4 理論的考察(I) [目次に戻る]
a 下降拍の長短 [目次に戻る]
平安時代の京ことばのアクセントに関する基礎知識をさらうことから始めます。現代の東京語では例えば「春(はる)」は「はる」と発音されます。この「は」のアクセントは高平調、「る」のアクセントは低平調と呼ばれます。一般に東京語は、この「はる」がそうであるように、高さを保つ拍(高平拍、高く平らな拍)と低さを保つ拍(低平拍、低く平らな拍)とからなりますけれども、現代の京ことばは、この二つのほかに、拍内下降する拍、「下降拍」とも「くだり拍」とも呼ばれるものを持っています。例えば現代京都では、すでに多くの話し手が「春」を「はる」と発音なさるでしょうが、年配のかたなどは、「春。」と言い切る時などには、「はるぅ」とおっしゃると思います。例えば「春は」のように助詞をつける時はその限りでなく、「春は」ならば「はるは」とおっしゃるかもしれませんけれども、これも伝統的な現代京ことばでは「はるぅは」と言われたようです。
この「はるぅ」の第二拍は純粋の一拍より少し長いでしょうが、二拍には、ということは全体で実質三拍の「は・る・う」という言い方にはならないようです。「るぅ」と表記したのは、二拍の「るう」(字面を考えて「るー」としませんけれども同じことです)とは異なること、それよりも短く言われることを示すためで、紹介済みの楳垣實さんの『京言葉』(昭和21年)がすでにこの表記法を採っていました。現代京都における下降拍は、実質二拍のものではなく、一拍よりやや長くてよいが二拍ほど長くはない長さの言い方です。
現代の京ことばはまた、拍内上昇する拍、上昇拍、のぼり拍など呼ばれるものを持っています。例えば「目」は、「目。」のように言い切る時には「めえ」と発音されます。ちなみに言い切らない時は、「目に」(めえに)、「目、痛い」(めえ、いたい)のように低く平らに言われます。
さて平安時代の京ことばも高平拍、低平拍、下降拍、上昇拍を持っていて、これは現代京都と同じですけれども、ただし下降拍や上昇拍のありようには、今昔で差があるようです。例えば現代京都では上昇拍は「目」のような一拍語にしかあらわれませんが、平安時代には二拍語などにも現れました。例えば「百合(ゆり)」は「ゆうり」と言われました。
下降拍のありようにも、今昔で差があります。すなわち、そう考える根拠は追い追い申しますけれども、平安時代には、二拍以上の言葉に含まれる下降拍において、長いそれと短いそれとがあったと考えられます。現代京都では例えば「歯」は、英語のher(ただしrの響かないいわゆる英国式のそれ〔注〕)に似て「はあ」と言われます。大阪でも奈良でもそうで、例えばかの明石家さんまさんが「はあ」と発音なさるのを、多くの人が耳にとどめていらっしゃるでしょう。一拍語は昔も一般に引かれたので、下降調をとる一拍語も当然に引かれて言われたでしょうけれども、二拍以上の言葉に含まれる下降調は、現代京都では二拍分の長さは持ちません。しかし平安中期には例えば「春(はる)」(ふぁるう)における下降拍は二拍分の長さで言われ得たと考えられます。また例えば「見る」の終止形「見る」は、全体で実質三拍の「みるう」のようにも、全体で実質二拍ほどの「みるぅ」のようにも言われたと考えられます。
注 しばしばアメリカ英語はrが響き(rhotic)、イギリス英語は響かない(non-rhotic)とされますがこれは不正確で、例えばシェークスピアの時代の英語(初期近代英語)はrhoticだったそうです。
平安時代の都びとは、文字のまわりに「声点」(しょうてん)と呼ばれる小さな点を差す(=記す・注記する)ことでアクセントを示すという方法(「差声方式」)を持っていました。ちなみに、アクセントのことを往時は「声」を音読みして「しょう」〔高いところなしの「しやう」。呉音〕と言ったそうです。声点は中国において漢字音のアクセントを記すために考案されたもののようで、日本でもそれを用いて漢字や和語のアクセントを記述することがなされましたが、その記述のしかたに二つの流儀がありました。ある拍が下降調であることを示すのに「平声(ひょうしょう)の軽点(かるてん)」ないし「東点(とうてん)」と呼ばれるものを用いる流儀(一般には「六声体系」など言われます)と、用いない流儀(一般には「四声体系」など言われます)と、この二つです。この文章では「六声体系」「四声体系」という言い方を踏襲しませんけれども、これはそうした言い方はあまり適切でないと思われるからです。
二つ目の流儀のことから申します。この流儀は基本的に二元的です。それは基本的には文字の左下に点を差すことでその文字が低平拍であることを示し(そうした点を「平声点(ひょうしょうてん)」と言います。「平声の軽点」と対比させるために「平声の重(おも)点」とも言われるそうです)、文字の左上に点を差すことで(そうした点を「上声点(じょうしょうてん)」と言います)その文字が低平拍以外の拍であること、ということは高平拍か下降拍か上昇拍であることを示す流儀です。ただこの流儀では、時に文字の右上に点を差すことでその文字が上昇拍であることを示すことがありますけれども(そうした点を「去声点(きょしょうてん)」と言います)、上声点によって上昇拍であることを示すことのほうが多いようです。二つ目の流儀と申したところのものは、こうしたものです。こうした差声方式が「四声体系」など呼ばれるのは、平声点、上声点、去声点のほか、いま一つ、文字の右下に差される「入声点(にっしょうてん)」と呼ばれるもの(詳細後述)を勘定に入れるからですけれども、これは有名無実といったもので、実際には使われません。「四声体系」という名は体をよくあらわしていません。
ちなみに、すでに中国において、平声とそれ以外とを区別することがなされていました。すなわち、今でも「平仄(ひょうそく)が合わない」と言いますけれども、この「平仄」は元来「平字(ひょうじ)」と「仄字(そくじ)」との総称で、「平字」は平声の漢字、「仄字」は上声・去声・入声の漢字をまとめてそう呼んだのでした。
二つ目の流儀が基本的に平声点と上声点とだけを使うものだったのに対して、一つ目の流儀は、基本的には、今申した平声点、上声点、去声点に加えて平声の軽点(東点)の都合四つを使います。ですからむしろこちらこそ「四声体系」と呼ばれてよいものですが、それでは混乱を来たします。それで「東点を用いる流儀」「東点を用いない流儀」という言い方をするのです。
平声軽点(東点)とは、文字の左下よりも少し上に、ということは平声点の位置より少し上に差される点のことで、この点はそれを付した文字が下降拍であることを示します。ちなみにこの流儀が「六声体系」など呼ばれるのは、入声点と、その位置よりも少し上に差される、「入声(にっしょう)の軽点(かるてん)」とも「徳点(とくてん)」とも呼ばれるものとを勘定に入れるからですけれども、実際には入声点は使われず、入声の軽点も、詳細は後述として、ほとんどまったく使われません。こうして「六声体系」という名もまた体をよくあらわしていません。
さて一般には、六声体系と呼ばれるこの東点を用いる流儀では上声点は高平調を、高平調のみを意味するとされます。しかしこの流儀における上声点は高平調だけを意味したとは思われません。この流儀における上声点は、高平調を意味するだけでなく、時に下降調を意味したと考えられます。少しさきで示すとおり、これはすでに『総合索引』(改めて申せば『日本語アクセント史総合資料索引篇』)のような基本文献がとるところの見方です。
図書寮本(ずしょりょうぼん)『類聚名義抄(るいじゅうみょうぎしょう)』という字書のあることも、すでに申しました。以下「図名」と略しますが、この書物は十一世紀の末ないし十二世紀のはじめくらいに成立したと見られ、原本は失われているようですけれども、同時代に書写されたとされるものが現存します。漢字が並んでいて、その音(おん)や訓そのほかが示されているのですが、その訓の、つまりその漢字に対応するやまとことばの中には声点の差されたものもあって、そのやまとことばのアクセントが分かります。
図名は、ある書き手が自分のアクセントを記すことで成ったのではなく、複数の資料――無記名のものもあるものの、多くは略号によって資料名が分かるようになっています――に記された先人たちの手になる声点を一人もしくは複数の編集者がまとめることで成ったらしく、書名に「類聚」とあるのはそれを示唆していると見られます。「平声軽点の消滅過程について
―六声体系から四声体系への移行―」(web。『日本書紀声点本の研究』にも)において鈴木豊さんはこのことをきちんと述べていらっしゃいます。編集者自身による注記もあるのかもしれませんが、詳細は不明のようです。
図名に見られる声点の大半は、東点を用いる流儀によるものです。一般には図名の声点はすべてこの流儀によるとされますけれども、鈴木さんもそうお考えのように、東点を用いない流儀によるものも混ざっているようです。とはいえ私見ではごく一部の資料がそのような流儀をとるだけです。サ変動詞「す」への注記のありようからそう見積もられます。詳細は次次節「図書寮本『名義抄』における差声方式について」に記します。
図名の声点は、まず望月郁子さんの『類聚名義抄四種声点付和訓集成』――以下『集成』と略します――が最近webで読めるようになりました(古本屋さんで高額のものを買わなくてもよくなったのです)。『集成』は、図名の声点と、後世の、図名に大幅な増補を加えて出来た、いくつかある改編本の『類聚名義抄』――以下「改名」と略します――の声点そのほかとを集成したものです。改名なども参考になりますが、信頼性は図名に劣ります。もっとも図名も無謬ではありません。webではまた、酒井憲二さんの「類聚名義抄仮名索引」がデジタルコレクションに入っています。
さて、例えば図名は、上二段動詞「悔(く)ゆ」に〈平上〉を差します。つまり「悔ゆ」は〈平上〉と読まれるとします。「平」「上」はそれぞれ平声点、上声点のことです。そしてこの動詞の項で総合索引は、図名がこの言葉のアクセントを記していることを特記した上で、この動詞はLFというアクセントを持つとします。Lは「低拍(=低平拍)」、Fは「下降拍」を意味します。なお高平拍(「高拍」)はH、上昇拍はRによって示されます。それぞれ low、falling、high、rising に由来する略号です。「悔ゆ」は上二段動詞ですから、「悔ゆ」はその終止形だけが持つ語形です。つまり総合索引は、図名が〈平上〉を差す上二段動詞「悔ゆ」の終止形はLFというアクセントをとると言っています。
この動詞に限りません。「悔ゆ」〈平上〉は低平調に始まるので低起式の動詞、低起動詞と呼ばれます。低起動詞は高起式の動詞、高起動詞に対する称で、例えば下二段動詞「消ゆ」は高起動詞の終止形であり、図名はそれに〈上平〉を差します。つまりそれは「きゆ HL」と言われます。「悔ゆ」の連体形「悔ゆる」などは三拍ですが(「くゆるLLH」)、終止形は二拍ですから、その意味で「悔ゆ」は低起二拍動詞です。それから、例えば「おもふ」は低起三拍動詞ですけれども(その終止形のアクセントは〈平平上〉と表記されます〔おもふう LLF〕)、低起三拍動詞の中には終止形が〈平上平〉と表記されLHLのアクセントを持つ「選(えら)ぶ」(いぇらンぶ)のような少数派のもの――『研究』研究篇下が「Ⅲ型」と呼ぶところのもの――もあるので、「おもふ」のようなものはそれらと区別して多数派低起三拍動詞と呼べます。さて図名には、低起二拍動詞や多数派低起三拍動詞が全部で百数十ありますが(大きな数えまちがいはないでしょう)、図名はそのことごとくに〈平上〉〈平平上〉という注記を与えます。そして総合索引はそれらを正当にもLF、LLFと解釈します。「正当にも」と申すのは、それは金田一春彦、小松英雄といった諸先覚がきちんとした根拠にもとづいて結論したところのものだからです。
図名の例えば高起動詞「消ゆ」に差された〈上平〉における上声点は高平調を意味し、「悔ゆ」に差された〈平上〉における上声点は下降調を意味します。また図名は名詞「こゑ(声)」に〈平東〉を差しますが、この東点はむろん下降調を意味します(こうぇえ LF)。すると図名では上声点が時に高平調、時に下降調を意味し、また図名では下降調は時に東点、時に上声点によって示されるのです。
奇妙なこと、ありそうもないことでしょうか。しかし、東点によって示される下降調と、時に上声点によって示される下降調とが異なるものだとすれば、それを書き分けたとしても不思議なことはないでしょう。
例えば小松さんの『日本声調史論考』や望月さんの『集成』によれば、図名は二(ふた)ところで「おほきなり」に〈平平東平上〉を差しています。酒井さんの『名義』では二つとも〈平平平平上〉に見えますが、仮にそのほうが事実に近いとしても、図名の原本、ないし図名の原本の拠った資料には〈平平東平上〉とあったと見なくてはなりません。のちに確認するとおり、断定の助動詞と呼ばれる「なり」や形容動詞の活用語尾と呼ばれる「なり」の初拍が低い場合、その前の拍は低くあることはできないからです。「おほきなり」は「おほきにあり」の単純な縮約形なので、「おほきなり」〈平平東平上〉では、事実上、ラ変動詞「あり」――疑いなく低起二拍動詞です――の終止形の末拍に上声点が差されていると言えます。すると「おほきなり」の「き」も「り」も下降調だが異なる声点が差されている、ということになります。
「おほきなり」の「き」も「り」もまったく同一の下降調だが、表記上の習慣によって書き分けられている? これは考えにくいでしょう。表音的でない発音記号があったらおかしいのと一般です。「おほきなり」の「き」に或る下降を聞き取ったさる古人は「り」には別のアクセントを聞き取ったので二つに異なる注記が与えられたのだと思います。そしてその「り」もまた下降調をとると見られたのでした。
ありようがこうしたものなのであってみれば、図名の「おほきなり」〈平平東平上〉において、東点は長い下降調を、上声点は短い下降調を意味したとしか考えられないと思います。例えば、のちにも確認するとおり、一拍動詞であるサ変動詞「す」(の終止形「す」)に図名が十九回、東点を差すことを考えても、その逆である可能性はありません。この例に限りません。図名における東点は引かれた下降調、〈上平〉と等価の長い下降調、ゆるやかな下降調、完全に下降する下降調を示し、上声点は、下降調を意味する時は、特には引かれない下降調、短い下降調、急激な下降調、完全に下降するとは限らない下降調、伝統的な現代京ことばの例えば「春」の末拍に聞かれた下降調を示したと考えられます。
図名に「沼(ぬ)」〈去〉と「沼(ぬう)」〈平上〉という二つの注記が見られます。ぬう。一拍語ですから引かれるのは当然ですけれども、引かれた事実がはっきり分かるという点で注目に値します。引かれた上昇調、〈平上〉と等価な長い上昇調は、東点の示す長い下降調の反転形、ないし、音楽用語を借りれば、反行形(例えばドレミに対するドシラやラソファ)です。
図名では高平拍と短い下降拍とがおなじ記号で示されるということになりますけれども、これも、奇妙なこと、ありそうにないこととは思われません。のちに確認されるであろうとおり、下降拍は、動詞や形容詞の特定の活用形の末拍や、日常頻繁に使われる助詞や助動詞(の末拍)にあらわれることが多いので、高平拍と短い下降拍とが同じ記号で示されても混乱する恐れは少なかったでしょう。
ところで、図名において上声点は両義的だったと考えられますけれども、しかしいかなる意味において両義的なのでしょう。
東京アクセントが例えば「かう」(飼う)と「かう」(買う)とを区別するように、平安時代の都びとは、「名(な)」(なあ HL。図名は「諱(ないふ)」〔名言ふ〕の項で「な」に東点を差しています)、と「汝(な)」(なあ LH、ないし、なあ HH〔『研究』研究篇上p.28〕)とを、「音(ね)」(ねえ HL)と「根」(ねえ LL)とを、「日」(ふぃい HL)と「檜(ひ)」(ふぃい LH)とを区別したでしょう。のちに図名の編集者が引用することになる資料に声(しょう)を差した人びとには、長い下降調を長い下降調として聞き取りそれに東点を差すことは容易だったでしょう。
では短い下降調についてはどうだったか。古人は高平調と短い下降調とを区別するような耳を持たなかったと見る向きもあります。実際、例えば現代の京ことばの話し手が、いわゆる連用中止法で使われた「書き」(かきぃ LF)――例えば「手紙を書きぃ、投函した」の「書き」――と、連用形による命令「書き」(かき LH)――例えば「ほな、手紙(を)書き」のような言い方に見られるところの、命令形「書け」(かけぇ LF)よりも柔らかな言い方――とをげんにきちんと発音しわけていながら、しかし二つの差に気づかない、といった事態がありえます。アクセントというものにさしたる興味をおぼえない大方の話し手においては、そういうことが多いかもしれません。
平安時代にも同趣のことがあった可能性はあります。先覚の説くとおり、また後にも申すとおり、低起二拍動詞や多数派低起三拍動詞の連体形の末拍は、終止形のそれ(下降調)とは異なり高平調をとったと見られます。例えば平安時代中期、「思ふ」の終止形は文節末において「おもふう」(三拍目は長い下降調)ないし「おもふぅ(三拍目は短い下降調)と発音され、「思ふ」の連体形は「おもふ」と発音されました。当時の都びとは、文節末の終止形の「思ふ」と、係り結びの結びとしての文節末の連体形の「思ふ」とを、きちんと発音しわけました。しかし、「思」に「オモフ」という和訓を記しそれに〈平平上〉を差し、「悔」に「クユ」という和訓を記しそれに〈平上〉を差した古人は、もしかしたらそれらの末拍が下降することを内省した上でそれに上声点を差したのではなかったのかもしれません。
しかしながら、長い下降調を長い下降調として把握しそれに東点を差した人びとはみな例外なく高平調と短い下降調との差を知覚できなかった、と断ずるのは不当でしょう。古人は例えば、それを知覚しつつも、東点は長い下降調を示す記号であり、短い下降調を示すには上声点の方がまだしもよいと考えたのかもしれません。長い下降拍と短いそれとを同じ記号で示すよりは、高平拍と短い下降拍とを同じ記号で示す方が適切である、と考えたのかもしれません。これは十分ありうることで、古今集声点本における東点――古今集声点本でも漢字音には東点が差されます――がそれを示唆しますけれども、これは今申す暇(いとま)がありません。
古人は高平調と短い下降調とを区別できなかったと断ずべきではないでしょうけれども、しかし、仮に例えば「思ふ」の終止形に〈平平上〉を、「悔ゆ」に〈平上〉を差した古人がそれらの末拍における下降を意識していなかったとしても、その人は現に文節末の「思ふ」の終止形や「悔ゆ」の末拍を短い下降調で言ったと考えられます。重要なのはむしろこの一事です。げんにどう発音されたかに注目するならば、上声点が多義的であること、従って解釈を要することは疑いありません。
図名よりも古い資料に見られる注記はいずれも東点を用いる流儀のものですけれど、それらにおいても上声点は時に短い下降調を意味すると考えられます。図名の注記の大半は東点を用いる流儀によるもので、そこでも上声点は時に短い下降調を意味すると考えられます。図名には東点を用いない流儀の注記もほんの少しあると見られますが、この流儀における上声点は当然に下降調を意味できます。古今集声点本も東点を用いない流儀で注記しますが、そこにおける上声点も同様です。こうして、上声点は常に多義的でした。
節の最後に濁声点のことを申しておきます。例えば図名の「崇 アカム」に対するアクセント注記は、「ア」の左下に点を一つ差し、「カ」の左下に点を二つ横に並べて差し、「ム」の左上に点を一つ差すというものです。点が二つ差されているのはその文字が濁音であることを意味するので、図名はこの記述によって「アカム」のアクセントだけでなく、第二拍が濁音であることも示しています。これが、この「が」の右上にもある濁点の起源です。もともとは双点によってアクセントと濁音であることとを一挙に示していたのが、室町時代ごろ、アクセントにかかわらず右上に双点を差すことでその文字が濁音であることだけを示すようになった、ということのようです。なお、図名などでは濁音に双点ではなく単点を差すことはごく少ないようですけれども、後世の資料では特に濁音であることを示す時には双点を差すという行き方がとられたので、濁音には原則として双点が差されるというようには言えなくなります。
b 下降拍の短縮化 [目次に戻る]
図名が「声(こゑ)」に〈平東〉を差すことから、その古くは「こうぇえ LF」と言われたことが分かりますけれども、伝統的な現代京ことばでは「声(こえ)」の第二拍は、下降調をとるものの長くは引かれませんから、その第二拍における下降調は時とともに短縮化したことが明らかです。他方、図名は「諱(ないふ)」(名言ふ)の項で「名(な)」に東点を差しましたが、伝統的な現代京ことばでもこの一拍名詞は実質二拍分で言われるのですから(注)、千年以上「なあ F」が続いてきたのです。下降拍は全般的に時とともに短縮化する傾向にありますけれども、その短縮化の進みぐあいは、品詞や拍数、さらには活用形によって異なるようです。
注 「伝統的な京ことば」と申したのは、中井幸比古さんの『京阪系アクセント辞典』(データCD-ROM付き。以下『京ア』と略します)によれば、近年は「なあ」と高平調で言う人が多くなりつつあるようだからです。以下、個々の現代京ことばのアクセントについてはあらかたこの大労作に拠ります。たいていの場合特に注しませんけれども、「現代京都では」と書きつけるたびに心中感謝していることを申し添えます。
低起二拍、多数派低起三拍動詞の終止形の末尾では、早くから短縮化が起こったようです。図名と、それよりも成立の古い『日本書紀』の三つの古写本などとを比べると、そう考えられます。
その昔、「日本紀講筵(にほんぎこうえん)」ないし「日本紀講書(こうしょ)」と呼ばれるものがあったそうです。「主として平安時代前期に、数回にわたり宮廷で公式の行事として行われた『日本書紀』の講読・研究の会」(世界大百科事典。表記を一部変更しました)を言いますが、鈴木さんの「日本紀講書とアクセント ―『日本書紀』声点本の成立に関する考察―」(web。『日本書紀声点本の研究』にも収められています〔以下、webで読める場合には「web」とのみ記します〕)によれば、この数度の「講筵」のうち、弘仁三~四年(812~813)と承和十~十一年(843~844)とに行われたものでは『書紀』の歌謡などに声点が差され、その声点付きの『書紀』が写本によって後世に伝わり、その一部が現存します。そのなかで、以下に紹介する三つの古写本が特に重要です。
一つ目は岩崎本『日本書紀』です(以下「岩紀」と略します)。三菱財閥の岩崎家が所蔵していたという『書紀』の古い写本で、活字化したものが出版されています。鈴木さんの「岩崎本『日本書紀』声点の認定をめぐる問題点」(web)によれば「平安時代中期末(西暦1000年頃)」どなたかが書写したもので、国立文化財機構のサイト(「e国宝」!)にも(今は京都国立博物館にあるとか)、「筆跡・紙質などから判定して10世紀から11世紀にかけて書写されたものと推定される」とあります。
二つ目は前田家本の『書紀』、三つ目は図書寮本(ないし「〔宮内庁〕書陵部本」)の『書紀』です(後者には相異なる二つがあります。いま申すのは古いほう)。前田家本の『書紀』――「前紀」と略します――は、岩紀よりもすこし後(のち)、十一世紀に書写されたものだそうで、「京都大学貴重資料デジタルアーカイブ」(web)で見られます。図書寮本『書紀』の古い方――「図紀」と略します――は、さらに少し遅れて十二世紀に書写されたものだそうで、こちらは「デジタルコレクション」で見られます。歌謡への注記に限れば前紀は岩紀の四倍くらい、図紀は岩紀と重複する部分を除けば岩紀の三倍くらいの分量があって、いずれも頼もしいのですが、ただ、前紀も図紀も、平声点や上声点の何たるかは知っているものの東点というものの存在を知らない人の手になる書写であることが知られています。加えて誤写と見られるものも多い。
そういう人が原本を忠実に写そうとする場合、原本の東点をもともとの位置よりも低く、ということは平声点として記してしまう可能性があるわけですけれども、じっさい前紀や図紀の平声点の中には、明らかに原本は東点だったろうと思われるものが多く含まれています。そして、さらに厄介なことに、原本では東点だったと考えられるところのものに時に誤って上声点が差されてしまいます(注)。前紀や図紀は、こうした事実を考慮して見なくてはなりませんが、それさえ注意すれば、これらもたいへん役に立つ資料です。
注 例えば岩紀が〈東平平〉を差す「日向(ひむか)」(ふぃいむか FLL。「ひゅうが」のもともとの言い方)に図紀は〈上平平〉を差しますけれども、これはその例かも知れません。FLLはありえないアクセントではないようです。もっとも、正しいのは図紀の言い方で、岩紀は「日向」の初拍に不用意に一拍語としてのアクセントを差してしまったという可能性もないではありません。岩紀は無謬ではありません。例えば「大君の」に岩紀102は〈平平上上平〉を差しますけれども、同103は〈平平上上上〉を差し(こちらが正しい)、前紀・図紀76そのほかも「おほきみの」に正しい注記を与えます。
その前紀や図紀に、
奈良を過ぎ〈上平上平平〉(前紀54〔数字は歌謡番号〕。ならうぉ しゅンぎい HLHLF〔論点を先取りした解釈です。以下同じ。さしあたり無視していただいてもかまいません〕)
倭(やまと)を過ぎ〈平平上上平平〉(同上。やまとうぉ しゅンぎい LLHHLF)
小曾根(をそね)を過ぎ〈上上上上平平〉(図紀85。うぉしょねうぉ しゅンぎい HHHHLF)
蜻蛉(あきづ)はや齧(く)ひ〈平平平平平平平〉(前紀75。あきンどぅ ふぁやあ くふぃい LLLLFLF)
のような例があります。これらの末尾に差された平声点は、諸先覚の見るとおり、原本に差されていた東点を移しあやまったものと見られます。すなわち原本では「過ぎ」「齧(く)ひ」に〈平東〉が差されていたと考えられます(最後の引用の副詞「はや」の末拍も、「はやう」〔ふぁやう LHL〕の短縮でありLFと言われたと見ておきます)。詳細は後述しますけれども、一つの動詞の終止形と連用形とは、さらに申せば命令形とは、拍数が同じ場合基本的にアクセントを同じくするので――例えば「思ふ」の終止形が〈平平上〉であることからその連用形「思ひ」も命令形「思へ」も〈平平上〉を差されるだろうと推定してよいので――、「過ぎ」「齧(く)ひ」への〈平東〉という注記は、終止形「過ぐ」「齧(く)ふ」に〈平東〉を差すのと同じことです(しゅンぐう LF、くふう LF)。ここには図名の「悔ゆ」〈平上〉などとは異なるアクセントが認められます。野(ぬ)つ鳥 雉(きぎし)は動(とよ)む〈平平上上 上上上上平平上〉(前紀・図紀96。「動(とよ)む」〈平平上〉は終止形のようです。ぬうとぅう とり きンぎしふぁ とよむぅ LLHH・HHHHLLF)
における「動(とよ)む」〈平平上〉のような、文節末に位置する低起二拍動詞や多数派低起三拍動詞の終止形や連用形の末拍に上声点を差した言い方のほうが、それらに東点を差した言い方よりも多かったようですけれども、東点を差した言い方も少ないわけではありません。図名には〈平上〉〈平平上〉式の言い方しか見られなかったのですから、〈平東〉〈平平東〉式の言い方のほうが古いと考えられます。古典的な言い方は〈平東〉〈平平東〉式だが、そこにおける下降拍の短縮化した〈平上〉〈平平上〉式の言い方もできた、そして時とともに古典的な言い方は廃れて、十一二世紀の交(こう)あたりに成立した図名にはすでにその痕跡は残されていない、ということだったと思います。
岩紀からも、やや遠回りにならば、このことを示せます。すなわちまず、岩紀107に「通(とほ)らせ」〈平平平東〉(とふぉらしぇえ LLLF)という注記があります。これは、低起四段動詞「通る」(とふぉるう LLF)が一般に尊敬・親愛の助動詞などされる四段活用の「す」の命令形を従えた言い方ですけれども、この「す」は、例えば岩波古語辞典の見るとおり、また後(のち)にも示すとおり、助動詞というよりもむしろ動詞を作る接辞と見るべきものであり、従って「通らせ」〈平平平東〉では、詳細は後述しますが、実質的には低起四拍動詞の命令形の末拍に東点が差されていると見なせます。
次に、岩紀にも、文節末に位置する低起二拍動詞の連用形の末拍に上声点の差される例が見出されます。
出(い)で立たす〈平上平平上〉(岩紀102)
打ち鞫(きた)ますも〈平上平平平平東〉(岩紀112)
やすみしし我が大君(おほきみ)の隠(かく)ります天(あま)の八十蔭(やそかげ)出(い)で立たすみ空をみれば(…)〈平平平上上・平上平平上上平[ママ]・平上平平上・平平平上上上上・平上平平上・上上上上平上平〉(やしゅみしし わあンがあ おふぉきみの かくりましゅ あまの やしょかンげ いンでぇ たたしゅ みしょらうぉ みれンば LLLHH・LHLLHHL・LHLLH・LLLHHHH・LFLLH・HHHHLHL)
「やすみしし」は「大君」を起こす枕詞。岩紀は〈平平平上上〉としますが、図紀は〈平平平上平〉で(やしゅみしし LLLHL)、この「しし」を諸家の見るとおり「知らし」(しらし HHL)と同義の言い方と見ると、図紀のアクセントのほうがよいことになります。岩紀は総体として前紀や図紀よりも正確ではあるものの、申したとおり無謬ではないのでした。引用は、帝が奥深くお住いの壮麗な宮殿(「天の八十蔭」)を出て、臣下たる我等の前にお立ちになる、その上にひろがる空を、臣下たる我々が見ると云々、といった意味に解せます。「出で立つ」は「出立(しゅったつ)する」という意味の複合動詞としても使われますが、上の引用では、文脈から推して二つの単純動詞が並んでいると見るべきでしょう。するとこの「出で」は完全に文節末に位置するのであり、その末拍は下降調をとります。太秦(うづまさ)(=秦河勝。太秦はもともと河勝の賜った姓です)は神とも神と聞こえ来る常世の神を打ち鞫(きた)ますも〈上上上上上・平平平東平平平・上上平平上・上上上上平平上・平上平平平平東〉(うンどぅましゃふぁ かみともお かみと きこいぇ くる とこよの かみうぉ うてぃぃ きたましゅもお HHHHH・LLLFLLL・HHLLH・HHHHLLH・LFLLLLF)
という歌を作った、という文脈にそれは現れます。「鞫(きた)ます」(きたましゅう LLLF)は、「罰する」を意味する「鞫(きた)む」(きたむう LLF)が尊敬・親愛の「す」を従えたもので、「きたますも」には〈平平平上東〉ないし〈平平平上平〉が期待されますけれども、しばらく原文のとおりにしておきます。この「打ち」は掛け値なしの低起二拍動詞の連用形で、それが文節末に位置しているのですから、その末拍はやはり下降調をとります。こうして岩紀は図名の「悔ゆ」(くゆぅ LF)以下の言い方と同趣の言い方も持っていると申せます。
岩紀や前紀や図紀には、動詞のいくつかの活用形の末尾における下降調を引いて言う言い方と特に引かずに言う言い方とが見られます。平安時代初期の京ことばのアクセントとして、古典的なアクセントと呼べるものと、その変化したものとを区別したのでしたが、岩紀や前紀や図紀からはその平安時代初期のアクセントをうかがえるわけです。動詞末尾の下降調に関しては、引いて言う言い方を古典的、特に引かずに言う言い方をその変化したものとすることができるでしょう。古典的なアクセントでは動詞末尾の下降調は引かれたけれども、図名は、院政初期頃、すでに動詞末尾の下降調の短縮化が進み、動詞末尾の下降調を引かない言い方、非古典的な言い方が好まれるようになっていたことを示す、ということだと思います。
次に、形容詞の終止形にも下降拍があらわれますけれども、ここでも、『書紀』の古写本と図名とで、ありようが少し異なるようです。
つとに指摘のあるとおり、図名ではちょうど百くらいの形容詞の終止形に声(しょう)が差されていて、その末尾には、ほぼ半分に、例えば「あやし」〈平平上〉(あやしぃ LLF)に見られるような上声点が、そしてほぼ半分に、例えば「あぢきなし」〈平平平平東〉(あンでぃきなしい)に見られるような東点が差されます。「あやし」〈平平上〉の第三拍の上声点は、のちにも見ますが、諸先覚の説くとおり下降拍を意味するとしか考えられません。さて『書紀』の古写本ではと言うと、
惜(を)しけくもなし〈平平上平東平東〉(前紀79。うぉしけくもお なしい LLHLFLF。二か所を東点としましたが、これは現にその位置に点が差されているのです。書写した人は平声点のつもりだったかも知れませんけれども、原本は東点だったと見られます。次の例の東点も同様です)
なみだぐましも〈平平上平平東平〉(前紀55。第三拍はおそらく正しくは〈平〉でしょう〔なみンだンぐましいも LLLLLFL〕。書写した人はうっかり名詞「涙」〔なみンだ LLH〕のアクセントを記したのだと思います)
といった例があるばかりのようです。二つが末尾に東点を持つというだけでは、「なし」〈平上〉式の言い方はなかったと結論することはできませんけれども、どちらかと言えば「なし」〈平上〉式の言い方よりも「なし」〈平東〉式の言い方が好まれたようだとは言えるでしょう。形容詞の終止形の末尾は古典的には長い下降調で言われたが、図名の成立した頃にはすでに短縮化が進行しつつあり、古典的でない言い方もなされた、ということだと思います。
二拍五類名詞の末拍についても、形容詞の終止形と似たことが申せそうです。二拍の名詞は、平安時代におけるアクセントがHHならば一類、HLならば二類、LLならば三類、LHならば四類、LFならば五類と呼ばれます。三類以外の二拍名詞のアクセントは今昔で変わらないことが多いのですが――もっとも例えば二類の「下」(した)は現代京都では「した」と言われるというようなこともあります――、二拍三類名詞の多くは、例えば平安時代には「かみ LL」だった「髪」がそうであるように、今はHLで言われます(南北朝時代に大変化があったのでした)。もっともやはり例外も少なくなく、同じ三類名詞でも「後(のち)」(のてぃ)などは今は「のち」、「皮(かは)」(かふぁ)などは今は「かわ」、「鮭(さけ)」(しゃけ)などは伝統的な現代京ことばでは「さけぇ」というアクセントで言われます。それはともかく、「春」のような名詞は二拍五類で、古典的には「ふぁるう」と言われたのでしたけれども、伝統的な京ことばでもLFと言われるので、千年以上五類はそのアクセントを保ってきたと言えます(それが昨今、静かに消滅しかかっているのでした)。ただ、その拍内下降のありようは今昔でちがっていて、図名はこの二拍五類名詞に〈平東〉を差したり〈平上〉を差したりします。
すなわち図名には一方において、
かこ(水夫)〈平東〉(かこお LF)
こゑ(声)〈平東〉(こうぇえ LF)
つひに(遂)〈平東上〉(とぅふぃいに LFH。「つひのわかれ」〔とぅふぃいのわかれ LFLLLL〕なども言えますから、「つひ」は名詞と言えます。「つひに」は一語の副詞とも名詞が助詞を従えたものとも見うる言い方です。素因数分解ではないのですから、一意的でなくてかまいません)
なべ(鍋)〈平東〉(なンべえ LF)
のような注記が見られます。これらは小松さんや望月さんや総合索引の読みで、酒井さんによる転記を見るとこれらにおける東点は平声点ですが(酒井さんによれば「つひに」は〈上平上〉ですが本来こうだったとは考えられません)、仮に実際に平声点が記されているのだとしても、原本には東点が差されていたと見られます。なお図名は、「たヽ」(ただ)のような二拍五類語にも注記していますが、それは小さな「ヽ」へのもので、濁双点が平声点を意味するのか東点を意味するのかは到底分かりません。
他方図名には、
あせ(汗)〈平上〉(あしぇぇ LF) 和名抄
かげ(陰)〈平上〉(かンげぇ LF) 出典無表記
のような注記も見られます。後に申す理由によって、これらは恐らく東点を用いる流儀による注記であり、その流儀において末拍に上声点が差されているのです。総合索引もそう見ているとおり、それらは下降調と考えられます。
ちなみに図名には次のような注記もあります。
くたらこと 百済琴〈平平平平上〉
しらきこと 新羅琴〈平平平平上〉
やまとこと 大和琴〈平平上平上〉
「琴」は五類名詞であり(「ことお LF」)、上の三つにおける「琴」もこのアクセントで言われたと考えられます。例えば東京では「松虫」は「まつむし」と言われますがこれは「松」(まつ)と「虫」(むし)との単純和(「まつむし」)ではなく、また往時の都では「松虫」は「まとぅむし」と言われましたがこれは「松」(まとぅ)と「虫」(むし)との単純和ではないというように、複合名詞のアクセントは一般に各成素のアクセントを単に合わせたものではありませんけれども、例えば東京では「きつねそば」でも「たぬきそば」でも「にしんそば」でも「そば」はもともとのアクセントを保っています(「きつねそば」では「きつね」ももとのアクセントを保っています。「晩ごはん」も「いちごミルク」も同趣です)。詳しく申す暇(いとま)がありませんが、「くたらこと」以下の三つにおける「こと」のアクセントも同趣と見られます。いずれも複合名詞にはちがいないでしょうけれども、どの「こ」にも濁双点が差されていないので恐らく連濁しておらず、そのぶん複合の度合(というもののあることが知られています)が低いので、それぞれの第二成素がLFで言われただろうことがいよいよ明らかです。三つはそれぞれ「くたらこと」(くたらことぉ LLLLF)、「しらきこと」(しらきことぉ LLLLF)、「やまとこと」(やまとことぉ LLHLF)と言われたと考えられます。これらに対する図名の注記は単純名詞「琴」に〈平上〉を差したも同然で、やはり二拍五類名詞の末拍を短い下降調で言う言い方もあったことを示すと思われます。
文節末で下降調をとる助詞においても、『書紀』の古写本と図名とで差が認められるようです。助詞のことも詳細は後述ということになりますけれど、『書紀』の古写本では、
生(な)りけめや〈平上平平上〉(岩紀104。なりけめやぁ LHLLF)
君はや無き〈上上上上平東〉(岩紀104。きみふぁやぁ なきい HHHFLF。下降調を示すと見られる上声点と東点とがともどもあらわれています)
いかにふことぞ〈上平上上平平上〉(前紀99 いかにふ ことンじょぉ HLHHLLF。「いかに言ふことぞ」〈上平上上上平平上〉に同じ)
におけるように、そうした助詞に上声点を差す言い方もあるものの、
裂手(さきで)そもや〈平平平上平東〉(岩紀108。しゃきンでしょもやあ LLLHLF)
真蘇我よ〈上上上東〉(岩紀103。ましょンがよお HHHF。推古天皇の呼びかけの言葉で、「真(ま)」は美称だそうです)
米(こめ)だにも〈平平上平東〉(岩紀107〔二つあるうちの一つ。いま一つは〈平平上平平〉〕。こめンだにもお LLHLF)
言(こと)そ聞こゆる〈平平東上上上上〉(岩紀109。ことしょお きこゆる LLFHHHH。「ぞ」は古くは清(す)みました)
人そとよもす〈上平東平平平上〉(岩紀110。ふぃとしょお とよもしゅ HLFLLLH)
面(おもて)も知らず〈平平平東上上平〉(岩紀111。おもてもお しらンじゅ LLLFHHL)
家も知らずも〈平平東上上平東〉(岩紀111。いふぇもお しらンじゅもお LLFHHLF。岩紀111のもう一つの注記〈平平平上上平上〉の第三拍は誤点でしょう)
のように、東点の差される例が多数派を占めます。他方図名では、
おもふかな〈平平上平上〉(おもふかなぁ LLHLF)
思うつや〈平平上上上〉(おもうとぅやぁ LLHHF。「おもひつや」の音便形)
やすからむや〈平上平平上上〉(やしゅからムやぁ)
のような言い方が多数派で(これらにおける末尾の上声点はいずれも下降調を意味すると考えられます)、「さぞ」〈平東〉(しゃンじょお)のような言い方は少数派に属します。古典的には、文節末で下降調をとる一拍の付属語も、下降調をとる一拍の自立語同様さかんに引かれました。それが図名では、すでに引かれないことが多くなっています。
下降拍は古典的には引かれたが、すでに平安時代初期から、品詞によっては非古典的な引かれない言い方でも言われ、院政初期頃には一層広範にそうした言い方がなされるようになっていた、と見られます。すると西暦千年ごろはどうだったか。図名が古典的な長い下降調をとるとするものは、西暦千年ごろもその言い方で言われたと考えてよいでしょう。図名が長短両様の下降調をとるとするものは、西暦千年ごろ長い下降調で言われ得たと見てよいでしょう。少し悩ましいのは、図名が短い下降調をとるとするもの、つまり低起二拍、多数派低起三拍の動詞の終止形の末拍などです。『書紀』の古写本から、すでに平安時代初期、それが短い下降調でも言われ得たことが知られますから、西暦千年ごろには短縮化はもっと進んでいたでしょうけれども、長い下降調は当時すでに絶えていたのか、そうでないのか。いずれにしても短い下降調で言った方が安全、とも申せますが、長い下降調で言うと奇妙に響く、といったことはなかったろうと思われます。平安時代の初期における一つのタイプのアクセント、同時代やそれ以降における別のタイプのアクセントがそれからの変形として理解できるところのアクセントを「古典的なアクセント」と呼んだのでしたが、西暦千年ごろの京ことばのアクセントについても、この古典的なアクセントと、その変化したものとして理解できるアクセントとが二つながら行なわれた、と見てよいと思われます。以下では、見やすさや入力のしやすさといったこともあり、「みるぅ」「おもふぅ」のような表記はせず、「みるう」「おもふう」のように書きます。
節の最後に、主として初期の古今集声点本における注記をによって上昇拍の短縮化ということを申しておきます。図名の「沼(ぬ)」〈去〉などならば、「沼(ぬう)」〈平上〉の存在を参照せずとも一拍語ゆえ引かれたと考えることができますけれども、図名の「疾(と)く」〈去平〉、前紀49の「宜(よ)く」(=良く)〈去平〉、初期古今集声点本に属する『顕天平』(略号については後述)の「よく」〈上平〉などにおける初拍については、同じことは言えません。
平安時代の京ことばにおいて上昇調で言われた拍は、その時期は不明ながら最終的には高平化して現在に至りました。しかし高平化に先立って、短縮化、同じことですが一拍化が起こったと考えられます。長い上昇調は高平調に移行する理由が見当たりません。例えば「松」「笠」のような二拍四類語は今にいたるまでアクセントを変えていません。他方、短い上昇調と高平調とは聞き耳が近いので、ある時期に前者が後者に移行したとしても不思議はありません。
この短縮化はいつ起こったのでしょうか。図名の「沼(ぬう)」〈平上〉は一拍語への注記なので、全般的には短縮化していてもその例外をなしたでしょうから、参考になりません。古今集声点本の中には真名序に去声点を差すものがあって、『研究』によれば例えば『顕府』〔9〕は「詠(えい)」に〈去〉(えい LH)を差し、『伏片』『毘』〔54〕は「神異」に〈平去〉(しんにい LLLH)を差しますけれども、二拍の「詠」はもとより一拍の「異」も漢字一文字の常として当時は引かれて言われたと見られるので、やはり参考になりません。
申せるのは、院政末期には上昇調は短縮化していたかもしれないということです。と申すのも、例えば俊成のアクセントを記したと考えられる『問答』は「憂く」に〈去平〉を差す一方、「あなうう LLR」と言われただろう「あな憂(う)」には〈平平上〉を差します。『問答』は上昇調を常に去声点によって示したのではありませんでした。また、顕昭本は真名序における漢字への注記には「詠」〈去〉がそうだったように去声点を用いますけれども、その一方において、顕昭本の一つである『顕天平』485注(万葉257)には「飼飯(けひ)の海の庭よくあらし」の「よくあらし」に対する〈上平上平平〉という注記が見えています。「よく」は〈去平〉とも差せる言い方であり、「あらし」も、これは「あるらし」――〈平上平平〉(あるらし LHLL)と発音されたと考えられます(詳細後述)――のつづまった言い方ですから、その初拍は式を保存すべく上昇調で言われたと思います。すなわちこの「あらし」〈上平平〉は、RLLと、ということは「あるらし」ないし「あっらし」など書けるでしょう(イタリアの作曲家Corelliが「コレッリ」とも、「コレルリ」とも、時に「コレリ」とも書かれることが思い出されます)。最適な記述方法が一つあればもっぱらそれが採用されただろう、と考えると、初期古今集声点本に見られる上昇調注記におけるこうした揺れは、当時すでに上昇調が短縮化していたことを示すのかもしれません。
c 図書寮本『名義抄』の差声方式について [目次に戻る]
図名の差声方式には、申したとおり、下降拍に東点を用いる流儀と用いない流儀とがありますけれども、後者の流儀をとるのはごく一部の限られた資料だけであるということをくだくだしく申す節です。図名がサ変「す」(の終止形「す」)に確実に上声点を差すのは、おそらく複数ある『論語』のうちの一本においてだけだと見られることから、そう結論されます。
図名にはサ変動詞「す」(の終止形「す」)に注記したものが二十四か二十五あります。小松さんの『日本声調史論考』は、図名では二十三あるサ変動詞「す」(の終止形「す」)に東点が差される一方、「にくみす」〈平上平上〉においてのみその「す」に上声点が差されるとしますけれども(都合二十四)、望月さんの転記なさった図名の注記を見るかぎりでは二十四のうち三つ、酒井さんの転記なさったそれでは二十五のうち四つないし五つに上声点が差されています。諸家により見解の異なるところを表にまとめ、一つ一つ見ることにします。
小松 望月 酒井
1 にくみす 論語 上 上 上
2 なつかしむず 論語 東 上 上
3 なだらかす(1) 論語 東 上 上
4 なだらかす(2) 無表記 - - (上)
5 とす 文選 東 東 上(東?)
6 うとむず 論語 東 東 平
7 うつくしむず 遊仙窟 東 平 平
1 にくみす 〈平上平上〉(にくみしゅう LHLF。この末拍は引かれたと考えられます) 論語。 例えば形容詞「重し」(おもしい HHF)から「重みす」(おもみしゅう HHLF)という言い方ができます。この「み」は形容詞の語幹に付く接辞で(語幹は連用形から「く」を取り去ることで、アクセントも含めてしかるべき語形が得られます〔詳細後述〕)、その撥音便形「おもんず」(おもムじゅう HHLF)が変化して現代語の「重んずる」「重んじる」という言い方ができました。「にくみす」も同じことで、これは形容詞「にくし」(にくしい LLF)から派生した、結局のところ「にくむ」(にくむう LLF)と同義の言い方です。小松さんはこの「にくみす」の第四拍の「す」を上声点と認定なさっていて、望月さんや酒井さんによる転記を見てもこの「す」は上声点と読めます。一拍の動詞が下降調をとるとき、それは引かれたと見るのが自然です。するとそれに差された上声点は、東点を用いない流儀によって長い下降調を示したものと考えられます。
2 なつかしむず 論語。形容詞「なつかし」(なとぅかしい LLLF)――有名な古今異義語――から派生した「なつかしみす」(なとぅかしみしゅう LLLHLF)の撥音便形です。望月さんの転記によれば四拍目に東点と上声点とが差されています。つまり〈平平平東平上〉と〈平平平上平上〉と、二つ注記されていますが、これははじめにうっかり形容詞「なつかし」(なとぅかしい LLLF)のアクセントとして〈平平平東〉を記してから、「なつかしむず」(なとぅかしムじゅう LLLHLF)のアクセントとして〈平平平上平上〉を記したのでしょう。この「なつかしむず」のアクセントを〈平平平東平東〉と見る向きもありますが、見まちがいと思われます。酒井さんによる転記でもやはり末拍は上声点です。「にくみす」〈平上平上〉の末拍と同じく、ここでも東点を用いない流儀によって長い下降調が示されているのだと思います。
3 なだらかす (二三二4。数字は図名の頁数および行数。同じものへの注記が複数あるので区別するために記します) 論語。「なだらかにす」(なンだらかにしゅう)の撥音便形「なだらかんす」(なンだらかンしゅう)の撥音無表記形です。となればこれはさだめて、「糞土(ふんど)の牆(しょう)は杇(ぬ)るべからず」(公冶長第五)の「杇(ぬ)る」の別の訓み方でしょう。ぼろぼろの土で出来た塀は上塗りをしてなだらかに(なめらかに)することはできない。「なたらかんす」(なンだらかンしゅう、なンだらかンしゅう)は東点を使う流儀では〈平平上平上東〉〈平平上平平東〉、使わない流儀では〈平平上平上上〉〈平平上平平上〉と注記される言い方ですから、これを「なたらかす」と表記するならば〈平平上去東〉〈平平上平東〉ないし〈平平上去上〉〈平平上平上〉になります。望月さんの転記によればここの「なだらかす」には〈平平上去上〉と〈平平上平上〉とが記されていますけれども、後者を誤って「なだらか」のアクセントを記したと見なくてもよいわけです。いずれにしても末拍は上声点のようで、小松さんは末拍を東点となさいますが、おそらく原本では点が東点と見るには上過ぎるところに差されているのだと思います。酒井さんのも〈平平上平上〉と読めます。
4 酒井さんは「一四7」の「なだらかす」に〈平平上上上〉という注記がなされていると御覧です。これを勘定に入れると図名には二十五、サ変「す」への注記があることになりますけれども、この〈平平上上上〉の第四拍は明らかに誤点であり、小松さんも望月さんも「す」への注記はないと御覧です。一般に「声点か否か」の認定が時にむつかしいことは、『研究』研究篇下p.244以下からよくうかがわれます。こちらの「なだらかす」は出典無表記ですけれども、おそらく『論語』の上と同じ個所への注記でしょう。するとこれは『論語』の別の声点本における注記ということになります。
5 とす 文選(もんぜん)。再読文字「将」(まさに…むとす)に対する訓みの一部です。酒井さんによる転記では上声点と読めますが、ただ上声点としてはやや下にあります。小松さんと望月さんとはこの「す」を東点とお考えです。
図名においてサ変「す」に上声点が差されていると見うるのは最大この五つですが、4の「す」は無注記かもしれず、5の「す」は上声点ではないのかもしれません。つまり確実なのははじめの三つですけれども、この三つはいずれも『論語』を出典とするものなのでした。
図名がサ変「す」に注記するもののうち『論語』からという出典表示のあるものはいま二つあって、そのうちの一つは次のものです。いま一つはのちほど。
6 うとむず 〈上上平東〉(うとムじゅう HHLF)ないし〈上上平平〉(うとムじゅう HHLL) 論語。形容詞「うとし」(うとしい HHF)からの派生語「うとみす」(うとみしゅう HHLF)の撥音便形で、現代語「うとんじる」のもとの言い方です。小松さんも望月さんも末拍を東点となさいますが、酒井さんによる転記では平声点と見るよりほかにありません。この言い方における「ず」は下降調で言われても低平調で言われてもおかしくありませんから(サ変「す」が付属語化して先行部分にアクセント上従属するということがありうるのです。詳細後述)、東点を写し間違って平声点にしたと見なくてはならないわけではありません。いずれにしても上声点には読めませんから、「にくみす」〈平上平上〉以下の注記をする『論語』とは別のものと考えられます。
7 うつくしむず 平平平上平平(うとぅくしムじゅう LLLHLL) かの遊仙窟。小松さんは東点と御覧ですけれども、望月さんや酒井さんによる転記では平声点と読めます。形容詞「うつくし」(うとぅくしい LLLF)からの派生語「うつくしみす」は古典的には「うとぅくしみしゅう LLLHLF」と言われますが、「うとむず」におけると同じくサ変「す」が付属語化して「うとぅくしみしゅう LLLHLL」のように末拍を低めることもでき、このことは撥音便形でも同じですから、「うつくしむず」に〈平平平上平平〉が差されてもおかしくありません。
諸家そろってサ変「す」に東点を差す十八例も引きましょう。出典は『文選』『論語』『季綱切韻』『白氏文集』『礼記』『史記』『遊仙窟』『書経』『詩経』と硬軟とりまぜ多種多様です。
8 おほきにす 豊 〈平平東上東〉(おふぉきいにしゅう LLFHF) 文選。大きくする、豊かにする、という意味でしょう。
9 かたむず 訒 〈上上平東〉(かたムじゅう HHLF) 論語。図名が『論語』からとする注記で上に引かなかったのはこれです。「かたむず」は「かたみす」(かたみしゅう HHLF)の撥音便形です。『論考』は「訊」としますが、望月さんや酒井さんがそうなさるように「訒」――「かたし(難し)」と訓むと辞書にあります――のようで、顔淵第十二の「仁者は其の言や訒(じん)」(仁者は口が重い)の「訒」を「かたむず」と訓んでいるのでしょう。諸氏が〈上上平東〉となさるので、やはり「にくみす」〈平上平上〉以下の注記をする『論語』とは別のものと考えられます。
10 くみす 組〈平平東〉(くみしゅう LLF) 出典無表記。
11 くみす 紕〈平平東〉(くみしゅう LLF) 季綱切韻。
12 しづかにす 譚〈平上平上東〉(しンどぅかにしゅう LHLHF) 季綱切韻。
13 つみす 坐〈平上東〉(とぅみしゅう LHF) 出典無表記。「坐」は「連坐」のそれ。つまり「罪す」と同じこと。
14 ひぢりこにす 泥〈○平○平上東〉(ふぃンでぃりこにしゅう LLLLHF。〇は注記なしという意味) 出典無表記。「ひぢりこ」(ふぃンでぃりこ LLLL。フェリーニ…)は「ひぢ」(ふぃンでぃ LL)と同じく「泥(どろ)」を意味します。
15 ふしづけす 縋〈上上上上東〉(ふしンどぅけしゅう HHHHF) 白氏文集。「柴漬」には「しばづけ」のほかに「ふしづけ」という読み方もあって、それぞれ指すものが異なります。
16 ふところにす 懐〈上上上上上東〉(ふところにしゅう HHHHHF) 礼記。『論考』には〈上上上上〇東〉とありますが、望月、酒井両氏は上のようにお読みです。
17 ふところにす 懐〈上上上上上東〉 白氏文集。
18 ほむるまねす 誉〈平平上上上東〉(ふぉむるまねしゅう LLHHHF) 史記。
19 みづくろひす 法用〈上上上平平東〉(みンどぅくろふぃしゅう HHHLLF) 遊仙窟
20 もだす 陰(=黙)〈上平東〉(もンだしゅう HLF) 書経
21 もとほしす 縁〈上上上上東〉(もとふぉししゅう HHHHF) 出典無表記
22 やすむす 慰〈平上平東〉(やしゅムしゅう LHLF、ないし、やしゅムじゅう LHLF) 詩経(形容詞「やすし」〔やしゅしい LLF〕から)
23 ゆたかにす 豊〈平上平上東〉(ゆたかにしゅう LHLHF) 出典無表記。
24 ようす 能〈去平東〉(よおうしゅう RLF) 出典無表記。この「よう」は形容詞「よし」(よしい LF)の連用形「よく」(よおく RL)の音便形です。
25 よくす 繕〈平平東〉 詩経。上と同じものでしょうから、はじめの平声点はラフな言い方か誤りだと思われます。
こうして、図名がサ変「す」(の終止形「す」)に確実に上声点を差すのは、図名が注記を類聚したさまざまな資料のなかで、おそらく複数ある『論語』のうちの一本においてだけです。図名では限られた一部の資料だけが東点を用いない流儀をとります。このかたよりは、図名の用いた諸資料に注記した古人の大半が東点を用いる流儀によっただろうことを教えます。その人びとは、改めて申せば、サ変「す」(の終止形「す」)には東点を、低起二拍や多数派低起三拍の動詞の終止形の末拍には上声点を差したのでした。サ変動詞「す」の終止形は一拍ゆえ引かれたと考えられますから、図名においてそれに差される東点は長い下降調を意味すると見るべきで、すると、低起二拍や多数派低起三拍の動詞の終止形の末拍に差される上声点は短い下降調を意味すると見られます。
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