5 用言のアクセント  [目次に戻る]

 a 序論 [目次に戻る]

 まずは動詞。参照すべきは、何と言っても『研究』、改めて書名を省略せずに申せば『古今集声点本の研究』です。動詞の終止形ならばさしあたり総合索引を参照すればよいのですけれども、各活用形のアクセントについては『研究』に就かなくてはなりません。
 古今集声点本は、古今集の仮名序・真名序や、千ばかりある歌々の要所要所に、そのアクセントを示すべく声点を差した書物の総称で、院政期の終わりごろ以降から鎌倉時代の終わり頃にかけて数多く作られ(それ以降も作られましたが、以下それらは数に入れません)、その総体が『研究』の「資料篇」および「索引篇」にまとめられています。
 『研究』では個々の古今集声点本が略号によって示されていて、小論もそれを踏襲します。例えば「顕天平614」といったように、略称めいた漢字にアラビア数字の添えられたものは、その略称によって示された古今集声点本と『古今』の歌番号とご承知ください。『梅』のように二重かぎかっこに入れる時と、そうしない時とがあるでしょう。以下がその一覧です。各声点本のはじめの数字は『研究』研究篇下第三部において割り振られているもので、おおむね原本の成立順ですけれども、大きい番号のもののなかにも時に古態を存しているものがあります。ところどころ数字の抜けているのは、引かなかった声点本は省いたのです。

a 初期古今集声点本(図名との連続性が特に顕著な俊成本、顕昭本を、この小論ではこう呼ぶことにします)
 1 問答 古今問答。かの俊成(1114~1204)の付けていたアクセントがうかがえます。注記数は多くありません。
 2 顕天平 平仮名本顕昭古今集注。2から7までは、顕昭(1130頃~1210頃)による注記を主体とするもののようです。顕昭による差声が初期古今集声点本の中心をなします。
 3 顕天片 片仮名本顕昭古今集注①。
 4 顕大 片仮名本顕昭古今集注②。
 5 顕府 顕昭古今集序注。
 6 伏片 伏見宮家本古今和歌集。これも重要なもの。秋永さんは「顕昭自身が声を差した声点本から、伝授を受けた二人のうちの一名が丁寧に移声したと思われる」とお書きです。
 7 家 家隆本古今和歌集。こうは呼ばれているものの、実際には「伝」を冠すべきもののようで、そのアクセント注記について秋永さんは、6の『伏』と共通の「おそらくは顕昭差声本」のそれを移したものとお考えです。
 9 天片 片仮名本古今和歌集。『伏』に近いとか。

b 中期古今集声点本
 10 伊 伊達家本古今和歌集。10から14までは、定家による注記を主体とするようです。
 11 高嘉 高松宮家嘉禄本古今和歌集。
 12 京中 中院本古今和歌集。
 14 陽 陽明本古今和歌集。
 15 寂 寂恵(じゃくえ)本古今和歌集加注。重要。安倍晴明の末裔にして、為家やその子・為氏に師事したというお坊さんによる、諸本に見られる注記をまとめたり自身のアクセントを記したりしたもの。
 16 永 永治二年(1142)本古今和歌集。現在、宮本家蔵本として知られるもの。便宜上「中期」としましたけれども、1142年に藤原清輔が写したものを1201年 、源家長が写し、それをさらに誰かが写したもの。後世の注記も加えられているものの、原本のものと見られる注記もあるそうです。
 17 梅 梅沢家本古今和歌集。原本は貞応二年(1223)の定家の奥書のあるものだそうです。
 20 毘 毘沙門堂本古今和歌集註。『研究』によれば、次の『高貞』と同じく、今は失われた或る片仮名本の注記を写したもの。信頼度はやや劣るものの、毘や高貞によるしかない注記もたくさんあります。
 21 高貞 高松宮家貞応本古今和歌集。『研究』の記述からうかがうに、総じて『毘』と異なる注記を与える場合、『高貞』よりも『毘』に就くべきだと思われます。

c 後期古今集声点本
 22 京秘 古今秘註抄。
 26 訓 古今訓点抄。鎌倉末期か南北朝初期に成立したもので、これによるしかない注記もたくさんあります。

 はじめに、高起動詞、低起動詞の代表として四段活用の「咲く」と「成る」とを取り上げます。次の一覧――わずらわしいので活用形の名は記しません。慣習通りの順です。ときに助動詞や句読点や名詞を添えます――によって、二拍動詞のほぼ全部、そして三拍動詞の大半のアクセントのありようが把握できますけれども、ただし、連用形、終止形、已然形、命令形については、さしあたり文節末でのアクセントとお考え下さい。文節中におけるそれらのアクセントについては、はるかさき、「低下力」以下で考え始めます。

 「咲く」
 咲かず。(しゃかンじゅ HHL)
 咲き、  (しゃき HL)
 咲く。  (しゃく HL)
 咲くこと(しゃく こと HHLL)
 咲け。  (しゃけ HL。「こそ」の結び。以下このことは注しません)
 咲け。  (しゃけ HL)

 「成る」
 成らず。(なンじゅ LHL)
 成り、  (ない LF)
 成る。  (なう LF)
 成ること(な こと LHLL)
 成れ。  (なえ LF)
 成れ。  (なえ LF)

 ラ変「あり」のアクセントも示しておきます。「成る」のそれと同じです。
 あらば  (あンば LHL)
 あり、  (あい LF)
 あり。  (あい LF)
 あること(あ こと LHLL)
 あれ。  (あえ LF)
 あれ。  (あえ LF)

 未然形は必ず「ず」「ば」といった何かしらの付属語とともにあらわれるので、ここでは一例として「ず」「ば」を従えた言い方を記しました。じつは未然形のアクセントには別のパタンもあって、例えば「成らず」は「なンじゅ LHL」、「成らば」は「なンば LHL」ですが、「成らぬ」は「なぬ LHL」ではなく「なら LLH」です。他方「咲かず」「咲かば」は「しゃかンじゅ HHL」「しゃかンば HHL」、「咲かぬ」は「しゃかぬ HHH」で、動詞のアクセントは同じ。さまざまに面倒ですけれども、詳細は後述として、さしあたり未然形は「ず」「ば」の付く場合の言い方を記します。連体形の次には名詞が来るとは限りませんが、来ても来なくてもアクセントは同じ。
 ほかの活用の種類の動詞、例えば二段動詞のアクセントなども、ほぼ上と同じです。例えば下二段動詞「告ぐ」、上二段動詞「起く」は次のとおり。

 「告ぐ」
 告げず。(とぅンげンじゅ HHL)
 告げ、  (とぅンげ HL)
 告ぐ。  (とぅンぐ HL)
 告ぐる時(とぅンぐる とき HHHLL)
 告ぐれ。(とぅンぐれ HHL)
 告げよ。(とぅンげお HLF。これは古典的なアクセントで、早くから「とぅンげよ HLL」とも言われたと考えられます。詳細はのちほど)

 「起く」(起キル)
 起きず。(おンじゅ LHL)
 起き、  (おい LF)
 起く。  (おう LF)
 起くる時(おく とき LLHLL)
 起くれ。(おくえ LLF)
 起きよ。(およ LHL)

 三拍の動詞では次のとおりです。といっても低起三拍動詞には多数派と少数派とがあったのでしたが、今は多数派のほうのアクセントだけを掲げます。

 「探す」
 探さず。(しゃンがしゃンじゅ HHHL)
 探し、  (しゃンがし HHL)
 探す。  (しゃンがしゅ HHL)
 探す人  (しゃンがしゅ ふぃと HHHHL)
 探せ。  (しゃンがしぇ HHL)
 探せ。  (しゃンがしぇ HHL)

 「思ふ」
 思はず。(おもふぁンじゅ LLHL)
 思ひ、  (おもふぃい LLF)
 思ふ。  (おもう LLF)
 思ふ人  (おもふ ふぃと LLHHL)
 思へ。  (おもふぇえ LLF)
 思へ。  (おもふぇえ LLF)

 「おびゆ」
 おびえず  (おンびいぇンじゅ HHHL)
 おびえ、  (おンびいぇ HHL)
 おびゆ。  (おンびゆ HHL)
 おびゆる人(おンびゆる ふぃと HHHHHL)
 おびゆれ。(おンびゆれ HHHL)
 おびえよ。(おンびいぇお HHLF)

 「数(かぞ)ふ」
 数へず。  (かンじょふぇンじゅ LLHL)
 数へ、    (かンじょふぇえ LLF)
 数ふ。    (かンじょう LLF)
 数ふること(かンじょふ こと LLLHLL)
 数ふれ。  (かンじょふえ LLLF)
 数へよ。  (かンじょふぇよ LLHL)

 高起動詞、低起動詞ごとにまとめるとこうなります。連用形と終止形とはアクセントが同じなのでまとめます。

   未然  用・終 連体   已然   命令
咲く HH  HL  HH   HL   HL
探す HHH HHL HHH  HHL  HHL
告ぐ HH  HL  HHH  HHL  HLF
怯ゆ HHH HHL HHHH HHHL HHLF

   未然  用・終 連体   已然   命令
成る LH  LF  LH   LF   LF
思ふ LLH LLF LLH  LLF  LLF
起く LH  LF  LLH  LLF  LHL
数ふ LLH LLF LLLH LLLF LLHL

 終止形が四拍以上になる動詞にも、高起・低起の別があります。高起式のものは二拍・三拍動詞の延長で考えることができて、例えば高起四段動詞、高起下二段動詞の代表としてそれぞれ「うしなふ」「こしらふ」をとりますと(「こしらふ」〔語形としては「こしらえる」の古い形〕は古今異義で、「機嫌をとる」「なだめる」といった意味でした)、

 うしなはず。(うしなふぁンじゅ HHHHL)
 うしなひ、  (うしなふぃ HHHL)
 うしなふ。  (うしなふ HHHL)
 うしなふこと(うしなふ こと HHHHLL)
 うしなへ。  (うしなふぇ HHHL)
 うしなへ。  (うしなふぇ HHHL)

 こしらへず。(こしらふぇンじゅ HHHHL)
 こしらへ、  (こしらふぇ HHHL)
 こしらふ。  (こしらふ HHHL)
 こしらふる時(こしらふる とき HHHHHLL)
 こしらふれ。(こしらふれ HHHHL)
 こしらへよ。(こしらふぇお HHHLF)

となりますけれども、低起式のものについては、二拍低起動詞や多数派低起三拍動詞の延長ではないところがあります。低起二拍動詞の終止形「成る」はLF、多数派低起三拍動詞の終止形「思ふ」はLLFというアクセントでしたが、低起四拍動詞、例えば「あつまる」の終止形はLLLFではなくLLHL(あとぅる)というアクセントで言われます。これが低起四拍動詞の終止形の基本形です。

 あつまらず。(あとぅまンじゅ LLLHL)
 あつまり、  (あとぅり LLHL)
 あつまる。  (あとぅる LLHL)
 あつまること(あとぅま こと LLLHLL)
 あつまれ。  (あとぅれ LLHL)
 あつまれ。  (あとぅれ LLHL)

 同様に下二段動詞「あらる」は、

 あらはれず。(あらふぁンじゅ LLLHL)
 あらはれ、  (あらふぁれ LLHL)
 あらはる。  (あらふぁる LLHL)
 あらはるる時(あらふぁる とき LLLLHLL)
 あらはるれ。(あらふぁれ LLLHL)
 あらはれよ。(あらふぁよ LLLHL)

のようなアクセントで言われます。これが下二段動詞の基本形です。「成る」の連体形はLH、已然形はLF、「思ふ」の連体形はLLH、已然形はLLFでした。「あつまる」「あきらむ」の連体形はそれぞれLLLH、LLLLHですけれども、それらの已然形はそれぞれLLHL、LLLHLであって、最後の一拍ではなく二拍のアクセントが連体形のそれとは異なり、かえって、拍数こそ違え、連用形や終止形と同趣のアクセントで言われます。
 同様に例えば低起五拍の四段動詞「改まる」の終止形はLLLHLで、低起四拍の「あつまる」LLHLとの差は、はじめの低い部分の長さだけです。
 一つの確認。例えば「先立つ」は平安時代の京ことばでは「しゃきンだつ HHHL」と言われましたが、「立つ」は単独では、tatooと同じ「たとぅう LF」です。つまり「しゃきンだつ HHHL」において「立つ」の式は保たれていないわけですけれども、多拍動詞ではこういうことはしょっちゅう起こります。
 まとめると、終止形が四拍以上になる動詞のアクセントは、次のような単純な、そして美しいものです。

未然   用・終  連体   已然   命令
H…HH H…HL H…HH H…HL H…HL(F)
L…LH L…HL L…LH L…HL L…HL


 b ひそやかなつながり・動詞における [目次に戻る]

 手元の資料をもとにきわめてラフな集計をしてみますと、平安時代の京ことばには千数百の単純動詞(「咲く」「成る」の類。複合動詞〔「咲き出(い)づ」「成りまさる」の類〕に対する称)があって、そのうち二拍動詞、高起三拍動詞、多数派低起三拍動詞は千くらいあります。高起低起の別さえ分かれば、それらの動詞のアクセントのありようは容易に分かるわけですけれども、その式の高低も、じつは私たちはかなりの程度知っている、ということができます。
 例えば、現代の京ことばの話し手は、二拍動詞については苦労はないでしょう。げんにふだん「咲く」「告げる」「成」「起き」とおっしゃっているでしょうから、「咲く」「告ぐ」が高起式、「成る」「起く」が低起式であることは自明、ということになります。ちなみに「咲く」と「成」とは、昔の京ことばにおける連体形のアクセントそのものですが、これは周知のとおり、鎌倉時代ごろ連体形が終止形の地位を奪い、みずからが両方を兼ねたことによります。「告げる」「起き」も、古い連体形「告ぐる」「起く」の変化したものです。これらの、古くは終止形が二拍だった動詞については、今昔の京ことばは基本的には式を同じくします。
 しかし、現代の京ことばでは、「探す」も「思ふ」もHHH(探す思う)、「怯える」も「数える」もHHHHのアクセントをとるようです(怯える数える)。これは、もともとは終止形が三拍だった動詞は、高起のものはもとより、低起のものも、現代の京ことばでは基本的には高起式で言われるからです。
 ところが、中井さんの『京ア』によれば、京都から見た「周辺部」に、「思う」を「もう HLL」と言う地域があります。南北朝時代、都ではアクセントに劇的な変化が生じたと前(さき)に申しました。それは具体的には、それまでのLLはHLに、それまでのLLLはHHLに、それまでのLLLLはHHHLになり、同様に例えばそれまでのLLHはHLLに、それまでのLLLHはHHLLに、それまでのLLLLHはHHHLLになるという変化、要するに、低平拍が語頭からn個続く場合、はじめの(n-1)個が高平化し、その次から低平化するという変化で、この変化は全面的・包括的でした。以下、この変化を受けるという意味で「正規変化する」という言い方をすることにしますと、京都からみた周辺部における「もう」は、古い連体形「おもふ」(おも LLH)のハ行転呼形が正規変化して成立した発音そのものです。つまり「もう」と発音なさる方がたは、このアクセントから古くは「おもふ」は低起式だったろう、と推測することができます。ちなみに近世前期には京都でも「もう」だったのが、後期に変化したのだそうです(「京言葉」〔旧「現代京都言葉」〕〔web〕。これは優れたサイトです)。
 同様に、京都から見た周辺部において「数える」を「かぞえる HHLL」と発音なさる人は、古くは「かぞふ」は低起式だったろうと推測できます。「かぞえる」は「かぞふる」(かンじょふ LLLH)が鎌倉時代頃「かぞへる」(かンじょいぇ LLLH)に変わり、それがさらに正規変化して成立した形です。
 じつは、東京語の話し手も、この種の推測をすることができます。
 例えば、さきほど見た八つの動詞の終止形は、東京では一般に、「さ」「さがす」「つげる」「おびえる」「る」「おう」「おる」「かぞえる」というアクセントをとるわけですけれども、これらのうち、はじめの四つは高く終わり、残りの四つは低く終わります(指摘されるまで気づかないものではないでしょうか。私などはそうでした)。また、はじめの四つでは「さかない」「さがさない」「つげない」「おびえない」のように「ない」が高く付き(=「ない」の「な」が高く言われ)、残りの四つでは「なない」「おもわない」「おない」「かぞえない」のように「ない」が低く付きます(=「ない」の「な」が低く言われます)。また、はじめの四つでは「さいて」「さがして」「つげて」「おびえて」のように「て」が高く付き、残りの四つでは「って」「おって」「きて」「かえて」のように「て」が低く付きます。
 これは偶然ではないので、例えば「さ」「さかない」「さいて」において活用語尾「く」や付属語「ない」「て」が高平調をとるのは、「咲く」(しゃく HL)が昔の都では高起式だったことを教え、「る」「なない」「って」において活用語尾「る」や付属語「ない」「て」が低平調をとるのは「なる」(なう LF)が昔の都では低起式だったことを教えます。千くらいあると申した昔の京ことばにおける二拍動詞、高起三拍動詞、多数派低起三拍動詞のなかには、今昔で意味の異なるものもたくさんありますけれど、そうしたものも含めて、多くは今もある言葉です。動詞のアクセントについて今しがた申したことは、それらの多くについて言えます。例えば東京では「あそぶ」はLHHで、これは昔の京ことばでは「あそぶ」が高起式だったことを教えます(「あしょンぶ HHL」)。ちなみに現代京都では「遊ぶ」は低起式で言われるようです(「あそ」)。
 千年前の都と現代東京とのあいだに実はあった、秘かなつながり。以前今しがた申し及んだ「現代京都言葉」(現「京言葉」)に赴いてそういってよいもののあることを知り、私は衝撃を受けましたが、この秘かなつながりは動詞においてあるだけではないのでした。


 c ひそやかなつながり・形容詞における [目次に戻る]

 東京では例えば「あまいチョコ」はLHHHL、「にがいチョコ」はLHLHLと言われます。平安時代の京ことばでは「あまし」は「あましい HHF」、「にがし」は「にンがい LLF」など言われました。いわゆる文語体の「あし」ないし「あまし」、「がし」というきっぱりとしたアクセント、〝文語らしい〟アクセントは、平安時代の京ことばのアクセントではないのであり、このことは謂うところの「文語の格調」というものが一種の虚構としてあることを意味すると思いますけれども、今はそれはともかく、古くは形容詞にも高起・低起の別があって、例えば「あまし」(あましい HHF)は高起形容詞、「にがし」(にンがい LLF)は低起形容詞です。この式の高低は、東京アクセントにおける「あまい LHH」「にい LHL」の末拍の高さと一致していて、これは偶然ではありません。
 かねて識者の指摘するとおり、東京における形容詞のアクセントは大きな変化の過程にあります。例えば「甘い。」は長らく「あまい。」と言われてきましたけれども、昨今は「あい。」とも言われますし、「苦くなる」は日常的には「にる」ではなく「にがくなる」と言われることがすでに多いかもしれません。
 とは申せ、「あーキ」と言われることは少なく、大抵「あまいケーキ」と言われるでしょうし、反対に「にがいビール」とはまず言われず、もっぱら「にール」と言われます。名詞を従える言い方では(連体形の一用法)、依然として末尾の「い」が高い形容詞と低い形容詞との差は、かなりはっきりしているようです。「熱い戦い」(あいたたかい)を「あついたたかい」という人は少なくないようですけれども、これは「熱戦」と同義の一つの固定的な言いまわしとしてのアクセントだと言えて、「熱いスープ」(あープ)を「あついスープ」という人は少ないと思われます。
 「熱い」「苦い」が名詞を従えるとき大抵LHLというアクセントで言われるのは、平安時代の京ことばにおいて「熱(あつ)し」「苦(にが)し」が「あとぅい LLF」「にンがい LLF」と言われたことの名残であり、「厚い」「甘い」が名詞を従えるとき大抵LHHというアクセントで言われるのは、平安時代の京ことばにおいて「厚し」「甘し」が「あとぅしい HHF」「あましい HHF」と言われたことの名残です。
 東京アクセントの話し手はこのことを利用して平安時代の京ことばにおける形容詞のアクセントを推測できますけれども(先で見るとおり例外はあります)、このこととは別に、平安時代の京ことばにおける形容詞は低起式のものが高起式のものより顕著に多く、「元来形容詞は基本的には低起式で、ただし例外的にかなり多くの高起形容詞がある」と言ってもあながち誇張した物言いにはなりません。のちに詳しく見ますが、高起形容詞の多くは高起動詞や高起名詞に由来するゆえ高起式なのだ、と申せます。
 ここで、形容詞の各活用形のアクセントを見てしまいましょう。『研究』の所説をなぞるだけです。ク活用・シク活用の別に加えて高起・低起の別があるので、四つに分かつ必要があります。

 「甘し」(高起ク活用)
 連用形 あまく   あまく HHL
 終止形 あまし   あましい HHF    
 連体形 あまき   あまきい HHF  
 已然形 あまけれ  あまけれ HHHL  

 「にがし」(低起ク活用)
 連用形 にがく   にンく LHL
 終止形 にがし   にンがい LLF    
 連体形 にがき   にンがい LLF  
 已然形 にがけれ  にンがれ LLHL  

 「悲し」(高起シク活用)
 連用形 かなしく   かなしく HHHL  
 終止形 かなし   かなしい HHF    
 連体形 かなしき  かなしきい HHHF  
 已然形 かなしけれ かなしけれ HHHHL  

 「うれし」(低起シク活用)
 連用形 うれしく  うれく LLHL  
 終止形 うれし   うれい LLF    
 連体形 うれしき  うれしい LLLF  
 已然形 うれしけれ うれしれ LLLHL  

 少し集約すれば、次のようです。連用形や終止形が二拍のもののことは先で申します。

 ク活用 
     高起式     低起式
 連用形 H(…)HL   L(…)HL
 終止形 H(…)HF   L(…)LF
 連体形 H(…)HF   L(…)LF
 已然形 H(…)HHL  L(…)LHL

 シク活用 
     高起式     低起式
 連用形 H(…)HHL  L(…)LHL  
 終止形 H(…)HF   L(…)LF
 連体形 H(…)HHF  L(…)LLF
 已然形 H(…)HHHL L(…)LLHL

 こんな特色があります。
i 連用形末尾の「く」は常に低く、その前は常に高い(「あまく」〔あまく HHL〕、「にがく」〔にンく LHL〕)。したがってシク活用の連用形の末尾「しく」は常にHLと発音される(かなしく〔かなしく HHHL〕、うれしく〔うれく LLHL〕)。
ⅱ 終止形末尾の「し」、および連体形末尾の「き」は常に下降調。院政期にはそれらは高平化していたと見る向きもありますけれど、顕天片・顕大1070が「楽しきを」に〈平平平上平〉を差し(たのしいうぉ LLLFL)、また、寂・毘・高貞・寂(墨点)1024が「恋しきが」の「が」に〈平〉を差し(こふぃしいンが LLLFL)、さらには御巫本(みかなぎぼん)日本紀(にほんぎ)私記(『研究』研究篇下p.131)が「無きが」の「が」にやはり〈平〉を差しているようで(ないンが LFL)、これらにおいて助詞の低いのは形容詞の末拍が拍内下降するからでしょう(詳細後述)。また、「べし」に終わる言い方が形容詞相当になることはつとに知られていますが(やはり詳細後述)、その「べし」の連体形が「切るべきに」〈平平平上平〉(毘421)において助詞「に」を低く付けているのは、やはり末拍が拍内下降するからでしょう(「きるンべいに LLLFL」)。
ⅲ 已然形末尾の「けれ」は常にHLと発音される(「あまけれ HHHL」「うれしれ LLLHL」)。

 形容詞のことでは、まだいわゆる「カリ活用」のことと、語幹のことを申さなくてはなりません。
 学校文法は例えば「あまからむ」(あまからう HHLLF)を形容詞の連用形「あまから」と助動詞「む」とからなるとしますけれども、つとに諸先覚の説くとおり、これはほとんど理不尽です。「あまからむ」は、「あまく」と「あらむ」との縮約した言い方であって、実質的に動詞に終わる「あまから」(=あまくあら)のような言い方を形容詞(の「カリ活用」)の一部分とするのには無理があります(「委託法、および、状態命題」3の一節をご覧ください)。じっさい、例えば「あまからむ」には「あまくやあらむ」(あまあ あら HHLFLLH。甘いだろうか。甘いかもしれない)のように容易に助詞が介入しますし、アクセントを見ても、「あまからむ」は「あまからう HHLLF」という、「あまく」(あまく HHL)と「あらむ」(あらう LLF)との単純な縮約形であることは明らかです。
 「おほかり」について一言。平安仮名文において現代語「多い」に当たるのは、「多く」(おふぉく LHL)と「あり」(あい)とのつづまった「多かり」(おふぉい LHLF)であることはよく知られています。「多し」(おふぉい LLF)という形容詞もありましたけれど、もっぱら漢文脈で使われました。もっとも、連用形「多く」は元来「多し」のそれだとも言えます。なお現代東京で「多い」が例えば「にく」と同じように「おく」と言われるのではなく「おく」と言われるのは、第二拍が特殊拍(後述)なので変化したのです。

 多からず おふぉンじゅ LHLHL
 多く   おふぉく LHL
 多かり  おふぉい LHLF
 多かる  おふぉ LHLH
 多かれ  おふぉえ LHLF
 多かれ  おふぉえ LHLF

 次に語幹について。「にくみす」(にしゅう LHLF)のことなどを考えた時に申したとおり、形容詞の語幹は、連用形から「く」を取り去ることで、アクセントも含めてしかるべきものが得られるのでした。以下に見るとおり、終止形から「し」を取り去ることでも語幹を得られるのは高起・ク活用の場合だけです。

  高起・ク活用
 終止形 あまし (あましい HHF)
 連用形 あまく (あまく HHL)
 語幹  あま(あま HH)

  低起・ク活用
 終止形 にがし (にンがい LLF)
 連用形 にがく (にンく LHL)
 語幹  にが(にン LH)

  高起・シク活用
 終止形 かなし (かなしい HHF)
 連用形 かなしく (かなしく HHHL)
 語幹  かなし(かなし HHH)

  低起・シク活用
 終止形 うれし (うれい LLF)
 連用形 うれしく (うれく LLHL)
 語幹  うれし(うれ LLH)

 学校文法ではシク活用の形容詞の語幹に末尾の「し」を含めませんが、識者の指摘なさるとおり、これは端的に悪弊でしょう。「かなし」「うれし」の語幹を「かな」「うれ」とする学校文法は、いわゆる「語幹の用法」について、「ただしシク活用では語幹ではなく終止形の用法」とするわけですが、アクセントも含めて考えるならば終止形と語幹とは異なります。
 形容詞の語幹は、現代語と同じく接辞「さ」(しゃ H)を従えて「あまさ」(あましゃ HHH)、「にがさ」(にンがしゃ LHH)、「かなしさ」(かなししゃ HHHH)、「うれしさ」(うれししゃ LLHH)のような名詞を作りますけれども、古くはまた接辞「み」(み L)も従えました。「あまみ」(あまみ HHL)、「にがみ」(にンみ LHL)、「かなしみ」(かなしみ HHHL)、「うれしみ」(うれみ LLHL)のような言い方は、(i)連用形に近い意味を持ったり――例えば「明日香の古き都は山高み川とほしろし」(万葉324。あしゅの ふる みやこふぁ やま たふぁ とふぉしろしい LLHL・LLFHHHH・LLLHL・HLHHHHF)は、「山が高く、川が雄大だ」というのです――、(ⅱ)原因・理由を示したりしますが――もっとも例えば「あまみ」はことさら「甘いので」としなくても単に「甘く」「甘くて」とすればその意味を示せるのですから、(i)に含めることもできます――、(ⅲ)サ変「す」とともに「何々だと思う」を意味する言い方を作ることもできます。前(さき)に申し及んだ「なつかしむず」(なとぅかじゅう LLLHLF)のような言い方は、こうしてできた「なつかしみす」(なとぅかしゅう LLLHLF)の撥音便形でした。同じ意味で「なつかしみ思ふ」(なとぅかみ おもう LLLHLLLF)という言い方をすることもでき、これらと「なつかしく思ふ」(なとぅかく おもう)とは同義であることを思うと、いよいよこの「…み」と形容詞の連用形との近さがはっきりします。

 山里は冬ぞわびしさまさりける人目も草も枯れぬと思へば 古今・冬315。諸本「さびしさ」とするところを伏片は「わびしさ」とし〈上上上上〉を差します。やまンじゃとふぁ ふゆンじょわンびししゃ ましゃふぃとめも くしゃうと おもふぇンば LLLHH・HLFHHHH・HHLHL・HHHLLLF・HLFLLLHL。

 数々に思ひ思はず問ひがたみ身を知る雨は降りぞまされる 古今・恋四705。第三句に梅・寂が〈上上上上平〉を差しています。かンじゅかンじゅに おもふぃい おもふぁンじゅ とふぃンがたみいうぉお しる ふぁ りンじょ ましゃ LHLHH・LLFLLHL・HHHHL・HHHHLFH・LHLHHLH。思ってくれているのかそうでないのか聞くことがむつかしく、だから今の私のありようを知っている雨(つまり涙)がますます強く降っています。

 この「み」と区別しなくてはならない「み」があるようです。例えば図名に「烏賊の黒み」〈上上上平平平〉(いかの くろみ HHHLLL。烏賊の墨のこと)という注記がありますけれども、アクセントから見て、これなどは動詞「黒む」(くろう LLF)から派生した名詞と見るべきでしょう(派生名詞のことは詳細後述)。梅・訓618も次の歌の「浅み」に〈上上上〉(あしゃみ HHH)を差しています。

 浅みこそ袖は浸(ひ)つらめ涙川身さへ流ると聞かばたのまむ 古今・恋三618、伊勢物語107

 この「浅み」は「(気持ちが)浅いから」といった意味に解せらるべきでしょうけれども(あしゃしょ しょンでふぁ ふぃとぅえ なみンだンがふぁ みいしゃふぇ なンがうと きかンば たのまう HHLHL・HHHLHLF・LLHHL・HHHLLFL・HHLLLLF)、梅や訓は「浅みこそ」を「浅みにこそ」(=浅イ所デ)と同義の言い方と解しているようです(副助詞や係助詞の前の格助詞は省略可能です)。浅い所で袖は濡れているのでしょう。涙川にからだまで流れていると聞いたら、あなたの言葉を信じましょう。「浅い所」を意味する「浅み」(あしゃみ HHH)という名詞は確かにあって――そういえば現代語でも「高い所」という意味で「高み」と言います――、これは動詞「浅む」(あしゃむ HHL)の派生語にほかなりません。
 形容詞の語幹は「あな」(あな LL。現代語「あら」の古形。築島さんの『新論』によると、院政期、さるお坊さんが「愚人」は「あな」ではなく「あら」を使うと書いているそうです)を先立てて「ああ何々だ」を意味します。

 秋の野になまめき立てる女郎花あなかしかまし花も一時(ひととき) 古今・誹諧歌(はいかいか)(「誹」は広辞苑によれば呉音も漢音も「ひ」ですけれども寂は「はい」と読み、全体に〈平平平平上〉〔ふぁいかいあ。「歌」は漢音ではF〕を与えます)1016。『梅』が「あなかしかまし」に〈平平平平平平上〉を差しています。現代語では「かしがましい」と言いますが、古くは「かしかまし」(かしかまい LLLLF)。改名はこの形容詞を高起式としますが、梅によっておきます。あいの のおにい なまき たうぉみなふぇし あな かしかまふぁなお ふぃととき LFLLH・LLHLLHL・HHHHL・LLLLLLH・LLFLLHH。乙女たちがおしゃべりをしているかのごときオミナエシの群生。ああやかましい。しかしこれもひと時のこと。「一時」(ふぃととき LLHH)の後半二拍は推定。例えば「一本」は「ふぃともと LLHH」です(「もと」も「とき」もLL)。


 d 東京語のアクセント [目次に戻る]

 次節以降、しばらく、平安時代の京ことばにおける個々の動詞や形容詞のアクセントを、東京アクセントとの関連において、徹底的に具体的に考えます。理論的なことがらに興味をお持ちの方は、また、参考としてひきつづきひらがなで記すアクセントの信憑性をお疑いの向きは、はるか先、「低下力」のところにお進みいただいたほうがよいかもしれません。
 次節以降においては近現代の東京アクセントを記した数種のアクセント辞典を大量に引きます。その際、五つについては略号を用いるので、以下に示します。
 『26』。山田美妙(1868~1910)の『日本大辞書』(1893年=明治26年)(デジタルコレクション)のことです。きちんとしたアクセント辞典でもある国語辞典です。十九世紀の末にこれだけのものがあったとは。そして手軽に利用できるとは。
 『43』。日本放送協会『日本語アクセント辭典』(1943)のことです。ここからは略号は西暦によります。wikisourceで見られます。
 『58』。三省堂『明解日本語アクセント辞典』(昭和三十三年六月二十五日発行)です。金田一春彦監修、秋永一枝編修。
 『89』。語義説明や例文のユニークさによって名高い『新明解国語辞典』第四版(1989)です。
 『98』。『NHK発音アクセント辞典』(1998年版)です。
 さて東京語のアクセントは一つの数字で示すことができます。以下では、『89』に倣いこの数字を○で囲み、⓪、①、②(…)と表示します。『26』や『43』や『58』や『98』は別の表記法を用いますけれども、この数字による表記法に直します。
 念のため、以下、現代の東京語のアクセントを数字ひとつで記述できることを確認します。それなら先刻承知と言われてしまうかもしれませんけれども、例えば「花」と「鼻」とはそれ自体で、ということは「が」「を」のような助詞を付けなくても区別できると聞いて驚かれるかたや、東京アクセントでは初拍と第二拍とは常に高さを異にするわけではないと聞いて驚かれるかたにはご覧いただきたいと思います。もっとも、諸家の受け売りを申すだけです。
 東京語のアクセントには、はじめの拍が低いならば次の拍は高く、はじめの拍が高いならば次の拍は低いという〝基本定理〟があります。申したとおり例外があるものの、大抵そうだという意味で比喩的にはそういう定理があると申せます。この定理は昔から成立していたようで、十五世紀末、金春禅鳳(こんぱるぜんぽう)という人、名前から予想されるとおり能役者のかたですけれども、この方が、例えば「京声」では「犬」をHLと発音し(平安時代の京声は「いぬ LL」。HLはその正規変化したもの)、「坂東筑紫なまり」ではLHと発音する、という意味のことを言っているそうです。西国筑紫でも、そして坂東でも、ということは東海道では足柄峠、中山道では碓氷峠より東でも、古くから「犬」は「い」と言われたようです。東京語という「坂東なまり」では、例えば「か」が低くはじまったら次は例えば高い「う」なり「き」なり「ぎ」なり「ぜ」が来るのであり(「買う」「柿」「鍵」「風」)、「か」が高くはじまったら次は例えば低い「い」なり「う」なり「き」なりが来ます(「貝」「飼う」「牡蠣」)。
 なお、今申しているのは、正確を期するならば、「音調句」など呼ばれるところの、アクセント上の、時には複数文節からなるまとまりの初拍と第二拍との関係でして、例えば「この柿」は通例「こ」ではなく「この かき」と言われますけれども、これは二文節の「この柿」が一つの音調句をなし、そこにおいて「柿」は音調句の第三四拍であるゆえ「基本定理」が適用されないからです(「この かき」の「この」では基本定理が成り立っています)。「柿」LHにおける初拍の低まりは「柿」という単語に属するのではない、ということになりますが、しかし、だからといって「柿」の固有のアクセントはHHだとするのはミスリーディングです。単語のアクセントは通例音調句のはじめに置かれる時のアクセントで代表させる、という一般的な了解があるとしてよいのではないでしょうか。「基本定理」は確かに正確を期するならば音調句について言えるわけですけれど、「現代東京では『柿』は「か」と言われるという言い方は不正確だ」 というのもまた不当だと思います。そもそも、「この柿」をゆっくりと、かんで含めるように言う時などは、「柿」の初拍もはっきりと低まり得ます。「この柿」は「この かき」と言うべきだ、というようなルールがあるわけではありません。
 ともあれ、こういうわけで東京語のアクセントは一つの数字によって示せます。例えば「貝」も「飼う」も「牡蠣」も①で示せます。第一拍の終わりに――「第一拍に」ではなく「第一拍の終わりに」――下がり目(「アクセントの核」とも言います)があるから①。初拍を発音し終えてから下がるということは初拍は高いということで、確かに数字①によって「貝」「飼う」「牡蠣」のHLというアクセントを示せます。
 他方、例えば「花」や「鍵」は②です。第二拍の終わりで下がるからです。ここで下がるというのは助詞が低く付くということで、例えば「柿が」「柿を」では高く言われる「が」「を」が、「花が」「鍵を」ではいずれも低く言われます。さて第二拍の終わりで下がるということは第二拍は高いということで、すると基本定理から初拍は低いので、確かに数字②によって「花」「鍵」のアクセントを記述できます。同じように例えば「北陸新幹線」のアクセントは⑦で示せます。第七拍の終わりで下がるということは第七拍は高いということですが、それ以前に低まるところがあるならばそれを指定する数字がなくてはなりません。ないならば低まらない。つまり高い。ただし、二拍目以降が高いならば基本定理によって初拍は低い。そこで⑦によって「ほくりくしんかんせん」というアクセントが示されます。
 「柿」や「風」や「反射式天体望遠鏡」は、「が」「を」のような助詞が高く付くので、⓪です。「買う」も、「見るとよい」などでは低く付く「と」が「買うとよい」では高く付く(ないし高く付きうる)ので、⓪です。⓪は、ゼロ拍目の終わりで下がる(=はじめから下がる)、という意味ではなく、下がり目がないという意味です。もし初拍が高いならば、基本定理によってその終わりが下がり目です。つまり①です。①でないということは、初拍は低く、次の拍以降は高いということで、どこにも下がり目がないならば、最後まで高く、「が」「を」のような助詞も高く付くということです。この⓪で示されるアクセントを「平板型」と言います。
 節の最後に、東京語のアクセントに関する基本定理を精緻化しておきます。要点は、初拍が高く、第二拍が長音や撥音や二重母音の後半である場合、その第二拍は必ずしも下がらない、というところにあります。例えば「あーちしき(アーチ式)」や「あんしん(安心)」や「あいかぎ(合鍵)」のアクセントは⓪と記述されますけれども、これらの言葉は通例「あーちしき」「あんしん」「あいかぎ」と言われます。ゆっくり区切って言う場合は「あ・」「あ・」「あ・」とも言えますけれど、普通こうは言われず、「あーちしき」「あんしん」「あいかぎ」と言われます。しかし基本定理によれば初拍と第二拍とは高さが異ならなくてはなりません。
 もともと、これも申したとおり、「花」と「鼻」とは、いずれもLHと書けるとは言え、同じではありません。大いに誤解なさっている向きも少なくないようですけれども、実際に発音してみれば明らかなとおり、「鼻」における初拍と第二拍との音程の差は、通例「花」におけるそれよりもかなり少ないはずです(私はどなただったかのお書きになったものにそうあるのを読むまで気づきませんでした)。ただ、だからといって「鼻が」は東京では「はなが」と言われるとはいえません。これは例えば「あかじが(赤字が)」を「あかじが LHHH」ではなく「あかじが HHHH」、「あきばしょが(秋場所が)」を「あきばしょが LHHHH」ではなく「あきばしょが HHHHH」、「あくたがわが(芥川が)」を「あくたがわが LHHLLL」ではなく「あくたがわが HHHLLL」、「あずまおとこが(東男が)」を「あずまおとこが LHHHLLL」ではなく「あずまおとこが HHHHLLL」と言うとあずま人には関西語風に聞こえることを、ということは東京アクセントに 聞こえないことを確認して耳を慣らせば、了解されるでしょう。「鼻が」も「はなが」と発音すると関西語に聞こえます(「はなが いたい」)。つまり東京アクセントでは「鼻が」はHHHだということはできません。それはやはりLHHです。「花が」のはじめの二拍とすっかり同じではありませんけれど、「鼻が」でも初拍は低く、第二拍は高いのです。なお、「鼻が」は実際に関西語のアクセントですけれども、例えば京ことばでは概略、「あかじが」はLLLH、「あきばしょが」はLLLLH、「あくたがわが」はLLHLLL、「あずまおとこが」はLLLHLLLと言われます。しかしあずま人には「あかじが」以下が関西語風に聞こえるのは事実です。
 ところが、「あーちしき」「あんしん」「あいかぎ」は関西語風に聞こえません。関西語でもこうでしょうが、東京語でもこう言われます。つまりこれらにおいては基本定理が成り立っていません。
 撥音や、長音の後半や、二重母音の後半は「特殊拍」と呼ばれます。東京アクセントでは特殊拍は、その名のとおり特殊な性格を持っています。「かんさつりょく(観察力)」「こーげきりょく(攻撃力)」などが④であるのに、「えんしりょく(遠心力)」「えーきょりょく(影響力)」「けーざい(ai)りょく(経済力)」が③なのは、東京語では特殊拍の終わりは下がり目にならないからです。特殊拍でないならばそこが下がり目であるという場合も、そこが特殊拍ならば下がり目はその拍の前に来ます。京ことばなどでは特殊拍は特殊でなく、例えば「えんしんりょく(遠心力)」「えーきょーりょく(影響力)」「けーざいりょく(経済力)」と言われますけれども、ただし、近年は東京に毒されて「えんしんりょく(遠心力)」「えーきょーりょく(影響力)」「けーざいりょく(経済力)」と言われることも(ないし、ことが)多いようです。
 なお、基本定理における例外は特殊拍全般にかかわるとすることはできません。促音も特殊拍だからです。例えば「あっか(悪化)」は⓪ですけれども、「あっかする」はあずま人には関西語のアクセントに聞こえます(聞こえるだけでしょう。京都では「あっ」のようです)。東京では「悪化」はHHHではなくLHHの気持ちで言われます。実際にはLLHのつもりで言っても同じであること、前(さき)に申したとおりですけれども、いずれにしても初拍は低く言われるはずです。
 基本定理は、「東京語のアクセントでは、初拍が低いならば次の拍は高く、初拍が高いならば次の拍はそれが特殊拍(ただし促音を除く)でない限り低い」とすべきものなのでしょう。促音は例外の例外をなします。初拍が高く次の拍が促音以外の特殊拍である場合、その特殊拍は高くも低くも言われ得ます(あいかぎ〔合鍵〕、いか〔哀歌〕)。この場合でも⓪①というアクセント表記は有効ですけれども、ただ、①は本則どおりとして、⓪は、ゆっくり言う時には本則どおりの発音も可能だが(あいかぎが)、ふつう以上のテンポでは初拍から高く、かつ下がり目のない言い方であることを意味します(あいかぎが)。初拍が高く次の拍が促音である場合、本則どおりに次の拍以降は低くあることしかできません(っか〔悪貨〕、ッサム〔インドの州名〕)。
 旧都の用言のアクセントと新都のそれとの間の秘かなつながりの一端は、基本定理を用いて容易に説明できます。現代語の動詞の終止形は古い連体形に由来するのでした。例えば「探す」「失ふ」の連体形は「しゃンがしゅ HHH」「うしなふ HHHH」ですけれども、これらの二拍目は「促音以外の特殊拍」ではないので、初拍と次の拍とはあずま言葉では高さが異ならなくてはなりません。するとこれらに近いのはLHH、LHHHしかありません。高く始めたら次は低くするしかなく、HLL、HLLLはもとの言い方と似ても似つきません。
 ちなみにこのことはほかの品詞についても言えて、例えば東京では「蚊(が)」「子(が)」はL(H)、「姉(が)」「牛(が)」はLH(H)、「霰(あられ)(が)」「器(うつは)(が)」はLHH(H)、「暁(あかつき)(が)」「泡沫(うたかた)(が)」はLHHH(H)、「桜色(が)」「政(まつりごと)(が)」はLHHHH(H)と発音されますけれども、これらのアクセントは、平安時代に「蚊」「子」「姉」「牛」「霰」「器」「暁」「泡沫」「桜色」「まつりごと」が「かあ H」「こお H」「あね HH」「うし HH」「あられ HHH」「うとぅふぁ HHH」「あかとぅき HHHH」「うたかた HHHH」「しゃくらいろ HHHHH」「まとぅりンごと HHHHH」と発音された名残だと申せます(事情は京都でもほぼ同じですけれども、ただ例えば「霰」は今は単独では「あら」だというようことはあります)。ただしこの種の推定は万能だというようなことはあいにく全然なくて、例えば 東京では「日(に)」はL(H)と発音されますけれども古典的には「ふぃ FH」と言われましたし、東京では「北(に)」はLH(H)と発音されますけれども 古典的には「 HLH」と言われましたし、「菖蒲(あやめ)(に)」は 東京ではLHH(H)と発音されますけれども、平安時代の京ことばでは東京と同じく「あやめに LHHH」と言われましたし、「紫陽花(あぢさゐ)(に)」は東京ではLHHH(H)と発音されますけれども、平安時代の京ことばでは「あンでぃしゃうぃに LLHHH」と言われました。東京で平板だから昔の京都でもそうだったろうと断ずることはできません。そうだった可能性は高い、ないし低くない、といった程度のことが言えるに過ぎません。
 ただそのなかで、二拍名詞については、東京で⓪ならば平安時代の京ことばではHHだったろうと考えてほとんど誤らないようで、「北」などは例外ということになりますけれども、実は「北」は東京ではもともとは平板アクセントではありませんでした。すわなち、『26』『43』『58』は「北」を②とします。『89』は⓪②。平板化したのは割合と最近のことで、それまで東京ではもっぱら「きえる」など言っていたのでした。
 この「北」と同趣のことが「沖」と「鹿」とについて申せます。すなわち、「沖」は平安時代の京ことばでは「おき LL」でしたけれども、現代東京では⓪、『43』『58』も⓪。このアクセントからは往時の京ことばにおけるそれをしのべません。しかし『26』はこの名詞を①とします(「きに る」)。これならば、「朝」も「雲」も平安時代にはLLだったが(あしゃ LL、くも LL)現代東京では『26』以来①で言われるので、少数ながら仲間はいると申せます。
 次に「鹿」は平安時代には「しか LL」と言われましたけれども、現代東京では⓪で言われます。やはりこのアクセントからは往時の京ことばにおけるそれをしのべませんけれども、昔の東京では「らで した」など言ったようです。すなわち、『26』『43』は「鹿」を②とし、『58』はこの二拍語を②とした上で「新は⓪」(表記は変更しました)とします。『89』はただ②とするものの、大辞林(2006)は⓪②。OJAD(web)は⓪。ちなみに、平安時代の京ことばにおいてLLで言われた名詞の多くは現代東京では②で言われます(「垢」は「あか LL」、「足」は「あし LL」〔「葦」は「あし」〕、「明日」は「あしゅ LL」、「綾」は「あや LL」、「泡」は「あわ LL」〔「粟(あは)」は「あふぁ」〕…)。
 平安時代の京ことばでは高平連続調だった動詞や名詞の多くが東京では平板アクセントで言われますけれども、高平連続でなかったものも東京では時に平板アクセントで言われます。そして、旧都では高平連続でなかったものが新都でどう言われるようになったかは、簡単には記述できません。こうして、旧都におけるアクセントと新都におけるそれとの関係は十分複雑です。ただ、経緯は私などにははっきりしないながら、旧都の例えば「思ふ」の低起性と、現代東京で「思う」が②で言われることとは無縁どころでないこと、これははっきりしています。そういうことについて、これから縷々申します。
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