10 形容詞のアクセント(Ⅱ) [目次に戻る]
「人にくし」という言い方があります。毘・高貞・訓631が「人にくからぬ」に〈○○上上平平上〉を、寂631が同じ言い方に〈○○平上○○○〉を差しています。「人」は「ふぃと HL」、「にくし」は「にくしい LLF」ですから、毘・高貞・訓の注記は「ふぃとにくからぬ HHHHLLH」、寂の注記は「ふぃとにくからぬ HLLHLLH」を意味すると見られ、これらからは、「人にくし」を「ふぃとにくしい HHHHF」とも、「ふぃとにくしい HLLLF」とも言えることが知られます。複合動詞のところで使い始めた言い方を用いれば、「ふぃとにくしい HHHHF」と発音することは「人にくし」を一語の高起形容詞として一気言いすることであり、「ふぃと にくしい HLLLF」と発音することは、「人にくし」を、名詞「人」と形容詞「にくし」とからなる一つの連語として律儀言いすることです。
「人にくし」は「不愛想だ」「そっけない」といった意味合いの言い方で、男が思いをせつせつと訴えているのにそれに応えようとせず、木で鼻を括ったような態度を取る女性は典型的な「人にくき人」である、ということになるようです。
朝顔の姫君は、いかで人に似じと(光ル源氏ニナビイテ不幸ナ思イヲスルコトナドナイヨウニシヨウト)深うおぼせば、はかなきさまなりし御かへり(ソレマデハ形バカリトハイエアッタ、光ル源氏ヘノ返事)などもをさをさなし。さりとて人にくくはしたなくはもてなしたまはぬ御けしきを(不愛想ナ礼儀知ラズナ態度ハオ取リニナラナイ御様子ヲ)、君も、なほ異なり(優レテイル)とおぼしわたる。源氏・葵。
あしゃンがふぉの ふぃめンぎみふぁ、いかンで ふぃとに にンじいと ふかう おンぼしぇンば、ふぁかなきい しゃまなりし おふぉムかふぇり なンどもお うぉしゃうぉしゃ なしい。しゃりいとて ふぃと にくく(ないし、ふぃとにくく) ふぁしたなくふぁ もて なしい たまふぁぬ
みけしきうぉ、きみも なふぉお ことおなりと おンぼし わたる。LLHLLHHHHH、HRH・HLHHHL・LHLLLHL、LLLFHHLLH・LLHHHLRLF・LHLHLF。LFLH・HLLHL(ないしHHHHL)・LLLHLH・LHLFLLLH・HHHHH、HHL・LFLFHLL・LHLHHL。
いま一つ引きます。
こりずまにまたも無き名は立ちぬべし人にくからぬ世にし住まへば 古今・恋三631。こりンじゅまに またもお なきい なあふぁ たてぃぬンべしい ふぃと にくからぬ(ないし、ふぃとにくからぬ) よおにし しゅまふぇンば LHHHH・HLFLFFH・LHHHF・HLLHLLH(ないしHHHHLLH)・HHLLLHL。初句のアクセントは推定。梅・訓は〈平平上上上〉(梅は末拍に注記なし)、毘・高貞は〈平平上平平〉(高貞は第四拍に注記なし)を差しますけれども、「懲る」は「こるう LF」、「懲りず」は「こりンじゅ LHL」ですから、二拍目の低いのは解(げ)せません。現代は「人にくからぬ世」である。つまり、かつては殿方からのお誘いを厳しくはねつけるのがよいとされたようだが、昨今はそのようにはしないのがよいとされる時勢である。それで、またもや、性懲りもなく私は愛想よくふるまってしまったけれども、そのことでまた、軽い女だという、事実とは異なる噂が立ってしまいそうだ。浮薄な女人が、これも時勢のせいだ、私は本当はそんな女じゃないとうそぶく歌と解しておきます。
いま一つ。
惜しとのみ思ふ心に人にくく散りのみまさる花にもあるかな 躬恒(みつね)集。うぉしいとのみ おもふ こころに ふぃと にくく(ないし、ふぃとにくく) てぃりのみ ましゃる ふぁなにも あるかなあ LFLHL・LLHLLHH・HLLHL(ないしHHHHL)・HLHLHHH・LLHLLHLF。桜の花が、その散るのを惜しむ私の心に応えることなく、ますます散るよ。
ちなみに、これらの「人にくし」における「人」は、「主語」と「対象語」とを区別する時枝誠記の用語法によれば「主語」です。例えば「いや私ではなく
彼がコーヒーが好きなんだ(=コーヒーを好きなんだ)」では「彼」が主語(subject)で「コーヒー」は対象語(object)です。ある女性がある男性に対して冷たい態度をとり男性が腹立たしく思う場合その女性は「男性が腹立たしい」女性(ある男性がある女性を腹立たしく思うそのある女性)です。例えば現代語「人恋しい」における「人」は対象語であるのに対して(人を恋しく思うわけです)、古語「人にくし」における人は主語です。多くの辞書が「人憎し」を「人からみて腹立たしい」といった意味と説きますけれども、「相手が腹立たしい(=相手が腹立たしいと思うような態度をとる)」というような意味と見るべきでしょう。
こうした意味あいの言い方としての「人にくし」では、一つの名詞と一つの形容詞とのあいだに意味の化合ないし複合が起こっていますから、これが意味論的に一つの複合形容詞であることは明らかで、毘・高貞・訓631の「人にくからぬ」〈○○上上平平上〉から取り出せる「人憎し」(ふぃとにくしい HHHHF)はその一つの複合形容詞をそういうものとして一気に発音したものです。他方、寂631が同じ言い方に〈○○平上○○○〉を差していたのは、「人憎し」(ふぃと にくしい HLLLF)を、一つの名詞と一つの形容詞とからなる連語として律儀に発音しています。複合形容詞「人憎し」は、発音上、一気言いも律儀言いもできると考えられます。
ところで、複合形容詞とそれに類したものとの区別は原理的に確定できません。現代語を例にとれば、「きょうみぶかいさくひん」が一般的であるものの、「きょうみふかいさくひん」とも言えます。「きょうみぶかい」は、アクセントからも、また連濁していることからも明らかに一語ですけれど、「きょうみふかい」は、アクセントから見て二語です(連濁していませんが、連濁すべくして連濁していないから二語だとは言い切れません。「いとこんにゃく【糸蒟蒻】」も「しろしょうーゆ【白醤油】」も連濁していませんが、アクセントから見て一語です)。「きょうみふかい」よりも「きょうみぶかい」のほうが一般的であることは確かですが、前者はたんにあまり言わない言い方なのであり、許容度の落ちる言い方ではありません。「止(や)むを得ないこと」は、現代語として「やむをえないこと」と発音されますが、「やむをえないこと」(やめることが出来ないこと)と発音してはならないというわけではありません。
平安時代の京ことばでは「味はひ深し」という言い方はしないと思われますが、こういう式の言い方はたくさんあります。現代語では「味わいの深い作品」「味わいが深い作品」とも言えるわけですけれども、古い日本語ではこうしたところで「の」「が」は置かないことも加わって、名詞と形容詞とがぢかに(旧仮名を遣います)接するこうした言い方は、古文には現代文よりもずっと頻繁にあらわれます。参考までに四つほど引きます。
いとけはひをかしく物語などしたまひつつ 源氏・若菜上。いと けふぁふぃ うぉかしく ものンがたり なンど しい たまふぃとぅとぅ HL・LLLLLHL・LLLHLRL・FLLHHH。たいそう明るい雰囲気でお話をなさりなどして。現代語では「雰囲気明るくお話をする」といった言い方は好まれません。もっとも、石川淳はつねにこうした言い方をしましたし、石川を好んだらしい黒田恭一はラジオ番組の最後に「お気持ちさわやかにお過ごしくださいますように」と言っていましたけれど)
もとの品高く生まれながら、身は沈み、位みじかくて人げなき 源氏・帚木。もとの しな たかく ムまれなンがら、みいふぁあ しンどぅみ、くらうぃ みンじかくて ふぃとンげ なきい LLLHH・LHL・HHHHHH、HHHHL・HHHLLHLH・HHHLF。もともと高い家柄に生まれながら、零落し、官位が低くて、人並みとはいえない人。「もとの・品高く」ではなく「もとの品・高く」と言っていること、申すまでもありません。
春の野山、霞もたどたどしけれど、こころざし深く掘り出でさせてはべる、しるしばかりになむ。源氏・横笛(よこンぶいぇ)。ふぁるうの のお やま、かしゅみも たンどたンどしけれンど、こころンじゃし ふかく ふぉりい いンでしゃしぇて ふぁンべる、しるしンばかりになムう。LFLLLL、HHHLLLLLLHLL、LLLLLLHL・LFLLLHH・RLH、HHHHHLHLF。朱雀院が娘・女三の宮に筍(たかムな LHHL)や野老(ところ LLL。ヤマノイモ科)というささやかな贈り物をしたことを言っています。「こころざし深く」は「あなたへの深い思いから」「思いを込めて」といった意味。
夜もすがらいみじうののしりつる(火葬ノ)儀式なれど、いともはかなき(葵ノ上ノ)御かばねばかりを御なごりにて、あかつき深く(マダ夜ノ明ケル前ニ)帰りたまふ。 源氏・葵。よおもお しゅンがら いみンじう ののしりとぅる ぎいしきなれンど、いともお ふぁかなきい おふぉムかンばねンばかりうぉ おふぉムなンごりにて、あかとぅき ふかく かふぇりい たまふう LFLLH・LLHL・HHHLLH・RLLHLL、HLFLLLF・LLHHHHHHLH・LLHHHLHH、HHHHLHL・LLFLLF。「儀式(ぎしき)」は呉音。「漢字古今音資料庫」〔web〕からRLLと推定されますが、京都で近世以来もHLLらしいことは、この推定を支持してくれます。
これらから取り出せるところの、「けはひをかし」(けふぁふぃ うぉかしい LLLLLF)、「もとの品高し」(もとの しな たかしい LLLHHLLF)、「こころざし深し」(こころンじゃし ふかしい LLLLLLLF)、「あかつき深し」(あかとぅき ふかしい HHHHLLF)といった言い方は、いずれも、一つまたは複数の名詞と一つの形容詞とからなる言い方と見るべきものでしょう。あとの三つにおける一つの「高し」と二つ「深し」とは、連濁させようと思えばさせられます。しかし連濁した言い方で言われたとは思われません。それらはいずれも一語の形容詞とは考えられません。
それならば、古語辞典が一語の形容詞として(も)立項する、「心をかし」「心たかし」「心ふかし」「夜深し」のような言葉は、いずれも二語からなる言い方とも解せるでしょう。「夜深し」「心深し」はは絶対的に一語だとする根拠があるとは考えられません。
アクセントのことを考えるならば、これはどちらでもよいことではありません。「ものさびし」(ものしゃンびしい LLLLF)、「たけたかし」(たけたかしい LLLLF)のような言い方ならば、「もの」も「たけ」もLL、「さびし」も「たかし」も低起式なので、一語と見ても二語と見ても同じことですけれど、「心をかし」「心高し」「心深し」「夜深し」は、それぞれ一語と見るならば「こころうぉかしい LLLLLF」「こころたかしい(ないし、こころだかしい) LLLLLF」「こころふかしい(ないし、こころぶかしい) LLLLLF」「よふかしい(ないし、よンぶかしい) LLLF」と言われ、二語と見るならば「こころ うぉかしい LLHLLF」「こころ たかしい LLHLLF」「こころ ふかしい LLHLLF」「よお ふかしい LLLF」と言われることになります。
ちなみに、「心高し」は辞書により、「こころたかし」とされたり、「こころだかし」とされたり、どちらも言うとされたりします。「心深し」は連濁させない辞書が多いようですけれども、精選版日本国語大辞典は「こころぶかし」とも言うとします。「夜深し」は多くが「よぶかし」としますが、精選版日本国語大辞典は「古くは『よふかし』」とします。どのくらい古い時代のこととしているのかは分かりませんけれども、平安時代の京ことばとして「夜深し」が、そして「心をかし」「心高し」「心深し」が、連濁しない言い方でも言われ得たことは確かだと思われます。多くの辞書が「夜ぶかし」はこの言い方で項目を立て、「心ふかし」はこの言い方で項目を立てるのは、そう古くない時期に成立した読み癖によるのでしょう。
「心高し」や「心深し」を一気言いできたことは明らかです。例えば図名は「快」を「こころよし」〈平平平平上〉(こころよしぃ LLLLF)と訓んでいて、これは明らかに一語としてのアクセントです。しかし例えば、次の引用にあらわれる「こころよく」などは、「こころよく LLLHL」とも「こころよおく LLHRL」とも言えたでしょう。
ほととぎすの声も聞かず。もの思はしき人は寝(い)こそ寝られざなれ、あやしう心よう寝らるるけなるべし。蜻蛉の日記・天禄三年(972)。ふぉととンぎしゅの こうぇえもお きかンじゅ。もの おもふぁしきい ふぃとふぁ いいこしょ ねられンじゃんなれ、あやしう こころよう(ないし、こころ よおう)ねらるる けえなるンべしい。LLLHLLLFF・HHL。LLLLLLFHLH・LHLHHHLHL、LLHL・LLLHL(ないしLLHRL)・HHHHLHLLF。心配事のある人は寝られないというけれど、私は心配事があるにもかかわらず不思議なことにぐっすりと寝られるせいか、夜深く鳴く不如帰の声を聞かない、と言っています。「寝らるるけ」の「け」は「ゆえ」といった意味の一拍語ですが、「気(け)」説(岩波古語。呉音)によっても、「験(げむ)」説(小学館古語大辞典。やはり呉音)によっても、「け L」と見られます。
ただ、同じ「こころよし」でも次のようなそれは二語として言うべきものでしょう。
おほかた、心よき人のまことに才(かど)なからぬは、男も女もありがたきことなめり。また、さる人もおほかるべし。枕・よろづのことよりも、情あるこそ(254。よろンどぅの ことよりもお、なしゃけ あるこしょ LLHL・LLHLF・LLHLHHL)。おふぉかた、こころ よきい ふぃとの まことに かンど なあからぬふぁ、うぉとこもお うぉムなもお ありンがたきい ことなんめり。また、しゃる ふぃともお おふぉかるべしい。LLHL、LLHLFHLL・HHHH・LHRLLHH、LLLFHHLF・LLLLFLLFHL。HL、LHHLF・LHLLLF。「大方」のアクセントは推定。いったい、性格のよい人がまことに才能にあふれているということは、男でも女でも、めったにないことだ。まあ、そういう人も多いにちがいない。最後の一文は前言をただちに翻したのでしょう。
周知のとおり、ただ「よき人」(よきい ふぃと LFHL)と言うと「教養ある貴族」といった意味になるので、現代語に言う「よい人」、「性格のよい人」「人柄のよい人」といった意味は「心よき人」などによって示したと思われます。この「こころよし」と彼(か)の「こころよし」とは区別すべきでしょう。
「心よし」におぼえず手間取りましたけれども、「心よし」も、「心高し」「心深し」も、一気言い、律儀言い、いずれもが可能なのだと考えられます。「うら悲し」のような言い方についても同じでしょう。狭野茅上娘子(さののちがみのおとめ)の歌の一つに次があります。
春の日のうら悲しきに後(おく)れ居て君に恋ひつつうつしけめやも 万葉3752。ふぁるうの ふぃいの うらンがなしきいに おくれ うぃいて きみに こふぃとぅとぅ うとぅしけめやも LFLFL・LLLLLFH・HHLFH・HHHLHHH・LLLHLHL
うら悲しい春の日、愛する人が流罪に処されたせいでここに取り残されている私は、正気ではいられない、と言っています。末句は「うつしからめやも」(うとぅしからめやも LLHLLHHL)と同じことで、「うつしけ」は「正気である」を意味するシク活用の形容詞「うつし」(うとぅしい LLF)の古い未然形――といっても已然形と同形だったらしい――です。前紀42が「早けむ人し」に〈平平上平上平東〉(ふぁやけム ふぃとしい LLHLHLF)を差すのに倣って、上のようだったと見ておきます。已然形はのちに「はやけれ」〈平平上平〉、「うつしけれ」〈平平平上平〉として確立するわけですから、古い未然形=已然形として「はやけ」〈平平上〉、「うつしけ」〈平平平上〉を考えるのは自然なことでしょう。ということは、「しげからむ」と同義の「しげけむ」に毘・高貞702が〈平上上平〉(しンげけム LHHL)を差し、訓702が〈平上平平〉(しンげけム LHLL)を差すのは、古態を存したものではないのだろうということです。
この絶唱の第二句の原文は、wikisourceの『万葉集』によれば「宇良我奈之伎尓」というもので、「我」は濁音専用字のようですから、これは連濁した言い方であり、従って「うらがなしき」は一語としてあり、全体で「うらンがなしきいに LLLLLFH」と言いえたと見られます。しかしまた、「裏」(うら LL)と同根の「心(うら)」は「うらもなし」(うらもお なしい LLFLF。無心だ。無邪気だ)といった言い方でも使える名詞なのであってみれば、「うら悲し」は二語として「うら かなしい LLHHF」のようにも言えたと思います。
ちなみに、同じく万葉集に「峰高み」を「弥祢太可美」と表記したところがあって(4003)、「太」を濁音専用字と見る向きはこれを「みねだかし」と読みますけれども(角川文庫本も濁らしています)、同4113に「任(ま)きたまふ」(まきい たまふ LFLLH)を「末支太末不」と表記したところがありなどしますから、「太」は清音も示しうるのではないでしょうか。「弥祢太可美」を「みね たかみ HHLHL」と読んではいけないという道理はないと思われます。
「もの悲し」「ものさわがし」などにあらわれる接辞「もの」を先立てた形容詞は古くもありましたけれども、それらもまた、律儀言いできるでしょう。この接辞は「何とはなしに」といった意味とされますが、明らかに名詞「もの」に由来するわけで、例えば「何もない」に当たるのは「ものもなし」(ものもお なしい LLFLF)、「何かあるか」に当たるのは「ものやある」(ものやあ ある LLFLH)であることを思えば、「もの悲し」は時に「何かが悲しい」という気持ちで言われたと見るべきです。
寂970詞書に「ものがなしくて」〈○○平○○○○〉という注記があり、毘・高貞も同じところに〈〇〇平平〇〇〇〉を差します。「悲し」は単独では「かなしい HHF」と言われたので、連濁の見られる、そして第三拍に平声点の差される寂、毘・高貞の注記は、「ものがなし」(ものンがなしい LLLLF)という一語の形容詞のあったことを示しています。ただ、「ものや悲しき」といった言い方のできることを考えると、「ものかなしい LLHHF」もまた言いうる言い方だったと思われます。
我がごとくものや悲しきほととぎす時ぞともなく夜たた(夜モスガラ)なくらむ 古今・恋二578
わあンがあンごとく ものやあ かなしきい ふぉととぎしゅ ときンじょおともお なあく よたた なくらム LHHLL・LLFHHHF・LLLHL・LLFLFRL・LHHHLLH。「久方の光のどけき」歌などと同趣の言い方なので「らむ」は連体形と見られます。
風の音(おと)、虫の音(ね)につけて、もののみ悲しうおぼさるるに 源氏・桐壺。かンじぇの おと、むしの ねえに とぅけて、もののみ かなしう おンぼしゃるるに HHHHL、HHHFHLHH、LLHL・HHHL・LLLLHH。
「小島」(こンじま HHH)の「小」(こ)のような〝ただの〟接辞は助詞を従えられないでしょうから、「もの悲し」の「もの」のようなものは、やはり声調論的にはもとの名詞としての性格を失っていないのです。「うち驚く」(うてぃい おンどろく LFLLHL)の「うち」のような接辞が声調論的にはもとの動詞としての性格を失っていないようであるのと同じです。
「わびし」(わンびしい HHF)に由来する、「わびしげに」と似た意味の「わびしらに」という言い方があって、「わンびしらに HHHHH」「わンびしらに HHHLH」など言われますけれども、これが接辞「もの」を冠した「ものわびしらに」という言い方もあって、この「わびしらに」に京秘451が〈上上上平○〉を差しています。伏片・家451が〈平平平平上〉を差しなどするのは、「ものわびしらに」を「ものわンびしらに LLLLLLH」とすることですが、京秘451の〈上上上平○〉は、それとは異なり、「ものわびしらに」を「もの わンびしらに LLHHHLL」とすることです。
わびしらにましらな鳴きそあしひきの山のかひある今日にやはあらぬ 古今・誹諧1067。わびしらに ましら なあ なきしょ あしふぃきの やまの かふぃ ある けふにやふぁ あらぬ HHHLH・LLHHHHL・HHHHH・LLLHHLH・LHHHHLLH。猿よ、わびしげに鳴いてはいけないよ。めでたい日ではないか。
命とて露を頼むに難ければものわびしらになく野辺の虫 古今・物の名・苦竹(にンがたけ HHHH)451。いのてぃとて とぅゆううぉ たのむに かたけれンば もの わンびしらに なく のンべえの むし LLHLH・LFHLLHH・HHHLL・LLHHHLH・HHLFLHH。はかない露は命の綱として頼みがたいので、呑兵衛の虫がわびしそうに鳴いて(泣いて)いる。
次に、「由(よし)なし」のような、名詞が「無し」を従える言い方について考えます。
よしなし〈上上平上〉(図名。よし なしい HHLF。名詞「由」は「よし HH」です)
せむかたなみぞ〈上上上平上平平〉(訓・梅・寂1023。梅・寂は末拍に点無し。古典的には、「しぇえムう かた なあみンじょお HHHLRLF」でしょう)
すべなし〈平上平上〉(図名。訓・顕天片・顕大・毘・高貞1087。顕天片以下の四つは「なし」への注記なし。この「すべ」がLH、LF、いずれなのかはわかりません。以下では仮に「しゅンべ LH」とします)
のような注記は、一般にこのタイプの言い方において名詞のアクセントと「なし」のアクセントとをそれぞれ生かした言い方をしてよかったことを教えるでしょう。現代語でも例えば「無理ない」「わけない」などをHLHLと言ってさしつかえないのですし、「無理もない」「わけもない」と言えるのですから、各成素の独立性は高いと言えます。
このことに関して、「かひなし」や「わりなし」をそれぞれ一語の高起形容詞と見る向きのあることを申さなくてはなりません。毘・高貞1057が「かひなく」に〈上上上平〉を、毘・高貞・訓570が「わりなく」に〈上上上平〉を差していて、それらだけを根拠にそう見る向きもあるのですけれども、これは問題なしとしません。近世の資料によれば「かひなき」「わりなき」はHHLLと言われたそうです(総合資料)。これがHHLFからの変化であることは明らかです。「かひなし」(かふぃなしい HHLF)、「わりなし」(わりなしい HHLF)の連用形「かひなく」「わりなく」は元来「かふぃなあく HHRL」、「わりなあく HHRL」で、古今集声点本の〈上上上平〉は、言わば〈上上去平〉の略表記か、あるいは鎌倉時代ごろ上昇調が高平調に変化したことを示すのに過ぎません。後者だったとしても連体形は依然として「かひなき」(かふぃ なきい HHLF)、「わりなき」(わり なきい HHLF)だったと考えなくては、近世におけるありようが説明できません。
なげきをば樵(こ)りのみ積みてあしひきの山のかひなくなりぬべらなり 古今・誹諧1057。なンげきうぉンば こりのみい とぅみて あしふぃきの やまの かふぃ なあく なりぬンべらなり LLLHH・LHLFHLH・HHHHH・LLLHHRL・LHHHLHL。「木」を切っては積み切っては積みして谷(「峡(かひ)HH」)が埋まりそうだ、という内容と、「嘆き」(という「木」)が積もり積もってしんでしまいそうだ、という内容とが重なっています。
わりなくも寝てもさめても恋しきか心をいづちやらば忘れむ 古今・恋二570。わり なあくもお ねえても しゃめても こふぃしきいかあ こころうぉ いンどぅてぃ やらンば わしゅれム HHRLF・FHLLHHL・LLLFF・LLHHLHL・HHLHHHH。苦しい気持ちを晴らすという意味の「心を遣(や)る」(こころうぉ やる LLHHHL。心を行かせる・気持ちを進ませる)という言い方があるけれども、全体どちらに行かせたらあの人のことを忘れられるだろう。なお周知のとおり、「わりなし」の「わり」は、「事割」に由来する「理(ことわり)」〔ことわり LLLL〕の「わり」と同じものでしょう。「割る」は「わる HL」です。
となれば、例えば「どうしようもない」といった意味の「せむすべなし」(為(せ)む術(すべ)無(な)し)なども、「しぇえムう しゅンべ なしい HHLHLF」など言われたと見るのが自然だと思います。「せむすべなみ」に、
〈○○上上上平〉(寂1001)
〈上上○上上平〉(毘・高貞1001)
〈上上平平上平〉(訓1001。四拍目は誤点か)
〈○○平上上上〉(梅1001。末拍は誤点か)
のような注記があって、寂の注記は「せむすべなし」を一語の高起形容詞として言いうることを示すでしょうけれども、それは「せむすべなし」を「しぇえムう しゅンべ なしい HHLHLF」とも言いえたと考えることを妨げません。同義の「せむかたなし」が接辞「み」を従えた「せむかたなみ」に、梅・寂・訓1023が〈上上上平上平〉(しぇえムう かた なあみ HHHLRL)を差しています。
以下、同趣のいくつかの例を見ておきます。
まず「あやなし」(文無し・綾無し)。多く、現実に起こっている事態に対して違和感を持っていることを表明する時に使われます。図名が「文(あや)」を〈平平〉とし、寂41が「あやなし」に〈平平平上〉(あや なしい LLLF)を差します。「あやもなし」という言い方も、枕草子(「なほめでたきこと…」〔137。なふぉお めンでたきい こと LFLLLFLL〕)の引く駿河舞の一節などに見えていますから、連用形「あやなく」は、少なくとも古くは「あやなく LLHL」よりも「あやなあく LLRL」と言われたと考えられます。
春の夜の闇はあやなし梅の花色こそ見えね香やは隠るる 古今・春上41。ふぁるうの よおのお やみふぁ あやなしい ムめの ふぁな いろこしょ みいぇねえ かあやふぁ かくるる LFLLL・LLHLLLF・HHHLL・LLHLLLF・HHHLHHH
見ずもあらず見もせぬ人の恋しくはあやなくけふやながめ暮らさむ 古今・恋一476、伊勢物語99。みいンじゅもお あらンじゅ みいもお しぇえぬう ふぃとの こふぃしくふぁ あや なあく けふやあ なンがめえ くらしゃム RLFLHL・RLHHHLL・LLHLH・LLRLLHF・LLFHHHH。見なかったのでもなく、見たとも言えない人を恋しく思って、わけもわからず一日中物思いにふけることになりそうです。
人目もる我かはあやな花すすきなどかほに出でて恋ひずしもあらむ 古今・恋一549。ふぃとめ もる われかふぁ あやなあ ふぁなしゅしゅき なンどかあ ふぉおにい いンでて こふぃじゅしも あらム HHHLH・LHHHLLR・LLLHL・RLFFHLHH・LHLHLLLH。人目を気にする私ではない、私は恋心をあらわにしないでいることはできない、と言っています。「あやな」はここではどういう事態に対する違和感を示したものなのでしょう。まさにその恋しがられている当人が、秘密にしてほしいと言ったのかもしれせん。どうしてそんなできもしないことを要求なさるのです。おかしいではありませんか。
ここにおいて悩ましいのは、「山吹はあやなな咲きそ花見むと植ゑけむ君がこよひ来(こ)なくに」(古今・春下123)の「あやな」に、伏片・梅・寂・訓123が〈上上上〉を差すことです。諸注の説くとおり「あやなし」の語幹と見られるので、〈平平上〉とあるのでなくてはなりません。「あやふし」(あやふしい HHHF)、「あやにく」(あやにく HHHH)といった高起式の言葉との混同のあった可能性を考える向きもありますけれど、この混同は考えにくいと思います。混同があるとすれば、感動詞の「あや」、ないし、感動詞の「あ」(ああ R)が終助詞「や」(S)を従えたものが、さらに終助詞の「な」(S)を従えた言い方とのそれです。実際「山吹はあやな」の歌では「あやな」は、佐伯さん(岩波文庫)の注を引くまでもなく、挿入句的な性格をもっています。伏片・梅・寂・訓123の「あやな」〈上上上〉は、「ああやなあ RHF」を意味すると思います。以下は古典的な、そうして「あやな」を「あやなし」の語幹とみたアクセントです。
山吹はあやなな咲きそ花見むと植ゑけむ君がこよひ来なくに 古今・春下123。やまンぶきふぁ あや なあ なあ しゃきしょ ふぁな みいムうと ううぇけム きみンが こよふぃ こおなくに LLHLH・LLRHHHL・LLLFL・HLLHHHH・HHHLHHH。山吹は、おかしいよ、今宵は咲かないでおくれ。見ようと思って植えたというあのお方が来ないのだから。
次は「つれなし」です。「平然としている」「変化がない」といった意味の「つれなし」は、「連れなし」に由来するとされますが、真偽のほどは分かりません。ただ、「連れる」に当たる下二段動詞「連る」は確かに「とぅる HL」です。「つれもなし」と言えることから見て「つれ」の名詞性は十分高く、じっさい近世の資料によれば「つれなき」はHHLL、現代京都でも「つれない」はHHLLだそうです。「つれなし」は古くは「とぅれなしい HHLF」と言われたでしょう。
ついでながら、「つれづれ」――前(さき)に「とぅれンどぅれ HHLL」と推定しました――の「つれ」もこれでしょう。近世の資料が「つれづれげ」をHHHHHとしていて(総合資料)、これは「つれづれ」の前半二拍が元来高かったことを保証するでしょう。ただ後半はその限りでないこと、例えば「柏木」は「かしふぁンぎ HHHH」だがこれは「柏」が高平連続であることを保証しないのと一般です(実際には「かしふぁ HHL」)。
伝統的な現代京ことばでは「つれづれ」はLHLLと言われますが(近年の京都ではHHHHと言われることが多いようです)、高起式ということは動かないとすれば、LHLLは古くHHLLだったことを示唆するのかもしれません。現代東京の⓪は、『26』が②、『43』『58』が「⓪、②」とするので、あまり参考にならなそうです。図名が「品(しな)」(しな HH)を繰り返す「しなじな」に〈上上平平〉を差していて(しなンじな HHLL)、「とぅれンどぅれ HHLL」という推定はこうした例を参照してのものです。
有明のつれなく見えし別れよりあかつきばかり憂きものはなし 古今・恋三625。ありあけの とぅれ なあく みいぇし わかれより あかとぅきンばかり うきい ものふぁ なしい LHHHH・HHRLLLH・LLLHL・HHHHHHL・LFLLHLF
今度は、『源氏』冒頭にもあらわれる「やむことなし」。元来「止(や)む事無し」だったことは諸書の見るとおりと思われ(『26』もそう見ています)、そうであるならばそれは元来「やむ こと なしい HHLLLF」と言われたと考えられます。近世の資料は「やんごとなき」をHHHHLLとするようですから(総合索引)、古くから「なし」が独立して発音されただろうことは明らかですけれども、西暦千年ごろにおける第三拍の清濁や三四拍目の高低について、確かなことは分かりません。天草版平家にYagotonaiとあるそうですから、十六世紀末に連濁していたことは明らかでしょうが、それをどこまでさかのぼれるかについて、諸辞典にも言及はありません。
ただ、ひるがえって考えてみれば、私たちは「やんごとない」という言い方にすっかり慣れてしまっているわけですけれども、「やむごと」という言い方は、「やむ」と「こと」とが熟し「む」が音便化したことによって「こ」が濁るという経緯で成立したものでしょう。平安時代の京ことばとして、これは少なくとも珍しいことです。やはり当時は「やむ こと なしい HHLLLF」と言われていた、少なくとも言われ得たと見るのが自然だと思います。そしてそうだとすればそれは一語の形容詞というよりもむしろ、三語からなる連語です。
ちなみに『26』は「やんごとなし」を、なんと①とします。「やんごとなし」といったのです(「たゆたう」なども①でした)。もっともこのアクセントは長続きはしなかったようで、『43』は「やんごとなき」を⑤、『58』は「やんごとなし」を⑤とします。
語義について少々。辞書を引けば明らかなとおり「やむごとなし=身分が高い」という理解は不十分で、そうした語義は「このままにしておけない」「放ってはおけない」「重要だ」といった意味から派生したもののようです(英語〔やフランス語の〕のimportantがよい参考になります)。例えば『うつほ』(うとぅふぉ HHH)の「忠こそ」(たンだあこしょ LFHL。推定)の巻で、帝が千蔭(「てぃかンげえ LLF」でしょう。帝に近侍する忠こそ少年の父親である右大臣)にこう言います。
ここにも見えでさばかりになりぬ。せちに暇(いとま)を請ひしかば、わらはべもなき折なるを、しばしはなものせそと言ひしかば、そこに悩みたまふとあり、とぶらひにものせむと言ひしかば、やむことなきことにこそあなれとて、あからさまにまかでてただ今ものせよと言ひしままになむ見えぬ。
ここにも みいぇンで しゃンばかりに なりぬう。しぇてぃに いとまうぉ こふぃしかンば、わらふぁんべも なきい うぉりなるうぉ、しンばしふぁ なあ ものしぇしょと いふぃしかンば、しょこに なやみい たまふうと ありい、とンぶらふぃに もの しぇムうと いふぃしかンんば、やむ こと なきい ことにこしょ あんなれとて、あからしゃまに まかンでて たンだあ いま ものしぇえよおと いふぃしままになムう みいぇぬ。LHHLLHL・LLHLHLHF。LLH・LLLHLLHLL、LLHHL・LFLHLHH、LHLH・HLLHLL・HHHLL、LHH・LLFLLFLLF、HHHLH・LLHFL・HHHLL・HHLLLFLLHHL・LHLLH、HHHHHH・LHLH・LFLH・LLFFL・HHHHHHLF・LLH。
(あなたの息子さんは)私のところにも姿を見せなくなってそのくらい(前文によれば二十日くらい)になってしまいました。(二十日ほど前彼は)何日かお休みをいただきたいと言いましたが、ほかに殿上童もいないのでしばらくここにいてほしいと言ったところ、あなたが病気でいらっしゃるというのでお見舞いに行きたいのですと言ったので、「やむことなきこと」(よんどころないこと。放ってはおけないこと。重要なこと)のようだと思い、ちょっと退出してすぐ帰るようにと言って許可したまま、帰って来ません。
なお「そこに悩みたまふ」は「あなたがご病気だ」という意味です。「そこに」は現代語「あなたにおかれては」が主格を意味できるように「あなたが」を意味できます。この「そこになやみたまふ」は「と」で受けられていますけれど、忠こその発言(「父が病気なのです」のようなもの)がそのまま引かれているのではないので、引用符でかこみにくいと申せます。平安仮名文ではよくあることで、本当は、その昔寺田透が声明したとおり(『枕草子』)、『枕』でも『源氏』などでも引用符は一切つけないのがよいのです。
「やむことなし」はもともとそういう意味のもので、するとこの「やむ」は、この四段動詞には「終わりにする」「ある状態にとどめる」という他動詞としての意味があると以前申したまさにその意味で使われているのだと思います。例えば源氏・玉鬘に「負けじだましひに怒(いか)りなば、せぬことどももしてむ」(まけンじだましふぃに いかりなンば、しぇえぬう ことンどもも しいてムう HHHHHLLH・LLHHL、HHLLLHL・FHF)とあり、うつほ・忠こそにも「せぬわざわざをしたまへど」(しぇえぬう わンじゃわンじゃうぉ しい たまふぇンど HH・HLHLH・FLLHL)とあります。これらの「せぬ」は単に「しない」という意味ではなく、「普通(人は)しない」というような意味です。「やむ」に「終わりにする」「或る状態であるままにする・或る状態にとどめる」といった意味がある以上、「やむことなし」が時に「普通それで終わりにするということがない」「普通そのままにするということがない」といった意味を持つとしても不思議ではありません。なお、この説明において「やむことなし=やむといふことなし」と考えていることについて、『竹取』の「この世の人は、男は女にあふことをす。女は男にあふことをす」(こおのお よおのお ふぃとふぁ、うぉとこふぁ うぉムなに あふ ことうぉ しゅう。うぉムぉなふぁ うぉとこに あふ ことうぉ しゅう HHHHHLH・LLLH・HHLH・LHLLHF。HHLH・LLLH・LHLLHF)を引いておきます。
形容詞のことでは最後に、「ありがたし」、「問ひがたし」、「書きにくし」、「あなづりにくし」(アナドリガタイ)のような、単純な形容詞が動詞の連用形を先立てる形式の言い方、および、願望の「まほし」に終わる言い方を見ます。結論的に申してしまえば、これらのタイプの言い方は基本的にはいずれも一語の形容詞と見なさるべきもののようです。「めったにない」を意味する「ありがたし」のようなものを一語の形容詞と見てよいことは自明として、任意の動詞が「かたし」「にくし」「憂し」などを従えた言い方は、いずれも一語の形容詞のアクセントで言われたと見られます。一気言いだけが可能なようです。そのさい式はむろん動詞のそれに一致しますから、上の四つはそれぞれ、「ありンがたしい LLLLF」「とふぃンがたしい HHHHF」「かきにくしい LLLLF」「あなンどぅりにくしい HHHHHHF」と言われたでしょう。分(わ)きがたかりけらし〈○○平上○○上平平〉(伏片・家(8)。判然としないようである、といった意味です。「分く」〔わくう LF〕は低起四段動詞でした)
干(ひ)がたき〈平平平上〉(梅・毘545。ふぃンがたきい LLLF。「干(ひ)る」〔ふぃるう LF〕は低起上一段動詞でした)
逢ひがたみ〈平平平上平〉(毘・高貞665。あふぃンがたみ LLLHL。「逢ふ」〔あふう LF〕は低起四段動詞でした)
問ひがたみ〈上上上上平〉(梅・寂・京中・伊・705。とふぃンがたみ HHHHL。京中・伊ははじめの二拍に点なし。「問ふ」〔とふ HL〕は高起四段動詞でした)
のような例があります。「難(かた)し」は高起形容詞(「かたし HHF」)であることを考えると、これらの注記は多くを教えます。例えば伏片・家の「分きがたかりけらし」〈○○平上○○上平平〉(<わきがたくありけらし)からは、「分きがたく」〈平平平上平〉を、ということは一語の低起形容詞「わきがたし」(わきンがたしい LLLLF)を取り出せます。一語の形容詞の一成素になったことで、「かたし」の高起性は失われています。その次の二つからも低起形容詞「干(ひ)がたし」「逢ひがたし」を、また最後の「問ひがたみ」〈上上上上平〉からは高起形容詞「問ひがたし」を取り出せます。「かたし」が動詞の連用形を先立てた言い方の大半は、このような、動詞の式と一致する一語の形容詞を作ります。これが基本の型だと考えられます。
ただ古今集声点本には、次のような、今申したのと異なる言い方もあります。
分きがたかりげらし〈平平上○平上上平○〉(顕府(8)。わきンがたかりンげらし LLHHLHHLL)
問ひかたみ〈上上上平平〉(毘・高貞705。とふぃかたみ HHHLL。連濁しない言い方)
干(ひ)がたき〈上平平上〉(高貞545)
逢ひがだみ〈平平平上平〉(訓665)
いずれも少しずつ妙なところがありますけれども、ただ、はじめの二つは単に誤点として見捨つべきではないのかもしれません。すなわち、まず顕府の「分きがたかりげらし」において第三拍の濁っているのは、「分きがたし」が一語とされているということですけれども、それにもかかわらず「がたし」の高起性が反映されています。誤点でないとすればこれは、「分きがたし」は「わきンがたしい LLLLF」のほか、「わきンがたしい LLHHF」という言い方もできたということかもしれません。とすれば、「分きかたし」(わきかたしい LLHHF)という、二語としての性格を強めた言い方ができた可能性もあります。ただ、可能だとしても少数派に属したでしょう。
次に、「問ひかたみ」〈上上上平平〉の第三拍以下は〈上平平〉ではなく〈上上平〉でなくてはならないので、この注記の信頼度は高くありませんけれど、それはそれとして、連濁しない言い方もあったことを示すものと見ることもできます。しかしそうだとしても、そうした例の少ないのは、多数派に属する言い方ではないからでしょう。
次の高貞の「干(ひ)がたき」〈上平平上〉は、端的に誤点だと思います。毘は〈平平平上〉であり、すでに申したとおり高貞の独自注記にはあまり信が置けません。「干(ひ)る」の連用形(一般)の文節中におけるアクセント「ふぃい R」に上声点が差されている可能性もないと思われます。
最後に、訓の「逢ひがだみ」〈平平平上平〉の第四拍の「だ」は単純な誤点でしょう。
こうして、「かたし」が動詞の連用形を先立てた言い方の大半は、動詞の式と一致するところの、連濁させた一語の形容詞として言うのが普通だった考えられ、従って前(さき)に引いた万葉集4011の「許礼乎於伎氐麻多波安里我多之」は、基本的に「これうぉ おきて またふぁ ありンがたしい HHHHLH・HLH・LLLLF」と言われたと思いますけれども、ほかのアクセントは考え得ないというわけでもないだろう、ということになります。
じつは今考えているようなタイプの複合形容詞について、古くは二語として言われたとする見方があります。訓388が「行き憂し」に〈上上上上〉を差していますが、これは新しい言い方で、古くは〈上上平上〉だったろうとする向きがあるのです(『研究』研究篇下)。しかし、古くから、基本的には「ゆきうしい HHHF」と言われてきたと考うべきだと思います。もともと、「ありがたし」や「行き憂し」のような言い方には助詞を介入させられません。「ありがたし」「行き憂し」のような言い方では二つの成素の結びつきは強固です。
願望の「まほし」に終わる言い方も、アクセント上一つの形容詞を作ると見られます。まずはいわゆる「ク語法」のことから。
今でも(旧かなで書けば)「誰々いはく」といった言い方をしますけれども、この「いはく」は、「言ふこと」というほどの意味の「言ふあく」のつづまったものと考えられています。「あく」の露出した言い方は確認できないというべきでしょうが(「あくがる」の「あく」をそれと見ることはむつかしいと思います)、ク語法を「あく」によって説明することは十分合理的です。この「あく」が古くは「あく HH」と言われたことを、図名の次のような注記が示します。
いたまくは【愴】〈平平上上上〉(いたまくふぁ LLHHH。「痛」「傷」「悼」なども当てる多数派低起四段動詞「いたむ」の連体形「いたむ」〔いたむ LLH〕が「あく」「は」を従えたものの集約形)
かたらく【語】〈上上上上〉(かたらく HHHH。「語る」は「かたる HHL」です)
のたうばく〈上平平上上〉(のたんばく HLLHH。「のたまはく」〔のたまふぁく HLLHH〕の変化したもの)
和歌に使われる「…なくに」は、周知のとおり打消の「ぬ」がこの「あく」を従えたものに助詞のついたもので、例えば図紀93が「あひ思はなくに」に〈平上平平平上上上〉(あふぃい おもふぁなくに LFLLLHHH)を差すのなどからアクセントが知られます。
春雨ににほへる色もあかなくに香さへなつかし山吹の花 古今・春下122。再掲。梅・毘122、毘・高貞884が「飽かなくに」に〈平平上上上〉を差します。ふぁるしゃめえに にふぉふぇる いろもお あかなくに かあしゃふぇ なとぅかしい やまンぶきの ふぁな LLLFH・LLHLLLF・LLHHH・HHHLLLF・LLHLLLL
世の中の憂けくに飽きぬ奥山の木の葉に降れるゆきや消(け)なまし 古今・雑下954。よおのお なかの うけくに あきぬう おくやまの こおのお ふぁにい ふれる ゆうきやあ けえなましい HHLHL・LHLHLHF・LLHLL・LLFHLHL・RLFFHHF。憂き世がいやになってしまった。奥山の木の葉に降る「雪」ではないが奥山に「行き」、跡を暗くしてしまおうかしらん。
いま二例ほど。まず次の歌。
桜ばな散り交(か)ひ曇れ老いらくの来むと言ふなる道まがふがに 古今・賀349。しゃくらンばな てぃり かふぃい くもれえ おいらくの こおムうと いふなる みてぃ まンがふンがに HHHHH・HLLFLLF・LLHHH・LFLHLHL・HHLLHHH。再掲。「老いらく」は「老ゆるあく」(おゆる あく LLHHH)のつづまった「老ゆらく」の変化したもので、伏片349は〈平上上平〉を差しますけれども、毘349には〈○○上上〉とあります。毘はまた「まがふがに」に〈平平上上上〉を差しています。
次に、図名がなぜか「純」を「おもへらく」〈平上上平平〉と訓んでいます。「思へらく」に差されたのと同じことのようです。それなら第二拍は平声点でなくてはならないので注記の信憑性は必ずしも高くありませんけれども、「思へるあく」(おもふぇる あく LLHLHH)の縮約した「思へらく」(おもふぇらく LLHLH)の末拍が先立つ二拍の低下力に負けた「思へらく」(おもふぇらく LLHLL)は十分ありうる言い方で、図名の〈平上上平平〉をそれからのズレと見てよいなら、それは「思へらく」(おもふぇらく LLHLH)を正当化してくれるでしょう。
さて願望の「まほし」への注記は、あいにく諸書に見えないようです。もともとの言い方「…まくほし」(…む・あく・ほし)は「何々することが欲しい」という言い方にほかなりません(こういう「む」のことは後述)。
見てもまたまたも見まくの欲しければなるるを人はいとふべらなり 古今・恋五752。寂が「見まく」に〈平上上〉を差しています。みいても また またもお みいまくの ふぉしけれンば なるるうぉ ふぃとふぁ いとふンべらなり RHLHL・HLFLHHH・LLHLL・LLHHHLH・LLLHLHL。愛する人は一度まぢかで見てもまた見たくなる。これはもう、きりのないことであり、つらいことである。それゆえ、あの人はそういう間柄になることを嫌がっているようだ。「相手が親しくなりたがらない理由をこう考えてなぐさめた」という佐伯さんの解に拠ります。
この歌においてそうであるように、「…まく欲し」の「…まく」は格助詞「の」を従えることができるくらいなのですから、「欲し」(ふぉしい LF)は一語として、先行部分とは独立に言われたと見られます。こうして「見まくほし」は「みいまく ふぉしい LHHLF」と言われたと考えられますが、すると「見まほし」も「みいま ふぉしい LHLF」と言ってよかったのかもしれません。しかし他方、願望の「まほし」は、「まくほし」とは異なり助詞の介入をまったく許さず、この点「ありがたし」「問ひがたし」のような言い方に近いと申せますから、「見まほし」は「みいまふぉしい LLLF」と言えたと思います。近世の資料によれば「あらまほしき」はHHHHLLと言われました。ということはそのもともとの言い方はLLLLLF(あらまふぉしきい)だったろうということです。
万葉集に「見杲石山(ミガヲシヤマ)」(382)、「在杲石(アリガヲシ)」(1063)、「杲鳥(カヲドリ)」(1823)のような例があって、これらは元来「見が欲し山」「在りが欲し」「貌鳥(かほどり)」に対するくだけた発音を表音的に表記したものと考えられるのでした。「…が欲し」は「まほし」の直接の起源ではありませんけれども、「…が欲し」の「欲し」が「うぉしい」と言われる場合、その「欲し」の初拍は文節中のものと見るべきで、「…が欲し」の「欲し」さえそうした性格のものだとすれば、「見まほし」の「ほ」などはまして文節のはじめに位置するとは考えにくいでしょぅ。「見まほし」(みいまふぉしい LLLF)は、「見まほし」(みいまふぉしい LHLF)と言えなくもないものの普通はそうは言わないもの、くだけた発音としては「みいまうぉしい LLLF」とも発音できるようなものだったと思います。
散り散らず聞かまほしきを古里の花見て帰る人も遭はなむ 拾遺・春49。てぃり てぃらンず きかまふぉしきいうぉ ふるしゃとの ふぁな みいて かふぇる ふぃともお あふぁなむ HLHHL・HHHHHFH・LLHHH・LLRHLLH・HLFLLHL。私の住みなれた土地の花が散ったかどうか聞きたいよ。そこから帰る人でも、ひょっくりあらわれないかなあ。
ともかくも言はばなべてになりぬべし音(ね)に泣きてこそ見せまほしけれ 和泉式部集。とおもお かくもお いふぁンば なンべてに なりぬンべしい ねえに なきてこしょ みしぇまふぉしけれ LFHLF・HHLLHHH・LHHHF・FHHLHHL・LLLLLHL。ああだこうだと口で申したら、何ということもないこと、ということになってしまいそうです。わあわあ泣いてお見せしたいと存じます。ですからお越しください。ちなみにこの「なべて」は「並べて」(なンべて HLH)ではなく「靡べて」(なンべて LHH)であろうこと、いつぞや申したとおりです。
まだ見ていない形容詞もたくさんありますけれども、それらは、少なくとも大抵、低起式でしょう。中には声調論的には律儀言いをすべきものもありますけれど、割愛します。形容詞では、本来的な下降拍である終止形および連体形の末拍だけが下降調をとります。形容詞は柔らかい拍を持ちません。
動詞と形容詞とを見たので、用言のことはこれで終わりです。一般には動詞と形容詞と形容動詞とを総称して用言としますが、いわゆる形容動詞は、平安時代の京ことばとしては、副詞と動詞「あり」との縮約形と見るべきものだと思います。「委託法、および、状態命題」3の一部を要約すれば、例えば「しづかなり」(しンどぅかなり LHLHL)は副詞「しづかに」(しンどぅかに LHLH)と動詞「あり」(ありい LF)との単純な縮約形と見るべきものだと思います。もっとも、「しづかに」は名詞が助詞「に」を従えたものとも見うるので、「しづかなり」は名詞が断定の「なり」(助詞「に」と動詞「あり」との縮約形)を従えたものと見ることもできます。いつぞやも申したとおり、素因数分解ではないのですから、一意的でなくてかまいません。
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