13 単位を定義する [目次に戻る]
例えば「環境庁長官」は東京では、まず「環境庁」を③で言ってから「長官」を⓪で言うので(かんきょーちょーちょーかん)、アクセント上は二つの部分からなると申せます(京都では「かんきょーちょーちょーかん」〔④+⓪〕か「かんきょーちょーちょーかん」〔⑦〕だそうです)。「あなたは環境庁長官ですよ」は東京では、アクセント上、「あなたは/環境庁/長官ですよ」という三つの部分からなります。この文は二つの文節からなりますから(「あなたは/環境庁長官ですよ」)、今考えようとしている単位、アクセント上の単位は文節とは別のものですけれども、例えば「あなたは長官ですよ」では両者の区分は一致するわけで、現代語において、文のアクセント上の切れ目と意味上の切れ目とが多くの場合重なることは容易に想像できます。以下、平安時代の京ことばでは何をアクセント上の単位とするか、考えてみます。
「あなたは/環境庁/長官ですよ」において各部分のアクセントは、隣接する部分を眼中に置かなくても了解できます。隣接する部分どうしの間に影響関係は見られません。この意味で各部分は独立していて、この独立しているということが、一つの単位を一つの単位たらしめています。
このことに関しては、例えば東京における「音調句」のことを申しておかなくてはなりません。ずうーっと前のほうで、「この柿」は通常「このかき」と言われ、これは一つの音調句をなすと申しました。ここで「柿」の初拍の高いのは「この」を先立ててるいるからで、その意味でこの言い方において「この」と「柿」との間には影響関係が認められます。
それから、現代京都などにおける「遅あがり」。よく知られているとおり、例えば「海」は単独では「うみ」ですけれども、「海に」は「うみに」ではなく概略「うみに」、「海に行く」ではさらに概略「うみにゆく」というように、上がり目が後ろにずれてゆきます。「うみにゆく」における「うみに」のアクセントは、それだけを見つめてもそのようである理由を了解できません。
こんなふうに、文節より大きいまとまりを考えないとアクセントのありようを理解できないということが現代語では起こるわけですけれども、平安時代の京ことはでは、さしあたりは文節より長い部分を考慮する必要はないようです。平安時代の京ことばに遅上がりという現象のなかったことは先覚の説くとおりですし、低起式の名詞が「この」なら「この」を先立てると高起式になるというようなことは今も昔も京都では起こるべくもありません。平安時代の京ことばのアクセントにおいて文節より長いまとまりを考慮する必要があると見るべき理由はないようです。
さて例えば現代東京において「花が」の「が」は低く、「鼻が」の「が」は高いのは、「花」(②)と「鼻」(⓪)とのアクセント上の性質の差に由来しているわけで、「花が」「鼻が」における「が」のアクセントは先だつ名詞のことを考えに入れなければ了解できないのですから、「花が」の「花」と「が」とを、そして「鼻が」の「鼻」と「が」とをアクセント上別単位とすることはできません。「花が」で一単位、「鼻が」で一単位です。
ここで注意すべきは、「花が」において「が」の低いのは名詞が末拍にアクセントの下がり目をもっていて「が」がそれに応じて下がるからだ、ということは名詞と助詞とのあいだに影響関係があるからだ、と申せるのに対して、「鼻が」の「鼻」は「が」に何も求めず、そのため「が」が本来の高さを維持していると言いうる、という点です。平安時代の京ことばでも「鼻が」(ふぁなンが HHH)は言いうる言い方であり、東京の「鼻が」にはその面影が認められます。しかしそれでも、東京における「鼻が」は、「花が」と同様、アクセント上、一つのまとまりを、ということは一単位をなすと考えることができますし、またそう考うべきだと思われます。例えば、東京で複合名詞「たぬきそば」が④で言われるのは、つまりそこでは「たぬき」が①ではなく⓪で言われるのは、この「たぬき」と「そば」とがアクセント上切り離せない関係にあるからで、すると「たぬきそば」は一単位です。では「きつねそば」(④)はどうでしょう。この言い方では「きつね」(⓪)も「そば」(①)ももともとのアクセントを保っていますから、定義によっては二単位とすることもできますけれど、これもまた一単位とするのが実際のありように即しているでしょう。「たぬきそば」「にしんそば」「おかめそば」のような、明らかに複合名詞としてのアクセントを持つものと並べてみるならば、それらを複合名詞と呼んで「きつねそば」をそう呼ばないのは整合的でありません。「きつねそば」は各成素のアクセントを保ったまま複合名詞としての標準的なアクセントをとれるのでげんにそうしたアクセントをとっている、と見るのが自然です。『日本語アクセント入門』(三省堂)も「アボカドヨーグルト」のような例を示して、これを一単位の複合名詞とします。
一般に助詞は先だつ自立語からの要請を受けうる場所に位置していて、「花が」のような言い方では実際そうした要請があって助詞は低まりますけれども、「鼻が」ではそうした要請はないので低まりません。低まりませんが、そうした要請を受けうる場所に位置していることに変わりはないので、そうしたものとして「鼻が」もまた一単位をなす。こういう言い方をすることもできそうです。
平安時代の京ことばのアクセントを考える時にも、「単位」をこうした意味で使うのが、ことのありように即するでしょう。まず、隣り合う二つの言葉の間にアクセント上の影響関係が認められるならば(遠隔作用は存在しないようです)、その隣り合う二つの言葉は同じ単位に属します。すでに引いた例ばかりですけれども、次のものらにおける下線部は、明白に一単位、ないしその一部をなします。
はじめに、付属語や付属語の一部が先立つ部分の低下力によって低まる例。
米(こめ)だにも〈平平上平平〉(岩紀107。こめンだにも LLHLL)
かくしもがも〈上平平上[原文、東点]平東〉(同102。かくしもンがもお HLLHLF)
つかはすらしき〈上上上平平平東〉(同103。とぅかふぁしゅらしきい HHHLLLF)
生りけめや 〈平上平平上〉(同104。なりけめやあ LHLLF。「なりけめやあ LHLHF」からの変化と見る場合)
おもふらむ〈(平)平上平平〉(図名。おもふらム LLHLL)
に見られるように柔らかい拍が低まるばかりでなく、汝(な)が形は〈上上上平平〉(前紀75。なあンがあ かたふぁRHHLH)
早くはめでず〈平上平平平上平〉(図紀67。ふぁやくふぁ めンでンじゅ)
汝(な)こそは〈上上平平〉(前紀62。なあこしょふぁ RHLL)
おほきに〈平平上平〉(図名。おふぉきいに LLFL)
に見られるように、本来的に高い拍も、早くから低下力に屈することがあるのでした。
次に、柔らかい拍が高い拍の次で低まる例。これらにおいて柔らかい拍が低まっているのは先だつ部分が高いからなので、先立つ部分が低く低下力も働かない場合、柔らかい拍は勝手に低まることができません。
千代にも〈平東上平〉(岩紀102。てぃよおにも LFHL)
生りけめや 〈平上平平上〉(同104。なりけめやあ LHLLF。「なりけめやあ LHHLF」からの変化と見る場合)
さきでそもや〈平平平上平東〉(同108。しゃきンでしょもやあ LLLHLF)
にくみするをも〈平上平上上上平〉(図名。にくみ しゅるうぉも LHLHHHL)
それから、「の」は先立つ拍によって高さを変えるのでしたから、「の」だけで一単位をなすことはできません。おほきみの〈平平上上上〉(岩紀103。おふぉきみの LLHHH)
岩の上(へ)に〈上平平平上〉(岩紀107。いふぁの ふぇえにい HLLLH)
さしあたり最後に、
我が手をとらめ〈平上平上平平東〉(岩紀108。わあンがあ てえうぉお とらめえ LHLHLLF)
に見られるような、動詞が、その動詞に特殊形を要求する付属語を従える場合、動詞と付属語とは一単位をなします。この言い方において動詞のとるアクセントは、付属語のことを考えなくては了解できません。今までの例とは主従が逆ですけれども、影響関係があるという意味では変わりがありません。
確かに、例えば「あすよりは」〈平平上平上〉(図紀86。あしゅよりふぁ LLHLH)において「は」の高いのは先立つ部分の低下力に屈しないからですが、しかし、これは低下力を受けつつもそれに屈せずに卓立しているのであって、屈しうる以上、屈していないから影響はないとすることはできません。「あすよりは」〈平平上平平〉は一単位をなすが「あすよりは」〈平平上平上〉は二単位だとするのは整合的でありません。
岩紀104の「飯(いひ)に」〈平平上〉(いふぃに LLH)も同断です。この「に」などはもともとのアクセントで言われているわけですけれども、この「に」は低まることができません。先立つ拍が低平連続調なので、ということは先立つ部分との関係において、低まることができないのです。
「単位」を、例えば「あすよりは」〈平平上平上〉の「は」、「飯(いひ)に」〈平平上〉の「に」はもともとのアクセントを保持している以上独立の単位をなす、というように定義するならば、それらは現代東京の「きつねそば」と同様二単位だということになりますが、しかし「単位」をそのように定義するのは、ことのありように即しません。
岩紀107の「食(た)げて」〈平上上〉(たンげて LHH)もまた、一単位をなすでしょう。例えば「食(た)げし」(たンげし LLH)は一単位だが、「食(た)げて」〈平上上〉は二単位だとすべき理由があるとは考えられません。「食(た)げて」〈平上上〉において動詞の末拍は(東点ではなく上声点が差されているものの)下降するが、二単位ゆえ低下力が働かないのだ、とする向きもありますけれど、そもそも二単位だと見るべき根拠はありません。ちなみに、仮に二単位だとしても、それと動詞末拍は高平調だという命題とは両立し得ます。
なお、文節末で下降調をとるから文節中でもそうだということは言えません。「食(た)げて」〈平上上〉において動詞の末拍は下降すると見る説得的な根拠はないと思います。金田一春彦の直観は正しかったと思います。
平安時代の京ことばにおいても、これら「あすよりは」〈平平上平上〉、「飯(いひ)に」〈平平上〉、「食げて」〈平上上〉のような、自立語も付属語も本来のアクセントを保つ場合も含めて、自立語と付属語とはアクセント上一単位をなすと見なくてはなりません。平安時代のある時期以降においてそうであることはつとに諸先覚の見る通りですけれども(例えば鈴木さんの「平声軽点の消滅過程について
―六声体系から四声体系への移行―」〔web〕)、それ以前からありようは同じだったと見られます。くり返しになりますが、早くから、「あすよりは」〈平平上平上〉(図紀86。あしゅよりふぁ LLHLH)のような言い方がある一方、「汝(な)が形(かた)は」〈上上上平平〉(前紀75。なあンがあ かたふぁ RHHLL)や「早くはめでず」〈平上平平平上平〉(図紀67。ふぁやくふぁ めンでンじゅ)のような言い方があり、反対に鎌倉時代にも、「むべも」〈上平上〉(訓(22)。むンべもお HLF)、「如(ごと)は」〈上平上〉(梅・京中・高嘉・伊・寂・毘402。ごとふぁ HLH)のような言い方がなされたのであってみれば、平安時代のある時期、アクセントにおける自立語と付属語との関係に劇的な変化があったとは思われません。平安初中期において、すでに付属語は自立語と同じ単位に属しました。平安初中期から鎌倉時代にかけて変化がなかったわけではありません。しかしそれは、長期にわたって徐々に下降形式の持つ低下力が強まってゆくという変化でした。
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