付論 蓮華王院宝蔵本における表記の改悪について
――貫之自筆の『土左日記』を想像する――
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 a それらは貫之自筆本でないと見られる [目次に戻る]

 『貫之集』(紀貫之の私家集)の自筆本の一部とされ「自家集切(じかしゅうぎれ)」と呼びならわされてきたところのものが東京国立博物館に収蔵されているそうですけれども、同博物館はこれを「貫之集断簡(自家集切)」(伝紀貫之筆 平安時代・10世紀)とし、「古くより、貫之自筆と伝えられたため『自家集切』の名で呼ばれるが、その確証はない」と解説しています(2022/4/6現在、JAPAN SEARCH経由で行きつけますけれども、ただそこからColBaseに入ると、九州国立博物館所蔵の、寄贈者の異なる「貫之集断簡 自家集切」にのみ行きつきます。解説によればこちらも「紀貫之が自らの歌集を自筆で書写したと伝えられることから、『自家集切』と呼ばれる」ところの「伝貫之筆」のものです)。一つの手蹟を千百年以上前に生まれた人の手になるものと断定するためには、自筆であることの確実なものが別に存在しているか、確実に信頼できる証言ないし証言の連鎖が存在しているかしなくてはなりませんが、「自家集切」に関してはいずれの条件も満たされないようですから、博物館の見解はもっともだと思います。貫之自筆の可能性などまったくないとは申せないものの、かなり低そうです。
 すると、にべもないことを申すようですけれど、蓮華王院(かの三十三間堂)の宝蔵というところにあったという『土左日記』――申したとおり、平安時代の普通の都びとは「としゃのにっき」(高いところなし)と発音したようです――を伝承どおり「紀氏正本」(貫之自筆本)と見なすのは、むつかしいでしょう。蓮華王院宝蔵本の『土左』を貫之自筆本と見る伝承が、今なお広く、単なる伝承ではなく事実と見なされているのは、すでに何度も申し及んでいる例の『古典の批判的…』がそれを立証したとされているからだと申せます。この名高い論文において池田は、つまるところ、「自家集切」は伝承どおり貫之自筆と考えられる、ゆえに蓮華王院宝蔵本の『土左』は貫之自筆本である、と言っています。その「自家集切」が実際には「伝」を冠すべきものと見られるのであってみれば、蓮華王院宝蔵本の『土左』も伝貫之自筆本とするよりほかにありません。すると、貫之自筆本の『土左』は、私たちにとって、ほぼ目の前にあるものではなく、想像すべきものとしてあります。小論の想像する『土左』は、漢字をほとんど書けない、そしてくだけた発音をし、仮名の遣い方などもあやしい女性の手になる日記、ということは六十代後半の教養ある男性とは大いに異なる人の手になる日記、申さば、「おとこもかくとかいうにっきってものを、おんなであるたしもかいてみよとおもって、かいてみるの」というようなスタイルの作物です。貫之の仮託した女性の発音や仮名のつかい方については、すでに「解説(ワ行転呼、ヤ行転呼」、「解説(ハ行転呼)」、「解説(過剰修正)」で具体的に申しました。
 書き手が意図して「おとこもかくとかいうにっきってものを、おんなのあたしもかいてみよおとおもって、かいてみるの」と書いたところのものを「男も書くとかいう日記ってものを、女である私も書いてみようと思って書いてみるの」というようなものとして読み味わうのは望ましいことではないでしょう。とすれば『土左』は、「男もすなる日記といふものを女もしてみむとてするなり」のような姿のものとして読み味わわるべきではありません。そのように考える根拠は、すでに申したところにとどまりません。
 私たちは蓮華王院宝蔵本のありようならばだいたいは知っていると申せます。青谿書屋本(せいけいしょおくぼん)を見ればよいからです。簡単におさらいをさせてもらいますと、『土左日記』では青谿書屋本が最善本とされていて、通行のテクストは一般にこの本に拠ります。この本は、蓮華王院宝蔵本を定家の子・為家が――厳密には嘉禎二年に権(ごん)の中納言だった人が、というべきですが、これはまあ為家なのでしょう――、為家が忠実に書写したとされるもの(「為家本」)を、近世初期にさる人が忠実に書写したとされるものです。「青谿書屋」は高田馬場にあったという大島雅太郎の住まいの名です(私は長いあいだ本屋さんの名だと思っていました)。諸家の中には、為家は蓮華王院宝蔵本は見ておらず、ただ定家がそれを忠実に模写したもの(現存する「定家本」――多くの恣意的な改変のあることで悪名高い写本――とは大きく異なる)を模写しただけであると見る向きもあるようですけれど、為家は貫之自筆本を忠実に書写したとするのと、これはほぼ同じことでしょう。
 とは申せ、為家は他本を参照する必要などないほど正確に蓮華王院宝蔵本を写したとは考えられていません。例えば萩谷朴の「青谿書屋本『土左日記』の極めて尠ない独自誤謬について」(web)は、為家本には独自誤謬が十四あるとします。この十四という数値は大きくは動かないようです。萩谷論文はそれらを無意識の誤写と断ずるのですけれども、無意識かどうかは措くとして、為家本は「このひと」(この人。こおのお ふぃと)の四字を抜かし(12/23)、「あるひとのかきていたせるうた」(ある ふぃとの かきて いンだしぇた)の「の」を抜かし(12/27)、「つけて」(とぅけて)を「つけつつ」(とぅけとぅとぅ)とし(同日)、「ふけぬとにや」(更けぬとにや。ふけぬうとにやあ)を「ふけぬとや」(ふけぬうとあ)とし(1/21)…という具合のもので、それらが正当にも誤謬とされるのは、それらの箇所について他本の方が正確だと見られるからです。
 そうは申しても、蓮華王院宝蔵本のありようは為家本からよくうかがわれると申せます。しかし蓮華王院宝蔵本は貫之自筆本ではなさそうだと考えられるのでした。では宝蔵本と自筆本とはどのくらい似ていると、あるいはどのくらい異なっていると考えられるでしょう。
 蓮華王院宝蔵本ではこの日記の書き手は、「日記」(発端)、「願(ぐわん)」(12/22)、「講師(かうじ)」(12/24)、「白散(びやくさん)」(12/29)、「相應寺」(2/11)のような漢字を書きつけたことになっています。つまり彼女は画数の多いものも含めて漢字をたくさん知っていたことになっています。しかし彼女は、テクストのほとんどを構成するやまとことばはほぼすべてひらがなで書いています。具体的には、百五十以上あらわれる「ひと」は、一か所「人」とあるのを除けばひらがな書きであり――その一つも、小林芳規さんはもともとはひらがなだったろうとお考えです(「平安時代の平仮名文の表記様式」〔web〕)――、四十近くの「こころ」、やはり四十ほどの「おもふ」(の各活用形)などなどはすべてひらがな書きです。ここは大声で申したいのですが、「日記」も「願」も「講師」も「白散」も「相應寺」も書ける人が、なぜ「人」「心」「思」といった漢字を(ほとんどまったく)書かないのでしょう。
 このことに関して、「白散」の「白(びゃく)」のような開拗音、「願(ぐわん)」のような合拗音は当時、漢字で書くことが多かったようであることが知られていますけれど、だから『土左』でも漢字で書かれて当然だということは言えません。そもそも漢字の書けない人ならばひらがなで書くしかありません。土佐の守の侍女とされることの多い女性は、日常「百散」なり「願」なりといった漢語を発音したことがあったでしょう。彼女がひらがなでは書けないような発音をしたとは思えません。彼女は自分の発音するとおりをひらがなで表音的に記すことができたと思われます。実際、築島さんの『新論』などに引かれているとおり、拗音を仮名書きにした例は古くからたくさんあります。当時は「白散」は、ひらがなで書くとすれば「ひやくさん」ではなく「ひあくさん」と書かれたかもしれず、「願」はひらがなでは「くわん」、あるいは、「ディズニー」を「デズニー」と発音する人がそれを表音的に書くのと同趣のこととして「かん」と書かれたかもしれませんけれども、いずれにせよ「百散」も「願」も漢字でしか書けない言葉などではありえません。
 「日記」も「願」も「講師」も「白散」も「相應寺」も書ける人ならば、「人」「心」「思」といった漢字を頻繁に使うのが自然でしょう。じっさい例えば、前(さき)にも申し及んだ為房の奥さんの書状は、現代人が見てもそう不自然でない、次のような文字づらのものです。

 よるいそきおりさせたまへりし事をそててもほいはへりてとかへす/\思てはへめる
(夜、急ぎ下りさせたまへりしことをぞ、父も「本意はべりて」とかへすかへす思ひて〔ないし、おもうて、ないし、おもて〕はべめる。よ、いしょンい おりしゃしぇえ たまふぇ ことうぉンじょ、ても「ふぉんいい ふぁりて」と かふぇしゅう かふぇしゅう おもふぃて(おもうて、おも) ふぁんめる。「ほい」は「ほんい」の撥音無表記形。「連声(れんじょう)」〔リエゾン!〕を起こしているとすれば「ふぉんにい」ですけれども、この現象がさかんになるのはもう少しあとかもしれません。また築島さんの『新論』には、連声に関して、「この種の字音表記は訓点資料には見えず、和名抄にも多く「俗云」と冠してゐることから見ると、俗間に流布してゐた通用音の類であつたかもしれない」とあります〔p.419〕。アクセントは、呉音と見るとLL〔一漢字一記号による表記〕と推定されます)

 女性の手になるものとして、「本意」のような漢語は仮名書きにすることも多い一方、「事」「思ふ」などは漢字で書かれています。やはり自然なのはこういう表情の文章でしょう。金子さんたちの手になる前掲の「総索引稿」によれば、彼女は「人」も「心」もたいてい漢字で書きます。いずれも少しひらがな書きがまざりますけれども、こういう不統一な行き方こそむしろ自然だと思います。
 日記の書き手が画数の多い漢字をたくさん知っているにもかかわらず、「人」は(ほとんど)ひらがなで書き、「心」「思」は例外なくひらがなで書くのはきわめて不自然ですが、ではどうだったならば不自然ではないでしょう。
 原文は、為房の奥さんがそうしたように、やまとことばにも適宜漢字を使うものだったのでしょうか。しかしそうだったとすると、誰かが、転写の過程で、「日記」「願」「講師」「白散」「相應寺」などは漢字のままにして、残りの漢字はひらがなにしたことになります。これは考えにくい。適宜漢字のあるほうが読みやすいのは確かなのですから、誰かがわざわざそれを(ほとんどすべて)ひらがなに開いたと考えるのは不自然です。
 『土左日記』の本文は、もともとはすべて、ないしほとんどすべて、ひらがなで書かれていたのではないでしょうか。「廿二日」のような日付の表示――『仮名文の原理』で小松英雄さんのおっしゃるとおり見出しの機能も持つ部分です――は漢字だったかもしれませんけれど、本文は元来、すべて、あるいはほとんどすべて、ひらがなで書かれていたのではないでしょうか。この日記は漢字をほとんど書けない人の手になるものとして書かれたと見るべきだと思います。十二月二十六日の記事に「からうたはこれにえ書かず」(からうたふぁ いぇこれにンじゅ)とあるのは、アナクロニックに申さば、『和漢朗詠集』の漢詩の部分がもともとは白文であるのや、『源氏』の須磨の巻に「二千里の外(ほか)故人の心」が「二千里外故人心」という表記で引かれているのに倣うことはできないと言っているのではないでしょうか。
 「をとこもすなるにきといふものをヽむなもしてみむとてするなり」「こヽにさうおうしのほとりにしはしふねをとヽめて」といったひらがなの列に誰かが手を加えるとすれば、はじめに目の行くのは漢語でしょう。例えば、テクストの流布する過程で、まず「にき」「さうおうし」といったひらがな書きの漢語の右側に「日記」「相應寺」と記すものがあらわれても不思議ではありませんし、それがのちに本文に取り入れられても不思議ではありません。あるいは、はじめから、本文にあらわれる「にき」や「さうおうし」といったひらがな書きの漢語を漢字に直したテクストが作られたのかもしれません。いずれかの経緯によって成立したのが蓮華王院宝蔵本なのだと思います。
 その際、どの漢語を漢字にし、どの漢語をひらがなのままにするかに関して、特に原則はなかったのではないでしょうか。申したとおり「白散」「願」のような拗音を含むものは漢字にするという原則はあったと見られますけれど、それ以外については漢字化は網羅的ではなく、例えば「にき」「かうし」「さうおうし」は漢字にする一方、「けゆ」(解由(げゆ)。発端)、「とうそ」(屠蘇。12/29)、「かいそく」(海賊。1/21)などはひらがなのままになっています。このことについて深い理由はないと思います。例えば冒頭すぐの「にき」は「日記」としないと読者に読解上、負担を強いる、と見る向きもありますが、諸家の見るとおりもともとこの作品に『土左日記』という外題があったとすれば、「にき」で十分です。他方、やはり冒頭近くの「あかたのよとせいつとせはててれいのことともしをへてけゆなととりて」の「けゆ」は、「あかたのよとせいつとせはてて」(県の四年五年果てて)という文脈があるから平仮名でも容易に「解由(げゆ)」と理解されるだろうとする向きもありますけれど、文脈があっても、「れいのことともしをへてけゆなととりて」の「けゆ」は、分かりやすいものではないでしょう。ちなみに、漢字にすると漢字を読めない人に分かってもらえないということはありますけれど、そうした人のためには、「日記」「願」「講師」「白散」「相應寺」も漢字でない方がよいわけです。 
 蓮華王院宝蔵本では、もともとの『土左』の含むひらがな書きの漢語の一部が漢字に改められているのだと思われます。自筆本との差はそれだけでないと思いますけれど、少なくとも一部の漢語が漢字に改められていると思われます。ちなみに、書写者がもう一段(ひときざみ)踏み込めば、今度はやまとことばに適宜漢字を当てるでしょう。定家本や、少しさきで紹介する三条西実隆本はそうした版です。この方向を推し進めたのが現行の大方の『土左』のテクストです。古写本に多少とも目が慣れてからそれらを見ると、句読点だらけ、漢字だらけで、とてもではありませんが、古写本と同じ作品を目にしているという気になりませんけれども、それはともかく、もし貫之が、漢字はほとんどまったく書けない人の手になるものとしてこの日記を構想したのだとすれば、それをたっぷりと漢字を使った文章に書き換えてしまうのは、無茶苦茶なことをすることです。「ぼくはかんじがかけません」という文を「僕は漢字が書けません」と書き直してしまうのに近いことをすることです。

 b 二番目の男 [目次に戻る]

 多くの字数を費やしてわずかのことを申す節です。
 為家本には、すでに引いた通り、子音の弱化によって説明できるところの「えたことに」(1/9。枝ごとに。いぇンだンご)や「とをか」(1/13。十日。とうぉか)のような書き方、過剰修正と解されるところの十四に及ぶ「みへさなるを」(12/23。見えざなるを。みいぇンじゃんなうぉ)のような書き方、子音の弱化とも過剰修正とも解せる「むくゐ」(1/21。報い。むくい)のような書き方が見られました。それらはこの日記がくだけた発音をする人の手になるものとして書かれていることを示すと考えられるのでしたけれども、私たちの知っている『土左』からは、原本には同趣の言い方がもう少しだけあったと考える余地があります。定家仮名づかいのことを考慮してもなお、そう考えられます。
 室町幕府第九代将軍足利義尚(よしひさ)(1465~1489)は、八代義政を父とし日野富子を母とするとされるものの、後土御門天皇のご落胤ともうわさされたという人です。二十五歳で世を去ってしまいますけれども、この人が、どうやら、蓮華王院宝蔵本の『土左』を所蔵していたようで、将軍逝去後はこの『土左』は、富子や、その姪に当たる義尚の未亡人の住んだ小川殿にあったと考えられています。
 松木宗綱(1445~1525。まつきむねつな)は、数え間違いでなければ道長の十六代目の子孫にあたる公卿です。准大臣従一位。延徳二年(1490)、その宗綱が、後土御門天皇の命を受けて、小川殿にあったと見られる『土左』を書写したそうです。その行方は現在不明とのことですけれども、写本が三つあって、識者の見るところ、このうち日本大学図書館蔵本が、宗綱本の面影をもっともよく伝えます。
 次に、『実隆公記』の三條西実隆(1455~1537。さんじょうにし・さねたか)は、明応元年(1492)、宗綱に二年おくれて、同じ『土左』を書写したようです。これもあいにくその転写本が残っているばかりですけれども、そのうち、実隆本を転写した三條西家本と、実隆本を転写したものを転写した大島雅太郎旧蔵本とが優秀とされます。池田によれば大島本は「三条西家本とは無関係に転写された本」だそうですから(『古典の批判的…』)、二つに共通する書き方はおおむね実隆本のそれだと見なしてよいと考えられます。
 実隆は宗綱よりも十歳年下で、『実隆公記』(デジタルコレクション)によれば二人の交渉は密だったようですから、仮に、貫之自筆とされる『土左』が程遠からぬところに現存していて自分はそれを写したと宗綱が言うのを聞いたら、今風に言えば古典学者でもあった実隆はじっとしていられなかっただろうと想像されます。ともかく実隆もまた、蓮華王院宝蔵本を直接書写しました。為家本の次に貫之自筆本に近いのは実隆本だと見られます。
 書写する際の原本の表記への忠実さにおいて実隆本は為家本に必ずしも劣りません。確かに例えば為家が「はつかあまりひとひのひの」(発端。ふぁとぅかあまりふぃとふぃいのふぃいの)とするところを実隆は「はつかあまりひとひの日の」とするというように、実隆は原本のひらがなをしばしば漢字に改めなどしますし、為家が原本の「乎」を原則としてそのままにするのに対し、実隆はそうしません。しかし、石塚秀雄さんの「『土左日記』における仮名表記の特色――「ア行のエ」「ヤ行のエ」に注目して――」(web)によれば、為家本(青谿書屋本をしばらく為家本と同一視します)には六つの「見へ」と一つの「見江」とがあわられますけれども、実隆はその六つの「見へ」のうちの二つを「見え」と書き換えています。この「見え/見へ」に関しては為家の方が原本に忠実だと言えますけれども、実隆本に見られる五つの、歴史的仮名遣いでは「絶え」となる「たへ」のうちの一つを為家は「た江」とするのですから、「絶え/絶へ」に関しては反対に実隆の方が原本に忠実です(具体的には、一月二十五日の記事における「かいそくおひくといふことたすきこゆ」で、為家はここを「かいそくおひくといふことたすきこゆ」とするのです。原本が「え」とするところを実隆が「へ」としたとは考えにくいでしょう)。両者ともにどこまでも原文に忠実であろうとしているわけでないことを 石塚さんは示してくださったのですけれども、特に、為家が時に原文の仮名遣いを改変する人であったことは、記憶にとどめらるべきことです。
 定家本や、宗綱本、実隆本を考える時には定家仮名づかいについての知識が欠かせません。念のため、以下手みじかに振り返っておきます。
 鎌倉時代初期、仮名づかいのことなどを記した『下官集(げかんしゅう/げかんのしゅう)』において定家は、例えば「置(お)く露」は「をくつゆ」と書き、「惜(を)しむ」は「おしむ」と書くべしとしました。この書き分けは当時「置く露」(うぉく とぅう)の「お」は高く、「惜しむ」(うぉしう)の「を」は低く言われたからで(平安時代もそうでした)、「お」「を」の使い分けに関して定家はすでに十二世紀なかばには存した存したこの特異な流儀、「表アクセント的仮名遣い」と呼べる仮名遣いを踏襲しました。やはりこの流儀による、『下官集』の仮名づかい書としての側面を拡充した趣の、行阿(ぎょうあ)の手になる『仮名文字遣』(14世紀後半)は、詳説しませんが、定家の絶大な権威を背景に長く重んぜられたようで、江戸時代にも版を重ねました(変体仮名のものも、活字のものも、デジタルコレクションなどで見ることができます)。それらに見えている仮名づかいが「定家仮名づかい」ないし「行阿仮名づかい」と呼ばれるところのものです。小論がしばしば「いわゆる歴史的仮名づかい」という言い方をしてきたのは、それとは異なるこの定家仮名づかいも今から見て歴史的な仮名づかいには違いないからです。ちなみに、いわゆる歴史的仮名づかいは平安初期の仮名づかいをもととしたものとされますけれど、それならばア行の「え」とヤ行の「江」とを区別しなくてはなりません。いわゆる歴史的仮名づかいは、西暦千年ごろの京ことばの正式の発音をもとにしたものとするほうが、実態に即しているのではないでしょうか。ともあれ、このことを申した上で、以下は、あまりわずらわしいので、「いわゆる歴史的仮名づかい」の「いわゆる」は省きます。
 宗綱や実隆のような縉紳も、『仮名文字遣』のような書物の影響下で、ないしそうした書物の影響下で書かれた書物なり書状なりの仮名づかいに倣って、文字を書いたようです。例えばデジタルコレクションの『実隆公記』の文明六年(1474)二月十一日の記事に、「天晴、今日宮々御申沙汰也、仍祗候、沈酔過法酔倒、候宸殿了」とあるのに続いて――「沈酔過法酔倒」が面白いので引きました――、「有御連歌、予執筆(しゅひつ)」とあり、「准后」の、ということは後土御門天皇の母・大炊御門信子(おおいのみかどのぶこ)の発句、
   花盛風おさまれる砌(みぎり)
が書きつけられています。「おさまる」は歴史的仮名づかいでは「をさまる」ですが(「うぉしゃる」)、『仮名文字遣』は「治世」の「治」などを「おさむ」としますから、執筆を仰せつかった実隆は確かに定家仮名づかいと一致する文字づかいをしています。ちなみに当時の京ことばのアクセントはすでに南北朝期における体系的な変化を経ていて、「おさまる」は「おしゃまる」ないし「おさまる」と言われたでしょうから、低きがゆえに「お」が選ばれたというわけではありません。
 さて『土左日記』の一月七日の記事に、為家本が、変体仮名を直さず引けば「よきひとの乎とこ尓につ支てく多りて須みけるなり」(よき人の、をとこにつきてくだりて住みけるなり。よふぃとの うぉとことぅきて くンだしゅみけり〔平安中期のアクセント。もっとも鎌倉時代にもこのアクセントはありうるものでした(詳細後述)〕。良家の婦人が夫に従って〔この地に〕くだって住んでいるのだった)とするところがあります。この「乎とこ」を、定家本と宗綱本と実隆本とは「おとこ」とします。しかし宗綱本におけるその意味と、定家本ならびに実隆本におけるその意味とは、同じではありません。
 「乎」は、「古」は「こ」と同じという意味で「を」と同じ仮名です。片仮名の「ヲ」はこの「乎」のはじめの三画に由来します。万葉仮名としては「乎」は、「を」を示すところの、「を」(遠)よりも頻繁に使われる仮名でしたけれども(植芝宏さんの「試作 万葉仮名一覧」〔web〕が教えてくれます)、なぜかようよう使われなくなっていったようで、例えば平安後期の「高野切」「関戸本古今集」といった「古筆」と呼ばれるところのものでは、「乎」はすでに完全に「を」に圧されていますし、くだって『仮名文字遣』の「を」を含む言葉を並べた部の見出しは、「を・緒・越・遠 此を也」(を、越、越、遠、コレラハ「を」デアル)というものであって、「乎」は登場しません。為家本も定家本も『土左日記』を「乎とこ」と書き始めていて、これらの本にはそこ以外にも多くの「乎」があらわれますが、宗綱本にも実隆本にも「乎」は一つあらわれません。二人とも、原文にあらわれる「乎」を、自分の判断で別の字体の字にしたのでした。
 坂本清恵さんの「『土左日記』はどう写されたか―古典書写と仮名づかい―」(web)のおわりのところに掲げられている表の教えてくれるとおり、そのさい宗綱は、原文の「乎」を、しばしば、定家仮名づかいの知識を援用して「お」としたようです。例えば宗綱はこの日記にあらわれる九つの「男」(「男ども」なども含む)をすべて「おとこ」としますけれども、これは、平安時代にも鎌倉時代にも「をとこ」が三拍とも低い「うぉとこ」というアクセントで言われ、定家仮名づかいでは「おとこ」と書かれたからだと考えられます。
 宗綱は「乎」を、定家仮名づかいが「お」の時は常に、ないしたいてい「お」とした、ということではありません。坂本さんの表をもとにこちらの責任で数えると、宗綱は十七か所で「乎」を定家仮名づかいがそうだからという理由で「お」としたと考えられますが、十か所では、「乎」を、定家仮名づかいに反して「を」としています。彼は二つの書き分けに関してはかなりノンシャランだったようで、例えば一月二十二日の記事では、まず「をさなく」と歴史的仮名づかいに一致する書き方で書いてから、少し先で「おさなき」と書きます。ちなみに定家本では二つとも「お(於)」、為家本は二つとも「乎」、実隆本は二つとも「を」です(平安時代には「うぉしゃない」でした)。ほかにも宗綱は、「澪標(みをつくし)」(2/6。みうぉとぅくし)を「みおつくし」、「岡(をか)」(2/9。うぉか)を「おか」としますけれど、定家本はこれらをそれぞれ「み乎つくし」「をか」とし、為家本は「み乎つくし」「乎か」、実隆本と『仮名文字遣』とは「みをつくし」「をか」とします。宗綱が「みおつくし」「おか」という、歴史的仮名づかいとも定家の仮名づかいとも行阿仮名づかいとも一致しない書き方をしたのは、宗綱本の性格をよく示しています。
 事情がこういうことなのであってみれば、宗綱本における「お」「を」の使い分けから蓮華王院宝蔵本におけるそれを透視することはできないでしょう。
 しかし定家本および実隆本については、ありようが異なります。まず確認すべきは、定家は一月七日の「男」だけを「おとこ」と書き、ほかの「男」は、「男ども」のそれなども含めて八つすべてを「乎とこ」と書いているという事実、および、実隆は同じ一月七日の「男」だけを「おとこ」と書き、ほかの「男」は、「男ども」のそれなども含めて八つすべてを「をとこ」と書いているという事実です。二人とも、一月七日の「男」だけを「おとこ」と書きます。
 これは偶然ではないと思います。一月七日の「おとこ」だけは、蓮華王院宝蔵本がこうだったのではないでしょうか。貫之の仮託した女性が時に子音の弱化した言い方を表音的に書いたとしても、そして彼女の仮名の遣い方にゆれが見られたとしても不思議ではありません。この「おとこ」は歴史的仮名遣いでない以上定家仮名遣いによったものであるとするのは当を得ません。
 一月七日の「男」は、日記冒頭のそれに続いて二度目にあらわれる「男」です。「をとこ」は元来三拍とも低く言われ、定家仮名づかいでは「おとこ」です。定家が『土左』を書写したのはもう晩年で、「お」「を」に関する彼の方針はずっと前に確立していたようですから、定家は日記冒頭の「乎とこ」を複雑な思いで眺めたでしょう。彼は「乎」を遠慮なく「お」に直す時もあるのですが(「おかしき」〔1/7〕、「おさなき」〔1/11〕などなど)、日記冒頭の「乎とこ」はそのまま「乎とこ」としました。ところが二度目に今度は「おとこ」があらわれます。それをそのまま書かない理由は、定家にはなかったでしょう。三度目以降また「乎とこ」があらわれたのを、二度目がそうだったからという理由で彼が「お」としなかったのは、原文を尊重したのだと思います。
 実隆についても事情は或る程度似ています。彼は定家仮名づかいでは「男」は「おとこ」であることを知っていたでしょうけれども、『土左』の冒頭に「乎とこ」とあるのを見て、おそらく遅疑なく「をとこ」としたでしょう。彼が『土左』の書写に際して定家仮名づかいにこだわらなかったことは、実隆本が、「追ひ来て」(12/27。ふぃ きいて)を「おひきて」、「己」(12/27。おのれ)を「おのれ」、「置かず」(1/1。おかンじゅ)を「おかす」、「押鮎」(1/1。おしあゆ)を「おしあゆ」とするというように(以下たくさんありますが引きません)、高く言われるゆえに定家本がことごとく「を」を以て記すところを、すべて歴史的仮名づかいの通りに「お」とすることが示します。実隆が一月七日の記事では「おとこ」と書いたのはうっかり定家仮名づかいに引かれたのだとするのは、性急に過ぎると思います。
 為家本はここも「乎とこ」とします。為家は原文を改変した見るわけです。それがありうることであることはすでに見たとおりです。為家本の識語に「以紀氏正本書写之一字不違 不読解事少々在之」とあるのは有名ですけれども、これを根拠に改変などありえないとするはナイーヴに過ぎるでしょう。宗綱本の奥書にも「仰以貫之自筆本不違一字令書写之及数反改誤者也」とあって、こちらは信用する向きが少ないわけですが、為家本の「一字不違」も、それを根拠に論じてよいものでなく、根拠をもとにその実否を論ずべきもののはずです。実隆が「乎とこ」を「おとこ」としたと断ずることはできませんが、為家が「おとこ」を「乎とこ」とすることなどありえないと断ずることもできません。
 とすれば、実隆本の「おしむ」(1/3。惜しむ。連体形なので「うぉし」)についても似たことが申せるでしょう。これは「をし」(12/27。惜し。うぉい)と「くちをしく」(1/15。口惜しく。くてぃうぉく)とのあいだに位置するもので、一月二十日の記事に見えている二つの「惜しむ」の連用形も「をしみ」です。一月三日のところだけ「おしむ」なのは、原文がそうだったからである可能性があります。また実隆本が「この折(をり)」(12/27。こおのお うぉ)を「このおり」とし、「折節」(12/27。うぉふし)を「おりふし」とするのも、必ずしも定家仮名づかいがそうだという理由でそうなのだと断ずる必要はありません。


c それならば初拍は [目次に戻る]

 貫之自筆の『土左』は、「日記」「願」「講師」「白散」「相應寺」のような漢語はさらなり、大和ことばもほとんどすべてひらがなで書かれた、そして「とうか」「むくゐ」のような、さらには「みへさなるを」や同趣の十三例のような、くだけた発音を表音的に書き記した言い方や、くだけた発音をすることに由来する書きあやまりをもっと多く含むものだったと想像します。そこにあらわれる漢語の一部を漢字に直し、また仮名づかいの一部を正式の発音を表音的に表記した書き方、現代人からすれば歴史的仮名づかいと一致する書き方に直した版が、蓮華王院宝蔵本なのだと思います。「みへさなるを」式の言い方などなどは、例えば「けゆ」が「解由」に直されずに残ったのと同じで、この手直しが網羅的ではなかったことを示すのだと思います。
 貫之自筆本のどの箇所の文字づかいが直されたのかについて詳細はむろん分かりませんけれども、貫之自筆本は「おとこ」にはじまったのではないかと想像することは許されるでしょう。せっかく正式の発音とくだけた発音とが異なる言葉でテクストを始めるのならば、「おとこ」という、子音を弱化させたくだけた発音を表音的に記した書き方、話し言葉では頻繁に耳にされただろうものの、書きしるされることは少ないそうした文字づかいで始める方が、面白いのではないでしょうか。「男」という言葉の選ばれたのは、一つにはそれが正式の発音とくだけた発音とを異にする言葉だからではなかったでしょうか。
 貫之自筆の『土左』は、「おとこもすなるにきといふものをヽむなもしてみむとてするなり」(おとこ しゅる にっきいと いふ ものうぉ うぉムみいうとて しゅるい)と始まったのではないかと想像します。
 十二月二十四日の記事に、青谿書屋本が「ありとあるかみしもわらはまでゑひしれて一文字をたにしらぬものしかあしは十文字にふみてそあそふ」(ありとある上下、童まで、酔ひしれて、一文字をだに知らぬ者、しが足は十文字に踏みてぞ遊ぶ)とするところがあります。あいと あみ しも わらふぁまン うぇふぃい しれて いてぃもうぉンだ しらぬ もの、しいンがあ あしふぁ じふもに ふンじょ あしょンぶ。送別会でみんな酔っぱらって――子供も飲んだでしょう――「一」も書けない人が酔って千鳥足になり「十」を書いているというのですが、これを書き手は、自分を字を書ける人間の一人と見なしつつ書いているのでしょう。しかし実際には書き手は漢字はほとんど書けず、ひらがなの使い方も変、ということが明らかだったとしたら、この一節はますます面白いでしょう。もっとも極端なケースを考えるなら、ここは「(…)わらまてゑしれて一もんしをたにしらぬものしかあしはしうもんしにふみてそあそふ」などあってもよいわけですけれども(「を」「は」のような助詞はさすがに「お」「わ」と書かれることは少なかったようです)、どこもかしこも変というのではなく、ちょうど宗綱本がそうだったのに似て、あるところでは「わらは」「ゑひ」「むくい」「心」と書かれ別のところでは「わらわ」「ゑい」「むくゐ」「こころ」と書かれるといったありようだったとも考えられます。
 想像には違いありません。しかし、「自家集切」や『土左』に関する伝承を無批判に受け入るべきでないとすれば、また青谿書屋本になぜ「みへさなるを」のような書き方がたくさん見出されるのかを不問に付したり、それは偽の問題なのだと言いなしたりすべきでないとすれば、また、青谿書屋本において「日記」も「願」も「講師」も「白散」も「相應寺」も漢字で表記されるにもかかわらず「人」「心」「思」といった漢字は(ほとんどまったく)書きつけられないことを無視すべきでないとすれば、むしろこの想像は、そんなことはありえないという想像よりも理にかなっていると思われます。
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