11 助動詞のアクセント [目次に戻る]
a 助動詞に特殊形なし [目次に戻る]
個々の助動詞のことを考えます。と申しても、動詞を作る接辞と言えるのだった「る」「らる」「す」「さす」「しむ」、四段活用の「す」、それから、形容詞を作る接辞と言えるのだった「べし」「まじ」のことはすでに見ましたから、以下では、〝純粋助動詞〟と呼びうる一群の助動詞、「き」「けり」「ぬ」「つ」「む」「らむ」「けむ」「まし」「じ」「めり」「(伝聞推定の)なり」「らし」「ず」のことや、実質的にラ変動詞「あり」そのものに終わる、本質的に縮約形をなすと言うべき断定の「なり」「たり」や存続の「たり」「り」の類のことなどを考えます。「けり」、「めり」、伝聞・推定の「なり」は末尾に「あり」を含みますけれども、すでに単純な縮約形ではありません。なお「らし」「まし」は、外見に反して形容詞を作る接辞ではありません。
さて純粋助動詞については、まず、それらは特定の特殊形を持たないことを確認する必要があります。
動詞には特殊形がありました。例えば「べし」「まじ」は、おのれに先立つラ変以外の動詞に終止形(特殊)を、ラ変には連体形(特殊)を要求するのでしたけれども、おのれに先だつ完了の「ぬ」には特定のアクセントを求めないようで、その証拠に、
鳴きぬべき〈上平上(上上)〉(毘・高貞498。なきぬンべきい HLHHF)
消(け)ぬべく〈上上上平〉(寂1001。けえぬンべく)
立ちぬべし〈平上上上上〉(訓642。たてぃぬンべしい LHHHF。『訓』の独自本文。諸本「立ちぬべみ」)
のような注記も、
知りぬべみ〈上平平上平〉(図紀71。しりぬンべみ HLLHL)
散りぬべみ〈上平平上平〉(訓281。てぃりぬンべみ HLLHL)
消ぬべく〈上平上平〉(梅・毘・訓1001。梅・訓は「べく」に注記なし。けえぬンべく)
消ぬべきものを〈上平平上(平平上)〉(伏片375。けえぬンべきい ものうぉ FLLFLLH。のちに歌と左注とを引きます)
のような注記も見られます。
「べし」はおのれに先立つ完了の「ぬ」に対して特定のアクセントを求めず、「まじ」はそもそも完了の「ぬ」を先立てず、先だつ動詞に終止形(特殊)、連体形(特殊)を要求する付属語は「べし」「まじ」のほかにありません。つまり、完了の「ぬ」の終止形(特殊)はこれであるという特定のアクセントは存在しません。もし「べし」の先立てるアクセントを終止形(特殊)と定義するならば完了の「ぬ」の終止形(特殊)には高平調、低平調の二つがあるということになりますけれども、「べし」はおのれに先立つ完了の「ぬ」には特定のアクセントを求めないという意味では、完了の「ぬ」は終止形(特殊)を持ちません。
完了の「ぬ」は、例えば「鳴き」(なき HL)のような動詞の連用形を先立て自分は「べし」に先だつ時、動詞の低下力に負けて低まるか、動詞の低下力に抗して卓立するかを、後続の「べし」からの要求によってではなく、自分で決めます。そして前者ならば「鳴きぬべし」は「なきぬンべしい HLLLF」のように言われ、後者ならば「鳴きぬべし」は「なきぬンべしい HLHHF」のように言われます。これらではそれぞれ、「ぬべし」(ぬンべしい LLF)〉という低起形容詞、「ぬべし」(ぬンべしい HHF)という高起形容詞があるかのようだと申せます。ということは、ここでは「べし」が「ぬ」のアクセントを決めているのではなく、却って「ぬ」が「べし」のアクセントを決めています。動詞が「べし」を従える時は、「べし」が動詞のアクセントを決めるのでした。やはり完了の「ぬ」は終止形(特殊)を持たないとすべきでしょう。
先立つ動詞に特殊形を求める付属語のうち、純粋助動詞も先立てうるのは、「む」「まし」、過去の「し」(および已然形「しか」)、「べし」、および終助詞「しか(しが)」「なむ」だけであり――例えば打消の「ぬ」は動詞に未然形特殊を要求しますけれども純粋助動詞は先立てません――、これらの付属語が先立てうる純粋助動詞は、完了の「ぬ」「つ」、推量の「めり」、伝聞・推定の「なり」に限られます。つまりさらに検討すべきは、「咲きなむ」「咲きなまし」「咲きにし」「咲きにしかな(咲きにしがな)」「咲きななむ」のような言い方における完了の「ぬ」、「見てむ」「見てまし」「見てし」「見つべし」「見てしかな(見てしがな)」のような言い方における完了の「つ」、「あめりし」「あなりし」といった言い方における過去の「し」ですが(助詞はあとまわしにします)、これらにおける「ぬ」「つ」「し」は、詳細は後述しますけれども、高くも低くも言われ得ました。
咲きなむ (しゃきなムう HLHF、しゃきなムう HLLF)
咲きなまし (しゃきなましい HLHHF、しゃきなましい HLLHF)
咲きにし (しゃきにし HLHH、しゃきにし HLLH)
見てむ (みいてムう RHF、みいてムう RLF)
見てまし (みいてましい RHHF、みいてましい RLHF)
見てし (みいてし RHH、みいてし RLH)
見つべし (みいとぅンべしい RHHF、みいとぅンべしい RLLF)
それから、「あなりし」「あめりし」は、
あめりし (あんめりし LHHLH、あんめりし LLHLH)
あなりし (あんなりし LHHLH、あんなりし LLHLH)
のように言われたでしょうけれども、これらにおける「めり」「なり」はもともとこのアクセントで言われるので、過去の「し」が特別なアクセントを求めた結果こうなっているのではありません。
すると、後続の助動詞から特定のアクセントをとるよう求められないという意味で、完了の「ぬ」「つ」の未然形(特殊)、連用形(特殊)、終止形(特殊)は存在せず、推量の「めり」や伝聞・推定の「なり」の連用形(特殊)は存在しません。
b 助動詞のアクセントの実際 [目次に戻る]
個々の助動詞のアクセントを見ます。まずは連用形(一般)を先立てるもののうち、完了の「ぬ」「つ」、過去の「き」から。
i 完了の「ぬ」 [目次に戻る]
改めて申せばこの助動詞は先だつ動詞に連用形(一般)を要求します。各活用形そのものについてまとめておきますと、例えば「帰る」(かふぇるう LLF)には完了の「ぬ」は、「帰りぬ。」(かふぇりぬ LLHL)のように低くも付きうるものの、大抵「帰りぬ。」(かふぇりぬう LLHF)のように高く付くと考えられるのでした。これは、実例は下に引きますが、終止形(一般)ばかりでなく、未然形(一般)、連用形(一般)、命令形についても言えます。つまり完了の「ぬ」の一拍からなる活用形は柔らかいが、高い拍の次では基本的には低まりません。総じて柔らかい拍からなる純粋助動詞は、柔らかい助詞とは異なり、高い拍の次で低まりにくいようです。
他方、連体形「ぬる」、已然形「ぬれ」の初拍は、例えば「帰りぬる。」(かふぇりぬる LLHHH)、「帰りぬれ。」(かふぇりぬれ LLHHL)、そして「咲きぬる。」(しゃきぬる HLLH)、「咲きぬれ。」(しゃきぬれえ HLLF)のように、高い拍には高く、低い拍には低く付くという、平安時代の京ことばとしては少し変わった付き方をするのでした。
こうして完了の「ぬ」のアクセントは、ラフに申せば次のとおりです。
未然 連用 終止 連体 已然 命令
S S S HH/LH HL/LS S
未然形「な」、連用形「に」は、柔らかいとは申せ、文節中で高さを保つか、高い拍の次でまれに低まるかであり、文節末にはあらわれないので下降調をとることはありませんから、Hであると思っても、ということは本来的に高いと思ってもよいくらいです。「ラフ」と申したのは、上の言い方では連体形や已然形の初拍がいつ高くいつ低いのか示されないからです。
春ごとに花のさかりはありなめどあひ見むことはいのちなりけり 古今・春下97。「ありなめど」に『梅』が〈平上上上平〉を、『問答』『寂』が〈〇〇上上平〉を差しています。ふぁるうンごとおに ふぁなの しゃかりふぁ ありなめンど あふぃい みいムう ことふぁ いのてぃなりけり LFLFH・LLLHHHH・LHHHL・LFLHLLH・LLHLHHL。
年を経て住みこし里をいでていなばいとど深草野とやなりなむ 古今・雑下971、伊勢物語104。毘・高貞が「野とやなりなむ」に〈平平上平上上上〉を差しています。としうぉ ふぇえて しゅみい こおしい しゃとうぉ いンでて いなンば いとンど ふかくしゃ のおとやあ なりなム LLHRH・LFLHHHH・LHHHHL・HHHLLHL・LLFLHHH。「深草」のアクセントは「青草」(あうぉくしゃ LLHL)や「若草」(わかくしゃ LLHL)と同趣でしょう。
昔、男、ねむごろに言ひちぎりける女の、異(こと)ざまになりにければ
須磨の海人(あま)の塩やくけぶり風をいたみ思はぬかたにたなびきにけり 伊勢物語112(古今・恋四708)。「たなびきにけり」に伏片708が〈上上上平上(上平)〉を、毘・高貞708が〈上上上平平(上平)〉を差しています。むかし、うぉとこ、ねムごろに いふぃ てぃンぎりける うぉムなの、ことンじゃまに なりにけれンば HHH・LLL・LHLLH・HLHHLHL・HHLL・LLLLH・LHHHLL / しゅまの あまの しふぉ やく けンぶり かンじぇうぉ いたみ おもふぁぬ かたに たなンびきにけり HLLLLL・LLHHHHH・HHHLHL・LLLHHLH・HHHLHHL。「異ざま」の後半のアクセントは推定。歌は一つのアレゴリーで、風がたなびくように女の気持ちがほかの男に動いたと言っています。
ありぬやと試みがてらあひ見ねばたはぶれにくきまでぞ恋しき 古今・雑1025。顕天片が「ありぬやと」に〈平上上上平〉を差しています。ありぬやあと こころみンがてら あふぃい みいねンば たふぁンぶれにくきいまンでンじょ こふぃしきい LHHFL・LLLLLHL・LFLHL・HHHHHHF・LHLLLLF。逢わなくてもいられるかやってみようと思って逢わないでいると、冗談にできないくらい恋しい。「たはぶれにくし」は「冗談にできない」「洒落にならない」といった意味です。
鏡山いざ立ちよりて見てゆかむ年経ぬる身は老いやしぬると 古今・仮名序、雑899。「しぬると」に『梅』が〈上平上平〉を差しています〔『寂』は〈上平平〇〉〕。かンがみやま いンじゃあ たてぃい よりて みいて ゆかム う とし ふぇえぬる みいふぁあ おいやあ しいぬると LLLLL・LFLFHLH・RHHHF・LLRHHHH・LHFFLHL。「鏡山」は推定。「鏡」は「かンがみ LLL」、「山」は「やま LL」で、こういう時は複合するとLLLHLになるか、出現率はそれに劣るがLLLLLになるようだ、ということくらいしか申せません。歌枕「さやの中山」は「しゃやの(ないし、しゃやの なかやま LHL(ないし、HHH)LLLL」でしたが(「中」は「なか LH」)、「神山」は顕昭の『後拾遺抄注』によれば「かみやま LLLL」でした(「神」は「かみ LL」)。
唐ころもたつ日は聞かじ朝露のおきてしゆけば消(け)ぬべきものを 古今・離別375。伏片375が「消ぬべき」に〈上平平上〉(けえぬンべきい FLLF)を差すのでした。以下は〈上上上上〉(〈東上上東〉)としてのアクセントです。からころも たとぅ ふぃいふぁ きかンじい あしゃとぅゆうの おきてし ゆけンば けえぬンべきい ものを LLLHL・LHFHHHF・LLLFL・LHHLHLL・FHHFLLH。「からころも」は推定。「から」はLL、「ころも」はHHHで、こういうときは複合するとたいていLLLHLで、例えば後部成素を同じくする「皮ごろも」も「かふぁンごろも LLLHL」です(「皮」も「かふぁ LL」)。この歌は次の左注を持ちます。「この歌は、ある人、司(つかさ)をたまはりて、新しき妻(め)につきて、年へて住みける人を捨てて、ただ『あすなむ立つ』とばかりいへりける時、ともかうも言はで詠みてつかはしける」 こおのお うたふぁ、ある ふぃと、とぅかしゃうぉ たまふぁりて 、あたらしきい めえに とぅきて 、とし ふぇえて しゅみける ふぃとうぉ しゅてて 、たンだあ
「あしゅなム たとぅう」とンばかり いふぇりける とき、とおもお かうもお いふぁンで よみて とぅかふぁしける。HHHLH、LHHL、HHHHLLHLH、LLLLF・RHLHH 、LLRH・LHHLHLH・HLH、LF「LLHLLF」LLHL・HLHHLLL、LFHLFHHL・LHHHHHLHL。もとからの奥さんが夫の出立日を聞かないのは、聞いたらすぐにしんでしまいそうだから聞くには及ばない、ということのようです。
ⅱ 完了・近接過去の「つ」 [目次に戻る]
語義について一言。助動詞「つ」は時に「完了」を意味し、時に「近接過去」を意味します。すなわち「つ」には、「何々してしまう」「何々してしまった」といった意味の、アスペクトにかかわる用法のほかに、「ついさきほど何々した」といった意味の、時にかかわる用法があって、こちらの「つ」は、アスペクトの「つ」とは異なり自動詞も平気で先立てること、例えば「今しがたの」といった意味のイディオム「ありつる」(ありとぅる LHLH)などからも知られるとおりです。「近接過去」など呼べるこの「つ」は過去の「き」と役割を分けあい――例えば「ありし」(ありし LLH)は「昔の」「以前の」を意味できます――、物理的にはおおむね昨晩以前のことは「き」、それよりこちらは「つ」を使います(心理的な理由からこの区別によらない時もあります)。二つを区別できることは統語論的にもはっきりしていて、「つべし」や「てまほし」における「つ」はアスペクトの、「べかりつ」「まほしかりつ」における「つ」は時の助動詞です。
折りてめ〈平上上平〉(訓64。うぉりてめ LHHL。全体は下に引きます)
折りてめ〈平上平平〉(毘64。うぉりてめ LHLL)
折りてめ〈(平上)平上〉(寂64。うぉりてめえ LHLF)
図名の「思うつや」〈平平上上上〉(おもうとぅやあ LLHHF)でもそうでしたけれど、完了・近接過去の「つ」の未然形(一般)、連用形(一般)、終止形(一般)、命令形の初拍は、高い拍には高く付くことが多いものの、上の三例で申せばあとの二つがそうであるように低く付くことも少なくないので、柔らかいことが明らかです。
散りぬれば恋ふれど験(しるし)なきものを今日こそ桜折らば折りてめ 古今・春上64。てぃりぬれンば こふれンど しるし なきい ものうぉ けふこしょ しゃくら うぉらンば うぉりてめえ HLLHL・LLHLHHH・LFLLH・LHHLHHH・LHLLHHF。散ってしまったらいくら恋しがってもその甲斐はないので、いっそ今日折ってしまおう。
君が名も我が名も立てじ難波なるみつとも言ふな逢ひきとも言はじ 古今・恋三649。きみンが なあもお わあンがあ なあもお たてンじい なにふぁなる みいとぅうともお いふなあ あふぃきいともお いふぁンじい HHHFF・LHFFLLF・LHHLH・RFLFHLF・LHFLFHHF。「名」は悪評。おたがい悪評が立たないようにしましょう、というのです。毘・高貞・訓が「みつ」に〈上上〉を差しています。これは「見つ」と「御津」(大阪の地名)とを兼ねていて、「見つ」は古い流儀なら〈去東〉を差される言い方(Me too.に近いがそっくりではない)、「御津」は高平連続調です。
連体形「つる」、已然形「つれ」の初拍は常に低いようで、毘・高貞691は「待ち出でつるかな」に〈平上平上平上〇〇〉を差していましたし、次の歌の「鳴きつる」「見つれば」にも、毘が〈〇〇平上〉〈上平上平〉を差しています。
蜩(ひぐらし)の鳴きつるなへに(鳴イタ途端ニ)日は暮れぬと思ふは山の陰にぞありける 古今・秋上204。ふぃンぐらしの なきとぅるなふぇに ふぃいふぁ くれぬうと おもふふぁ やまの かンげえにンじょ ありける HHHHH・HLLHLHH・FHHLF・LLLHHLLL・LFHLLHHL。「なへに」は毘が二ところで〈上上上〉、訓が〈上平平〉を差していますけれども、伏片と「成簣堂本 顕昭『拾遺抄注』」とが〈平上○〉を差していて、これを採ります(毘が「に」を高く付けているのでLHと見ておきます)。第三句は「日は暮れぬ」までと見るのが面白いでしょう。「暮れた。と思ったら」云々という運びで、申さば例外的に「と」だけで一文節をなす趣です。引用の助詞「と」は元来、あらゆる品詞、あらゆる活用形を先立てうるわけで、「と」は助詞ゆえ「暮れぬと」は一文節であり「ぬ」は文節中にある、ゆえに高平調、というように見ることはできません。
散らねどもかねてぞ惜しきもみぢ葉は今は限りの色と見つれば 古今・秋下264。てぃらねンどもお かねてンじょ うぉしきい もみンでぃンばあふぁ いまふぁ かンぎりの いろと みいとぅれンば HHHLF・LHHLLLF・LLLFH・LHHLLLL・LLLRLHL。
命令形「てよ」は二拍とも柔らかいと見られます。古今・秋上174の、
久方の天(あま)の河原の渡し守君わたりなば梶(かぢ)かくしてよ
の末句に毘が〈平平上平上〉を差しています。この歌は織姫の気持ちで詠まれていて、「君」は呼びかけられている「渡し守」ではなく、「あのお方」、彦星を差します。「天の川」(あまのかふぁ LLLHL〔後述〕)の渡し守さん、彦星が帰れないようにしちゃってください。歌は例えば「ふぃしゃかたの あまの かふぁらの わたしもり きみ わたりなンば かンでぃ かくしてよ HHHLL・LLLHHLL・HHHHL・HHHHLHL・HLLLHHL」と言えますけれども、「隠してよ」は複数の言い方があります。すなわち「隠す」は少数派低起三拍としても言え、多数派のそれとしても言え、「つ」の命令形「てよ」の二拍はいずれも柔らかいようなので、「隠してよ」は、代表的な「かくしてよ LHLHL」「かくしてよお LHLLF」のほか、「かくしてよお LLHHF」「かくしてよ LLHHL」「かくしてよお LLHLF」「かくしてよ LLHLL」など発音できたでしょう。
完了・近接過去の「つ」のアクセントは次のとおりです。
未然 連用 終止 連体 已然 命令
S S S LH LS SS
ⅲ 過去の「き」の終止形 [目次に戻る]
古今集声点本には、「ありき」〈平上平〉(梅・訓353。ありき LHL)のように高い拍に低く付く例に混じって、「堕ちにき」〈(平上)上上〉(訓226。おてぃにきい LHHF)という、高い拍に高く付く例が一つだけですが見えています。御巫私記の「去(い)にき」〈上平上〉(いにきい HLF)、「やらひき」〈上上平上〉(やらふぃきい HHLF)もかねて知られていて(『研究』研究篇下)、過去の「き」の終止形が、連用形(一般)を要求する柔らかい拍であることは明らかです。
ということは、「落ちにき」は古典的には「おてぃにきい LHHF」と言われただろうということで、図紀73が「落ちにき」に〈平上上平〉を差していますが、申したとおりこれは〈平上上東〉の誤写である可能性が低くありません。
名にめでて折れるばかりぞ女郎花われ堕ちにきと(堕落シテシマッタト)と人に語るな 古今・秋上226。なあに めンでて うぉれるンばかりンじょお うぉみなふぇし われ おてぃにきいと ふぃとに かたるなあ FHLHH・LHLLHLF・HHHHL・LHLHHFL・HLHHHLF。
宮人の足結(あゆひ)の小鈴落ちにきと宮人響(とよ)む里人もゆめ 古事記にも見えている歌で(83)、図紀73が〈上上上平平・平上平平上上上・平上上平平・上上上平平平上・上上上平平平平〉を差しています。以下は第三句を〈平上上東平〉、末句を〈上上上平東平東〉の誤写と見てのものです。「ゆめ」は「斎(い)め」と同義の「ゆめ」と見ても、「努」「謹」などを当てる副詞の「ゆめ」と見ても、LFが期待されるところです(毘・高貞652〔次に引きます〕が副詞の「ゆめ」に〈平上〉を差しています)。みやンびとの あゆふぃの こしゅンじゅ おてぃにきいと みやンびと とよむう しゃとンびともお ゆめえ HHHLL・LHLLHHH・LHHFL・HHHLLLF・HHHLFLF
恋しくは下にを思へ紫のねずりのころも色に出づなゆめ 古今・恋三652。こふぃしくふぁ したにうぉ おもふぇえ むらしゃきの ねンじゅりの ころも いろに いンどぅな ゆめえ LLHLH・HLHHLLF・LHHLL・LLLLHHH・LLHLHLLF。第三四句は「色」と言おうとして置かれています。なおこの「恋しくは」は「(私のことが)恋しいならば」という意味には解せません。あなたのことが恋しい恋しいと言ってよこし、またその気持ちを公然と示す人に、お気持ちはありがたいがそのようにではなく「下に」(秘かに)恋しくは思ってください、と言っているので、こういう「は」、省くこともできる「は」は現代語ではあまり使わないかもしれませんが、言わないわけでもないと思います。ついでながら「下にを」の「を」は、平叙文ならば「ぞ」「なむ」「こそ」といった係助詞で示すところの、「焦点」を示すためのもので――命令形ではそれらの係助詞は使えないわけです――、命令文にはよくあらわれます。
ⅳ 過去の「し」「しか」 [目次に戻る]
過去の「し」のアクセントは、本来的に高いと思われます。図名が「惇誨」(「厚教」に近い)に与える訓「あつくをしへし」への注記を〈上上平上上上東〉と見て、下降調だったがのちに高平調に転じたと見る向きもありますけれど、『集成』は問題の「し」の認定を避け(p.671)、小松さんの『日本声調史論考』は問題の「し」に差された声点を東点と見ません(p.537)。図名の注記は〈上上平上上上上〉(あとぅく うぉしふぇし)と見るよりほかにないようです。
過去の「し」が高さを保つことは、次の諸例からも知られます。すなわち、
せし人の〈上上上平平〉(岩紀111。しぇえしい ふぃとの HHHLL)
打ちし大根〈平平上平上平〉(前紀57、58。うてぃし おふぉね LLHLHL)
我が逃げのぼりしあり丘(を)の上の〈平上・平上上上上上・平平平平・上平平〉(前紀・図紀76。わあンがあ にンげえ のンぼりし ありうぉの うふぇの LHLFHHHH・LLLLHLL)
いとなむじとき〈平平平平上平平〉(図名。「いとなみし時」の音便形。原文はなぜか「とぎ」。いとなムじとき LLLLHLL)
のぞむしに〈上上上上○〉(図名。「望みしに」の音便形。のンじょムしに HHHHH)
といった例のある一方、「し」に東点を差すものの一つもないのは、それを下降調と見ることはむつかしいということです。
むすびしにより〈上上上上上上平〉(顕天片568注〔万葉2452〕。むしゅンびしに より HHHHHHL。この「より」は四段動詞「因(よ)る」の連用形。「に」の低まっていないのは「し」が高く平らな拍で低下力が働かないからでしょう)
来(こ)しを〈平上上〉(永・伏片・家・毘441。こおしうぉ LHH。ここでも「を」は低まっていません)
も同じことを示唆します。改名の一つである観本名義の法下に「夢(いめ)見しに」〈平平平上平〉という注記がありますけれども、この信頼性は高くありません。なお、「打ちし大根」「いとなむじとき」「こしを」への注記は、過去の「し」が連用形(特殊)を要求することを示します。サ変「す」、カ変「来(く)」は過去の「き」の終止形を従えないこと、過去の「し」は従えること、その場合未然形接続のことが多いことはよく知られているとおりで、上の引用でもそうなのでした。ただ、これも知られているとおり「来(こ)し方」とも「来(き)し方」とも言ったようで、これらは「こおしい かた LHHL」「きいしい かた LHHL」と言われたでしょう。
ふりはへて(ワザワザ)いざ古里の花見むと来(こ)しをにほひぞうつろひにける 古今・物の名・しをに(紫苑。しうぉに HHH)441。ふりふぁふぇて いンじゃあ ふるしゃとの ふぁな みいムうと こおしうぉ にふぉふぃンじょお うととぅろふぃにける HLLHH・LFLLHHH・LLLFL・LHHLLLF・LLHLHHL
なお古今集声点本には、「思ひそめてじ」〈(平平上)上平上平〉(毘・高貞471。古典的には「思ひそめてし」〔おもふぃい しょめてし LLFHLHH〕)のような、過去の「し」が柔らかいことを示すかのような例が見られますが(この「じ」は読み癖)、「…にし」(「し」は濁らない)はというと、「なりにし」〈(平上)上上〉(伏片・訓90。なりにし LHHH)など七例すべてに〈上上〉が差され、同じ「てじ」でも「鳴きふるしてじ」〈(上平平平上)上上〉(梅159)、「見てじ」〈上上上〉(訓479)では「じ」は高いことを考えると、「…てじ」に対する〈上平〉注記は「…てし」の古い時代のアクセントを考える上で示唆を与えるものとは思われません。
古里となりにし奈良の都にも色はかはらず花は咲きけり 古今・春下90。ふるしゃとと なりにし ならの みやこにも いろふぁ かふぁらンじゅ ふぁなふぁ しゃきけり LLHHL・LHHHHLL・HHHHL・LLHHHHL・LLHHLHL
こぞの夏鳴きふるしてしほととぎすそれかあらぬか声のかはらぬ 古今・夏159。こンじょの なとぅ なき ふるしてし ふぉととンぎしゅ しょれかあ あらぬかあ こうぇえの かふぁらぬ LHLHL・HLLLHHH・LLLHL・HHFLLHF・LFLHHHH
山ざくら霞のまよりほのかにも見てし人こそ恋しかりけれ 古今・恋一479。やまンじゃくら かしゅみの まあより ふぉのかにも みいてし ふぃとこしょ こふぃしかりけれ LLLHL・HHHHHLL・LHLHL・RHHHLHL・LLHLHHL。「山ざくら」は推定。「やま」は「やま LL」、「さくら」は「しゃくら HHH」。「あしがなへ【足鼎】」「かたゐなか【片田舎】」「かはごろも【皮衣】」「くさもちひ【草餅】」「はなざかり【花盛】」がそうであるように、このパタンの複合名詞は大抵LLLHLと言われます(あしンがなふぇ、かたうぃなか、かふぁンごろも、くしゃもてぃふぃ、ふぁなンじゃかり)。一般に低起二拍が三拍のものを従える時は多くがこれなのでした。
過去の「し」に対応する已然形「しか」は「しか HL」で、接続は「し」に同じ。岩紀110が「我は寝しかど」に〈平上上上上平平〉(われふぁ ねえしかンど LHHHHLL)を差していました。寂973も「ありしかば」に〈平平上平平〉(ありしかンば LLHLL)を差しています。
我を君難波の浦にありしかばうきめをみつの海士(あま)となりにき 古今・雑下973。われうぉ きみ なにふぁの うらに ありしかンば うきめうぉ みとぅの あまと なりにきい LHHHH・LHHHLLH・LLHLL・HHHHHHH・LLLLHHF。「うきめ」は「浮海布」(おそらく、うきめ HHH)と「憂き目」(うきい めえ LFL)とを兼ねています。「みつ」は「君が名も我が名も」の歌におけると同じく地名の「御津」と「見つ」とを兼ねています。宣長によれば歌はこう言っています。「オマヘ(あなた)ガ私ヲナンデモナイモノニナサツテ 憂イ目ニアウタユヱニ ソレデ私ハコノ難波ノ三津寺ヘ参ツテ 尼ニナリマシタ」(『遠鏡』)
v む・じ [目次に戻る]
「〇・〇・む・む・め・〇」という活用のパタンから四段動詞の活用と同趣のアクセントを持つと考えられること、および、前(さき)に引いた岩紀108の「柔手(にこで)こそ我が手を取らめ」〈上上平上平・平上平上・平平東〉(にこンでこしょ わあンがあ てえうぉお とらめえ HHLHL・LHLHLLF)などから已然形は下降調をとること、これらから、「む」アクセントのありようは、
未然 連用 終止 連体 已然 命令
○ ○ S H S ○
だと考えられます。岩紀の例は未然形(特殊)を先立てることも教えます。
山たかみ人もすさめぬさくら花いたくなわびそ我見はやさむ 古今・春上50。「見はやさむ」に伏片と毘とが〈上平平平上〉をさしています。やま たかみ ふぃともお しゅしゃめぬ(ないし、しゅしゃめぬ) しゃくらンばな いたく なあ わンびしょ われ みいい ふぁやしゃムう LLLHL・HLFHHHH(ないしLLLH)・HHHHH・LHLHHHL・LHℓfLLLF。人目につかないゆえ愛でてもらえない桜に、そう悲しむなといっています。はげまされる歌です。
やすからむや〈平上平平上上〉図名。やしゅからムやあ LHLLHF。「やすくあらむや」(やしゅく あらムやあ LHLLLHF)のつづまった言い方で、「む」(ここでは終止形)は文節中に位置しますから下降せず高さを保ちます。
ありなめど 古今・春下97(春ごとに花の盛りは…。「完了の『ぬ』」のところで引きました)。ありなめンど LHHHL。訓97は〈平上上平平〉、伏片97は〈(平上)上平平〉としますが、梅97は〈平上上上平〉とし、問答97は〈(平上)上上平〉とします。それぞれ高い拍の次で低まる例、低まらず文節中ゆえ高さを保つ例です。
流れいづる方だに見えぬ涙がは沖干む時やそこは知られむ 古今・物の名・熾火(おきンび HHH)・466。なンがれえ いンどぅる かたンだに みいぇぬ なみンだンがふぁ おき ふぃいムう ときやあ しょこふぁ しられム LLFLLH・HLHLLLH・LLHHL・LLLHLLF・HHHHHHH。梅・寂・毘466が「ひむ」に〈平上〉を差しています。涙川というものは、水量あまりに多く、どこから流れだしているのか分からない。はるかかなたまで乾くかどうか分からないが、もし乾いたら「底」が見えて、「其処」が、つまり源泉が分かるかもしれない。
枕よりあと(アシモト)より恋の攻めくればせむかたなみぞ床なかにをる 古今・誹諧1023。訓・梅・寂が第四句に〈上上上平上平平〉を差しています〔梅・寂は末拍に点無し〕。以下は古典的な言い方。まくらより あとより こふぃの しぇめえ くれンば しぇえムう かた なあみンじょお とこなかに うぉる LLHLL・LHLLLLL・LFLHL・HHHLRLF・HHHHHHL。こういう「~む」は、フランス語やスペイン語などにおける動詞の接続法と呼ばれる法(mood)によく似ています(「仮定」も「仮想」も、ほかにせむかたがないので採用された苦しまぎれの言い方以上のものではありません)。現代日本語はこういう「む」に対応する訳語を持ちません。「まほし」は「む・あく・ほし」のつづまったものでしたが、この「む」も〝接続法の「む」〟です。こういう「む」を持っているところなど、平安時代の京ことばはなかなか緻密だと申せます。
春や疾き花やおそきと聞きわかむ鶯だにも鳴かずもあるかな 古今・春上10。ふぁるうやあ ときい ふぁなやあ おしょきいと きき わかンム うンぐふぃしゅンだにもお なかンじゅもお あるかなあ LFFLF・LLFHHFL・HLLLF・LLHLHLF・HHLFLHLF。春が早いのか花が遅いのか、鳴けば判断できるだろうその鶯すら鳴かないなあ。「わかむ」を可能態と見ています。三島由紀夫の「日本文学少史」は面白い論ですが、二句目を「春や遅きと」として引いています。
次に、「じ」は「む」と同趣の言い方です。京秘879が「(月をも)めでじ」に〈(平平上平)平平上〉(とぅきうぉも めンでンじい LLHLLLF)を差していました。
春きぬと人はいへどもうぐひすの鳴かぬかぎりはあらじ(チガウダロウ)とぞ思ふ 古今・春上11。伏片が「あらじ」に〈平平上〉を差しています。ふぁるう きいぬうと ふぃとふぁ いふぇンどもお うンぐふぃしゅの なかぬ かンぎりふぁ あらンじいとンじょお おもふ LFRFL・HLHHLLF・LLHLL・HHHLLLH・LLFLFLLH
ⅵ まし [目次に戻る]
いわゆる反実仮想の「まし」。現代日本語と異なり、そして英語などと同じく、現実的な仮定と非現実的なそれとを端的に区別できたこともまた、平安時代の京ことばの緻密なところだと申せます。さて非現実的な仮定に使われる「まし」は「む」と同じく特殊形を要求します。これは当然のことで、形態論的には例えば動詞「行く」(ゆく HL)に形容詞「ゆかし」(ゆかしい HHF)が対応するように、「行かむ」(ゆかムう HHF)に「行かまし」(ゆかましい HHHF)が対応します。実際「まし」の終止形「まし」の末拍は、元来、形容詞のそれと同じく下降調をとります。例えば前紀・図紀81の「命しなまし」〈平平上上上上上〉は、諸家の見るとおり下降拍に終わると解されます。
ぬばたまの甲斐の黒駒鞍着せば命しなまし甲斐の黒駒〈上上上上上・上上上平平上上・上平上上平・平平上上上上上・上上上平平上上〉(前紀・図紀81。ぬンばたまの かふぃの くろこま くら きしぇンば いのてぃ しなましい かふぃの くろこま HHHHH・HHHLLHH・HLHHL・LLHHHHF・HHHLLHH。もし馬に鞍をつけていたら、ある匠(たくみ)を救いに行くのがそれだけ遅れて、その匠はしんでいただろう、というのです)
ただ、「まし」の連体形は「まし」、已然形は「ましか」ですから、形容詞との平行性は限定的です。一方において形容詞と類似することも確かなのですから、已然形は「ましくあれHHLLF>ましかれHHLF>ましか(ましか HHL)」、条件節を作る「ましかば」は「ましくあらばHHLLHL>ましからばHHLHL>ましかば(ましかンば HHLL)」のような経緯で成立したもの、連体形「まし」は「ましかる」ないし「ましき」のすりへったものと想像しておきます(「まし HH」)。已然形「ましか」は「ましか HHL」。
「まし」のアクセントを考える際、院政末期、連体形がもっぱらHLで言われるようになっていることは無視できません。
待てと言ふに散らでしとまるものならば何を桜に思ひまさまし 古今・春下70。伏片・家が「まさまし」に〈上上上平〉を差しています。「何を」とあるので「まし」は連体形です。以下は古典的なアクセント(このこと以下略)。まてえと いふに てぃらンでしい とまる ものならンば なにうぉ しゃくらに おもふぃ ましゃまし LFLHHH・HHLF HHH・LLHLL・LHHHHHH・LLLHHHH
兼見王(かねみのおほきみ)にはじめて物語して別れける時に詠める
別るれどうれしくもあるかこよひより逢ひ見ぬさきに何を恋ひまし 古今・離別399・躬恒(みとぅね〔推定〕)。きぬぎぬの歌ではないのでした。伏片が「恋ひまし」に〈平平上平〉を差しています。「何を」とあるので「まし」は連体形。かねみの おふぉきみに ふぁンじめて ものンがたり しいて わかれける ときに よめる/わかるれンど うれしくもお あるかあ こよふぃより あふぃい みいぬう しゃきに なにうぉ こふぃまし LLHLLLHHH・HHLH・LLLHLFH・LLHHLLLH・LHL/LLLHL・LLHLFLHF・HHHLL・LFLHHHH・LHHLLHH。第三句は倒置されています。
うぐひすの谷より出づる声なくは(ナカッタラ)春くることを誰(たれ)か知らまし 古今・春上14。毘が「知らまし」に〈上上上平〉を差しています。うンぐふぃしゅの たにより いンどぅる こうぇえ なあくふぁ ふぁるう くる ことうぉ たれかあ しらまし LLHLL・LLHLLLH・LFRLH・LFLHLLH・HHFHHHH
いつはりの涙なりせば唐衣(からころも)しのびに袖はしぼらざらまし 古今・恋二576。毘・高貞が「しぼらざらまし」に〈平平上平平上平〉を差しています。この「まし」は終止形。いとぅふぁりの なみンだなりしぇンば からころも しのンびに しょンでふぁ しンぼらンじゃらましい LLHHH・LLHLLHL・LLLHL・HHHHHHH・LLHLLHF。うそ泣きならばこうしてこっそり袖をしぼるなんてこと、しません。「唐衣」は「袖」を起こす枕詞で、実際に唐衣を着ていたのではないようです。
「まし」に終わる帰結節を持つ言い方における条件節も見ておきます。まずは「ましかば」。「ましかば」を「ましくあらば」のつづまった「ましからば」のさらにつづまったものと見たのは、"If I were rich" 式の条件節はやはり何かの未然形が「ば」を従える言い方だろうと考えられるからでした。
人知れず絶えなましかばわびつつも無き名ぞとだにいはましものを 古今・恋五810・伊勢。ふぃとしれンじゅ たいぇなましかンば わンびとぅとぅも なきい なあンじょおとンだに いふぁまし ものうぉ HHHHL・LHHHHLL・HLHHL・LFFFLHL・HHHHLLH。初句のアクセントは推定。一首は、「実際にはこれこれなので、『なき名』(身に覚えのないうわさ)だとも言えない」と言っていますけれども、どんな状況でも、うそをついてよいのなら「なき名」と言えるので、詠み手は、実際にはこれこれなので、胸を張って「なき名」とは言えない、と言っているようです。さて英語などでは仮定法過去と仮定法過去完了とを区別しますけれども、この区別に当たるものは平安時代の京ことばにはありません。つまり「人知れず絶えなましかば」は、文法上「現実には人知れず終わってしまうことはありえないが、もしそうなったら」も「人知れず終わってしまうことはなかったけれども、もしそうだったとしたら」も意味できます。それから、伊勢集ではこの歌は「人のつらく(冷淡ニ)なるころ」(ふぃとの とぅらく なる ころ HLLHHLLHHL)という詞書を持っています(末句は「いふべきものを」〔いふンべきい ものうぉ HHHFLLH〕ですがほぼ同義)。かれこれ考えると、歌は、「もし片思いで終わってしまったならば、誰かから『ひょっとしてあなた、誰々と…』と言われても、胸を張って『そんなことありません』と言えたでしょうけれども、実際にはあなたは私の思いに応えてくれて、片思いでは終わらなかったので、誰かから『ひょっとしてあなた、誰々と…』と言われたら、せっぱつまって『そんなことありません』とうそをつかなくてはならない状況にあります、と言っているのだと思います。今になって冷淡なのはひどい。いっそ、はじめから振ってくれればよかったのです。
「ましかば」への注記は、この歌の「絶えなましかば」にさされた『毘・高貞』の〈上上上上平○○〉と『訓』の〈平上上上平平上〉しかないようです。「絶ゆ」は低起動詞なので前者は誤点を含むことが明らかです。後者においても「ば」の高いのは無論問題ですけれども、現代語で例えば「もしそうならば」「もしそうなら」など言うわけで、この「ば」への上声点注記はプロミネンスを示したものではないかと思います。とまれ「絶えなましかば」は古典的には「たいぇなましかンば LHHHHLL」と言われたのであり、そこからの変化として「たいぇなましかンば LHHHLLL」とも言われた、と考えておきます。
次に「せば」および「ませば」。例えば「ありせば」(「ありしぇンば LLHL」でしょう)と「あらませば」(「あらましぇンば LLHHL」でしょう)とは同義ですけれども、どうしてこういうことが可能なのでしょう。思うに「ありせば」の「あり」は動詞から派生した臨時の名詞と見なせるところのものであり、また「あらませば」は「あらむ・あく・せば」(あらむ・あく・しぇンば LLH・HH・HL)だからではないでしょうか。「あらむあく」は「ありせば」の「あり」と同じく名詞相当語句を作るゆえに、「ありせば」と「あらませば」は同義たりうるのだ、と考えるのです。とすればこれらにおける「せ」はサ変動詞「す」の未然形です。
わたつみに人をみるめの生(お)ひませばいづれの浦の海士(あま)とならまし 和泉式部集90。わたとぅみに ふぃとうぉ みるめの おふぃましぇンば いンどぅれの うらの あまと ならまし HHHLH・HLHLHLL・LLHHL・LHHHLLL・LLLLLHH。この「わたつみ」は「海」(詳細後述)。「みるめおふ」(みるめ おふう LHLLF)は、海藻が生えるという意味に重ねて人と逢うことを意味します。「ましかば」が飽くまで実現しえないことを仮定する言い方であることを考えると、一首は、「もし海の底にもぐれば好きな人に逢えるのなら、どこかの浦の海女になってもぐるだろうけれど」というのでしょう。「いづれの」云々とありますが、この歌は疑問文ではなく(それでは意味が通らない)、「疑問的推量」をする文です。「名歌新釈」4をご覧ください。
『研究』研究篇下pp.200-201のまとめによれば「せば」は特殊形を先立てるのが多数派で、するとその限りでは、この「せ」を過去の「き」、というよりも過去の「し」と結びつける向きのあるのももっともと申せますけれど、しかし、未然形が「せ」、連体形が「し」、已然形が「しか」の言葉なんて随分変わっています。派生名詞(転成名詞)は連用形(特殊)と同じく基本的には式に応じて高平連続調、低平連続調をとるわけで、その限りでは問題の「せ」を過去の「き」の未然形とするのとサ変動詞の未然形とするのとは甲乙つけがたいと申せます。その上で、「ありせば」と「あらませば=あらまくせば」との近さを合理的に説明できる点では「ありせば」の「せ」をサ変動詞とする見方がまさると思います。
もっとも、いずれの見方においても「せば」は一つのイディオムであり、「せ」はその一部としてすでに純然たる動詞や助動詞ではありえません。例えば現代語で「もしそんなことがありもしたら」と言えるように古くも「ありもせば」と言えて、これは「ありも しぇえンばあ LHLHL」と言われたと考えられるのでした。この「ありもせば」は実現可能な仮定を意味するところの、イディオマティックでない言い方ですけれども、これに対して「ありせば」(ありしぇンば LLHL)は反実仮想の言い方であり、こちらの「せば」は一つのイディオムとして存在します。なお、例えば反実仮想の言い方としての例えば「狩りせば」は「かりしぇンば LLHL」と言われたと思います。純然たる派生名詞としての「狩り」は「かり LL」ではなく「かり LH」で、実現可能な仮定としての「狩り(を)せば」は「かり(うぉ)しぇえンばあ LH(H)HL」など言われたでしょう。実現不可能な仮定としての「狩りせば」(かりしぇンば LLHL)における「狩り」は飽くまで臨時の派生名詞です。
思ひつつ寝(ぬ)ればや人の見えつらむ夢と知りせば覚めざらましを 古今・恋二552・小野小町。毘・高貞552が「知りせば」に〈上上上平〉を差しています。おもふぃとぅとぅ ぬれンばやあ ふぃとの みいぇとぅらム ゆめと しりしぇンば しゃめンじゃらましうぉ LLHHH・HLLFHLL・LHHLH・LLL・HHHL・LHLLHHH。夢だと分かったら覚めずにいることもできたかもしれないのに。「夢だとわかったら覚めなかったのに」は奇妙でしょう。例の可能態です。
もの思ひける頃、ものへまかりける道に野火の燃えけるを見て詠める
冬枯れの野辺と我が身を思ひせば燃えても春を待たましものを 古今・恋五791。毘が「思ひせば」に〈平平平上平〉を差しています。高貞は〈平平上上上〉を差しますが、誤点と見られます。もの おもふぃける ころ、ものふぇえ まかりける みてぃに のンびの もいぇけるうぉ みいて よめる LLLLHHLHL・LLFLHLHLHHH・LHL・HLHLHRH・LHL/ふゆンがれの のンべえと わあンがあ みいうぉお おもふぃしぇンば もいぇても ふぁるううぉ またまし ものうぉ HHHHH・LFLLHHH・LLLHL・HLHLLFH・LLHHLLH。初句のアクセントは推定。「冬」は「ふゆ HL」、「枯る」は「かる HL」、同趣の例えば「下消え」(したンぎいぇ)、「下染め」(したンじょめ)、「夏引」(なとぅンびき)などはいずれも高平連続調です。「もえても」には「萌えても」も響きますが、こちらは「もえても LHHL」です。
春かすみ中しかよひ路(ぢ)なかりせば秋くる雁はかへらざらまし 古今・物の名・すみながし(しゅみなンがし LLLHL)465。伏片が「なかりせば」(<なく・ありせば)に〈上平平上平〉を差しています。ふぁるうかしゅみ なかし かよふぃンでぃ なあかりしぇンば あきい くる かりふぁ かふぇらンじゃらましい LFLLL・LHLHHHL・RLLHL・LFLHLHH・LLHLLHF。「中し」は「中にし」。副助詞や係助詞に先だつ格助詞の、例の省かれたもの。
だいぶ長くなりますけれど、今一首。紫式部が、
世の中を何なげかまし山桜花見るほどの心なりせば
と詠んでいます。私家集にも見え、また後拾遺(春上104)にも収められています。よおのお なかうぉ なに なンげかまし やまンじゃくら ふぁな みる ふぉンどの こころなりしぇンば HHLHH・LHLLLHH・LLLHL・LLLHHLL・LLHLLHL。山桜、その花を見られる期間が私の思いどおりになるならば、私は世の中をどうして嘆くであろうか。「花見るほどの」の「の」は「ほど」が主格であることを示し――現代語の感覚では「ほどの」の「の」はそうはとりにくいわけですが――、また、「心なり」は「(私の、あるいは文脈により誰かの)思いどおりである、思うがままである、気持しだいである」というような意味のイディオムと見られるので、一首が、もし桜の花を私の思いどおりになるならば――つまりいつまでも賞美できるのならば――、私は世の中を嘆かない、という意味、つらいことがあってもそのつど桜を見ることさえできれば私は何とかしのげるだろうが、という意味であることは明らかだと思いますけれど、三人の碩学がこの歌では「花見るほどの心」が一つの意味のかたまりをなすとし、その「花見るほどの心」を「花の美しさに心を奪われて見る時のような物思いのない心」「あの山桜の花を見ている時のような、物思いのない心」「花を見る時のような忘我の境地」と解しています。しかし、後拾遺の撰者はこれを春の歌と見ています。いま詠み手は花を見ているのでしょう。その人が「(実際には『花見るほどの心』ではないが、仮に)『花見るほどの心』なりせば」と言うとしたら、「実際には無理だが もし常に『花見るほどの心』ならば」という意味に解すしかないでしょう。そんなふうに筋が多少とも通るように言葉を補うならば筋が通りますけれども、これは筋が多少とも通るように言葉を足したので筋が多少とも通るのです。「多少とも」と申すのは、桜の花を見るとき人は、きわめてしばしば、その美しさをめでるとともに、早々に散ってしまうことを思って少し悲しいからです。次の歌は周知です。
世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし 古今・春上53・業平 よおのお なかに たいぇて しゃくらの なあかりしぇンば ふぁるうの こころふぁ のンどけからましい HHLHH・LHHHHHH・RLLHL・LFLLLHH・LLHLLHF。そういえばここにも主格の「の」が見られます。
桜があってもそれがいつまでも散らないのならば春を過ごす人の心はのどけきものでしょうから、業平のこの歌と式部のかの歌とはそう違ったことを言っていないとも申せます。とまれ、言葉を足さなくても明快に解けるのならばそれに越したことはないはずです。「名歌新釈」に記した式部の別の歌について言えることが、ここでも言えます。
ちなみに、「心なり」が「思いどおりである」といった意味を持ったことは、さしあたり現代語「心ならず」が参考になります。「不本意に」といった意味のこのイディオムはイディオム「心なり」の否定形でしょう。「心なり」の用例として、源氏・若紫の次の一節を引いておきます。
少納言、「なほいと夢のここちしはべるを、いかにしはべるべきことにか」とやすらへば(タメラウト)、「そは心なり(ソレハアナタノオ気持次第デス。ソレハアナタノ好キニナサッテ結構デス)。御みづからは(御本人ハ)渡したてまつりつれば、(アナタガ)帰りなむとあらば、送りせむかし」とのたまふに、わりなくて(是非ニ及バズデ、牛車カラ)下(お)りぬ。 しぇうなあごん、「なふぉお いと ゆめの ここてぃ しい ふぁンべるうぉ、いかに しい ふぁンべるンべきい ことにかあ」と やしゅらふぇンば、「しょおふぁあ こころなりい。おふぉムみンどぅからふぁ わたし たてえ まとぅりとぅれンば、かふぇりなムうと あらンば、おくり しぇえムかしい」と のたまふに わりなあくて おりぬう。LLLHH、「LF・HL・LLLLLL・FRLHH、HLH・FRLLLF・LLHF」L・HHHLL、「HH・LLHLF。LLHHHLLH・HHLLFHHLLHL、LLHHFLLHL、HHHHHLF」L・HLLHH、HHRLHLHF。「心なり」は河内本などの言い方で、青表紙本の大勢は「心ななり」(こころなんなり LLHLHHL)。これは「あなたのお気持ち次第と聞こえます」と言った意味の言い方と解せますけれども、誤写かもしれません。「わりなくて」は明融本や河内本の言い方で、大島本などは「わらひて」。苦笑としても少し疑わしいと思います。
順番が前後しますけれども、「世の中を何なげかまし」の歌の「ほど」に近い「ほど」を持つ歌も引いておきましょう。
さびしさも月見るほどはなぐさみぬ入りなむのちを問ふ人もがな
千載・雑上。しゃンびししゃも とぅき みる ふぉンどふぁ なンぐしゃみ
ぬう いりなム のてぃうぉ とふ ふぃともンがなあ LLHHL・LLLHHLH・HHHLF・HLHHLLH・HHHLHLF
ⅶ らむ [目次に戻る]
未然 連用 終止 連体 已然 命令
○ ○ LS LH LS ○
現在推量の「らむ」の初拍は常に低く、末拍のアクセントは「む」に同じ。ただ「む」とは異なりこの助動詞は、ラ変以外の動詞の終止形(一般)、ラ変動詞の連体形(一般)を先立てます。例えば古今・秋上203の「誰(たれ)をまつ虫ここら鳴くらむ」(たれうぉ まとぅむし ここら なくらム LHHLLHL・LHLHLLH)の「鳴くらむ」に訓が〈上平平上〉を差していました。この「らむ」は疑問詞を先立てているので連体形、したがって末拍「ム」は高く平らに言われます。
春立てば花とや見らむ白雪のかかれる枝にうぐひすの鳴く 古今・春上6。ふぁるう たてンば ふぁなとやあ みいらム しらゆきの かかれる いぇンだに うンぐふぃしゅの なく LFLHL・LLLFRLH・LLLHL・LLHLHHH・LLHLLHH
寂・伊・梅6そのほかがこの「見らむ」に〈上平上〉を差しています。これは「見るらむ」(みるらム LHLH)のつづまったもので、初拍は元来、式を保存するために上昇調をとったでしょう(みいらム RLH)。
千々の色にうつろふらめど知らなくに心し秋のもみぢならねば 古今・恋四726。「うつろふらめど」に寂726が〈平平上平平上平〉を差しています。てぃンでぃの いろに うとぅろふらめンど しらなくに こころし あきいの もみンでぃならねンば LHLLLH・LLHLLHL・HHHHH・LLHLLFL・LLLHLHL。あの人はもう心変わりしているようだけれど、はっきりとは分からないよ。心は秋の紅葉とは違って目に見えるものではないから。
ⅷ けむ [目次に戻る]
この助動詞には〈平上〉と〈上平〉とが差され、いずれも誤りとは考えられません。また一般形を先立てることは以下から明らかです。まず袖中抄は、
海原(うなはら)の沖ゆく舟を(舟ニ対シテ)帰れとか領巾(ひれ)振らしけむ松浦佐用姫 万葉878。うなふぁらの おき ゆく ふねうぉ かふぇれえとかあ ふぃれ ふらしけム まとぅらしゃよふぃめ LLLHL・LLHHLHH・LLFLF・HHHHLLH・LHHHHHL
の「領巾(ひれ)振らしけむ」に〈(上上)上上平平上〉(ふぃれ ふらしけム HHHHLLH)を差し(〈上上上上上平上〉を差す本もあれど誤点ならむ)、また、
山鳥の峰(を)ろの初麻(はつを)に鏡かけ唱ふべみこそ汝に寄そりけめ 万葉3468
の末句には、〈上上平平上〉と〈上上平上上〉とを差しています(前者によれば全体は「やまンどりの うぉろの ふぁとぅうぉに かンがみ かけえ となふンべみ こしょ なあに よしょりけめえ LLHLL・LLLHHLH・LLLLF・HHHHLHL・RHHHLLF」)。また、
生(な)りけめや〈平上上平上〉(図紀104。なりけめやあ LHHLF)
ありけめ〈平上上平〉(前紀48。ありけめ LHHL)
のような注記の見られる一方、「経にけむ」〈上上平上〉(訓273)のような注記も見られます。
ぬれて干す山路の菊の露の間にいつか千歳を我は経にけむ 古今・秋下273。ぬれて ふぉしゅ やまンでぃいの きくの とぅゆうの まあにい いとぅかあ てぃとしぇうぉ われふぁ ふぇえにけム HLHLH・LLFLLLL・LFLHH・LHFLLLH・LHHRHLH。長命をもたらすという菊水の故事を踏まえた歌で、菊の露に濡れたのを干すわずかなうちに、いつの間にか千年経ってしまったようだ、と言っています。「疑問的推量」です(cf.「名歌新釈」4)。
すると「けむ」の終止形や已然形は初拍も末拍も柔らかいと見られます。ということは、
生(な)りけめや〈平上平平上〉(岩紀104。なりけめやあ LHLLF)
は、図紀104の「なりけめやあ LHHLF」の「け」の低まった言い方とも、「なりけめやあ LHLHF」の「め」の低まった言い方とも見ることができ、
籠(こも)らせりけむ〈平平平上平平平〉(図紀105。こもらしぇりけム LLLHLLL。全体は下に引きます)
は、「こもらしぇりけム LLLHLHL」の「け」の低まったものとも、「こもらしぇりけムう LLLHLLF」の「む」の低まったものとも見ることができる、ということでしょう。
畝傍山木立薄けど頼みかも毛津の若子の籠(こも)らせりけむ〈上上上上上・○上○・上上平平・平平上平東〔図紀、平平上平平〕・上上上平平平平・平平平上平平上〔図紀、平平平上平平平〕〉(図紀105。うねンびやま こンだてぃ うしゅけンど たのみかもお けとぅの わくンごの こもらしぇりけム HHHHH・LHLHHLL・LLHLF・HHHLLLL・LLLHLLH。畝傍山の木立はまばらだがそれを頼りにして毛津の若様はおこもりになっていたらしい。末尾の「けむ」は「か」の結びであり、主格の「の」付きの主語の修飾先でもあるので、連体形です)
こうしてこの助動詞はラフに申せば、
未然 連用 終止 連体 已然 命令
○ ○ SS SH SS ○
のようなアクセントで言われたと考えられます。
ⅸ らし [目次に戻る]
連体形は「らし・らしき」、已然形は「らし」とされますけれども、もともとは連体形は「らしき」、已然形は「らしけれ」といったものだったのが、時とともにすりへって、すべて「らし」に落ち着いたとみてよいのでしょう。一般形を先立てます。
消(け)ぬらし〈上平上平〉(伏片319。けえぬらし FLHL)
つかはすらしき〈上上上平平平東〉(岩紀103。とぅかふぁしゅらしきい HHHLLLF)
あやまりならし〈平平平平上平平〉(図名。あやまりならし LLLLHLL。「あやまりなるらし LLLLHLHL」から変化した「あやまりなるらし」〔あやまりなるらし LLLLHLLL〕の促音便形でしょう)
満ち来らし〈平上上上平〉(梅913。みてぃい くうらし LFRHL)
来らしも〈去平平平〉(図紀85。くうらしも RLLL。原本は〈去平平東〉〔くうらしもお RLLF〕だったでしょう)
といった例から推すと、「らし」の初拍は柔らかい拍で、『伏片』の「消ぬらし」〈上平上平〉(けえぬらし FLHL)のような言い方における「らし」の初拍が低下力に負けたのが岩紀の「つかはすらしき」〈上上上平平平東〉(とぅかふぁしゅらしきい HHHLLLF)のような言い方でしょうし、『梅』の「来らし」〈上上平〉(くうらし RHL)のような言い方における「らし」の初拍が高い拍の次で低まったのが図紀の原本の「来らしも」〈去平平東)〉(くうらしもお RLLF〕)のような言い方でしょう。岩紀や図名には「らし」の初拍が先だつ拍の低下力に屈する例が、そして古今集声点本には反対にそうでない例が見られるわけです。
他方、「らし」の「し」は低いのではないでしょうか。形容詞に類似すると見る向きは終止形「らし」の末拍も下降するとしますけれども、結局は形容詞とは異なる活用を持つのですし、形容詞とは異なり連用形がありません。形容詞型だとすると、例えば連体形「つかはすらしき」〈上上上平平平東〉に対応する終止形は「つかはすらし」〈上上上平平東〉(とぅかふぁしゅらしい HHHLLF)のようなものということになりますけれども、そう言われた形跡はありません。「らし」は形容詞相当語句を作る接辞ではないと思われます。この助動詞は、
未然 連用 終止 連体 已然 命令
○ ○ らし らし・らしき らし ○
SL SL・SLF SL
のようなアクセントで言われたでしょう。
x ず・ぬ・ね [目次に戻る]
打消の「ず」の連用形・終止形は未然形(一般)、「ぬ」「ね」は未然形(特殊)を先立てるのでした。さて、打消の「ず」の連用形および終止形は常に低かったと見る見方もありますけれど(『研究』研究篇下pp.203-205)、柔らかかったと見るべきではないでしょうか。今は東京でも京都でも「ず」は常に低く言われますが、古くは柔らかかった「も」なども今は常に低いので、現代語からの類推は当てになりません。じっさい次のような注記があります。
あらずなりにたり〈平上上(平上上平上)〉(伏片(23)。『家』はこの「あらず」に〈平上平〉を差します)
消えずは〈上上上平〉(伏方・家63)
あはざらめやも〈平上上平上上平〉(顕天平568注〔万葉766〕。「あはずあらめやも」〈平上上平平上上平〉の縮約形)
はじめの二つでは「ず」の連用形に上声点が差され、三つ目では実質的にそうなっています。これらにおける「ず」への上声点注記のなかには、識者が誤点だろうとするものもありますけれど、必ずしもそう見なくてはならないわけではありません。打消の「ず」は柔らかい拍、「も」「し」「ぞ」のような助詞と同じく低まりやすいタイプの柔らかい拍だった可能性があるからです。岩紀111の「面も知らず」〈平平平東上上平〉(おもてもお しらンじゅ LLLFHHL)や「家も知らずも」〈平平東上上平東〉(いふぇもお しらンじゅもお)でも、図名の「能(あた)はず」〈上上上平〉(あたふぁンじゅ HHHL)や「忌(い)まず」〈平上平〉(いまンじゅ LHL)などでも「ず」は低まっていますけれども、「ず」が低まりやすいタイプの柔らかい拍だとすれば、動詞の未然形(一般)はほとんどのばあい高平調に終わるので、大抵低いのは当然です。上の三つも、それぞれ「消えずは」(きいぇンじゅふぁ HHLH)、「あはざらめやも」(あふぁじゃらめやもLHLLHHL)、「あらずなりにたり」(あらンじゅ なりにたりい LHLLHHLF」)といった言い方が一般的だがほかの言い方もできた、と見ておきます。
なお、伏片・家63の「消えずは」〈上上上平〉では、助詞「は」が、高平調をとる第三拍に低く付いています。前(さき)に触れたとおりこれは、非古典的な言い方としては「あがたみには」〈平平平上上平〉(訓938詞書)、「こころばせをば」〈(平平上)上平上平〉(同454)なども言えたのと同じことです。
「ず」を含むいま二つの言い方について申しておきます。
一つ目は、いろは歌の最後の「酔(ゑ)ひもせず」に『金光明最勝王経音義』の前書きの差す〈平平上上上〉です。この「酔(ゑ)ひ」は、仮に「酔ひ加はりぬ」(源氏・松風。うぇふぃ くふぁふぁりぬう LL・LLHLF)における「酔ひ」などと同じく連用形(一般)ではなく派生名詞であると見れば誤点ではありませんけれども、複合動詞のところで見たとおり、「酔(ゑ)ひもせず」は「うぇふぃもしぇえンじゅう LHLHL」と言われたと見るのが自然です。『音義』前書きの「以呂波」では文節末の「ず」が高平調をとっていますが、もともとこのいろは歌への注記は明らかな誤点も多く、「酔ひ」への注記なども考え併せると、この「ず」への注記も誤点と見るのは特に恣意的なことととは思われません。しかしまた、この「せず」〈上上〉は「しぇえンじゅう HF」を意味する正しい点と見ることもできないではありません。
次は、図名や「成簣堂本 顕昭『拾遺抄注』」が「思はずに」に差す〈平平平上〇〉です。「思はずなり」は「意外である」「心外である」を意味するイディオムですから、図名の「思はずに」は「意外で」「心外で」ないし「意外に」といった意味の言い方でしょう。出典は『遊仙窟』とありますが、高橋宏幸さんの「『図書寮本類聚名義抄』所引『遊仙窟』のテキストと和訓について」(web)によれば、現行の『遊仙窟』には見えない言い方のようです。さて「思はずなり」はなぜ「意外である」「心外である」を意味できるのでしょう。平安時代の京ことばでは、「…したことがない」は単に「…ず」という言い方で示すのでした。「見たことがない」は「見ず」(みいンじゅう RL)、「思ったことがない」「考えたことがない」は「思はず」(おもふぁンじゅ LLHL)。現代語を直訳すると「見しことなし」「思ひしことなし」などなりますけれども、こんな言い方しませんでした。イディオムとしての「思はずなり」は、「『思はず』なり」であり、「『思ったことがない』という状態だ」「『考えたことがない』という状態だ」といった趣の言い方ではないでしょうか。「思はずなり」の「ず」は単なる終止形や連用形ではありえず、図名の「思はずに」〈平平平上〇〉から普通の「ず」の要求するアクセントをうかがうことはできません。
さて次に、連体形「ぬ」は本来的に高く、已然形「ね」は柔らかいと考えられます。しばしば言われるとおり、四段動詞と同じ「な・に・〇・ぬ・ね」という活用の型を持つ古い助動詞を想定してよさそうですから、そう見るのが自然です。「ぬ」を下降拍と見て、図名の「おくらぬか」〈上上上上平〉のような注記で「か」の低まっているのをその低下力によるとする向きもありますけれど(『研究』研究篇p.147。cf.同pp.156,236-237)、この例で「ぬ」が低いのは「か」がみずから低まったのです。顕天平547注(『研究』索引篇)が「言はねど」に〈上上上平〉(いふぁねンど HHHL)を差しているのは文節中の柔らかい拍が高い拍の次で低まらない例で、助動詞ではこういうことが多いのでした。
秋ならであふことかたき女郎花天の河原に生(お)ひぬものゆゑ 古今・秋上231。伏片が「おひぬ」に〈平平上〉を差しています。あきいならンで あふ こと かたきい うぉみなふぇし あまの かふぁらに おふぃぬ もの ゆうぇ LFHLL・LHLLHHF・HHHHL・LLLHHLH・LLHLLHL。女郎花は天の川の河原にあるわけではないのに秋にしか逢えない、と言っています。「ものゆゑ」は助詞とされますけれども、アクセントのこととして言えば二つの名詞からなるイディオムです。この「もの」に『寂』『訓』がなぜか〈上上〉を差します。〈平平〉と言えない理由はないと思います。
日の光藪(やぶ)し分かねばいそのかみ古(ふ)りにし里に花も咲きけり 古今・雑上870。再掲。「わかねば」に毘・高貞・訓が〈平平上平〉を差していました。ふぃいの ふぃかり やンぶし わかねンば いしょの かみ ふりにし しゃとに ふぁなもお しゃきけり FLLLL・HHLLLHL・HLLLH・LHHHHHH・LLFHLHL
月見れば千々にものこそ悲しけれ我が身一つの秋にはあらねど 古今・秋上193。とぅき みれンば てぃンでぃに ものこしょ かなしけれ わあンがあ みい ふぃととぅの あきいにふぁ あらねンど LLLHL・LHHLLHL・HHHHL・LHHLHLL・LFHHLLHL。詠み手は「おふぉいぇの てぃしゃと LLHLLHH」と言われたと見られるのでした。
ⅺ けり [目次に戻る]
ここからはラ変動詞と同じ活用のものです。
助動詞「けり」は、しばしば「来有り」に由来するとされますけれども、仮にそれが正しいとしても(確度は低いと思います)、この言葉の意味をその〝本義〟からこじつけめかずに説明することはできません。
「○・○・けり・ける・けれ・○」という活用のありようから見て、この助動詞が語形上末尾に「あり」を持つことは確かで、そうした言葉は、たいてい、連体形を含めたすべての活用形において低平拍に終わるようです。例えばラ変動詞「居(を)り」がそうでした。助動詞「けり」のすべての活用形においても末拍は低いと見られます。「らし」のそれなどとは異なり、「けり」の初拍は本来的に高いようです。カ変動詞「来(を)」は低起式でした。
霞たち木(こ)の芽も春の雪ふれば花なき里も花ぞ散りける 古今・春上9。寂が「散りける」に〈上平上平〉を差しています。かしゅみ たてぃい こおのお めえもお ふぁるうの ゆうき ふれンば ふぁな なきい しゃとも ふぁなンじょお てぃりける HHHLF・LLLFLFL・RLLHL・LLLFHHL・LLFHLHL。「春の」は「張るも」(ふぁるも HHL)を兼ねています。寂は「春の」のほうのアクセント〈平上平〉を差しています。
例えば訓479の詞書に「しける」〈上平平〉という注記がありますけれども、これは「ける」の初拍がサ変「す」の連用形(一般)の低下力に負けて低まったのです(しいける FLL)。古典的には上の「散りける」と同趣の「しいける」というアクセントで言われたでしょう。この例においてそうであるように、古今集声点本では「けり」の初拍は先だつ拍の低下力にしばしば屈しますけれども、例えば、
成りにけり〈平上上上平〉(訓528。なりにけり LHHHL)
がそうであるように、古今集声点本では完了の「ぬ」が「けり」を従える言い方では「けり」の初拍は絶えて低まりません。「なりにけり」〈平上上平平〉のような言い方はしないのです。これは完了の「ぬ」の連用形(一般)が文節中では下降調をとらないことを意味するでしょう。やはり完了の「ぬ」は柔らかいのです。
恋すれば我が身は影となりにけりさりとて人に添はぬものゆゑ 古今・恋一528。こふぃしゅれンば わあンがあ みいふぁあ かンげえと なりにけり しゃりいとて ふぃとに しょふぁぬ もの ゆゑ LLHLL・LHHHLFL・LHHHL・LFLHHLH・HHHLLHL。恋ゆえ影のようにやせ細ってしまった。だからといって思う相手に添えるわけではないが。
ⅻ 「めり」、伝聞・推定の「なり」 [目次に戻る]
平安時代の京ことばとしては、いずれもラ変動詞以外の動詞の終止形(一般)、ないしラ変動詞の連体形(一般)――ただし通例撥音便形をとる――を先立て、動詞「居り」や助動詞「けり」と同じく全活用形(といっても未然形、命令形はありません)が古典的にはHLで言われたようです。この「めり」「なり」の初拍は、「けり」のそれと同じく、本来的に高いと見られます。
知りにけむ聞きても厭(いと)へ世の中は波の騒ぎに風ぞ頻(し)くめる 古今・雑下946。毘・高貞・梅が「しくめる」に〈上平上平〉を差しています。しりにけムう ききても いとふぇえ よおのお なかふぁ なみの しゃわンぎに かンじぇンじょ しくめる HLHLF・HLHLLLF・HHLHH・LLLLLLH・HHLHLHL。もうお分かりになったでしょう。そうでないなら私の言うことを聞いてでも、出家なさい。世の中は波が騒ぐところに風が吹きしきってますます収まらない、そんなもののようです。
波の花沖から咲きて散り来めり水の春とは風やなるらむ 古今・物の名・からさき(地名)459。毘が「散り来めり」に〈上平上上平〉を差しています。訓がこれに〈上平上平○〉を差すのは誤点と見ます。訓はいつぞや引いた「難波なる長柄の橋」の歌(古今1051)の「作るめり」には〈平平上上平〉を差していました。なみの ふぁな おきから しゃきて てぃり くうめり みンどぅの ふぁるうとふぁ かンじぇやあ なるらム LLLLL・LLHHHLH・HLRHL・HHHLFLH・HHFLHLH。「水の春」とは「水にとっての春」というような意味です。風が波を花のように見せる。すると、春とは花をもたらすところのものだとすれば、風が「水の春」なのかもしれないである、ということのようです。
鶏(かけ)は鳴くなり〈平上上上平上平〉(前紀・図紀96。かけふぁ なくなり LHHHLHL)
降る雪はかつぞ消(け)ぬらしあしひきのやまのたぎつ瀬音まさるなり 古今・冬319。「まさるなり」に毘が〈上上平上平〉を差しています。ふる ゆうきふぁ かとぅうンじょお けえぬらし あしふぃきの やまの たンぎとぅしぇえ おと ましゃるなり LHRLH・LFLFHHL・HHHHH・LLLHHHH・HLHHLHL。「たぎつ」は現代語「煮えたぎる」の「たぎる」に近い動詞でした。「瀬」は浅瀬。『問答』や『伏片』が「き」を濁(にご)していますから、「滝つ瀬」ではありません。
来べきほど時すぎぬれや(=過ぎぬればや)待ちわびてなくなる声の人をとよむる 古今・物の名・ほととぎす(ふぉととンぎしゅ LLLHL)423。毘が「鳴くなる」に〈上平上平〉を差しています。くンべきい ふぉンど とき しゅンぎぬれやあ まてぃい わンびて なくなる こうぇえの ふぃとうぉ とよむる LLFHL・LLLHHLF・LFHLH・HLHLLFL・HLHLLLH。「待ちわびて」の主語を「人」とする向きが多いようですけれども、賀茂真淵(『古今和歌集打聴(うちぎき)』)はほととぎすが主語だと見ています。妻の来るはずの時が過ぎたので待ちわびてほととぎすが鳴く(泣く)、その声が、聞く人をざわつかせるのか。従うべきだと思います。
わがいほは都の巽(たつみ)しかぞ住む世をうぢやまと人はいふなり 古今・雑下983。わあンがあ いふぉふぁ みやこの たとぅみ しかンじょお しゅむ よおうぉお うンでぃやまと ふぃとふぁ いふなり LHLLH・HHHHHHH・LLFLH・HHLLHLL・HLHHLHL。「しか」(ソンナフウニ)とはどんなふうにということなのでしょう。珍説を披露させていただくと、都の巽(東南)に、そして「風のように」、ということだと思います。この「巽」は八卦――乾(けん)・兌(だ)・離(り)・震(しん)・巽(そん)・坎(かん)・艮(ごん)・坤(こん)――の五番目の「巽」にほかなりません。それは方角としては「巽=辰巳=東南」を意味しますけれど、「乾」が「天」、「坤」が「地」に対応するように――それゆえ「乾坤」は「天地」を意味する――「巽」は「風」を意味するのだそうです。ならばこの歌は、喜撰は仙人になったという伝説――「喜撰隠居宇治山持密呪食松葉得仙道云々」(『花鳥余情』)――と結び付けてよいのではないでしょうか。私は宇治山に、ということは都の巽(東南)に、その名の示すとおり風のごとく、自由自在に空を飛べるような自由な存在として住んでいる。しかし人びとは私が「世を憂」く思って宇治山に住んでいると噂するようだ。生前から当人、我は仙なりなど言っていたと解するのです。
待たれつるいりあひの鐘の音すなりあすもやあらば聞かむとすらむ 新古今・雑下・1808・西行。またれとぅる いりあふぃの かねの おと しゅうなり あしゅもやあ あらンば きかムうと しゅうらム LLHLH・HHHHHHHH・HLFHL・LLHFLHL・HHFLFLH。明日も生きていたら聞くかもしれない、というので、多少とも逐語的に「聞こうとしているだろうか」「聞こうとするのだろうか」などすべきではありません。「むとすらむ」はしばしば要するに「む」と同義で、また「や…む」はしばしば「…かもしれない」を意味します(「名歌新釈」1を御覧ください)。
ラ変動詞がこれらの助動詞を先立てる時、その末拍が撥音便化すること、例えば「あるめり」は実際には撥音便形「あんめり」(撥音無表記形では「あめり」)をとることは周知です。この「あんめり」が「あんめり LHHL」とも「あんめり LLHL」とも言われただろう、「あめり」ならば「あんめり RHL」ないし「あんめり LHL」と表記される言い方で言われただろうといつぞや申しましたが、これは繰り返せば、図名が「なだらかす」に〈平平上去上〉(なンだらかんしゅぅ LLHRF)と〈平平上平上〉(なンだらかん しゅぅ LLHLF)とを差していたからで、どうやら撥音便形における撥音は必ずしももとの言い方とアクセントを同じくするとは限らず、もとの言い方では高くても低まり得たようだと考えたからでした。同じように「あなり」は「あんなり LHHL」ないし「あんなり LLHL」と言われたでしょう。
「はべり」は「ふぁンべりい RLF」と言われるのでしたから、「はべめり」「はべなり」はそれぞれ、「ふぁンべんめり RLHHL」ないし「ふぁンべんめり RLLHL」、「ふぁンべんなり RLHHL」ないし「ふぁンべんなり RLLHL」と言われたでしょう。
xⅲ 断定の「なり」「たり」 [目次に戻る]
例えば「食べちゃう」の「ちゃう」は「てしまう」の縮約形であり、諸書、特に助動詞とはしません。それならば、学校文法が「断定の助動詞『なり』」と呼ぶところのものは本質的に「にあり」(に ありい HLF)の縮約形、ということは一語の助詞と一語の動詞とのつづまったものなのですから、一語の助動詞とすべきではないでしょう(「委託法、および、状態命題」4「場所と様態と」をご覧ください)。ここでは単に「断定の『なり』」と言います。もっとも、「断定の『なり』の連体形『なる』」といった言い方は便利で、このように言う時「なり」を助動詞に準ずるものと見ているということはあります。一語の助動詞とは似ても似つかないものだと申したいのではありません。なお、「しづかなり」(しンどぅかなり LHLHL)の「なり」と特に区別することもしません。
断定の「なり」の初拍は、高い拍に低く、低い拍に高く付くというように紹介されることがあります。確かにそうしたアクセントで言われることが多いということは言えます。まず、高い拍に低く付く例。
宵なり〈上上平上〉(図紀65。よふぃなりい HHLF。「宵にあり」〔よふぃに ありい HHHLF〕のつづまったものですけれども、「に」のアクセントは反映されず、反対に「あり」のアクセントはそのまま反映されます。歌全体は下に引きます)
駒なれや〈上上平上上〉(伏片1045。こまなれやあ HHLHF。「駒にあれや」〔こまに あれやあ HHHLHF〕のつづまったもので、「れ」は柔らかいので文節中では高さを保ちます)
我が夫子(せこ)が来べき宵なりささがねの蜘蛛のおこなひ今宵しるしも 図紀65は「来べき」に〈平平平〉を差しますけれども、原本は〈平平東〉だったでしょう。なお古今1110では「ささがにの蜘蛛のふるまひ予(かね)て著(しる)しも」。「ささがね」は「ささがに」(しゃしゃンがに HHLL。細蟹、すなわち蜘蛛)の古形と言います。図紀はその「ささがね」に〈上上平平〉を差します。ということは、これを「笹が根」(しゃしゃンが ねえ HHHL)とは解せないということでしょう。以下は古今の言い方への注記。わあンがあ しぇこンがあ くンべきい よふぃなりい しゃしゃンがにの くもおの ふるまふぃ かねて しるしいもお LHHHH・LLFHHLF・HHLLL・LFLHHHH・LHHHHFF
次は、低い拍に高く付く例。
馬ならば〈平平上平平〉(岩紀103。ムまならンば LLHLL。ここから「馬なり」〔ムまなり LLHL〕を取り出せますけれども、これともとの「馬にあり」〔ムまに ありい LLHLF〕とを比べると、「ムまに LLH」と「ありい LF」とが縮約する際後者が付属語化し、「あり」の「り」が低下力に屈していることが観察されます。この場合「に」のアクセントは保存され、反対に「あり」のアクセントは保存されません。次も同趣です)
太刀ならば〈平平上平平〉(同上。たてぃならンば LLHLL)
如(ごと)ならば咲かずやはあらぬ桜ばな見る我さへにしづ心なし 古今・春下82。『問答』が初句に〈上平上平平〉を差しています。ごとならンば しゃかンじゅやふぁ あらぬ しゃくらンばな みる われしゃふぇに しンどぅンごころ なしい HLHLL・HHLHHLLH・HHHHH・LHLHHHH・LLLHLLF。初句は「どうせなら」「同じことならば」といった意味の、現在は「ことならば」(ことならンば LLHLL)とされることの多いイディオムですけれども、古今集声点本では初拍は濁音で読まれています(こちらの方がよくはないでしょうか)。この「なら」を四段動詞と見る向きもありますが、「同じくは」(おなンじくふぁ)が同義の言い方になることを考えると、やはり断定の「なり」なのでしょう。桜花にいっそ咲かずにいないかと提案する歌です。
声ならなくに〈平上上平上平平〉(訓359。こうぇえならなくに LFHLHLL。断定の「なり」が二拍五類名詞「声」に、ということは下降拍に高く付く例です。古今集声点本では「声」のような二拍五類名詞には助詞は低くつくことが多いわけですけれども、鎌倉後期においても、図名の「つひに」〈平東上〉(とぅふぃいに LFH)、『寂』302の「秋をば」〈(平上)上上〉(あきいうぉンば LFHH)などと同様、「声に」は「こうぇえに LFH」と発音され得たのでしょう。それゆえ「声なり」を「こうぇえなり LFHL」と言いうるのだと考えられます。訓のこの注記では「声」の末拍は引かれたのではないでしょうか。これは図名(の原本)が二ところで「おほきなり」に〈平平東平上〉を差すのよりも古いアクセントです。もっとも最後の「なくに」は、申したとおり古くは「なくに HHH」と言われた言い方です。
ところが、以上の例とは反対に、高い拍に高く付くことも、低い拍に低く付く言い方も、少数ながら見られます。
知らぬなるべし〈(上上上)上平(平上)〉(寂(59)。しらぬなるンべしい HHHHLLF)
浮(うけ)なれや〈上上上平上〉(毘・高貞509。うけなれやあ HHHLF)
貴(あて)なり〈上上上平〉(前田本『色葉字類抄』〔『集成』、『研究』研究篇下p.234〕。あてなり HHHL)
如ならば〈上平平上平〉(訓854。ごとならンば HLLHL。問答82は〈上平上平平〉を差していました)
こうした言い方もできたことは、断定の「なり」が二つの柔らかい拍からなることを意味するのだと思います。するとこの「なり」の初拍に上声点が差される時、それは高く平らに言われたと考えられます。降り拍とする向きもありますけれども(『研究』研究篇下pp.233-234)、断定の「なり」が「にあり」HLFの縮約であることから直ちにそれが帰結するわけではありません。岩紀は「馬ならば」「太刀ならば」に〈平平東平平〉ではなく〈平平上平平〉を差すのでした。同趣の縮約を含むと考えられる「のたまふ」や「居り」の初拍も高平調だと見られます。断定の「なり」の初拍は柔らかく、されば、例えば「鼻も」〈上上上〉(伏片1043。ふぁなもお HHF)の「も」と同じく、高い拍の次で時に低まらないのだと思います。ただ、たいていの場合高い拍の次で低まりますから、低まりやすいタイプの柔らかい拍と申せます。
また、低い拍に付く時は、断定の「なり」の初拍はたいていのばあい卓立するようで、「馬なり」(ムまなりい LLLF)とは言い得ないということではないのでしょうけれども――訓は「如ならば」に〈上平平上平〉(ごとならンば HLLHL)を差していました――、「馬なり」(ムまなり LLHL)のような言い方、問答82がそうするような「如ならば」〈上平上平平〉(ごとならンば HLHLL)のような言い方が一般的だったと考えられます。
なお断定の「なり」の初拍が高い場合、末拍は低まるのが普通のようで、書紀の古写本にも「馬なり」(ムまなりい LLHF)のような言い方は見えません。柔らかい助詞が連続する時それに〈上上〉が差されることは希だったことが思い合わされます。
断定の「なり」のさまざまな活用形が助動詞を従える時のアクセントを見ましょう。
塵ならぬ〈上上平平上〉(毘・高貞676。てぃりならぬ HHLLH。「あらぬ」〔あらぬ LLH〕のアクセントが保存されています)
ものならなくに〈(平平)上平上上上〉(毘・高貞629、毘415。ものならなくに LLHLHHH。「ものならぬ」〔ものならぬ LLHLH〕を取り出せます。打消の「ぬ」のような、さきだつ動詞に高平連続調か低平連続調を要求する助動詞がここではHLというアクセントを先立てています。「居(を)らぬ」も「うぉらぬ HLH」だったと考えられるのでした。
知るといへば枕だにせで寝しものを塵ならぬ名のそらに立つらむ 古今・恋三676。しると いふぇンば まくらンだに しぇえンでえ ねえしい ものうぉ てぃりならぬ なあのお しょらに たとぅらム HLLHLL・LLHHLHL・HHLLH・HHLLHFL・LHHLHLH。枕はすべてを知るというから使わずに寝たのに、噂が、塵でもないのに空に舞っている。
糸に縒るものならなくに(モノデハナイノニ)別れ路の心ほそくもおもほゆるかな 古今・羇旅415。いとに よる ものならなくに わかれンでぃいの こころ ふぉしょくもお おもふぉゆるかなあ LHHLH・LLHLHHH・LLLFL・LLHLHLF・LLLLHLF。「心細し」はさしあたり律儀言いをしておきます。古くから連濁していたことが確認できるわけではないようです。
こうした言い方になるのですから、同じ特殊形を要求する過去の「し」や推量の「べし」を従える場合には、
塵なりし(てぃりなりし HHLLH)
塵なるべし(てぃりなるべしい HHLLLF)
ものなりし(ものなりし LLHLH)
ものなるべし(ものなるべしい LLHLLF)
のような言い方になると思われます。一般的な助動詞には、例えば次のように付くでしょう。
塵ならず(てぃりならンじゅ HHLHL)
塵なりけり(てぃりなりけり HHLHHL)
ものならず(ものならンじゅう LLHLF、ないし、ものならンじゅ LLHLL。「ず」を卓立させる言い方が可能だと思われます)
ものなりけり(ものなりけり LLHLHL)
断定の「たり」については多言を要しません。今でも「教師たる者は」云々など言う時の「たる」はこれの連体形です。この「たり」へのアクセント注記は寡聞にして知りませんけれども、つねに低平調をとる助詞「と」と「あり」との単純な縮約形であることに疑いはないので、低起二拍動詞と同じアクセントをとると考えられます。xⅳ 存続の「たり」 [目次に戻る]
存続の「たり」は「てあり」〈上平上〉(てありい HLF)の単純な縮約ですけれども(それだけに「も」のような助詞の介入を容易に許します)、実例によって見るに、初拍の「た」は常に低く言われるようです。
吹く風をなきてうらみよ鶯は我やは花に手だに触れたる 古今・春下106。伏片が「触れたる」に〈平上平○〉を差しています。ふく かンじぇうぉ なきて うらみよ うンぐふぃしゅふぁ われやふぁ ふぁなに てえンだに ふれたる LHHHH・HLHLLHL・LLHLH・LHHHLLH・LHLLHLH。断定の「なり」も高い拍の次で低まることが多いのでした。存続の「たり」は高い拍の次では決して高さを保たないようです。完了の「つ」が二拍からなる場合その初拍は常に低いことも思い合わされます。
優れたる〈上上平平上〉(図名。しゅンぐれたる HHLLH。断定の「なり」の初拍は低い拍の次で通例卓立しましたけれど、存続の「たり」の初拍は低い拍の次でも低いままです。時代のくだるとともにこの「る」のようなものは低く言われることが多くなってゆきます)
うつせみの世にも似たるか花ざくら咲くと見しまにうつろひにけり 古今・春下73。伏片73が「似たるか」に〈上平上〇〉を差しています。うとぅしぇみの よおにも にいたるかあ ふぁなンじゃくら しゃくと みいしい まあにい うとぅろふぃにけり HHHLL・HHLFLHF・LLLHL・HLLLHHH・LLHLHHL。なお、語源の如何にかかわらず(詳細略)、鎌倉時代には(おそらく平安時代にも)「うつせみ」は「空蝉」(せみのぬけがら)であるという了解があったようで、じっさい毘73が「うつせみ」に〈上上上平〉を差しています(うとぅしぇみ HHHL)。この「うつ」〈上上〉は図名などの「うつほ」〈上上上〉(うとぅふぉ HHH)と同じであり、「蝉」は「しぇみ HL」ですから、複合名詞「空蝉」は確かに「うとぅしぇみ HHHL」と言われたと考えられます。
xv 存続の「り」 [目次に戻る]
最後に存続の「り」のことを。よく知られているとおり例えば「咲けり」は「咲きあり」の縮約形で、「咲けり」の「咲け」が何形(なにけい)かを問うことは、「食べちゃいます」の「ちゃい」は何形(なにけい)かを問うようなもので、あまり意味はありません。存続の「り」を便宜的に「サ未四已」に付く助動詞としておいても実害はありませんけれど、その場合でも「完了の助動詞」という言い方は不適切で、「存続」といった言葉が選ばれなくてはなりません。
せり〈上平〉(図名。しぇえりい HL。サ変の未然形「せ」は高さを保つのでした)
家居(いへゐ)しせれば〈平平平上上平平〉(家・毘・寂16が「せれ」に〈上平〉を、訓16が「せれば」に〈上平平〉を差しています。いふぇうぃしい しぇえれンば LLLFHLL)
まされり〈上上平上〉(図名。ましゃれりい HHLH。低起動詞の末拍と同じく上声点が差されています)
臥(こ)やせる〈平上平上〉〈平平上平〉(岩紀104は前者、『顕府』〔53〕注〔補1〕は後者を与えるのでした。こやしぇる LHLH。こやしぇる LLHL)
立てる夫らが〈平上平上平上〉(岩紀108。たてるしぇらンが)
懸かれり〈平平上平〉(図名。かかれり LLHL)
認(なや)めり〈平平上平〉(図名。なやめり LLHL)
立てり〈平上平〉(図名。たてり LHL。図名の「立てり」への二つの注記を〈平上東〉と見などする向きも多いのですが、酒井さんの図名ではいずれも〈平上平〉に見えます。「あり」由来の拍を末尾に持つ「けり」「めり」、伝聞推定の「なり」の末拍は低いのでしたし、断定の「なり」の末拍は初拍が高い場合低く平らに言われるのでした。「立てり」〈平上東〉のような言い方は原理的にありえないとは思いませんけれど、通例そう言われたとは考え得ません)
とどまれらば〈(上上上)平上平〉(伏片(68)。とンどまれらンば HHHLHL。「とどまりたらば」〔とンどまりたらンば HHHLLHL〕)と同義です。
雪のうちに春は来にけりうぐひすのこほれる涙いまやとくらむ 古今・春上4。家が「こほれる」に〈上上平上〉を差しています。ゆうきのうてぃに ふぁるうふぁ きいにけり うンぐふぃしゅの こふぉれる なみだ いまやあ とくらム RLLHLH・LFHRHHL・LLHLL・HHLHLLH・LHFLHLH
袖ひちてむすびし水のこほれるを春たつけふの風やとくらむ 古今・春上2。再掲。しょンで ふぃてぃて むしゅンびし
みンどぅの こふぉれるうぉ ふぁるう たとぅ けふの かンじぇやあ とくらム。HHLHH・HHHHHHH・HHLHH・LFLHLHL・HHFLHLH
秋の夜(よ)の長きをかこてれば 古今・仮名序。「かこてれば」に毘(65)が〈上上平上平〉を、伏片が〈○○平上平〉を差しています。あきいの よおのお なンがきいうぉ かこてれンば LFLLL・LLFH・HHLHL
いで、ただおのれにあづけたまへれ。栄花・見果てぬ夢(みいい ふぁてぬ ゆめ ℓfLLHLL)。いンで、たンだあ おのれに あンどぅけえ たまふぇれ HL、LF・HHHH・LLFLLHL。いやもう是非とも私に任せておいてください。
古典的には「咲けらず」(しゃけらンじゅ HLHL)、「咲けらぬ」(しゃけらぬ HLLL)、「咲けりき」(しゃけりきい HLHF)、「咲けりし」(しゃけりし HLLH)、「咲けるらむ」(しゃけるらムう HLHLF)、「咲けるべし」(しゃけるンべしい HLLLF)のようだったろうことは「咲け」を「咲きあ」に戻してみれば明らかでしょうし、「成れらず」(なれらンじゅう LHLF、なれらンじゅ LHLL)、「成れらぬ」(なれらぬ LHLH)、「成れりき」(なれりきい LHLF)、「成れりし」(なれりし LHLH)、「成れるらむ」(なれるらムう LHLLF)、「成れるべし」(なれるンべしい LHLLF)のようだったことは「成れり」(なれり LHL)の三拍目は常に低いことから明らかでしょう。かくて、存続の「り」の未然形と連体形とは高いか低く、連用形、終止形、已然形、命令形は柔らかい拍であり、低い拍の次では古典的には卓立し、高い拍には低く付きます。
助動詞のことはこれで終わりですけれども、つけたりで「ごとし」のことを手みじかに。学校文法はこれを助動詞としますけれど、「の」「が」のような助詞を先だてたりするものを、動詞に添うのを本性(ほんじょう)とする助動詞とするのは奇妙です。同義の「やうなり」も明らかに名詞と断定の「なり」とに分けて悪い理由はなく、これを積極的に一語の助動詞とすることに意味はありません。さて「ごとし」は古典的には「ごとしい HLF」でしょう。語形上は形容詞にほかならず、形容詞の語幹と同一視してよい「ごと」には伏片そのほかの古今集声点本が〈上平〉を差していて、また改名が終止形「ごとし」および連体形「ごとき」に〈上平平〉を差しているのは、それらが古典的には〈上平東〉を差さるべきもの(ごとしい、ごときい HLF)であることを意味すると見られます。すると連用形「ごとく」は「ごとく HLL」でしょう。語形の上では形容詞ですけれども、アクセントの上では「ごとし」はそうは申せません。
二月一日 あしたのま、あめふる。むまのときばかりにやみぬれば、いづみのなだといふところよりいでてこぎゆく。うみのうへ、きのふのごとくに、かぜ、なみ、みえず。きしゃらンぎ とぅいたてぃ あしたの まあ、あめえ ふるう。ムまの ときンばかりに やみぬれンば、いンどぅみの なンだと いふ ところより いンでて こンぎい ゆく。うみの うふぇ、きのふのンごとくに、かンじぇ、なみ、みいぇじゅ LLHLLLLL LLLLH、LFLF。LLLLLLHLH・HLLHL、LLLLLHL・ HHHHHLL・LHH・LFHL。LHLHL、HHLLHLLH、HH、LL、LHL。「ごと」や「ごとく」とは異なり「ごとくに」は固い言い方で、一般に女性は使わなかったようです。しかし『土左』の 書き手がここでそういう言い方を使っているのは貫之のケアレス・ミスなどではないと思います。貫之は『土左』の書き手に彼女があまり使い慣れない固い言い方をさせたのではないでしょうか。実際、というべきか、この「きのふのように風や波が見えない」を意味する言い方では、「きのうと同じく」ということなのか「きのうと異なり」ということなのか分かりません。つまりこれは不文です。前日の記事の一節「けふ、うみになみににたるものなし」(けふ、うみに なみに にいたる もの なしい LH、LHH・LLHFLHLL・LF)――これも変わった言い方です――から前者と知られますけれど、ということはここは「海の上、けふも(けふも LHL)風、波、見えず」といった言い方で十分なはずです。 [次へ] [「助動詞の…」冒頭に戻る]