2 発音について [目次に戻る]

 a 要点 [目次に戻る]

 西暦千年ごろの京ことばの発音に関しては、諸家による研究の積み重ねによって、その全体像はかなりはっきりしていると申せます。遺憾ながら推測にとどめざるを得ないところはありますけれど、それも含めてまず、詳細後述で要点を記してしまいます。以下しばらくのあいだ、あまりわずらわしいので「詳細後述」という注釈は付けません。

 i 清音 [目次に戻る]

 清音に関しては、さしあたり次の表の下線部分に注意すれば十分です。

 あ  い  う  いぇ お
 しゃ し  しゅ しぇ しょ
 た  てぃ とぅ て  と
 ふぁ ふぃ ふ  ふぇ ふぉ
 や  い  ゆ  いぇ よ
 わ  うぃ う  うぇ うぉ

 説明の容易なところから申しますと、まず現代では「た・て・と」は ta・te・to、「ち」は chi、「つ」は tsu と書けますけれども、つまりタ行の各音は現代語ではすっかり同じ子音を共有してはいませんけれども、平安時代の京ことばではこれらは五つともtに始まりました。「道」は「みてぃ」。「月」は高いところのない「とぅき」。
 次に語頭のハ行音。「花」は高いところのない「ふぁな」。「一つ」は「ふぃとぅ」。「二つ」は「ふたとぅ」。「屁」は高いところのない「ふぇえ」(一拍語は二拍分〔ひらがな二文字分〕の長さに引いて〔=伸ばして〕発音されました。字面を考えて「ふぇー」としませんけれども、同じこととお考え下さい)。「ほのか」は「ふぉか」。
 次にサ行音。これは少し悩ましい。十六世紀末から十七世紀はじめにかけてのいわゆるキリシタン文献から、当時、都そのほかでは「せ」が「しぇ」と発音されたこと――今でも九州各地で「しぇんしぇい(先生)」という発音が聞かれるようです――、「せ」(se)は関東人などが方言として使うだけだったことが知られていますから、サ行音は昔からすっかり今のとおりだったとは言えないことははっきりしているのですけれども、西暦千年ごろいかなるありようだったかについて、研究者の見解は必ずしも一致していません。ここではサ行は言わばシャ行であったと、例えば「ささやか」は「しゃしゃか」、「鮨」は「しゅし」(高いところなし。「酸(す)し」は「しゅい」)、「汗」は「あしぇえ」、「そなた」は「しょなた」だったと見ておきます。これは、馬淵和夫(『日本韻学史の研究』)、秋永一枝(『日本語音韻史・アクセント史論』〔大修館『日本語講座』第6巻にも〕)、沖森卓也(『日本語全史』)といった諸氏の見方に倣うのです。「さ」は「つぁ」ないし「ちゃ」、「し」は「つぃ」ないし「ち」(…)と発音されたと見る向きもあるようです。つぁつぁか。ちゃちゃつつぃうぉう。ちゅちうぉう。あつぇえ。あちぇえ。つぉなた。ちょなた。子供に向かって言う「ちょうでちゅねえ」式の発音のことを思えば、それらは想像を絶する奇妙な言い方ではないと申すべきでしょうが、そうではあっても、サ行をシャ行と見るのが穏やかだということは言えるでしょう。
 さて、残りの注意点について申すに先立って、「正式の発音」と「くだけた発音」という区別を導入したいと思います。これはあるいは独自の見解なのかもしれませんけれど(とは申せありふれていることは喜んで認めます)、この区別なしでは平安時代の京ことばのアクセントのありようをクリアに了解できないと思います(そう考える根拠は追い追い申します)。正式の発音とくだけた発音とでは、正式の発音のほうが表記との関係が明快ですし、私たち部外者が目指すべきはこちらでなくてはなりませんから、まずこちらを見ます。と申してむつかしいことはなくて、律儀に上の表のとおり発音すればよいのです。
 まず、「え」はア行のそれもヤ行のそれも「いぇ」(ye)。例えば「榎(え)」は「いぇえ」と、「越えて」は「いぇ」と発音するのが正式でした。
 次に、語中語尾のハ行音。例えば「川」は「ふぁ」。学校では「かは」と書いてあってもカワと読むと教えられますけれども(「ハ行転呼」)、少し先で申すとおり、西暦千年ごろはいわゆる歴史的かなづかいどおりに言うのが正式だったと考えられます。同様に名詞の「思ひ」はひらがなどおりの「おもふぃ」(高いところなし)、「洗ふ」の終止形は(アローではなく)「あらふ」、「家」は高いところのない「いふぇ」、「顔」は「かふぉ」です。ちなみに「鉢」「光」「節(ふし)」「縁(へり)」「骨」はすべて高い所のない「ふぁてぃ」「ふぃかり」「ふし」「ふぇり」「ふぉね」です。
 最後に、ワ行の「ゐ」「ゑ」「を」は、それぞれ正式の発音としては「うぃ(wi)」「うぇ(we)」「うぉ(wo)」と言われたと考えられます。例えば「田舎(ゐなか)」は「うぃなか」、「故(ゆゑ)」は「うぇ」、「少女(をとめ)」は「うぉとめ」(ちょっと魚屋さんの「魚留」(うおとめ)みたい)。


 ⅱ 濁音 [目次に戻る]

 くだけた発音のことはあとまわしにして、濁音、撥音、促音、長音、拗音のことなどを申してしまいます。一般に言われるところをなぞるだけです。
 濁音についてはまず、現代語と異なる、

 じゃ じ  じゅ じぇ じょ
 だ  でぃ どぅ で  ど

の下線部に注意する必要がありますけれども、加えて「が」「ぎ」以下のすべての濁音が、母音のあとに位置する場合、「入(い)り渡り鼻音(びおん)」と呼ばれるものを先立てることに留意しなくてはなりません。
 最近は東北地方でも「まんずまんず」という言い方を聞くことは少なくなったそうですが、「先ず先ず」(旧かなでは「先づ先づ」)の変化したこの「まんずまんず」にあらわれる二つの「ん」のようなものが入り渡り鼻音です。濁音のあまたにある子音を「濁子音」と言うそうで、「まんずまんず」のような発音は、mazuにおける濁子音zは母音を先立てるのでそれとの間に入り渡り鼻音を挟んで言われるのだ、と説明できます。
 入り渡り鼻音は、「まんずまんず」に限らず、東北地方や、四国は徳島県、高知県などでしばらく前までさかんに聞かれたというもので、そうであれば当然に、というべきか(「方言周圏論」)、平安時代の京ことばにも存在したようです。入り渡り鼻音は一拍をなしません。例えば平安時代の京ことばでは「風」は「かンじぇ」と発音されました。これは二拍で言われるのであって、「か・ん・じぇ」と三拍で言われるのではありません(「ン」はこのことを視覚化するための表記なのでした)。ちなみに「先づ」は平安中期には「まンどぅ」と言われたようです。初拍の「ま」は「ま」という実質二拍のものとして言ってかまわないと思われます。
 ここで文節のことを。「風」(かンじぇ)の末拍「ぜ」(じぇ)は母音aのあとにあり、「萩が花」(ふぁンぎンがふぁな〔高いところなし〕)の第二拍「ぎ」、第三拍「が」はそれぞれ母音a、母音iのあとにあるので、いずれも入り渡り鼻音を先立てますけれど、「おのが従者(ずさ)」(おのンが じゅうしゃあ)における「ず」は入り渡り鼻音を先立てません(「従者(ずさ)」の二つの拍のようなそれぞれひらがな一文字で書かれる漢字は、古くは一拍語と同じく二拍に引かれたと考えられます)。つまりこの「ず」は母音aのあとに来るとはしません。「おのが従者(ずさ)」では「おのが」が一つの文節、「従者」が一つの文節をなすので、文節のあたまにある「従者」の初拍は母音のあとにあるとはしないのです。
 今でも中学生は文節という概念を習うようですけれども、この文節という概念はドグマを含むので(特に補助動詞に関して)、必修とすべきものとは思われません。しかし十分有用なものであり、はなから否定すべきものでもないでしょう。文節は意味的なまとまりに対して与えられる名ですが、一つの文節は多くの場合アクセントの観点から見ても一つのまとまりをなします。入り渡り鼻音は、文節中ないし文節末にある濁音が先立てるところのもので、文節の先頭にある濁音は入り渡り鼻音を先立てません。
 入り渡り鼻音は時にnではなくmで発音されますけれども、現代日本語を母語とする人は特に注意するには及びません。例えば四段動詞「候(さぶら)ふ」の終止形は「しゃンぶらふ」ですが、ここにあらわれる入り渡り鼻音は、自然に、例えば現代語「しんぶん(新聞)」のはじめの「ん」と同じ音で、つまりmで言われるでしょう。
 なお、「おのが」(おのンが)の「が」、「姿」(しゅンが)の「が」のようなものは、鼻濁音にしてもしなくてもよいと思います。入り渡り鼻音を先立てる「が」は平安時代には鼻濁音だったともそうでなかったとも言われるようですし、どちらかに決めたところで、鼻濁音なり非鼻濁音なりをそういうものとして聞き分ける人は少ないでしょう。聞き分けられるから偉いということもありません。


 ⅲ 撥音 [目次に戻る]

 現代語では撥音(はつおん)とは要するに「ん」と書かれる音のことですけれど、同じ「ん」でも例えば「しんぶん(新聞)」の二つの「ん」は音声学的には異なります。平安時代の京ことばではさしあたり三種(みくさ)の撥音が区別されます。現代語に例を取れば、「案内(あんない)」の「ん」、「新聞(しんぶん)」のはじめの「ん」、「文学(ぶんがく)」の「ん」、この三種です。
 撥音はすべて鼻音で、呼気(体外に出る空気)は鼻からだけ出て、口からは出ません。鼻をつまんでnやmといった子音だけを発声しつづけようとしてみると(鼻をつままなければそれは可能です)、目的は達成できないまま苦しくなり、目頭(めがしら)近くから空気が漏れそうになります(と申すより、実際すこし出るようです)。このことが鼻音の性格をよく教えてくれます。
 「案内」の「ん」は、nです。発音する際、舌先と歯ぐきとで口から呼気の出るのを妨げるので、この音を舌内(ぜつない)撥音と言います。例えば「な」における舌内撥音は母音aとともに一拍をなしますが、「あんない」の「ん」はそれだけで一拍をなします。古くは「ん」は、それだけで立派に一拍を構成しながら、表記されないことも多かったようです。例えば「案内」は「事情」「事情を尋ねること」「取り次ぎを頼むこと」といった意味で『源氏』などにも登場しますけれども(アクセントは「あんない」。高いところなし)、西暦千年ごろにはこの言葉はもっぱら「あない」と表記されました。これは撥音を表記しない形であって、読むときは自分で「ん」を補うのです。「あない」は四拍の言葉であり、時代劇などで聞かれる「むすめ、アナイを致せ」といった言い方は古い言い方ではありません。
 舌内撥音はまた「に」とも表記されました。藤原清輔の『奥義抄』に、さる歌にあらわれる「えに」について「『えに』とは『縁』といふなり」と説明し、「なにごとも真名(まな)には撥(は)ねたる文字、仮名には『に』と書くなり」(なにンごとまなにふぁ ふぁじ、かなにふぁにい」と かい。「真名」の末拍のアクセントは推定)と続けます。「に」とも何とも書かないこともあったのですから、「仮名には『に』と書くなり」は言いすぎとも申せますけれど、それはともかく、この「仮名には『に』と書くなり」は、「に」と書くが「に」とは読まず「撥ねたる」音、撥音として読むと言っています。築島裕さんの『平安時代語新論』も、和名抄の「木蘭」の訓みとしての「もくらに」や、「匜」(=半挿)に対する訓みとしての「はにさふ」における「に」を舌内撥音尾(-n)が「に」と「表記」された例としますから、「縁」を「えに」と表記する場合でも「いぇに」とではなく「いぇん」と発音すべきなのだと思われます(「『いぇに』とふぁいぇん』といふい」)。「銭」(じぇ)などは早くから和語化していたのかもしれませんけれども、これとて案外ある時期までは「じぇ」など言われていたのかもしれません。さしあたりこちらで読んでおくと、『土左』の一月九日の記事において「舵取り」(かンでいとり)らの歌う「舟歌」(ふなうた。後半二拍推定)の一節「よむべのうなゐもがな。ぜにこはむ。そらことして、おぎのりわざをして、ぜにももてこず、おのれだにこず」(ゆうべのうない髪の女の子がいないかな。いたら代金をもらおう。後で払うと言って、持って来ない。姿も見せない)は、「よムべの うなうぃンがあ。じぇ こふぁう。しょらこと おンぎのりわンじゃ 、じぇも もンじゅ、おのれンだに こンじゅ」と言われたと考えられます。
 次に「新聞」のはじめの「ん」は、申したとおりmで言われます。発音する際、上下の唇で口から呼気が出ないようにするところから、この音を唇内撥音と言います。唇内撥音mもこれだけで一拍をなしえます。この撥音は、無表記のこともありましたけれど、「む」と表記されることが多かったようです。例えば『源氏』冒頭の「いづれの御時にか」の「御時」は、ひらがなでは「おほむとき」と書かれたと考えられていますが、この「む」も唇内撥音です。「お・ふぉ・mu・と・き」ではなく「お・ふぉ・m・と・き」。m だけで一拍です。体裁を考慮して以下この mを「ム」と表記することにすると、「御(おほむ)とき」は「おふぉムとき」など言われたと(=など言われたと。アルカイスムです)書けます。総合索引によれば「御(おほむ)とき」のアクセントを記した文献はありませんけれども、もともと「御(おほむ)」は「御(み)」が「大(おほ)」を先立てた言い方の変化したものであり、「御(み)なになに」は その「なになに」単独のアクセントにかかわらず高平連続調をとることが多いようです。例えば「山」「魂(たま)」は高いところのない「やま」「たま」ですが、「御山(みやま)」は「みやま」、「御魂(みたま)」は「みたま」。「法(のり)」は「り」ですが、「御法(みのり)」は「みのり」です。また高いところのない「とき(時)」とアクセントを同じくする「こと(事)」が「御(おほむ)」を冠した「御(おほむ)こと」は総合索引によれば「おふぉムこと」と言われ得たようです。「御(おほむ)とき」も「おふぉムとき」と発音された公算が大きいと考えられます。
 また例えば、現代語には「進みて」の変化した「進んで」という言い方がありますけれども(「撥音便」)、古くは「進みて」(しゅしゅ)の撥音便形は「進むで」と書かれ「しゅしゅ」など発音されました。
 助動詞「む」「らむ」「けむ」の「む」も母音なしで言われ、また、例えば「金」の音読みは古くは「こん(kon)」や「きん(kin)」ではなく「こム(kom)」や「きム(kim)」であり、実際に「こむ」「きむ」と書かれました。私たちはたくさんの金(キム)さんを知っていますが、このキムも現地読みとしてはkimuではなくkimのようです。
 三つ目の撥音は喉内撥音と呼ばれます。漢字音にしかあらわれない音です。これはあとまわし。


 ⅳ 促音 [目次に戻る]

 次に促音について。手っ取りばやく申せば促音とは小さな「つ」で示されるもののことですが、正確にはそれは「もの」ではなく、また「促音」という名に反して「音」でもありません。例えば現代語の「これを持て」と「これを持って」との差は、「持(も)」と「て」との間に一拍分の間(ま)を開けるかどうかの差です。「促音」とはこの一拍分の間(ま)のことです。例えば「盛って」と言う時、「っ」のところでは、たいてい舌が「て」(の子音t)を発音する準備をしていて、その準備状態、待機状態は、例えば「もっぱら」と言う時のそれとは異なりますけれども、そうした状態を促音と言うわけではありません。「もっぱら」と言おうとして「もっ」のところまで進めてから「ぱ」ではなく「て」を言った場合でも、はじめから「盛って」と言うのと同じ音声が得られます。「さっさと」などでは、たいてい「っ」のところですでにsが響きますが、そうしなくても「さっさと」と発音できます。
 西暦千年ごろには促音は表記されませんでした。例えば、「持ちて」(もてぃて)の促音便「持って」(もっ、ないし、もって。二つはもちろん同じ発音を示します)は、当時は単に「持て」と表記されました。
 厄介なことに、促音が表記されないのではなく、促音の落ちた言い方というものもあります。例えば和歌にあらわれる「心もて」(自分の心から)などはそれで、この「もて」は「もって」に由来しますが、二拍で言われます(「ここ」)。
 促音無表記形なのか、促音脱落形なのかは、一つ一つ検討しなくてはなりません。例えば平安仮名文にあらわれる「にき」(日記)は前者であって、「にっきい」(高いところのない「にっきい」)と発音されたようです。知識人、ないし自分を知識人に見せたい人はあるいはnitki(にとぅきい)のように言ったかもしれませんけれど、日常的には「にっきい」と言われたでしょう。『土左日記』は、高いところのない、そして「の」をともなう「としゃのにっきい」という発音・アクセントで言われたと考えられます。ただ現代語とは異なり、平安時代の京ことばにはもともと促音は多くなく、促音脱落形も少数にとどまります。


 v 長音 [目次に戻る]

 今度は長音について。今でも京都では例えば「蚊」のような一拍名詞は「かあ」のように長く引かれる――単に「引かれる」と言ってもよく、「実質二拍で言われる」など言ってもよい――のが一般的ですが(改めて申せば字面を考えて「か-」とは書かないことにします)、これは古代でも同じことです。加えて平安時代の京ことばでは、例えば「声(こゑ)」(こうぇえ)がそうであるように、多拍名詞の末拍も引かれ得ます。一拍動詞なども引かれます。
 名詞や動詞だけではありません。楳垣實(うめがきみのる)さんは『京言葉』(昭和21年)のなかで、一拍名詞に助詞のついた場合、京言葉では「『カーガー 蚊が』『ナーノー 名の』『キーオー 木を』のやうに、助詞まで長く引く傾向が強い。京言葉の悠長で柔らかい所以である」とおっしゃっています(表記を一部変更しました)。中井幸比古さんの「京都方言の形態・文法・音韻(1) -会話録音を資料として(1)-」(web)によれば、近年では年配の話し手も「カーガー」式の言い方はしない模様ですけれど、以下では、それ以外の言い方はなかったろうとは申しませんが、平安時代の都の紳士淑女も「蚊の」(かあのお)、「名の」(あのお)、「木を」(きいうぉお)のような言い方をしたと見ておきます。
 平安中期には長音は、そうした、ひらがな一文字が引かれる場合にのみあらわれたようです。現代語では、例えば「更衣(こうい)」のはじめのところに長音があらわれますけれども(「こうい」と書いて「こーい」と読むわけです)、西暦千年ごろの都ではそうした長音は聞かれなかったでしょう。平曲や謡曲の世界では、例えば「かう」を「こー」のような長音でではなく「か・う」と分けて発音することを「割る」というのだそうです。西暦千年ごろには、「更衣」は「かうい」、アクセントも記せば「かい」と割って読まれました。ちなみに、現代でも、伝統的な土佐弁――古い日本語のさまざまな特徴が残っていると言われる――の話し手などは、こうした割って言う言い方をなさると聞いたことがあります。学校でおそわる「歴史的仮名づかいの読み方」に従って「かうい」を「こーい」と読むと、かえって元のありようから離れます。「歴史的仮名づかいの読み方」は、それを習わないと例えば「けふのぶたふくわいはきつとせいきやうでこざいませう」 という現代文を適切に読めないといった意味では有用ですけれど、例えば『源氏』の本文を「歴史的仮名づかいの読み方」に従って読むことはわざわざ平安時代における読み方から一層離れた読み方を採用することだという意味では、無用のものです。


 ⅵ 拗音 [目次に戻る]

 次に拗音。現代語の拗音は、「きゃ」「きゅ」「きょ」「しゃ」「しゅ」「しょ」(…)のような、小さな「や」「よ」を伴う音だけですが、古くは、「くゎ(kwa)」「ぐゎ(gwa)」「くゑ(kwe)」「ぐゑ(gwe)」という音もあったので、こちらは合拗音(ごうようおん)、「きゃ」「きゅ」「きょ」以下は開拗音(かいようおん)と呼ばれます。さてじつは、西暦千年ごろには、開拗音も合拗音も存在しなかったと見られています。現代では「今日(きょう)」は「きょー」と発音されますが(「拗長音」と呼ばれる音です)、鎌倉時代くらいにはそれは「きょ・う」と割って言われたようです。つまりその頃には開拗音がありました。しかし西暦千年ごろには、まだ、仮名づかいどおりの「けふ」(け)、あるいはそのハ行転呼した「けう」(け)という言い方がなされたと考えられています。
 漢字音も拗音を含まなかったようです。もともと拗音というものはやまとことばにはなく、日本には漢字音として入ってきたのでしたが、西暦千年ごろにも、今も「ファン」を「フアン」と発音する人がいるのに似て、例えば「女御」のような漢語は一般には「におうンご」ないし「にようンご」と発音されたようです。すでに申したとおり、当時は一般に、例えば「子(し)」のような、今ならば一拍で言われる漢字は二拍の長さで言われるというように、漢字音は現代語におけるよりもずっと長く言われたと見られ、「女(によ)」ならば一拍の「にょ」ではなく二拍の「にお」ないし「によ」と、「女(によう)」ならば二拍の「にょう」ではなく少なくとも三拍の「におう」ないし「によう」といった言い方で発音されたようです。「ぐわん」のようなものも、合拗音としてgwanのような一拍の言い方をする〝バタくさい〟 人は少なくて、一般的には、「ぐわん」という純粋な三拍の言い方で言われたのではないかと思われます。


 ⅶ 東京語を話す方々に [目次に戻る]

 最後に、ウ段音の発音のことと、母音の無声化のことを申します。
 「非円唇後舌狭母音」を、音声学の研究者の方がたは「ひえんしんあとじたせまぼいん」など読むのだそうですが、ひきつづき現代東京と現代京都とで対比させますと、現代東京の「う」はこの「非円唇後舌狭母音」というものに近い音のようで(そのものではないらしい)、他方現代京都の「う」は、「非」のとれた「円唇後舌狭母音」そのもの、IPA(国際音声記号)では[u]と表記されるところの音なのだそうです。ちなみに英仏独語もこの[u]を持ちますから、現代京都の「う」は、申さば「う」の王道を行くものなのでしょう。なお「非円唇後舌狭母音」は、[ɯ]という、深い意味はないのでしょうが m をひっくり返した記号で示されます。
 呼び名の示すとおり、現代京都の「う」や英仏独語の[u]は唇を丸めて発音されますが、東京のそれを言う時には、唇はあまり丸まりません。じっさい、例えば関西のかたが「ちがいますう」とおっしゃる時、「すう」のところで口をとがらすことにお気づきの向きも少なくないと思います(本場の例えば book も vous〔ヴー〕も Buch〔ブッフ〕も、同じように口をとがらせて言われます)。日本の東西における「う」の円唇性の差は、おそらく多くの東京人が思っているであろう以上に大きいと言えるでしょう。
 さて現代京都の「う」は円唇性が強いのですが、どうやら伝統的な土佐弁などにおける「う」の円唇性は、さらに強い模様です。こうしたことを踏まえてでしょう、識者の方がたは、平安時代の京ことばにおける「う」は強い円唇性を帯びていたとお考えのようです。西暦千年ごろの京ことばにおける「う」は現代東京のそれとはずいぶん異なることを、東京語の話し手は肝に銘ずべきなのでしょう。
 つぎに、東京語の話し手は、例えば「君が好きだ」と言う時の「好き」をsukiではなくskiのように発音する傾向があります。sukiでは母音uが二つの無声子音sとkとに挟まれているので、落ちやすいのです。sukiに限らず、東京語では、iやuのような母音は、特定の環境に置かれた場合、すっかり、ないしほとんど、発音されずに終わります。「母音の無声化」と呼ばれるこうした現象は、東京語では常に起こりますけれども、伝統的な京ことばや土佐弁では、ほとんど起こらないようです。平安時代の京ことばでも母音は一つ一つ丁寧に発音されたと考えられています。


 ⅷ まとめ [目次に戻る]

 現代人の耳にどう響くかなど気にせず、いわゆる歴史的仮名づかいの本文をそのま表音的に読む。これだけでも西暦千年ごろの発音に少し近づきますけれども、加えて、「え」は「いぇ」、サ行はシャ行、ザ行はジャ行、ハ行はファ行、「ち」は「てぃ」、「つ」は「とぅ」、「ゐ」「ゑ」「を」は「うぃ」「うぇ」「うぉ」、「ぢ」は「でぃ」、「づ」は「どぅ」と発音し、文節中・文節末の濁音は入り渡り鼻音を先立て、しかるべき「む」は子音のみで発音するようにすれば、西暦千年ごろの京ことばの発音だといって通るのではないかと思います。
 ただ、当時の京ことばではそうした発音にいかなるアクセントがつけられたのかは、例えば「なんやねん」は東京風に「んでやねん」と発音しても同じだといった立場をとるのでない限り、どうでもよいことではありません。

 発音の仕方については申し終わったので、さきをお急ぎの方はここで次節をスキップして「古典的なアクセント」にお飛びいただけますけれども [目次に戻る]、次節では、以上申し述べたことに関する補説や、正式の発音に対するくだけた発音のこと、また申したとおり『土左』に関する珍説などを披露する心算ですので、可能ならばお目どおしを願いたく存じます。

 b 解説(はじめに) [目次に戻る]

 改めて申せば、西暦千年ごろには、ア行の「え」もヤ行の「え」も正式の発音としては「いぇ」と言われ、ワ行の「ゐ」「ゑ」「を」は正式の発音としては「うぃ」「うぇ」「うぉ」と言われ、ハ行音は、語のはじめでも途中でも最後でも、正式の発音としては言わばファ行音で言われたが、こうした発音とは別に、くだけた発音というものも行われたと考えます。『枕草子』の「ふと心おとりとか(幻滅トイッタコトヲ)するものは…」(188〔角川文庫本の段数。以下同じ〕ふと こころおりとしゅる ものふぁ。「ふと」の初拍のアクセントは無根拠な推定。「心おとり」のアクセントは根拠のある推定)の段に、「ひとつ車に」(ふぃととぅく。同じ車で)を「ひてつ車に」と言った人がいた、「求む」(もとう)などはみんなが「みとむ」と言うようだとあります。昔は正式でない言い方は記録に残りにくかったでしょうけれども、しかし、正式な言い方とは異なるさまざまな言い方はどの時代にもなされたと考えるのが自然ですし、げんに平安時代もそうだったらしいことは、たまたま残された例えばこの『枕』の一節のようなものからうかがわれます。
 平安時代の京ことばにおける正式ではない発音について以下に申すのですけれども、それに先立って、ハ行転呼の時期、ア行の「え」のヤ行の「江」への合流の時期、ア行の「お」のワ行の「を」への合流の時期、この三つについての諸家の見方や一般的な見方を紹介し、愚見との差を確認したいと思います。
 まず、平安時代におけるハ行転呼は、語中・語尾において「ふぁ・ふぃ・ふ・ふぇ・ふぉ」と発音されるところのものが「わ(=うぁ)・うぃ・う・うぇ・うぉ」と発音されるというタイプのそれでした。平安時代のある時期この意味でのハ行転呼が一般化したとするのが通説ですけれども、その時期については諸家により見方にかなりの相違があります。日本語史の概説書などではハ行転呼は西暦千年ごろ起こったとするものが少なくありませんけれども、『広辞苑』第六版はハ行転呼を「10世紀以降に顕著となる現象」とし(第七版では「11世紀頃から」となっています)、『大辞林』(2006。web)もその「顕著になるのは一〇世紀以降のこと」します。他方、『新論』において築島さんはハ行転呼に関し「平安後期にすでに完了したとは、確言し得ないと考へられる」となさいます。「凡例」によればここにいう「平安後期」は1001~1086年のことです。同書にはちょうど西暦千年ごろのありようについて、当時「少なくともこれらの語 [助詞「は」「へ」「を」]は、未だファ、フェ、ウォのやうに発音されてゐたのではないかと思はれる」(表記を一部変更しました)ともあります。秋永一枝さんもハ行転呼についてその「体系的な変化がほぼ完了したのは十二世紀までかかるようだ」となさり(大修館『日本語講座』第6巻「発音の移り変り」)、木田章義さんも「大体 11世紀頃から始まり、鎌倉時代前に終わる」となさいます(「国語音韻史上の未解決の問題」〔web〕)。
 十一世紀の八十年代から九十年代にかけて藤原為房(1049~1115)とその妻(源頼光〔948~1021〕――酒呑童子を退治したという武将――の孫)の書いた書状の現物が今に残っていて、金子彰さんがその表記を精査なさっていますけれども(「世代差と表記差――院政後期・鎌倉初期書写の仮名書状のハ行音を視点として――」〔web〕)、金子さんもまた、当時ハ行転呼は「それほど進行していなかったただろう」とお考えです。この論文からの孫引きですが、山内育男さんも、「十一世紀後半から十二世紀前半にかけての年代は、文節中にハ行語音を保有する世代とせぬ世代との交替期に相当したと見るのが事実に近いのではあるまいか」(「かなづかいの歴史」〔大修館『講座国語史2 音韻史・文字史』〕)となさいます。
 さて小論の見るところでは、ハ行転呼音は、くだけた発音としては西暦千年ごろよりもはるか前、平安初期などにも広く聞かれたものなのであって、それが次第に正式な発音という地位を獲得していったのです。『広辞苑』第六版や『大辞林』が十世紀以前にもハ行転呼はないではなかったと見ているようであるのは、小論に引き付けて申せばこのことを言っています。そして小論の見るところ、西暦千年ごろにおいて、ハ行転呼音はまだ正式の発音という地位を獲得していません。
 次に、ア行の「え」のヤ行の「え」への合流について。十世紀の前半、ア行は〈a・i・u・e・o〉、ヤ行は〈ya・i・yu・ye・yo〉(二番目だけア行と同じ)であって、現代人が例えば「あ」と「や」とを別の音ゆえ別のひらがなで書きあらわすように、ア行の「え」とヤ行の「江」(をくずしたものですが「江」で代用します)とは別の音ゆえ別のひらがなとして書き分けられていましたけれども、一般に言われるところによれば、十世紀なかばになって、ア行の「え」も「いぇ」と発音されるようになりました。論者のなかには、その際、語頭において一旦逆の合流があったと見る向きもありますけれど――古くは変体仮名において語頭には「志(し)」、非語頭には「之(し)」といった使い分けをすることがあったのですが、十世紀なかばにおける「衣(え)」と「江(え)」との使い分けをそれとは異なるものと見るならば、確かにそういうことになりそうです――、その場合でも十世紀末に語頭・非語頭の別を問わない合流がなされたと見られます。
 小論はこれに大きく異を唱えるものではありません。十世紀なかば頃(ないし遅くとも末。以下このこと略)には、ア行の「え」は、正式の発音としてはヤ行の「江」と同じく「いぇ」(ye)と言われるようになったと思います。古くは「いぇ」という音を示そうとしてア行の「え」を書いたとしたら、それは例えば「や」と書くべきところを「あ」と書くのと同じく書き誤りということになったでしょうけれども、十世紀のなかばにはア行の「え」も正式の発音としては「いぇ」と言われるようになり、例えば「し」と「志」(をくずしたもの)とが同じ音をあらわし、「こ」と「古」(をくずしたもの)とが同じ音をあらわすように――今でも「志る古」など書きます――、「え」と「江」とは「いぇ」という同じ音をあらわす文字になりましたから、例えば「枝(えだ)」(いぇンだ。万葉集では初拍にヤ行の「江」が用いられます)の初拍は「江」と書いても「え」と書いても同じことであり 問題はないということになったと考えられます。ただ小論の見るところでは、くだけた発音としてはヤ行の「江」も古くからeで言われることがあっただろうし、合流後も「え」「江」ともにくだけた発音としてはeで言われることがあっただろうと思います。
 最後に、「お」の「を」への合流について。西暦千年ごろア行の「お」はワ行の「を」に合流したとされることが多いようです。しかし、合流があったのはその通りでしょうけれど、その時期は西暦千年ごろよりもかなり後(のち)のことだったと考えられますし(注)、またその合流も正式の発音においてのことだったと思われます。合流後は、例えばそれまでは「おい」(高いところなし)と言われてきた「老い」が、正式の発音としては「うぉい」(アクセントは同じ)と言われるようになったでしょうが、それまでもくだけた発音としては「を」が「お」と言われることはあったろうし、合流後も「を」が「お」と言われることはくだけた発音としてはあったろうというのが、小論の見立てです。「を」も「お」も近世にはつねにoと言われるようになって現在に至るということのようですけれども、これは絶滅したoの復活ではないと見るわけです。

注 詳細は後述としますけれども、一点だけ。しばしば、承保二年(1075)成立の『悉曇要集記』(しったんようじゅうき)の奥文というものに見えている音図が、当時この合流は既に起こっていると見るべき根拠とされますけれども、これはいささか早計ではないでしょうか。『資料日本語史』(おうふう)から、この音図の、建長元年(1249)ないし文暦二年(1235)に書写されたものを引きます。

  アカサタハマヤラワ 一韻
  イキシチニヒミリヰ 一韻
  ウクスツヌフムユル 一韻
  オコソトノホモヨロ 一韻
  エケセテネヘメレヱ 一韻

 「一韻」は「同一韻」という意味です。一行目に「ナ」のないのは単に抜けているのでしょうけれども、四行目の最後に「ヲ」のないのは、一般に当時「オ」と「ヲ」とは同音だったからだとされます。しかしこれは原本の写しがそうだという以上を出ません。原本は発見されていないようで、『資料日本語史』によれば、写本も、今申し及んだものや、「東寺三密蔵」(承安四年〔1174〕)のそれのような、時代くだってからのものしかないようです。原本にすでに「ヲ」がなかった可能性もありますけれど、原本には「ヲ」があってそれが書写時に「オ」と同音なればということで省かれた可能性も否定できません。原本に「ヲ」がなかったとしても、この音図における「ナ」同様たんに抜けたとも考え得ます。


 c 解説(ワ行転呼、ヤ行転呼) [目次に戻る]

 「唇音退化」および「子音の弱化(子音弱化)」のことから申します。
 例えば子音tを発音する時には舌先を使い、子音pを発音する時には上下の唇を使います。唇を使って発音する音は「唇音」と呼ばれます。「ふぁ・ふぃ・ふ・ふぇ・ふぉ」の五つも「わ・うぃ・うぇ・うぉ」の四つも唇音にはじまるということができますけれど(「う」には始まり終わりの区別がありません)、例えば「てぷ」と発音するよりも「てふ」と発音する方が多少とも労力の軽減になり、「おもふぁンじゅ(思はず)」と言うよりも「おもンじゅ」と言う方が多少とも楽なわけで、日本語のハ行における p→ɸ→w のような変化は(しばしば言われるとおり太古の昔にはハ行はパ行だったでしょう。ɸ 〔ファイ〕はファ行音の頭子音です)ヨリ経済的な発音への変化だと申せます。
 これは「唇音退化」と呼ばれる現象で、世界の諸言語に見られます。例えば「ペダル」「ペディキュア」「ペデストリアン・デッキ」などのはじめにあらわれるpedは「足」を意味するラテン語の造語成分ですが(さらに印欧祖語にさかのぼれるそうです)、英語の foot の頭子音は、もとをたどればこの ped のpの退化したものだそうです。ハ行転呼は、知られているとおり唇音退化の一例です。
 さてこの「唇音退化」は、「子音の弱化」(consonant lenition)という、さらに広範に観察される言語現象の一部をなします。アメリカ英語などにおいて water や party が「ワラ」「パーリ」に近く聞こえるのなどはその一例ですけれども(そうしたtを"flapped t"など言うそうです)、弱化の極限は消滅であり、例えば「書きて」のイ音便形「書いて」における子音kの脱落なども子音の弱化の一例です。これも発音の経済学で説明されます。
 Foot に子音弱化が見られるからこれはくだけた発音だということはできないわけであり、ちゃんとした flapped t で言われた water や party は、北米そのほかにおける正式の発音です。しかし、子音の弱化した言い方は、しばしば、弱化しない言い方よりもくだけた言い方、ないしぞんざいな言い方です。「すみません」の第二拍の頭子音の弱化した「すいません」、「わたし」の頭子音の弱化した「あたし」、「あたし」の末拍の頭子音の弱化した「あたい」は、もとの言い方とは異なる、それらよりくだけた、ないしぞんざいな言い方です。
 子音の弱化した言い方が、くだけた、ないしぞんざいな言い方としてはじまったものの、やがて正式の言い方とされ、もともとの正式な言い方を駆逐する、ということもあります。例えばある種の音便形がそうです。王朝和歌が一般に音便形を使わなかったのは、音便形がくだけた言い方だったからでしょうけれども、現代語では例えば「花が咲きておりました」「おいしくございます」などは言わず、そのイ音便形やウ音便形が正式な言い方とされます。
 小論がどこに向かおうとしているかは、すでに明らかでしょう。古代の京ことばは、正式の発音のほかにくだけた発音を持っていましたけれども、そのくだけた発音とは、子音の弱化した言い方です。すでに上代の文献に、くだけた発音として子音の弱化した言い方のなされた形跡が認められるようです。例えば国会図書館デジタルコレクション(以下、「デジタルコレクション」と略します)の大矢透『仮名遣及仮名字体沿革史料』(以下『沿革史料』と略します)などから、その実例を採集できます。
 『地蔵十輪経』元慶(877~885)点――この「点」は「訓点」の「点」――というものがあるそうで、大矢の同名の著作(デジタルコレクション)によればそこに「暗」を「オクラキ」(おぐらき)と訓(よ)むところがあります。「おぐらき」はもともとは「をぐらき」と書かれ――いわゆる歴史的仮名づかいがそうなのですから平安初期は一般にそう書かれたのでしょう――、正式にはその通り「うぉンぐらきい」と言われたと考えられます。平安初期、さるお坊さんはその「をぐらき」を「オクラキ」と書きました。
 「おぐらき」は当時として仮名づかいを誤ったものではありません。現代では、例えば「本お読もお」は仮名づかいを誤った言い方とされますけれども、平安時代には、書き誤りということはあっても、そもそも仮名づかいのきまりというものがありませんでした。
 『地蔵十輪経』元慶点の「オクラキ」の初拍はどう発音されたのでしょう。九世紀後半にはア行の「お」とワ行の「を」とは音として区別されていたので、「うぉ」と発音されたが「お」と表記されたのだとすれば、それは例えば「渡す」を「わたしゅ」と発音しておきながら「あたす」と書くのと同じで、要するに書き間違いです。もし『地蔵十輪経』元慶点が誤字だらけというのならばここもそう見うるわけですけれど、大矢によればこの史料には、「災」を「炎」に誤るといった誤読はあっても、誤記はないようです。件の「オクラキ」は「おンぐらきい」と発音され、表音的に「オクラキ」と書かれたのだと考えられます。ワ行音がワ行音ならざる音で言われているのですから、これは「ワ行転呼」と呼べます。
 大矢によれば同書は他にも、「ゐ」と書かるべき「遺」を「い」、ヤ行の「江」とすべき「焔」(yen)の初拍をア行の「え」としているそうで、これらはいずれも頭子音の落ちた言い方、ワ行転呼、ヤ行転呼した言い方です。
 ある一つの言い方と、それをワ行転呼、ヤ行転呼させた言い方との差は、仮名づかいの正誤の差ではなく、発音としては正式のそれとくだけたそれとの差であり、表記としては正式の発音を表音的に表記したものと、くだけた発音を表音的に表記したものとの差です。「広い道」を「しろいみち」と発音する江戸っ子(の子孫)、ことによると英語の he も she になってしまう江戸っ子(の子孫)のみなさんのなかにも、「広い道」は「しろい道」と書けばよいと考える方はまずいらっしゃらないでしょうけれど、うっかり発音どおりに書いてしまうことはあるかもしれませんし、例えば父親が「きこごも」(悲喜交々)というのを聞いて育った子供がその通り「しきこもごも」と書くといったことならば、十分考えられます。ふだん「をぐらし」を「おンぐらしい」と発音する往時の都びとの中にも、不注意から、あるいは、正式な発音を表音的に表記したものを見慣れていないせいで「おぐらし」と書くことは、十分考えられます。
 同趣の例をいま少し引きましょう。まず、橋本進吉の「国語の音節構造と母音の特性」(web)によれば、「宇多天皇の寛平年間[889~898]に一旦稿成り、醍醐天皇の昌泰年間[898~901]に完成した昌住の『新撰字鏡』に、「エメムシ」といふ虫の名を或る所では「衣女虫」と書き或る所では「江女虫」と書いてゐる」(表記は一部変更しました。ひらがな「え」は「衣」をくずしたものです)ということですが、もし元来「江女虫」だったのならば、「衣女虫」は初拍にヤ行転呼音を持つ言い方です。逆の可能性のことは後述します。
 青谿書屋本(せいけいしょおくぼん)の『土左日記』の一月十三日の記事に(『土左』の諸本のことはのちほど)、池田亀鑑の名高い『古典の批判的処置に関する研究』(デジタルコレクション)の第三部にある影印を見る限り「とうか」としか読めない言い方が見えています。「とをか」(十日。とうぉか)の変化したものですけれども(とうか。割って言われるのでした)、「とおか」を経由したとしても、しなかったとしても、これはワ行転呼音を含む言い方です。この日記を書いたことになっているさる女性は、のちにも見るとおりくだけた発音をする人だと見られるので、「とうか」はそういう人の筆になるものとして不思議なものではありません。
 この日記の一月九日の記事に「枝ごとに」を「江たことに」(いぇンだンご)ではなく「えたことに」と書くところのあるのには、ヤ行転呼が見られます。『土左』の成立は十世紀の30年代ですけれども、この日記を書いたことになっているさる女性は、申したとおりくだけた発音をする人だと見られるので、この例を根拠に、当時すでにア行の「え」が正式の発音としてヤ行の「江」に合流しつつあったとするのは当を得ません。もっとも、当時すでに合流が進んでいた可能性はあります。
 ここでこの合流の時期のことを確認してしまいましょう。例えば、築島さんの『新論』などによりますと、天慶六年(943)の「日本紀竟宴和歌(にほんぎきょうえんわか)」の大江維時の歌の一節に「多愛努那利気理」とあるそうです(「日本紀竟宴」のことは後述)。何やらおどろおどろしい表記ですけれども、これは「絶えぬなりけり」(たいぇりけり)で、二拍目は本来「絶ゆ」(たう)の未然形の活用語尾としてヤ行の「江」でなくてはなりませんが、「愛」はア行の「え」です。不用意にくだけた発音が表音的に記された可能性は、あるとしても少ないでしょう。十世紀の四十年代前半には、すでに正式の発音としてはア行の「え」がヤ行の「江」とおなじくyeと言われていたと見られます。
 よく知られているとおり、源順(911~983。みなもとの したンがふ。このアクセントはあてずっぽうではありません。秋永一枝さんも『研究』〔後述〕においてそうだったろうと御覧です)の家集に見えている次の歌からも同趣の結論が得られます。

 えもいはで恋のみまさる我が身かないつとやいはに生(お)ふる松の枝(え) (いぇいふぁンで こふぃましゃる わあンがあ みいあ いとぅふぁ おふとぅいぇえ。告白できずにただ逢いたいと思う気持ちのつのる我が身だよ。いついっか逢ってあげるという言葉を待つうちに、長い時間が経ってしまった。「いは」は「岩」と「言は」とを兼ねます。「いはにおふる」〔岩に生える〕は「松」〔待つ〕を起こす序)

 「あめつちのことば」(あえとぅてぃのことンば)と呼ばれる、いろは歌と同趣の、同じ音を含まない四十八文字の言葉の列があります。

あめ(天) つち(土) ほし(星) そら(空) やま(山) かは(川) みね(峰) たに(谷) くも(雲) きり(霧) むろ(室) こけ(苔) ひと(人) いぬ(犬) うへ(上) すゑ(末) ゆわ(硫黄) さる(猿) おふせよ(負ふせよ〔=おほせよ〕) えの江を(榎の枝を) なれゐて(馴れ居て)
え とぅてぃ ふぉし しょ やま ふぁ みね たに くも きり むろ こけ ふぃと いぬ ふぇ しゅうぇあ しゃう おふしぇよ(おふぉしぇよ) ええのお いぇえうぉおうぃ 

 「え」と「江」とが見られるので、これは十世紀なかばよりも前の成立と考えられますけれども、したンがふはこの「あめつちのことば」の各文字をはじめと終わりとに持つ四十八の歌――例えば一首目は「あ」にはじまり「あ」に終わる――を詠んでいて、上はその四十一番目の歌です。たしかに「え」ではじまり「え」で終わっていますけれども、はじめの文字はア行下二段動詞「う(得)」(うう)の連用形「え(得)」(いぇえ)に由来する副詞ですからア行の「え」、終わりの文字は「枝」(いぇンだ)という意味の「枝(え)」ですから古くはヤ行の「江」であって、「え」が「江」に合流しない前にはこの歌は、はじめと終わりとが異なる歌でしたけれども、ここでは同じものとされています。腕の見せ所なのですから、学者でもあった順がくだけた発音でならば二つが同音になる歌を詠んだとは考えにくいと思います。合流は983年にはすでに終わっていたでしょうが、この「あめつちの歌四十八首」は、特に晩年の作と見るには及ばないでしょう。やはり十世紀なかばにはア行の「え」は正式の発音としてはヤ行の「江」に合流していて、西暦千年に近い頃には、「え」と「江」とは、例えば「志」と「之」とが同じものであるように同じものだったと考えられます。
 話柄をもどして、大坪併治さんの『改訂 訓点語の研究』などによれば、石山寺本『大般涅槃経』治安四年(1024)点というものに、「渇」を「水ニウエタル」と訓むところがあるそうです。ここでは「水に飢ゑたる」(みンどぅに うぇ)における「ゑ」の頭子音が落ちています。
 前(さき)に紹介した為房の奥さんのものした仮名書状群の総索引が金子彰さん達によってweb上に公開されていますけれども(「藤原為房妻仮名書状 語彙総索引稿」)、そこには、「まゐる」(まうぃる)の第二拍を「い」とする「まいりはべらねば」(まり ふぁべらンば)、「まいりはべりにければこそ」(まり ふぁりにけれンばしょ)といった言い方、ワ行転呼した言い方が三十ほどもあります。いわゆる歴史的仮名づかいどおりの言い方は見られません。
 「総索引稿」によれば、為房の奥さんは二ところで「折櫃」を「をりひつ」(うぉりンびとぅ〔推定〕。高いところなし)と書いていますが、いま一ところでは「おりひつ」と書き、こちらは見せけちにしているようです。なまけて原文に就くことをしていないので詳細を知りませんけれども、一度うっかり発音どおりに書いてしまったのだと思います。とすればこれは、次に引く三例と同趣ということになります。
 すなわち『沿革史料』 によれば、『法華経義疏』長保四年(1002)点に、「御」「治」に対する「オサム」、「収」に対する「オサメ」という訓みが見えているそうです。今の「おさめる」に当たるのはワ行下二段動詞「をさむ」(うぉしゃう)ですから、これらはワ行転呼した言い方であり、くだけた発音を表音的に記したものなのだと思います。築島さんの『新論』によれば『義疏』長保点はいま一か所で「欣」を「オシム」と訓んでいるそうですけれども――「惜(を)しむ」ではなく「愛(を)しむ」を思い出せばこの漢字の使われようは了解されます――、これも子音の弱化した言い方でしょう。


 d 解説(お、を、いろは歌) [目次に戻る]

 今しがた引いた『義疏』長保点の、「御」「治」に対する「オサム」、「収」に対する「オサメ」といった訓みは、一般には、西暦千年ごろ、ア行の「お」のワ行の「を」への合流が本格的になった証(あかし)とされます。
 上代においてア行の「お」(o)とワ行の「を」(wo。うぉ)とが別の音だったことは万葉仮名の検討から明らかで、反対に、心蓮というお坊さん(1181年没)の『悉曇相伝』『悉曇口伝』から、平安末期、「お」と「を」とが同じ音であること、そしてどちらもwo と発音されたことが知られるようなので、遅くともその頃にはア行の「お」は、正式の発音としてはワ行の「を」に合流していたと考えられます。くだけた発音としてはこの合流以降もoは残ったと見られること、またそれ以前からくだけた発音として「を」をoと発音することがあったと見られること、すでに申したとおりです。
 問題は正式の発音としての「お」の「を」への合流の時期で、申したように一般には、『義疏』長保点の、「御」「治」に対する「オサム」、「収」に対する「オサメ」は、ア行の「お」のワ行の「を」への合流が十一世紀初頭に本格化したことを示すものとされますけれども、これは問題含みだと思います。
 もし広く説かれているとおりだとすると、例えば「オサム」は、表音的に「ヲサム」と書くのと同じく「うぉしゃう」と発音せらるべきもので、「オサム」と書いても同じ発音になるのでそう書かれたということになります。小論の見るところではこれは「ヲサム」の初拍がワ行転呼されたので、「オサム」は表音的に「おしゃう」と発音されたのです。
 正式な発音としての「お」の「を」への合流は、もう少し後(のち)のことだったのではないでしょうか。大矢の『沿革史料』によれば延久五年(1075)の『史記』には、「オ、ヲノ分別正シキ例」しか見えません。
 いろは歌のことを考えるとそう見るのが自然だと思われます。

いろはにほへと (いろふぁ にふぉふぇンど)
ちりぬるを (てぃりぬるうぉ)
わかよたれそ (わあンがあ よお たれンじょ)
つねならむ (とぅ。ちなみに「たれぞ常ならむ」は「常ならむ、たれぞ」〔常住なのは誰だ〕の倒置であり、「誰が常住であろうか」を意味する修辞疑問と見るのは語法上無理です〔それにあたるのは「誰かは常ならむ」「誰か常ならむ」といった言い方です〕)
うゐのおくやま (うううぃいの おくま)
けふこえて (けふ こいぇ)
あさきゆめみし (あしゃきい ゆめ みいしい。「見じ」ならば「みいンい」。「夢見(をす)」という言い方はありえたかもしれませんけれども、「浅き夢見」「夢見、浅し」といった言い方はしなかったと思います)
ゑひもせす (うぇふぃしぇえンじゅう)

 「わが世たれぞ/つねならむ」のところは元来、ア行下二段動詞「得(う)」(うう)起源の副詞「え」(ええ。のち、いぇえ)を持った「わが世たれぞ/つねならむ」だったろうと亀井孝さんなどはお考えだったようで――この「え」は古くは必ずしも否定表現と呼応させる必要がありませんでした――、その場合いろは歌はア行の「え」とヤ行の「江」(「越ゆ」〔ゆ〕の連用形「越江」〔いぇ〕の「江」)との区別されていた十世紀なかば以前に成立したことになりますけれど、十一世紀後半において知られていたいろは歌は、すでに「え」と「江」とは区別せず、「お」と「を」とは区別するものでした。すなわち、いろは歌の文献にあらわれるはじめは「承暦三年(1079)己未四月十六日抄了」――「抄了」は「書写を終えた」という意味でしょう――の奥書を持つ『金光明最勝王経音義(こんこうみょうさいしょうおうきょうおんぎ)』だそうですが、それは私たちの知っているいろは歌そのものです。つまり、このいろは歌は、十世紀なかば、「え」が正式の発音として「江」に合流した後(のち)のものです。もしいろは歌がそれ以前からあったとすれば その合流に伴って例えば「わがよたれぞえ」の「え」が落ちたのであり、もともとその合流後に考案されたのだとすれば、いろは歌にははじめから「え」はなかったのです。
 仮にいろは歌の成立が例えば十世紀なかば以前だったとしても、すでに指摘のあるとおり、いろは歌が広く知られるようになるのはこの世紀の70年代よりあとでしょう。『口遊(くちずさみ)』(くてぃンじゅしゃみ)がいろは歌に、言い及ぶべくして言い及ばないからです。天禄元年末と言いますから、970年を越えて971年はじめ、源為憲(みなもとのためのり。1011年没)という人が、さる貴族の子弟に一般教養を身に着けさすべく、『口遊』という書物を編みました。この書物には「あめつちのことば」「たゐにの歌」(やはり音韻を重複させないで作られた47文字の歌。現在知られているものを下に掲げておきます)への言及がありますけれども(前者がもてはやされるが後者がまさっているというのです)、いろは歌のことは見えません。まだ成立していなかったか、すでに成立していたがネットの片隅に埋れていたのか、それは分かりませんけれども、とにかく広まってはいなかったのでしょう。広まったのは早くても970年代以降であり、当時すでに「え」は「江」に合流していたでしょうから、その広まったいろは歌は、私たちの知っているいろは歌だったと考えられます。

たゐにいて (たうぃに いンえ)
なつむわれをそ (なあ とぅむれうぉンじょ)
きみめすと (きみしゅうと)
あさりおひゆく (あしゃふぃ ゆく)
やましろの (やましろの)
うちゑへるこら (うてぃい うぇふぇこおらあ)
もはほせよ (もおふぁあ ふぉしぇよ)
えふねかけぬ (いぇえ ふ かけ)
(田居に出で菜摘む我をぞ、「君、召す」と漁り追ひ行く。山城のうち酔へる子等、藻葉干せよ え舟繋けぬ。意味の解釈については、小倉肇さんの「〈大為仁歌〉再考 ――〈阿女都千〉から〈大為仁〉へ――」〔web〕がよい参考になります)。

 さて沖森さんの『全史』には、いろは歌は「十一世紀前半ごろに作成されたものかと考えられている」とあります。もしその通りだとすると、西暦千年ごろには「お」と「を」とは音として区別されていたのであり、「お」はo、「を」はwoと発音されていたのです。
 では、私たちの知っているいろは歌が西暦千年ごろすでにあったとしましょう。それはただちに当時「お」と「を」とが区別されていたことを示すでしょうか? そうではありません。仮に四十七文字のいろは歌が権威化していたら、「お」と「を」とは同じ音だが、だからといって例えば「うゐのおくやまけふこえて」ではなく「ゐのやまうくけふこえて」(井の山、憂く、けふ越えて。うぃいのお やま うく けふ こいぇ)などするのは不遜の極みだということになったでしょう。ちなみに、「うゐのおくやまけふこえて」になじんだ耳には「ゐのやまうくけふこえて」はさだめし奇天烈なものに響くでしょうけれど、文字が一つ減って六五調ですからリズムの悪いのは致し方ありません。しかしそれを言うならば「わがよたれぞ/つねならむ」も同趣ですし、平安時代の京ことばでは一拍語は引かれ、また「憂く」も実質三拍で言われましたから(後述)、「ゐのやまうく」も「わがよたれぞ」も、現代語の感覚で考えるよりは七拍の言い方に近いと申せます。「泉の湧く山を悲しいことにも今日越えて」という言い方は、「〝さまざまの因縁によって生じた現象、また、その存在〟(広辞苑)の奥山を今日越えて」よりは分かりやすい言い方でしょう。
 実際、知られているとおり、十二世紀にはいろは歌は権威化し、ために「お」は「を」に合流していたにもかかわらず、いろは歌は同音の「お」「を」を含む形で生きながらえたのでした。しかし西暦千年ごろ、いろは歌が権威化していたふしはありません。権威化していないいろは歌の身上は、申したとおり同じ音を含まないことです。こうして、西暦千年ごろいろは歌がすでにあったとしても、まだなかったとしても、当時「お」と「を」とは音として区別されていたと考えられます。

 

 e 解説(ハ行転呼) [目次に戻る]

 ハ行転呼した言い方も、すでに当然ながら、くだけた言い方としてはずいぶん古くからあったと考えられます。これは形容詞「うるはし」(うるふぁい)のことを申すのではありません。周知のとおり「うるはし」は、上代には「うるはし」と書かれたものの、やはり築島さんの『新論』によれば、平安初期の資料ではほとんどが「うるわし」とするようです。『土左』の二月四日の記事にも「うるわしき貝」(うるわしい かふぃ)とあります。
 ただ、例外なしにということではないので、『金光明最勝王経古点』(830)が「親」に「ウルハシヒ」(うるふぁンび)という訓みを与えていると『新論』にあり、また、以下あまたたび(あまたンび)引くことになる図書寮本(ずしょりょうぼん)『類聚名義抄(るいじゅうみょうぎしょう)』(十一世紀末ごろ)のような信頼性の高い資料に連用形「うるはしく」(うるふぁく)という言い方が見えていなどするので(原文は片仮名ですけれども、以下平仮名で引きます)、「うるはし」は、特別に、古くから正式な発音としてハ行転呼した言い方好んでなされる言葉だった、ということになると思います。第二拍の「る」が母音uに終わることがかかわっているのでしょう。古人にとっても「うるふぁい」よりも「うるわい」のほうが言いやすかったはずです。
 「うるはし」の第三拍におけるハ行転呼は確かに特別でしょうけれども、特別なのはそれらだけだったのでしょうか。たとえば為房の奥さんの書状に、「うひうひしう」(うふぃうふぃしう)を「うゐうゐしう」とする言い方が見えています。かなり言いにくい、終止形で申せば「うふぃうふぃしい」よりも、「ううぃううぃしい」が好まれ、正式の言い方という地位を得ていたとしてもおかしくありません。また、『土左』の一月二十一日の記事に青谿書屋本以下諸本が「報い」(むくい)を「むくゐ」とするところがありますけれども、もともとの「むくい」よりも「むくうぃ」のほうが言いやすいかもしれず、こちらも広く言われた言い方である可能性があります。もっともこの「むくゐ」についてはいま一つの可能性もあって、これは後に申します。
 しかし、ハ行転呼の古い例すべてを正式の発音と見ることはできないと思われます。
 ハ行転呼の例が早く万葉集などにも見られることについては、つとに指摘があります。すなわち築島さんの『新論』によれば、「見杲石山(ミガヲシヤマ)」(382〔歌番号は『国歌大観』のそれ。以下同じ〕)、「在杲石(アリガヲシ)」(1059。「アリガヲイシ」ならず)、「杲鳥(カヲドリ)」(1823)のような例において、「杲」が「カヲ」と読まれているのは、「カホ」が転じたのだそうです(古い時代の漢字音をめぐる面倒な話題のようです)。じっさいそれらは、「見が欲(ほ)し山」「在りが欲し」「貌鳥(かほどり)」をそう表記したのであって、築島さんによれば「カとあるべき所をカの発音を持つ文字によつて表記した例といふことになる」(表記一部変更)。築島さんは、この見方に対して若干の反論をなす向きもあることをおっしゃってから、ご自分としては「従来の説に従ってハ行転呼音の古例として取り上げることにする」とお書きです。要するに、例えば「欲しい」に当たる「欲し」(ふぉい)がある環境では「うぉい」と発音されたのです。
 奥村三雄さんもこの「見杲石」のような例や、ほかの例を取り上げて、「これらのなかにはかなり疑問のものもありそうである」となさった上で(「見杲石」などのことをおっしゃっているのではなさそうです)、「いずれにしても、奈良時代中央語におけるハ行転呼の例は多くない」となさいます(大修館『講座・国語史』第二巻所収「古代の音韻」)。多くはないがあると御覧なのです。
 奥村さんは奈良時代におけるハ行転呼は多くはないがあるとおっしゃいますけれども、しかしそれは「個別的変化の段階」にあるものともおっしゃいます。築島さんも、万葉集の「カヲ」のような例や、平安初期における「うるわし」のような例について、「単発的な変化」とおっしゃいます。しかし、そうでしょうか。むしろ、ハ行転呼もまた、くだけた言い方としては古くからさかんになされたが、くだけた発音の常として文献には残りにくい、ということではなかったでしょうか。
 これは言い換えれば、ハ行転呼音は、それがくだけた言い方でなくなるに従って文献に残りやすくなるということですけれども、事態はまさにそのように進行したのではないでしょうか。ハ行転呼は、くだけた発音として、たいへん早くから、語中・語尾のハ行音全般において起こった。そしてそのくだけた発音としてのハ行転呼音は次第に正式な発音としての地位を獲得してゆき、概略十二世紀のある時点において、語中・語尾のハ行音を駆逐した。――事のありようはこうしたものだったと考えます。
 記録からうかがわれるハ行転呼の例をもう少し引きましょう。大坪さんの『改訂 訓点語の研究』によれば、十世紀後半の成立と推定される石山寺本『守護国界主陀羅尼経白点第一種』が、元来は「くはへず」と書かれ「くふぁふぇンじゅ」と読まれたであろう「不加」を「クワ[ヘ]す」(くわへず)と訓んでいるそうです。ここでもu音の次に位置するハ行音が問題になっています。なお「クワ(ヘ)す」の「へ」は原文が虫食いか何かで読めないために大坪さんが補ったもので、こちらもハ行転呼させた「クワゑす」や、さらにワ行転呼させた「クワえす」という訓みが付けられていた可能性もあります。
 次に、例の『法華経義疏』長保四年(1002)点に、「皀」(「皃」すなわち「貌」と同じことのようです)を、「カヲワセ」と訓むところがあります(『新論』に拠る。大矢の『沿革史料』では「カヲハセ」)。「顔(かほ)ばせ」(かふぉンばしぇ、ないし、かふぉンばしぇ)もしくは「顔はせ」(かふぉふぁしぇ、ないし、かふぉふぁしぇ)の二拍目がハ行転呼音になっています。『義疏』長保点にはほかにもハ行転呼の例があって、西暦千年ごろからハ行転呼が起こったとする一つの根拠はこの史料なのですけれども、こうした例は、さきの「見杲石」や「不加」のような例と質的に異なるとは思えません。西暦千年ごろよりずっと以前にもハ行転呼はあり、以後にもあり、ハ行をそのままファ行で読むことも西暦千年ごろよりずっと以前からなされ、以後もなされました。そしてハ行転呼の完了については、繰り返せば、「平安後期[1001-1086]にすでに完了したとは、確言し得ないと考へられる」(築島さん)、「体系的な変化がほぼ完了したのは十二世紀までかかるようだ」(秋永さん)、「大体11世紀頃から始まり、鎌倉時代前に終わる」(木田さん)など言われているわけで、西暦千年ごろにはハ行転呼はまだまったく完了などしていないと見られます。それはくだけた発音としてはさかんになされたでしょうし、或いはくだけている程度が少なくなりつつあるということも言えるのかもしれません。しかしまだ転呼しない言い方が正式なものだったでしょう。


 f 解説(サンスクリット) [目次に戻る]

 西暦千年ごろハ行転呼が起こったとする根拠として、いま二つほどの事実があると指摘する向きもありますけれど、誤解に基づくと思われます。
 一つ目は、藤原道長(966~1027)の『御堂関白記』の長和四年(1016)四月四日の記事に見えている「糸惜」です。文脈から「いと惜(を)し」(とうぉい)ではなく、「困ったものだ」「なげかわしい」といった意味の古今異義語「いとほし」(いとふぉい)を当て字で書いたことが知られますけれども、すると確かにこれはハ行転呼の例と言えます。ただ、長和四年四月四日の記事ということは、それは『御堂関白記』の自筆部分ではないということ、道長の孫の師実(1042~1101)、あるいはその猶子忠実(1078~1162)の手になる写本の部分であるということ、従って必ずしも十世紀初頭の例とは言えないということを意味します。ちなみに長和二年十二月二十二日(すでに1015年です)の記事(やはり古写本の部分)では同じ「いとほし(く)」に「糸星」が当てられているそうです。このあたりのことは、中丸貴史さんの「漢文日記のリテラシー」(web)によって知ることができます。
 次に、醍醐寺三宝院本『孔雀経音義』巻末の、「現存する最古の五十音図」として知られるところのものについて。これは無題の、

キコカケク 四シソセサス  知チトタテツ 已イヨヤエユ
ミモマメム 比ヒホハヘフヰヲワヱウ  利リロラレル

という書きつけです。「比」のところにだけ「ヒホハヘフ」と「ヰヲワヱウ」とが並んでます。「以イオアエウ」「那ニノナネヌ」といった文字列はありませんけれども、この書きつけが別の書きつけを写したものだとすれば――その可能性はあるでしょう――、転写の際に落ちたのかもしれません。しかし、のちに申す理由によって、「以イオアエウ」はもともとなかったかもしれません。
 さてしばしば、この書きつけに含まれる「比ヒホハヘフヰヲワヱウ」は文節中・文節末のハ行音がワ行音に読まれることを示している、しかるにこの文書は寛弘(1004~1013)~万寿(1024~1028)年間のものゆえ、十一世紀初頭にはハ行転呼は起こっていた、というように論じられるのですけれども、これは当を得ないと思います。まず、仮にこの「比ヒホハヘフヰヲワヱウ」が十一世紀はじめに書きつけられ、かつそれがハ行転呼を意味するとしても、それは当時ハ行転呼音でも言われ得たということを意味するだけなのかもしれないわけですが、そもそもこの「比ヒホハヘフヰヲワヱウ」はハ行転呼を意味するとは考えにくく、またそれが十一世紀はじめに書きつけられたのかどうかは不確かだと申さなくてはなりません。
 問題の書きつけにおける「比ヒホハヘフヰヲワヱウ」はハ行転呼音にかかわるものとは断定できません。これについては肥爪周二さんの見解を引くに如くはないでしょう。『国語学』177集(1994・6・30)の「展望」に収められた、釘貫亨さん執筆の「音韻(史的研究)」という文章(web)の一節に、次のようにあります。

 肥爪周二「悉曇学とワ行」(『国語と国文学』70-2、'93)は、現存最古の音図でありハ行転呼音の古徴とされてきた醍醐寺蔵『孔雀経音義』付戴の音図について「比ヒホハヘフヰヲワヱウ」というハ行とワ行の併記が日本悉曇学における梵字vaの転字の発音に際して、ワ行に読める音写漢字を梵文に従ってバ行に読んだという字音上の交渉に原因を求めようとする。

 私には難解な文章ですが、それはともかく、釘貫さんによれば肥爪さんはこれを「一つの解釈可能性の選択肢」として提示なさっているそうです。そして肥爪さんは、より確実に言えることとして、『孔雀経音義』の音図が漢字音の反切(一つの漢字の子音と母音とをそれぞれ基本的な漢字二つを利用して示すこと)に利用されたとすれば本経の音読には「ハ行転呼音の表示は不要であるという点は動かない」とお書きだそうで、釘貫さんの言葉を引けば、肥爪論文は「本経音義の音図の記述がハ行転呼音という日本語の現象を反映するものとして扱うことは望ましくないと結論」しています。
 もともと「呬キコカケク」に始まるこの書きつけは、五十音図(の一部)としては奇妙なところがあります。なぜ「比」のところだけ二行なのか、という言い方もできますが、なぜワ行が独立していないのか、という言い方もできます。「言葉遊びと誦文の系譜 3」(web)において勝山幸人さんのおっしゃるとおり、ワ行の文字はハ行音の転呼したものとしてしか使われないわけではないのにもかかわらず、例えば「比ヒホハヘフ 為ヰヲワヱウ」とせず、ワ行音が「比」のところに繰り込まれているのは、五十音図としていかにも奇妙なことです。
 これについては、「ハ行」(ふぁ・ふぃ・ふ・ふぇ・ふぉ)と「ワ行」(わ〔=うぁ〕・うぃ・う・うぇ・うぉ)とを無声音・有声音の対比、清音・濁音の対比と見る見方がありますけれども、私にはよく分かりません。
 五十音図として奇妙だ、というよりも、五十音図(の一部)と見るから奇妙なので、問題の書きつけは五十音図(の一部)ではないというべきでしょう。現代人にとっての五十音図、現代語としての五十音図は、日本語の音韻を整理して並べたものであり、日本語を学ぶ人がまず取り組むべきところのものと言ってよいでしょうが、元来五十音図はサンスクリットと関係の深いことが知られているわけでて、「比ヒホハヘフヰヲワヱウ」を含む問題の書きつけは、日本語のありようを示したものというよりも、サンスクリットのありよう、ただし、中国の、ひいては日本のお坊さんたちが受け止めた限りでのサンスクリットのありようを示したものだと見られます。その意味でこれは、日本語のありようを表にまとめたものという意味での五十音図ではありません。
 肥爪さんの論文は拝見するに至っていないので、以下は素人考えです。「呬キコカケク 四シソセサス 知チトタテツ 已イヨヤエユ 味ミモマメム 比ヒホハヘフヰヲワヱウ 利リロラレル」の各部をサンスクリットの子音(頭子音)に対応させる場合、「比」の頭子音は p、ph、b、bh、v に対応します。円仁(794~864)――最澄のお弟子さんの一人――の『在唐記』から、pa や pha には「波」のような漢字を、ba やbha や va には「婆」のような漢字を当てたことが分かります。では問題の書きつけでpi、phi、bi、bhi、vi に対応するのはどれか。候補は「比」しかありません。ではこの「比」にはどんな仮名が対応するでしょう。「ひ」が対応することは明らかですけれども、沼本克明さんの「日本漢音」や「漢語字音資料としての日本訓点資料」(いずれもweb)によれば、慶祚(955-1019)というお坊さんが、醍醐寺本「法華経陀羅尼」というもののはじめの方にある「賖履多瑋」(śa-mi-ta-vi)に「賖(シヤ)履(ヒ)多瑋(ヰ)」という読み仮名を付しているそうです。そういえば、般若心経の最後の「ぼーじーそわか」は「菩提娑婆訶」をこう読むのでしたが、この「菩提娑婆訶」は bodhi svāhā の音訳だそうですから、「賖履多瑋」の「瑋」や「菩提娑婆訶」の「婆」では、サンスクリットのヴァ行音にワ行音が当てられているのです。明治時代、ヴァ行音をワ行の文字に濁点を付けて示したことが想起されますけれども(「秋の日の/ヸオロンの/…」)、それはともかく、こうして、サンスクリットの、日本語風に言えばパ行音、バ行音、ヴァ行音に対応するのは、漢字では「比」のようなものであり、日本語ではハ行音およびワ行音です。『孔雀経音義』末尾の書きつけに見られる「比ヒホハヘフヰヲワヱウ」は、このことを示したものだと思います。つまりそれはハ行転呼を示したものとは思われません。
 ついでながら、仮にこれが痛ましい誤解だったとしても、問題の書きつけは、次のような訳合によって、ハ行転呼が十一世紀はじめに本格化したことを意味するものではありません。
 この書きつけを発見したのもまた大矢透で、その経緯はデジタルコレクションの『音図及手習詞歌考』(1918)に記されています。そこに、この音図の「書写年代、詳らかならざれども、書体および仮名の字体により、又はハ行の音と、ワ行の音と、相通ずるさまに記せるなどより推せば、蓋し寛弘より万寿までのものにして、仮名の五十音図中、最古のものと断ぜざるべからず[判断シナクテハナラナイ・判断スルコトガデキル]」(附録p.6。表記を一部変更しました)とあります。「ハ行の音と、ワ行の音と、相通ずるさまに記せる」とはハ行転呼のことで、大矢は、この音図の書かれた時ハ行転呼は既に起こっている、さすればそれは「蓋し」寛弘(1004~1013)~万寿(1024~1028)年間の成立なるべし、と推定しているのです。ハ行転呼の時期だけが推定の根拠になっているのではないとは申せ、大矢の判断にはハ行転呼は十一世紀初頭にはじまるという見方が大きく与(あずか)っていると見られる以上――書体や仮名の字体(確かに時代・時期により時に少なからぬ変化があります)からはそこまでは絞れないようです――、「この音図にはハ行転呼の既に起こっていることが読み取れる、しかるにこの音図は寛弘~万寿年間に成立した、ゆえにハ行転呼は十一世紀初頭にはじまっているらしい」という推論は当を得ません。


 g 解説(過剰修正) [目次に戻る]

 『聖語蔵(しょうごぞう)菩薩善戒経』古点(九世紀。前半か後半かに関しては諸説あり。『菩薩戒経』とは異なるようです)というものに「駈」(=駆)を「ヲヒ」と訓む例のあることが知られています(『新論』など)。「駆り立てる」ことと「追う」こととの近さを考えれば明らかなとおり、これはア行四段の「追ふ」(ふ)の連用形「追ひ」(ふぃ)に「をひ」という読み仮名をつけたのと同じことです。
 『新論』によれば、『金光明経文句』という十世紀前半頃の加点とされるらしいものにも、「慠」を「ヲコル」、「自」を「ヲノツカラ」、「逐」を「ヲフに」、「駭」(意味的には「驚」に近い)を「ヲトロか(セハ)」と訓むところがあるそうで、いずれもア行の「お」にはじまる「おごる(傲る)」(おンごる)、「おのづから」(おのンどぅから)、「おふ(追ふ)」(ふ)、「おどろかせば」(おンどろかしぇンば)の初拍をワ行の「を」としていますから、『善戒経』が「駈」を「をひ」と訓むのと同趣です。
 この「駈」の訓みとしての「をひ」の初拍は、『改訂 訓点語の研究』において大坪さんもそう御覧のように、o音で言われたでしょう。当時、「追ふ」を「うぉふ」と発音する人はいなかったはずです。「駈ふ」を「をふ」と書いたお坊さんも、それを「ふ」と発音したでしょうから、それを「をふ」と書くのは、例えば「あそぶ」を「やそぶ」と書くのと同じく、要するに書き誤りです。『金光明経文句』の四つの例についても同断。ではいかなる経緯でそうした書き誤りが生ずるのでしょう。
 これといった理由もなくたまたま書き間違えるということは無論つねにあるわけですけれども、上の五つなどはそうしたものとは思われません。それらは、ふだんもっぱら子音の弱化したくだけた発音をする人による書き間違いだと思います。
 「悲喜交々」を「しきこもごも」と言って恥をかいた江戸っ子(の子孫)は、「森羅万象」をひらがなで書く場合、自分は「しんらばんしょう」と言っているがこれは俺が江戸っ子だからで、「し」ではじめたらまた恥をかくな、もうかかねえぞ、と思って、「ひんらばんしょう」とするかもしれません。自分が発音するとおりにでなく書いてかえって間違う場合、それは一つの過剰修正(hypercorrection)――という用語があります――だと申せます。この用語は多義ですが、以下では、今申した、自分が発音するとおりにでなく書いてかえって間違うことを意味するものとして使います。現代日本語では「お」と「を」とは同じ音を示すので書き分けの問題が生じます。同じように、「ひ」も「し」で言う人には「ひ」と書くか「し」と書くかの問題が生じます。もともと「しんら」なのだと知っていれば「ひんら」とは書かないわけで、過剰修正は正しい発音や正しい表記を記憶していないことに由来する書き間違いです。
 ふだん英語の th をsやzとして聞いたり発音したりする人にも、書き分けの問題が生じます。そういう人は例えば Thursday を Sursday、Saturday を Thaturday など書くでしょう。正しい発音を記憶している人はそのまま書けばよく、また、th はsかzにしか聞こえないものの正しいスペルを記憶にとどめているという人ならば書き間違いはないわけですけれども、正しい発音を記憶しておらず、スペルも記憶しておらず、確認する手立てもないという人は、自分が発音するとおりに Sursday と書くかもしれませんし、また、自分は th が苦手だからsで発音するが正しくは th なのだろうと考えて Thaturday と書くかもしれません。この場合、前者は単にいいかげんな人がいいかげんに書いたのですけれども、後者は一つの過剰修正です。
 「追ふ」(ふ)が「をふ」と書かれたのも、同趣の経緯によったと思います。ふだん例えば「をぐらし」を「うぉンぐらしい」ではなく「おンぐらしい」、「折(を)る」を「うぉう」ではなく「おう」、「男(をとこ)」を「うぉとこ」(高いところなし)ではなく「おとこ」と、子音を弱化させて言う習慣の人には、「お」と「を」とをどう書き分けるかという問題が生じます。例えば「追ふ」は「ふ」と発音され「うぉふ」と発音されるのではないという意味で「ふ」が「正しい」発音ですけれども、この「追ふ」を平仮名で書く場合、あらかじめ正しい発音でも「ふ」と言うことを記憶にとどめておらず、確認する手立てもない人は、「おふ」「をふ」のいずれを書くべきかに関して決め手を持ちません。するとそういう人が、自分が発音するとおりにではなく書くことにして、結果的に自分の発音を表音的に書いたことにもならず、正しい発音を表音的に書いたことにもならない文字づかいをする可能性、その意味で書き誤りをした可能性は十分にあります。西暦千年ごろ以降「お」「を」の混用が多くなることから「お」の「を」への合流を結論する向きが多いわけですけれども、くだけた発音における子音の弱化や過剰修正ということを考慮する必要があると思います。
 『土左』の一月二十一日の記事に青谿書屋本以下諸本が「報い」(むくい)を「むくゐ」とするところのあったのも同断かもしれません。「むくゐ」も正用だった可能性があると申しましたけれども、日記の書き手はふだん例えば「田居」を「たうぃ」ではなく「た」、「田舎」を「うぃなか」ではなく「いなか」と発音する人で、そのため「むくい」か「むくゐ」か迷って後者を選んだ。貫之はそういうようなことにしたという可能性もあります。
 前(さき)に「エメムシ」のことを申しました。西暦900年ごろに成立したという『新撰字鏡』に「衣女虫」とも「江女虫」ともあるのでしたが、もしそれが元来ア行の「衣」(=え)にはじまる「衣女虫」だったのならば、「江女虫」は、ふだん例えば「枝」(いぇンだ)を「えンだ」と発音する人による書き誤りと考えられます。
 『新論』によれば、道真の孫の淳祐というお坊さん(890~953)の加点した中田祝夫蔵法華経玄賛(げんざん)巻第三に、「ユヱ」(故)を「ユヘ」と表記した例があるそうです。「ふぇ」と発音されたとは考えにくいでしょう。当時すでに、例えば元来「おもふぇンば」と発音される「思へば」をくだけた言い方として「おもうぇンば」のように言うことがあったと、つまりくだけた言い方としてのハ行転呼はすでにあったと見られるのでした。すると不断そうした発音をする人が例えば「故」(うぇ)を「ゆへ」と書いてもおかしくありません。
 ちなみにこの「ゆへ」は、概略平安中期以降、元来の「ゆゑ」よりも好まれた文字づかいのようで、「うるわし」(うるわい)は「うるはし」(うるふぁい)の子音弱化形が一つの正式な発音とされたらしかったのでしたけれども、「ゆへ」の場合はこう書かれても「ふぇ」ではなく「うぇ」と発音されたと見られるのですから、こういう言い方も正式なものとされたとすれば、それは一つの誤用の定着ということがあったということだと思います。
 貞観元年(976)から寛弘元年(1004)までのあいだに真興というお坊さんが加点したという醍醐寺蔵法華経釈文というものに、「種」や「栽」を「うふる」と訓むところがあるそうですが(『新論』)、これはワ行下二段動詞「植う」(う)の連体形「植うる」(ううる)を「うふる」とするのと同じことですから、やはりふだんからハ行音を転呼させて言う人による書き誤りだと思います。お坊さんは「ううる」と「うふる」とで迷い「うふる」を選んだのでしょうか。そうかもしれませんけれども、もしかしたら、動詞はハ行の文字に終わることが多いという経験則――まちがってはいません――からさして迷わず「うふる」を選んだかもしれません。
 例えば「思へば」(おもふぇンば)を、その三拍目をハ行転呼させさらにワ行転呼させた「おもンば」という発音で言う人もいたでしょう。そういう人は例えば「見江ず」(みいぇンじゅ)もヤ行転呼させて「みえず」(みンじゅ)と言ったでしょう。すると、「み江す」と書いても「みへす」と書いても当人としては同じ音を示すことになります。その人が、それは普通どう書かれるかは知らず、動詞はハ行で終わりやすいことは知っているならば、「みへす」が選ばれるでしょう。ちなみに明治四十二年(1909)の「ロート目薬」の新聞広告にも、「目ニ見ヘテズンズントキク」云々とあります。
 なんだかひどく想像力をたくましゅうしているようですけれども、お気づきの方も少なくないであろうとおり、青谿書屋本の『土左日記』に、その実例と解せるものがあります。すなわちそこには、「みへさなるを」(12/23。見えざなるを。正式の発音は「みいぇンじゃンうぉ」)、「たへす」(1/5。絶えず。正式の発音は「たいぇンじゅ」)、「おもほへす」(1/18。おもほえず。正式の発音は「おもふぉいぇンじゅ」)、「きこへたる」(1/21。聞こえたる。正式の発音は「きこいぇた」)といった言い方、ということはヤ行下二段動詞の未然形や連用形の活用語尾を「江」ではなく「へ」とする言い方が都合十四あらわれます。
 『古典の批判的…』において池田亀鑑は、いわゆる歴史的仮名づかいと一致しない「みへさなるを」式の書かれ方を怪しんで、貫之自筆本にそうした言い方があらわれるはずはない、さすればそれは「へ」ではない、「へ」でないとすればそれは「へ」に見えるもの、具体的には連綿体におけるヤ行の「江」であろうと考えましたが、端的に申してこれは無茶です。池田は「自家集切(じかしゅうぎれ)」の、

a [と]きはなるやまにはあきもこ江す[そありける](うつろふをいとふと思ひて常盤なる山には秋も越えずぞありける。うとぅろふうぉ いとうと おもふぃて ときふぁやまにふぁ こいぇンじゅンじょお ありける)
b むすへともなほ[あわにとくらむ](春くれば滝の白糸いかなればむすべどもなほ泡に解くらむ。ふぁう くンば たきの しらいと いれンば むしゅンべンどお なふぉお あわ 。「しらいと」の四拍目は推定)
c ひとのいへに(「むめの花咲くとも知らず…」の詞書か。ふぃとの いふぇ)

の影印を並べ(『古典の批判的…』第三部p.160)、bおよびcの「へ」を「『へ』の『江』にまぎれやすい例」とし、それらがaの「江」と似ていることを観察するよう求めるのですけれども、bの「へ」とcの「へ」とは酷似するものの、この二つとaの「江」とは、まぎれやすくは見えません。

 以上、西暦千年ごろの京ことばの発音について書きつらねました。そこでは正式の発音と、子音の弱化したくだけた発音とが区別されると考えられました。この区別と、過剰修正による書き間違いとを考えに入れることで、この時期の京ことばの発音のありようは見通しよく了解されるのではないかと思います。いよいよアクセントのことを考える段ですけれども、その前に、平安時代の京ことばの発音についてあれこれと考えてみたその副産物として『土左』に関する珍説を得たので、次に書きつけておきます。
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