみ」は「よンどみ LLL」です。

 よわる【弱】(よわう LLF) 「よはる」ではなく「よわる」です。形容詞「よわし」は「よわい LLF」。

 玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば忍ぶることの弱りもぞする 新古今・恋一1034・式子内親王。たまのうぉよ たいぇなンば たいぇねえ なンがらふぇンば しのンぶる ことの よわもンじょしゅる LLLHL・LHHLLHF・LLLHL・HHHHLLL・LLHLFHH。このまま生きながらえたら耐え忍ぶ気持ちが弱まるかもしれない、というのです。

 わかつ【分】(わかとぅう LLF) 「手をわかちて」という言い方が昔はあって、『竹取』や『落窪』や『栄花』に出てきます。現代語の「手分けをして」に当たる言い方です。現代語として「手を分けて」という言い方をしてもよいはずですけれども、聞きません。

 「蔵人の少将の君も、(裁縫ノ上手ナ落窪ノ君ガイナイノデ)御衣(おほむぞ)どもわろし、とて、出づと入ると(妻ノ家ニ出入リスル時)むつかりて着たまはず(オ召シニナリマセン)」などあるときは(トイッタコトガ耳ニ入ルノデ)、(姑トシテ)わびしうて、ものせむ人もがなとて、ここかしこ手をわかちて(縫ッテクレル人ヲ)求めたまふ。落窪・巻二。
 「くらんしぇうしやう(推定。漢音)の きみも、おふぉムじょおンども わろい、と、いンどぅうと ると むとぅかて きい たまふぁンじゅ」など あ ときふぁわンびし、ものしぇム ふぃンがあと、ここ かしこ てぇえうぉお わかてぃて もとえ たまう。「LLLHL・HLLLLL・HHL、LLHHHL・LLF、LH、LFLHLL・HHHLH・FLLHL」RL・LHLLH、HHHLH、LLLHHLHLFLH、LHHLL・LHLLHH・LLFLLF。「商人(あきびと)」は「あきンび LLLH」ですから、その変化した「あきうど」も(末拍の濁ることも考えると)「あきん LLLH」と言われたでしょうし、「田人(たうど)」も「たん LLH」と言われたようなので、「蔵人(くらうど)」は「くらん LLLH」と 言われたと考えられます。「蔵」は「くら LL」でした。

 ゑかく【描】(うぇえ かう LLF) 便宜上ここに置きます。図名が「繢」という漢字を「ゑかいて」と第二拍清音で訓んでいます(アクセントは〈平平上上〉。うぇえ かいて LLHH)。現代語には「描(えが)く」という一語の動詞があって、それゆえ「何々をえがく」という言い方は、「何々描く」が変であるのとは異なり変ではありませんけれど(「えがく」はむしろ「絵かく」ことだと言うべきかもしれません)、平安時代の京ことばにあったのは、複数の辞書の見るとおり、「絵を描(か)く」(うぇえうぉお う LHLF)という言い方や、その「を」を言わない「ゑかく」(うぇえ かう LLF)という言い方だったようです。

 をしむ【惜】(うぉしう LLF)  「惜(を)し」は「うぉしい LF」です。

 この節の最後に次の動詞を取り上げておきます。事情が少し厄介です。
 よばふ【呼】(よンばふ HHL)
 よばふ【夜這】(よンばう LLF)
 「呼ぶ」(ンぶ HL)が反復を意味する接辞「ふ」を従えた、「呼び続ける」といった意味の「呼ばふ」という動詞があり、当然ながら図名が〈上上平〉を差し(「謼」への注記ですが同じことです)、下に引くとおり毘・高貞・寂539にも同趣の注記が見られます。『26』が「呼ばふ」を⓪とするのは尤もです。

 うちわびてよばはむ声にやまびこのこたへぬ山はあらじとぞ思ふ 古今・恋一539。「よばはむ」に毘・高貞が〈上上上上〉を、寂が〈○上上○〉を差しています。うてぃンびて よンばふぁムうぇ やまンこの こたふぇ やまふぁ あらンいとンじょお おも LFHLH・HHHHLFH・LLHLL・LLLHLLH・LLFLFLLH。人が途方にくれて叫びつづけるその叫びに山彦は答えるものだ、というのですが、恋一に収められていることから、私の気持ちに答えてほしいというアレゴリカルな訴えだと解されます。

 さて古語辞典はこの「呼ばふ」に「求婚する」「言い寄る」といった意味もあるとします。確かにこちらの語義は高起動詞「呼ばふ」が派生的に持つようになったものですけれども、平安末期や鎌倉時代には、この二番目の意味の「よばふ」は別のアクセントを持っていたようです。すなわち、袖中抄が「婚」の字を当てる「よばひけり」に〈平平上(上平)〉(よンばふぃけり LLHHL)を差し、改名も二か所で「嫁」を「よばふ」と訓んで〈平平上〉を与えます。「求婚する」「言い寄る」を意味する「よばふ」は低起式であり、すでに「呼ばふ」とはアクセントが異なる以上、別の語と見なすべきだと思われます。上の「うちわびて」の歌における「よばふ」は、この二つの異なる「よばふ」を兼ねていると申せます。
 このもう一つのほうの意味である低起式の「よばふ」には多かれ少なかれ「夜這ふ」のイメージが重なっていたでしょう。夜、這ってゆくから「よばふ」であり「よばひ」なのだという語源俗解はすでに『竹取』に見えています。

 世界の男、あてなるもいやしきも、いかでこのかぐや姫を得てしかな、見てしかな、と音に聞きめでて(ウワサニ聞イテ興奮シテ)、まどふ。そのあたりの垣にも家の外(と)にも、をる人だにたはやすく見るまじきものを、夜はやすきいも寝ず闇の夜に出でても(出ルトイウコトヲシテデモ)穴をくじり、かいまみまどひあへり。さる時よりなむ、「よばひ」とは言ひける。
 しぇえかいの うぉとこ、あても いやしお、ンで こおのお かンぐやふぃうぉ いぇえてしあ、みいてしあと、に きき めンでて まンどう。しょおのお あたりの も いふぇのとおにも、うぉふぃとンに たふぁやしゅく みるまンじい ものうぉ、よるふぁ やしゅい いいねえンじゅう、やみの よおにい いンでても あなうぉ くンじりかいまみい まンどふぃい あふぇり。しゃ ときム、「よンばふぃ」とふぁ いふぃる。LLLLLLL、HHLHL・LLLFF、HRH・HHHHHHLH・RHHLF、RHHLFL、HLHHLLHH、LLF。HHHHLL・HLHL、LLLHHL、HLHLHL・LLLHL・LLLLFLLH、LHH・LLFLFHL、LLLLH・LHHL・LLHLLF、HHHF・LLFLHL。LHLLHLHL、「LLL」LH・HLHL。「貴(あて)」は伝統的な現代京ことばではHLのようですけれども往時にはHH、「穴」は現代京ことばでは(単独では)LHのようですけれども往時はLLだったようです。それから、伝統的な現代京ことばでは「夜(よる)」はLFとも、やや少数派ながらLHとも言われたようです。若い京都人はもっぱらLHでしょうから先祖返りしたみたいですけれども、「夜に」は平安時代には「よるに LHH」で、今の若い京都人は「よに」とおっしゃるでしょう。

 平安末期、アクセントの異なる二つの「よばふ」があったと考えられますけれども、ありようは平安中期にも同じだったと思います。ここで「流れ星」を意味する「よばひぼし」のことを考えます。これは当時「よンばふぃンし」と言われたでしょう。後世の資料ということになりますが、改名の一つ(高山寺本)が「よし」に〈平平平上○〉を差し、いま一つ(観智院本・仏中)が「よばひし」に〈平平○○○〉を差しています。ちなみに『26』はこの名詞を⓪とし、『43』は②とします。

 よばひぼし、少しをかし。尾だになからましかば、まいて。枕・星は(239。ふぉしふぁ HHH)。よンばふぃンし、しゅし うぉかい。うぉおンだに なからましかンば、 LLLHL・LHLLLF。HHL・RLLHHLL・HLH。 

 しっぽさえなかったら「よばひ星」はもっと面白い、と清女(せいじょ)が言うのはなぜなのでしょう。流星はそもそも尾と尾以外とが区別されるものではないようですし(長短さまざまな線分でしかないことが多そうです)、彗星も(彼女はじつは彗星――「ははき星」〔ふぁふぁきンし LLLHL。「ははき【箒】」は「ふぁふぁ LLH〕――のことを言っているのだとする向きもあります)尾さえなかったらもっと面白いという感想の出るようなものとは思えません。「よばひ星」によっていずれが想像されていたのであれ、「尾」がなかったら、たんに光点が移動するだけでしょう。彼女は実物を見た感想を書いているのではないのだと思います。では彼女の感想は何にもとづくのか。思うに清女が「よばひ星」の「尾」というとき思いえがいていたのは「夜、這ふ星」(よ、ふぁふ ふぉし LH・LHHH)としての「夜這ひ星」の「尾」であり、彼女はそれを、とかげのしっぽのような、何かニョロニョロとしたものと思っていたのではなかったでしょうか。ああいうものはきらい。ないほうがいい。なかったらもっと面白い。「呼ばひ星」という理解からはこういう見方は出ないでしょう。すると、平安中期、高起式の「呼ばふ」とは異なる低起式の「夜這ふ」があったのです。
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