3 古典的なアクセント [目次に戻る]
平安時代の京ことばのアクセントなどせいぜい概略しか分かるまい、と私なども以前は思っていたのですけれども、これは大きな考え違いでした。事実は、『日本書紀』の写本、中でも「古写本」と呼ばれるものに属する三つの写本や、すでに申し及んだ図書寮本『類聚名義抄』と呼ばれる字書(じしょ)(一種の漢字辞典)、「古今集声点本(しょうてんぼん)」と総称される一群の書物などをはじめとしたさまざまな原資料があり、研究も積み重ねられていますから、それらを踏まえることで、往時の中央語のアクセントのありようはかなり詳しく知ることができると申せます。特に、秋永一枝さんの大著にして名著である『古今和歌集声点本の研究』――以下『研究』と略します――は決定的に重要でして、平安時代の京ことばのアクセントについて考えようとするならば、何よりも『研究』に就かなくてはなりません。以下、この小論で申すことの半分くらいは、『研究』の内容をこちらの責任において我流に砕(くだ)いたものだと申せるかもしれません。
その我流に砕いたものの一端ということになりますけれども、まず、平安時代の京ことばにおける、「古典的」と呼べるタイプのアクセントとそうでないタイプのアクセントとの区別、ということを申します。例として、古今集に収められた、「何をして身のいたづらに老いぬらむ年の思はむことぞやさしき」(歌番号1063)をとりましょう。何をしているうちにこう無駄に年をとってしまったのだろう。年がどう思うだろうかと考えると、恥ずかしい。身につまされる歌です。
古今集の成立した十世紀はじめ、この歌は、
なにうぉ しいて みいのお いたンどぅらに おいぬらム としの おもふぁム ことンじょお やしゃしきい
とも、
なにうぉ しいて みいのお いたンどぅらに おいぬらム としの おもふぁム ことンじょお やしゃしきい
とも発音されたと考えられます。具体的に何をどう考えればこのようだったと言えるのかは、以下の論述の中に分散的に述べられるでしょう。二つは以下のところで異なります。
しいて、しいて
おいぬらム、おいぬらム
詳細は後述としますけれども、「しいて」「おいぬらム」では助詞「て」、助動詞「らむ」は先行するサ変動詞「す」の連用形や動詞が助動詞を従えた「老いぬ」からアクセント上独立しているのに対し、「しいて」「おいぬらム」では、助詞「て」、助動詞「らむ」はそれらにアクセント上従属しています。「しいて」と「しいて」との差、「おいぬらム」と「おいぬらム」との差は、付属語(助詞・助動詞)が先行部分(動詞や名詞のような自立語や、自立語がほかの付属語を従えたもの)に従属するか否かの差です。
一般には、古くは付属語はそれが先立てる自立語からアクセント上独立していたが後(のち)に従属した、例えば古今集の成立した十世紀などにはもっぱら「しいて」「おいぬらム」のような言い方がなされたが後に「しいて」「おいぬらム」のような言い方がなされるようになった、と理解されているようですけれども、しかし、付属語が先行部分にアクセント上従属する言い方は古くからあったこと、そしてその反対に付属語が先行部分からアクセント上独立した言い方ははるか後(のち)にもあったこと、この二つを立証するのはむつかしくありません。古くは「しいて」「おいぬらム」のような言い方が多かったが、次第に「しいて」「おいぬらム」のような言い方が好まれるようになった、「しいて」「おいぬらム」の
ような言い方はおそらくは古風なものになっていった、ということはいえます。しかし古くから両様の言い方ができ、後にも、鎌倉時代にさえ、両様の言い方ができました。
「しいて」「おいぬらム」のような言い方は、「しいて」「おいぬらム」のような言い方から変化したものとして理解できるので、その限りにおいて「しいて」「おいぬらム」のような言い方を原型的なものとすることができますけれども、以下では、この「しいて」「おいぬらム」のような言い方を「古典的なアクセント」と呼ぶことにします。ここにいう「古典的なアクセント」は、平安時代の初期における一つのタイプのアクセントであり、同時代やそれ以降における別のタイプのアクセントがそれからの変形として理解できるところのものです。「原型的なアクセント」という言い方はしませんが、これは、のちに申すとおり、さらに一段(ひときざみ)古いタイプのアクセントなども
想定できるからです。無アクセントも一つのアクセントなのであってみれば、アクセントの発生は言語の発生と同時でしょう。
平安時代の初期にも「しいて」「おいぬらム」のような古典的でない言い方で言われることがあり、平安時代の後期やさらには鎌倉時代にも「しいて」「おいぬらム」のような古典的な言い方で言われることがあった。変化はあったけれども、それは時代のくだるとともに古典的でない言い方が好まれるようになったという変化以上のものでない。こう考えられるのですが、では平安中期はどうだったか。平安中期のちょうどなかごろである西暦千年ごろはどうだったか。古典的な言い方と、そうでない言い方と、どちらが好まれたのか。まことに遺憾ながら、じつはよく分かりません。しかし、どちらも聞かれたと見られる以上、まずなじむべきは古典的なアクセントであること、これははっきりしています。これまでもこれからも、参考として記すアクセントは、特におことわりをしない場合、古典的なそれです。
京ことばのアクセントの体系は、少し触れましたが南北朝時代、低起式と呼ばれる言葉の過半に劇的な変化の起こるまでの数百年間、大きくは変わらなかったと考えられています。千年以上「飴」は「あめ」、「歌」は「うた」、「海豚」は「いるか」、「辛子(からし)」は「からし」と言われるのだったことを思えば、数百年間大きくは変わらなかったという事態は奇異なことではありませんけれども、その南北朝時代までの数百年間にも小さな変化はあって、その中で最大の変化は、古典的なアクセントが次第に好まれなくなったことだと思います。ただこの間(かん)には、もう少しささやかな、しかし重要な変化も起こったようです。下降拍の短縮化です。こちらから見ることにします。
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