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1 霜中(そうちゅう)の白菊
2 少し春ある
3 春や昔の
4 疑問的推量
5 雲のなごり
1 霜中(そうちゅう)の白菊 [「名歌新釈」冒頭に戻る]
「当て推量で折るなら折ろうか」「折るなら当て推量で折ろうか」は、誤訳でしょう。
心あてに折らばや折らむ初霜の置きまどはせる白菊の花 古今・秋下277。こころあてに うぉらンばやあ うぉらム ふぁとぅしもの おき まンどふぁしぇる しらきくの ふぁな(太字は高く言われることを示します。「ム」は 母音を伴う mu ではなく子音だけの m です。このことや、「ン」のことなど、詳細については、御面倒でも「『源氏物語』を成立当時の…」のはじめの方をご覧ください)
晩秋の或る日の朝、きのうの今ごろよりも一段(ひときざみ)冷え込みが厳しくなって、ついに庭一面に霜が降りた。きのうまでは、庭を見やって目にされる白いものと言えば、菊ばかりであった。しかし今は、初霜の置いたのが、白い花のありかを分らなくさせている。だから今は、おおむねこのあたりがそれではないかと見当をつけて折ってみるよりほかに、目的のものを折り取ることはできないのではないか。後に定家が百人一首に採るであろう凡河内躬恒のこの歌は、おおよそこんなことを言っていると思います。『歌よみに与ふる書(しょ)』で子規はこの歌を難じて、「一文半文のねうちも無之(これなき)駄歌に御座候」と言い放ちましたけれども、この誇張法は良いものではないでしょう。躬恒の歌における、菊の白さと雪のそれとを同一視する誇張法は、悪いものではないでしょう。
数ある『古今』の現代語訳の多く、そしてそれよりもさらに多い『小倉百人一首』の現代語訳の多くによれば一首は、「当て推量で(ないし、あてずっぽうに)、折るなら折ろうか、初霜が降りて見分けをつかなくさせている白菊の花を」といった意味だということになりますけれども、そうした訳文は今昔の日本語に存する差を無視してただ何とか意味が通るようにほぼ直訳することで得られたものであって、実際にはもとの歌はそれとは別のことを言っています。一旦慣れてしまうとそれでよいように思えてしまいがちですけれど。
まず、現代語におけるとは異なり、平安時代の京ことばでは動詞は単独で「…できる」という意味を持ち得たので、動詞を現代語訳するに際しては、文脈により「可能である」という意味の言葉を補わなくてはなりません。例えば古今・春下99に収める詠み人知らずの歌に、「吹く風にあつらへ付くるものならばこの一本(ひともと)は避(よ)きよと言はまし」(ふく かンじぇに あとぅらふぇ とぅくる ものならンば こおのお ふぃともとふぁ よきよと いふぁましい)とあるのは、吹く風に注文できるものならば、この一本は避(よ)けて吹けと言うのだが」と言っています。「可能態」という用語を導入すれば、古くは動詞はそのままで可能態として機能し得た、例えばこの「あつらへ付くる」は可能態であり、それゆえ「注文する」ではなく「注文できる」と現代語訳されなくてはならない、と申すことができます。また例えば「別れよりまさりて惜しき命かな君にふたたび逢はむと思へば」(わかれより ましゃりて うぉしきい いのてぃかなあ きみに ふたたンび あふぁムうと おもふぇンば)と 藤原公任が詠んでいますが(千載・離別477)、これは、私はあなたとの別れよりも自分の命を惜しむ、と、おやと思わせることを言ってから、それと言うのも、命があればあなたとふたたび逢えるだろうと思うからだ、とああそういうことかと思わせることを言う、という運びの歌です。この「逢はむ」も可能態です。
次に、「や…む」は、「む」が推量を意味する場合、「…だろうか」を意味しますけれども、それはまた、イディオムとして、「何々かもしれない」「何々なのではないか」を意味できます。例えば源氏・野分で、十代半ばの夕霧は、光る源氏と玉鬘とが一緒にいるところをのぞいて、「見やつけたまはむ」(みいやあ とぅけえ たまふぁム)と恐ろしく思っていますが(「見つけ」に助詞が介入しています)、これは父上はこちらがこんなことをしているのを「発見なさるかもしれない」「発見なさるのではないか」というので、現代語としてはこの箇所ではこうした言い方をするほうが「発見なさるだろうか」とするよりもしっくりします。源氏・桐壺に、「帝王の上(かみ)なき位にのぼるべき相おはします人の、そなたにて見れば、乱れうれふることやあらむ」(ていわうの かみ なきい くらうぃに のンぼるンべきい しゃう おふぁしましゅ ふぃとの、しょなたにて みれンば、みンだれえ うれふる ことやあ あらム)と大陸から来朝した人相見(にんそうみ)が言ったとあるのは、
幼い光る源氏について、このお子様は国王の位にのぼれるような相のおありになるお方ですけれども、
そういうものとして観(み)てみますと、国乱れ民苦しむことがあるかもしれません、と言っています。
逐語的に「国乱れ民苦しむことがあるでしょうか」とすることは可能ですけれど、それはこの言い方を「しかじかのことがあるかもしれません」という意味の婉曲語法と解せる限りにおいてです。
ちなみに、「や…けむ」は同様に「…だったかもしれない」「…だったのではないか」を意味できます。例えば僧正遍昭が出家剃髪した時に詠んだという「たらちねはかかれとてしもむばたまの我が黒髪を撫でずやありけむ」(後撰・雑三1240。たらてぃねふぁ かかれえとてしもお むンばたまの わあンがあ くろかみうぉ なンでンじゅやあ ありけム。ちなみに「たらちね」には「たらてぃね」と言われたという記述と「たらてぃね」と言われたという記述とがあって、これらはそれぞれ「足乳根」「垂乳根」としての発音だと解せます)は、「母はこのようであれと思って我が黒髪を撫でたわけではなかったのではないか(撫でたわけではなかったのであろう)」というので、この「なでずや」の「や」を係助詞ではなく間投助詞とする向きもありますけれど、そういうわけではないと思われます。
次に、現代語が「何々しようとする」「何々しようと思う」「何々してみる」「何々することにする」といった言い方で示すところを、平安時代の京ことばはしばしば単に動詞だけによって示しました。古くは動詞は「試行」を示せた、ということができます。例えば源氏・手習に「ありし世のこと思ひいづれど、住みけむ所、誰(たれ)と言ひし人とだに、はかばかしくもおぼえず」(ありし よおのお こと おもふぃい いンどぅれンど、しゅみけム ところ、たれと いふぃし ふぃととンだに、ふぁかンばかしくもお おンぼいぇンじゅ)とあります。以前のことを思い出そうとしますけれども、自分がどこに住んでいたのか、どう呼ばれた人なのかさえ、はっきりと思い出せません」と言っています(この「おぼえ」は可能態です)。「心あてに折らばや折らむ」は、こうして「当て推量で折ってみるならば折れるかもしれない」を意味できます。
次に、例えば源氏・葵に、光る源氏を主語として「二条の院にも、時々ぞ渡りたまふ」(にンでうの うぃんにも ときンどきンじょお わたり たまふ)とあります。光る源氏は、正室である葵の上がもののけに苦しんでいる折から、愛人達のもとを訪れることが憚られ、紫の上の住む「二条の院にも、時々しかいらっしゃいません」、と言っています。「時々いらっしゃいます」と「時々しかいらっしゃいません」との関係を「裏返し」と呼ぶならば、平安時代の歌や散文を現代語訳するに当たって、必要ならば言い方を裏返すのが望ましい、ということができます。躬恒の歌も、「しかじかの花は、当て推量で折ってみるならば、折れるかもしれない」という逐語的な訳文を裏返して、「しかじかの花は、当て推量で折ってみるのでない限り、折れそうにない」としてさしつかえありません。ちなみに昨今は、例えば「自信がある」と言えば十分な時に「自信しかない」とおっしゃる向きも多くなりました。「自信しかない」とおっしゃる人は実際にはほかのものもいろいろとおありになるでしょうから、つまりは自信しかないわけではないのだと思います。「自信しかない」もまた、裏返した「自信がある」という言い方として了解すればよいのでしょう。
さて、この歌の「折らばや折らむ」の「む」を意志ととることはむつかしいと考えられます。「や…む」の「む」は時に意志を示すことができて、その場合「や…む」は「…しようか」「…しようかなあ」といった意味の言い方になります。例えば古今集の巻頭歌にその例が見られます。
年のうちに春は来にけり一年を去年とやいはむ今年とやいはむ としの うてぃに ふぁるうふぁ きいにけり ふぃととしぇうぉ こンじょとやあ いふぁム ことしとやあ いふぁム
まだ十二月だが立春となった。例えば昨日起こったことを去年起こったことと言おうか。それとも今年起こったことと言おうか。こんなことが言われています(ちなみに「去年とや言はまし」〔こンじょとやあ いふぁましい〕などすれば、どちらの言い方をすればよいか分からないという気持がもっと強く出ます)。「や…む」はこんなふうにも使えますけれど、しかし「心あてに折らばや折らむ」をこの「や…む」を用いたものと見ることはできないでしょう。一般には、「心あてに」を「折らばや」ではなく「折らむ」を修飾するものとした上で「む」を意志と解し、「折るなら当て推量で折ろうか」という意味であると見るわけですけれども――確かに「当て推量で折るなら、折ろうか」はあまりに変です――、「折るなら当て推量で折ろうか」も、結局のところ「当て推量で折ってみる以外に折れないよ」という気持ちを遠回しに述べたものと解することになると思います。
しかしそうだとしても、「心あてに折らばや折らむ」と「折るなら当て推量で折ろうか」とでは言い方が決定的に異なります。ことは係助詞の用法に、あるいは、語用論にいう「焦点」(focus)に関わります。
例えば、誰がそう言ったのかが問題になっている時の「彼がそう言った」では「彼」が焦点であり、彼がどう言ったかが問題になっている時の「彼がそう言った」では「そう」が焦点です。二つの「彼がそう言った」では強く言われるところ(「プロミネンス」と呼ばれます)が違います。「ぞ」「なむ」「や」「か」「こそ」のような係助詞が多く焦点に付くことは周知で――focus
marker〔焦点標識〕としての係助詞――、「年のうちに」の歌でも二つの「や」が焦点に付いています。こういう「や」は訳す時には文末の「か」にすればよいと承知しているだけでは不十分です。平安時代の京ことばそのものになじまなくてはなりません。
ちなみにフォーカス・マーカーとしての係助詞は時に焦点の終わりにではなく焦点のただ中に現れます。例えばさきほど見た『源氏』の一節「見やつけたまはむ」は「見つけやしたまはむ」(みいい とぅけやあ しい たまふぁム)と同じ意味の言い方で、「見」だけが焦点なのではありません。「すべて言ひ続けば、ことごとしう、うたてぞなりぬべき人の御さまなりける」(源氏・桐壺。しゅンべて いふぃ とぅンどぅけンば、ことンごとしう、うたてンじょ なりぬンべきい ふぃとの おふぉムしゃまなりける。すっかり列挙しようとしたらとんでもないことになってしまいそうなご様子です)なども、「うたてなりぬべき人の御様にぞありける」(うたて なりぬンべきい ふぃとの おふぉムしゃまにンじょ ありける)のほうが構文上は納得しやすい言い方をしていますけれど(「御さまにぞ」は「ありける」を修飾しているが「うたて(ぞ)」はそうでない)、係助詞「ぞ」が申さば焦点の中の焦点である「うたて」に付いています。しかし係助詞が焦点より前に出てしまうことはないようです。プロミネンスの位置をみだりに変えられないことを思えば、これは当然です(未熟なアナウンサーが時々そうしてしまうのを思い出されるかたもいらっしゃるでしょう)。
さて「折るなら当て推量で折ろうか」を躬恒の歌の文脈においた場合、「当て推量で」が焦点で(現代の書き言葉としての日本語では焦点は傍点のようなものによって示すしかありません)、実際、普通そこが強く発音されるはずです。他方、歌は「心あてにや」ではなく「心あてに折らばや」という言い方をしています。「心あてに」ではなく「心あてに折らば」が焦点です。ポエティック・ライセンスということを考慮に入れても話は変わらないので、いくら音数律があるからといっても、「思ひいづる」では六文字になってしまうから最後の「る」を省くといったことはなされないように、「心あてにや折らば折らむ」としたのでは字数が整わないので「心あてに折らばや折らむ」とするというようなことは考えられないと思います。仮に同趣の例がいくらかでも発見されるようなら見解を変えるにやぶさかではありませんけれど、その必要が生じることはないでしょう。
「心あてに」の歌では「心あてに」は「折らば」を修飾していて、「心あてに」ではなく「心あてに折らば」が焦点であり「や」はその焦点についていると見るのが、内容からも、語法からも自然です。「霜中の白菊は、当て推量で折ってみるならば折れるかもしれない」における「当て推量で折ってみるならば」もまた、焦点です。
霜中の白菊は、当て推量で試みるよりほかに手折りようはないだろう。通行の古典文法の概説書が総じて言い及ばないような、しかし言い及んでもよいだろうような数個の言語事実が、こうした意味の歌と見てよいことを支持してくれます。
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2 少し春ある [「名歌新釈」冒頭に戻る]
「少し春ある心地こそすれ」(しゅこし ふぁるう ある ここてぃこしょ しゅれ)は、言い方を裏返しにした「少ししか春らしい気持ちがしない」を意味できます。
その実例が『公任集』に見えています。それによれば、ある年の春のはじめ、公任から「少し春ある心地こそすれ」という七七を贈られた或る人は、「吹きそむる風もぬるまぬ山里は」(ふきい しょむる かンじぇも ぬるまぬ やまンじゃとふぁ)と返しました。吹きはじめる春風が、春風とは名のみの、まだひえびえとしたものであるこの山里では、少ししか春らしい気持ちがしない、という意味の歌が合作されたことになります。注釈者の説くとおり、公任の七七は『白氏文集』の「三時空冷ヤカニシテ多ク雪ヲ飛バシ、二月山寒クシテ少シ春有リ」(しゃムじい しょら ふぃややかにしいて おふぉく ゆうきうぉ とンばし、にいンぐわてぃ やま しゃむくしいて しゅこし ふぁるう ありい)に拠ったようで――この「少シ春アリ」も裏返しにして解すべきものです。現代語でも「近来まれに見る」など言いますけれど、これも漢文から来た言い方と申せて、これは「近頃めったに見ない」というほうがしっくりくる言い方です。なお「少シク春有リ」と訓読する向きもありますが、平安中期には「少しく」とは言わなかったようです――、
公任が「三時」云々を踏まえた上の句を要求したのだとすれば、「吹きそむる」と詠んだ人はその要求には答えなかったことになります。
他方、清少納言は答えました。『枕草子』の「二月つごもり頃に」の段(角川文庫では第百二段。きしゃらンぎ〔仮にやまとことばで読んでおきます〕 とぅンごもりンごろに)によれば、今の暦で言うなら三月の末ないし四月のはじめの、風がひどく吹き、空は真っ黒な上に、雪の少しうち散る或る日、宮中の黒戸(くろど。くろンど)というところに来た文(ふみ)づかいが、公任様からのお手紙ですと言って少納言に紙を差し出しました。紙にはただ「少し春ある心地こそすれ」とあります。少納言は「空寒み花にまがへて散る雪に」(しょら しゃむみ ふぁなに まンがふぇて てぃる ゆうきに。空が冷たく、花に見まごう様子で散る雪のせいで)と返しました。白楽天を踏まえたことは明らかですけれども、工夫は、定石とは言いながら雪を花に見立てたところにあるでしょう。身体感覚の観点からは少しも春らしくありませんが、雪を花に見立てるならば、うち散る雪は春を思わせるものに変じます。この場合、「少し春ある心地こそすれ」は裏返しに解するには及びません。
それにしても、このやりとりを記した『枕草子』の一節には、「『これ、公任の宰相殿の』とてあるを見れば、懐紙(ふところがみ)に『少し春ある心地こそすれ』とあるは(=トアルガ、コレハ)、げに今日の気色にいとよう合ひたるを、これが本(もと)はいかでか付くべからむと思ひわづらひぬ」(「これ、きムたふの しゃいしやうンどのの」とて あるうぉ みれンば、ふところンがみに、/ しゅこし ふぁるう ある ここてぃこしょ しゅれ /と あるふぁ、げに けふの けしきに いと よおう あふぃたるうぉ、これンが もとふぁ いかンでかあ とぅくンべからムと おもふぃい わンどぅらふぃぬう)とありますけれども、この「げに今日のけしきにいとよう合ひたるを」は、どういうことでしょう。
春も半ばをとうに過ぎたというのに「風いたう吹きて、空いみじう黒きに、雪すこしうち散りたる」(かンじぇ いたう ふきて
しょら いみンじう くろきいに ゆうき しゅこし うてぃい てぃりたる)日です。
そんな日に「少し春ある心地こそすれ」という句を贈られて「げに今日のけしきにいとよう合ひたるを」と思うということは、どういうことでしょう。
彼女は公任の七七をみて、即座に、この雪を花に見立てれば今日はなるほど少し春めいていると言えるから、この七七は確かに今日の空模様によく合っている、と思ったのでしょうか。しかしそれならば、すでに上の句の付け方の方針はさだまっているわけで、上の句はどう付けたらよいのだろうかと思いなやむには及ばないはずです。
例えば「この料理はまずい」という意味で「この料理は何てうまいんだ」と言うことができます。アイロニーです。清少納言は「まあ何てぴったりなんでしょう」と思ったのですが、それは「ぜんぜん合っていないじゃないの」という意味でだった、ということだと思います。
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3 春や昔の [「名歌新釈」冒頭に戻る]
何となく分かったつもりになっていましたけれど、見直してみて、見直してよかったと思いました。昔、東(ひむがし)の五条に大后(おほきさい)の宮おはしましける、(ソノ)西の対(たい)に住む人ありけり。それを(=ソノ人ヲ)、本意にはあらで心ざし深かりける人(=アル偶然ガキッカケデ深ク愛シテシマッタ人ガ)、行きとぶらひけるを、(西ノ対ニ住ム人ハ)むつきの十日ばかりのほどに、ほかに隠れにけり。あり所は聞けど、人の行きかよふべき所にもあらざりければ、(男ハ)なほ憂しと思ひつつなむありける。またの年のむつきに、梅の花ざかりに、去年(こぞ)を恋ひて行きて、立ちて見、居て見、見れど、去年に似るべくもあらず。うち泣きて、あばらなる板敷に月のかたぶくまで伏せりて、去年を思ひいでて詠める、
月やあらぬ春や昔の春ならぬ我が身ひとつはもとの身にして
と詠みて、夜(よ)のほのぼのと明くるに、泣く泣く(=泣キナガラ)帰りにけり。伊勢物語第四段
むかし、ふぃムがしの ごおンでふに おふぉきしゃきの みや おふぁしましける、にしの たいに しゅむ ふぃと ありけり。しょれうぉ、ふぉんいにふぁ あらンで こころンじゃし ふかかりける ふぃと、ゆき とンぶらふぃけるうぉ、むとぅきの とうぉかンばかりの ふぉンどに、ふぉかに かくれにけり。ありンどころふぁ きけンど、ふぃとの ゆき かよふ ところにも あらンじゃりけれンば、なふぉお うしいと おもふぃとぅとぅなムう ありける。
またの としの むとぅきに、ムめの ふぁなンじゃかりに、
こンじょうぉ こふぃて ゆきて、たてぃて みいい、うぃいて みいい、みれンど、こンじょに にるンべくもお あらンじゅ。うてぃい なきて、あンばらなる
いたンじきに とぅきの かたンぶくまンで ふしぇりて、こンじょうぉ おもふぃい いンでて よめる、/ とぅきやあ あらぬ ふぁるうやあ むかしの ふぁるうならぬ わあンがあ みい ふぃととぅふぁ もとの みいにい しいて/と よみて、よおのお ふぉのふぉのと あくるに、なく なく かふぇりにけり。
愛する女(ひと)が自分には近づきようのないところに行ってしまったその翌年の春の梅の花ざかりの頃、男が去年を恋しく思って、その女(ひと)のもとのすみかに行き、「月やあらぬ…」と詠んだのでした、と言っています。
この歌は一般に、この月は去年とは違う月なのか、違う月らしい(「あらず」〔あらンじゅ〕は熟語として「違う」を意味できます)、この春は昔の春、去年の春でないのか、どうやら昔の春、去年の春ではないらしい、しかし我が身ばかりはもとのままだ、と解されることが多いようですけれども、この解し方は、よくよく考えてみれば、随分と奇妙ではないでしょうか。
月や春が去年とちがってしまったとすれば、それは愛する人の不在によって、月や春が去年のそれらとはちがってしまったように思われるということでなくてはなりません。それならば、愛する人に近づけなくなってしまった人は、月や春は去年とちがってしまったが我が身ばかりは去年と同じだとは詠まないでしょう。愛する人の不在は月や春ばかりでなく我が身も去年とは異なるものにしてしまった、と彼は詠まなくてはならないはずです。
反対側から言っても同じ。我が身ばかりはもとのままであると詠み手が言っているとしたら、それは物理的な意味においてでしょう。しかしそれならば、月も春も、物理的には去年のそれらと同じです。
歌は、私も月も春も去年と同じだ、と言っているか、私も月も春も去年とは違ってしまっている、と言っているかだと思います。ではどちらでしょう。
改めて申せば、『伊勢』によれば歌は「梅の花ざかりに、去年(こぞ)を恋ひて行きて、立ちて見、居て見、見れど、去年に似るべくもあらず。うち泣きて、あばらなる板敷に月のかたぶくまで伏せりて、去年を思ひいでて詠める」ものです。詠み手は何を見て「去年に似るべくもあらず」と言っているのでしょう。一つには今いる、今はあばら屋である西の対で(一年で陋屋と化するとは思えません。誇張されているのでしょう)、これは物理的にちがってしまっているわけですが、彼の視界には盛りに咲いている梅の花なども入っているわけで、こちらは物理的には去年と同じです。『古今』ではこの歌には、「(前略)梅の花、さかりに、月のおもしろかりける夜、去年を恋ひて、かの西の対に行きて、月のかたぶくまで、あばらなる板敷に伏せりて詠める」(ムめの ふぁな、しゃかりに、とぅきの おもしろかりける よお、こンじょうぉ こふぃて、かあのお にしの たいに ゆきて、とぅきの かたンぶくまンで、あンばらなる いたンじきに ふしぇりて よめる)という詞書が付けられていて、詠み手の視界には月もあったと読めます。すると、どちらかと申せば〝「違っている」説〟の方がよいのではないでしょうか。西の対があばら屋と化していたのをきっかけに、詠み手は変わってしまったのはここだけかと自問し、倒置法を用いたこんな言い方を得ました。わが身ばかりはもとのままで月は去年の月とちがうのか? わが身ばかりはもとのままで春は昔の春ではないのか? いやそうではない。月も、春も、わが身も去年とは違ってしまっている。
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4 疑問的推量 [「名歌新釈」冒頭に戻る]
心だにいかなる身にかかなふらむ思ひ知れども思ひ知られず こころンだに いかなる みいにかあ かなふらム おもふぃい しれンどもお おもふぃい しられンじゅ
私家集に収める紫式部の歌です。研究者による解釈を、四つ書き写してみます。いずれも随分と奇っ怪な日本語であり、また、もとの歌の物の言い方から随分と離れています。
(自分のような)つまらぬ者の心でも、どのような身の上になれば満足するというのだろう。どんな境遇になったところで、心というものは充たされないものだと解っていながら、とてもそうは諦め切れないものだ。
心は生まれながらにある自分のものだから、せめて自分の心だけは、自分の思う通りにしたいのだが、それはどんな境遇になれば、可能なのだろう。どんな境遇になったとて、思う通りにはならないものと知ってはいるが、悟り切っては、しまえない。
せめて私の取るに足らない心なりと、どんな身の上になったらこれに適合するのだろうか。どんな身の上になっても適合できないだろうと分ってはいるのだが、悟りきれないことだ。
私のような者の心でさえ、どのような身の上になったら満足する時があるだろうか、どんな境遇になっても満足することはないものだと解ってはいるのだが、諦め切れないことだ。
「心だに」の歌は、「身を思はずなりと嘆くことの、やうやう、なのめに、ひたぶるのさまなるを思ひける」(みいうぉお おもふぁンじゅなりいと なンげく ことの、やうやう、なのめに、ふぃたンぶるの しゃまなるうぉ おもふぃける)という詞書を持つ二つの歌の二つ目です。詞書は、「現下の境遇をこんなはずではなかったと嘆くことが、しだいに、ある時はそうひどくない程度のものに、またある時は尋常でないものになる、そのことを思った歌」といった意味に解されます。「なのめに、ひたぶるの」のところを長たらしく訳したのは、例えば、「世のしづかならぬことは、かならず政(まつりごと)の直くゆがめるにもよりはべらず」(源氏・薄雲。よおのお しンどぅかならぬ ことふぁ、かならンじゅ まとぅりンごとの なふぉく ゆンがめるにも より ふぁムべらンじゅ。世の中が穏やかでないことは、必ずしも政治がある時はまっとうでありある時はゆがんでいることに依るのではございません)といった言い方に見られるのと同趣の語法が使われていると見たからです。ちなみにその一つ目は「数ならぬ心に身をばまかせねど身にしたがふは心なりけり」(かンじゅならぬ こころに みいうぉンば まかしぇねンど みいにい したンがふふぁ こころなりけり)というもので、私のような数ならぬ者は自分の境遇を自分の心にまかせることはできないけれども、心の方が、境遇に従おうとするものなのだなあ、と言っています。心が理想とする境遇に身を置くことはできないが、心の方が現下の境遇に甘んじるものなのだなあ、というのですから、現下の境遇をこんなはずではなかったと嘆くことがそうひどくない程度のものである時の歌、と言えると思います。ですから「なのめに」のところを「ある時は…」としたのですが、果たして二つ目の歌は、現在の境遇をこんなはずではなかったと嘆くことが尋常でないものになった時の歌であるようです。
自分の境遇というものは自分の心の望むとおりにはならないとしても、私の心は、何かしらの境遇には合っているだろう。いくらそう得心しようとしても、得心できない。式部はこう詠んだのだと思います。どう考えても自分に合う境遇などないのだ。私はどんな境遇にあっても不幸なのだ。そんなふうにしか思えない。そう詠まれているのだと思います。ちなみに、「おのが身のおのが心にかなはぬを思はばものを思ひ知りなむ」(おのンが みいのお おのンが こころに かなふぁぬうぉ おもふぁンば ものうぉ おもふぃい しりなムう)と和泉式部が詠んでいます(『和泉式部集』)。自分の境遇は自分の心の望むとおりにはならないということをしっかりと考えたら、きっと悟れるだろう。紫式部の歌との先後関係はわかりません。
いくつか語法を確認してみます。まず、古くは動詞は「試行」を示せたので、「思ひ知れども」は「思い知ろうとするが」「得心しようとするが」を意味できます。次に、「だに」には「…さえ」という意味と「せめて…だけでも」という意味とがあると説明されることが多いわけですけれども、二つ目の「せめて…だけでも」は、この用法における「だに」の訳語として万能のものではありません。例えば源氏・夕顔で光る源氏が夕顔に「今だに名のりしたまへ」(いまンだに なのり しい たまふぇえ)と言うのは、「せめて今、あなたが誰なのかおっしゃってください」ということであって、これを「せめて今だけでも」云々など訳すことはできません。「せめて今、あなたが誰なのかおっしゃる、ということだけでもしてください」などは訳せますけれども、わざわざそうする必要はありません。例えば「せめておにぎりだけでも食べたい」という気持ちはたんに「おにぎりは食べたい」と言っても出るわけで、「心だにいかなる身にかかなふらむ」における「だに」の意味は、「自分の境遇というものは自分の心の望むとおりにはならないとしても、私の心は何かしらの境遇には合っているだろう」という言い方で十分に出ています。
最後に、ここが最大のポイントですが、「いかなる身にかかなふらむ」は、「どのような境遇に合っているのだろうか」を意味するほかに、「何かしらの境遇には合っているだろう」「何かしらの境遇には合っているのではないだろうか」も意味できます。例えば源氏・柏木で、光る源氏にひどくうとまれてしまったことを苦にする柏木は、夕霧に、改まった調子でこう言います。
人数(ひとかず)にはおぼしいれざりけめど、いわけなうはべし時より深くたのみ申す心のはべりしを、いかなる讒言(ざうげん)などのありけるにかと、これなむ、この世のうれへにて残りはべるべければ(以下略) ふぃとかンじゅにふぁ おンぼしい いれンじゃりけめンど、いわけなあう ふぁムべっし ときより ふかく たのみい まうしゅ こころの ふぁムべりしうぉ、いかなる じゃあムげん なあンどの ありけるにかあと、これなムう、こおのお よおのお うれふぇにて のこりい ふぁムべるンべけれンば。「いわけなし」は「いはけなし」かもしれないとされる、詳細不明の形容詞です。アクセントも、仮に「弱し」(よわしい)と結び付けてみてのあやふやな推定です。 この形容詞に由来するとされる「鰯」は「いわし」で、「いわけなし」も「いわけなしい」などかもしれません。 それくらいあやふやです。なおこの「なし」「無し」ではなく「甚だしい」といった意味のそれでしょうけれども、アクセントは「無し」と同じと見られます。
あなたのお父様は、私のことなど物の数にお入れにならなかったでしょうけれども、私の方はと言えば、幼かった頃より深くご信頼申しあげる気持ちがございました。(今、ご不興を買ってしまっていることに関しては)何らかの讒言などがあったのだろうと、これがこの世における悲しみとして晴れぬまま残りそうでございますので。こんなことが言われています。「いかなる讒言などのありけるにか」は文脈上、「どういう讒言などがあったのだろうか」という意味には解せません。何かしらの讒言のあったことは確かだけれどもそれがいかなるものだったかは分らないと柏木は言おうとした、とは考えられません。
疑問詞付きの疑問文「いかなる讒言などがあったのだろうか」に対して、「何らかの讒言などがあったのだろう」「何らかの讒言などがあったのではないだろうか」というような言い方を、「疑問的推量」と呼ぶことにします。疑問詞付きの疑問文とこれに対応する疑問的推量文とは、語形こそ似ているものの、意味はずいぶん異なります。例えば英訳しようとしてみると、それがよくわかります(what calumny/some calumny)。しかし平安時代の京ことばでは、どうやら、現代語では区別するところの、疑問詞付きの疑問文と、これに対応する疑問的推量文とを、形の上で特に区別しないようです。実例には事欠きません。三つほど並べておきます。
まず、源氏・若菜下の一節に読まれる朱雀院の心中思惟。我が娘・女三の宮を光る源氏がないがしろにしていると聞いた院は、最終的に、「(紫ノ上ガ病ニ倒レテ臥セッテイタ頃)便(びん)なきことやいできたりけむ。みづから知りたまふことならねど、よからぬ御うしろみどもの心にて、いかなることかありけむ」(びんなきい ことやあ いンでえ きいたりけム。みンどぅから しり たまふ ことならねンど、よおからぬ おふぉムうしろみンどもの こころにて、いかなる ことかあ ありけム)と考えます。しかじかの頃、娘に関して何か問題が生じたのではないか、娘自身の関知するところでなくても、よからぬ世話役の女房どもの一存で、何らかのことがあったのではないだろうか、と言っています。
次に、同・椎が本(もと)に、「かかることには涙もいづちか往(い)にけむ、(姫君タチハ)ただうつぶし臥したまへり」(かかる ことにふぁ なみンだも いンどぅてぃかあ いにけム、たンだあ うとぅンぶし ふしい たまふぇり)とあるのは、かような――肉親の死というような――出来事に際しては、涙もどこかに行ってしまったのだろう、ただただうつぶしていらっしゃいます、という意味です。
最後に、同・手習に、素性を知らないまま浮舟を世話するようになった横川(よかわ)の僧都の妹の心中を叙して、「かぐや姫を見つけたりけむ竹取の翁よりもめづらしき心地するに、いかなるもののひまに消えうせむとすらむと、しづ心なくぞおぼしける」(かンぐやふぃめうぉ みいい とぅけたりけム たけとりの おきなよりもお めンどぅらしきい ここてぃ しゅるに、いかなる ものの ふぃまに きいぇ うしぇムうと しゅうらムと、しンどぅンごころ なあくンじょお おンぼしける)とあるのは、かぐや姫を見つけたという竹取の翁よりもなおうれしい気持ちがするにつけて、何か目をひょいと離したすきに――逐語的には、何らかのちょっとしたすきに――消えうせてしまうのではないだろうかと落ち着かなかったそうです、と言っています。
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5 雲のなごり [「名歌新釈」冒頭に戻る]
夕暮はいづれの雲のなごりとて花たちばなに風の吹くらむ
定家の歌です。「仁和寺宮五十首」(建久九年〔1198〕)のうちの「夏七首」の一つで、新古今・夏にも収められています(247)。くりかえせば夏の歌です。詳細は「『源氏物語』を成立当時の…」に譲りますが、詠み手はこの歌を「ゆうンぐれわ いンどぅれの くもの なンごりとて ふぁなたてぃンばなに かンじぇの ふくらム」といったように発音したと思います。平安中期には「ゆふンぐれふぁ いンどぅれの くもの なンごりとて ふぁなたてぃンばなに かンじぇの ふくらム」といったように発音されていたものが次第に変化してそうなったと見られます。以下書きつける発音・アクセントは、いずれも平安中期のものです。詳細は御面倒でも「『源氏物語』を成立当時の…」をご覧ください
一首は疑問詞付きの疑問文ではなく疑問的推量文であって、さしあたりほぼ逐語的に「夕暮には、どこかの雲のなごりとして橘の花に風が吹いているのではないだろうか」と翻訳できます(古くは「は」のような係助詞に先立つ格助詞「に」は省けました)。「夕暮には、どこの雲のなごりとして橘の花に風が吹いているのだろう」と解するのは、橘の花に風の吹くのはどこかの雲のなごりとしてだ、と断ずる根拠のない以上、不自然でしょう。
ちなみに、「いづれの」が「どちらの方角の」「どこの」を意味できることは、例えば次から知られます。ほととぎす深山(みやま)いづなる初声をいづれの宿の誰(たれ)か聞くらむ(新古今・夏192)。ふぉととンぎしゅ みやま いどぅなる ふぁとぅこうぇえうぉ いンどぅれの やンどの たれかあ きくらム。「初(はつ)何々」は一つの複合名詞で、複合名詞の後部成素はもともとの単純名詞のアクセントを保たないことも多いのですけれども、「初声」では、信頼できる古文献(図書寮本『類聚名義抄』)が「初孫(はつむまご)」を「ふぁとぅムまンご」と発音されるとするのなどに拠れば、もとの「こうぇえ」というアクセントが保たれます。
さて、「花たちばな」が登場する以上「さつき待つ花たちばなの香をかげば昔の人の袖の香ぞする」(古今・夏139・詠み人知らず。しゃとぅき まとぅ ふぁなたてぃンばなの かあうぉお かンげンば むかしの ふぃとの しょンでの かあンじょお しゅる)を踏まえたものではないかと考えるのは確かに王朝和歌を読む時の定石であり、また、王朝和歌においてしばしば雲が、荼毘(だび)によって生じたけぶりの凝(こ)って出来たものと見なされることも周知で、例えば「見し人のけぶりを雲とながむればゆふべの空もむつましきかな」(みいしい ふぃとの けンぶりうぉ くもと なンがむれンば ゆふンべの しょらも むとぅましきいかなあ)と光る源氏が詠んでいます(源氏・夕顔)。こうしたところから「夕暮は」の歌は、通例、夕暮、花橘に風の吹いているのは、私の昔の恋人を荼毘に付したけぶりが凝って出来た雲を吹いた、そのなごりとしてではないか、というような意味に解されます。はやく『美濃の家づと』において宣長がそうしています。
しかしながら、風が吹いて橘の花の香りがしたことから自分の昔の恋人を思うのは古典和歌の読みとしてごく自然ではあっても、風が吹いて橘の花の香りがしたことから、きっと私の昔の恋人がなくなったのだ、この風は、私の昔の恋人を荼毘に付したけぶりが雲と化す、それを吹いたなごりなのだ、と考えを進めるのは、古典和歌の読みとしても強引に過ぎると思います。往時の歌人たちにとっては、そうした、現代人にとってはあまり突飛な連想も自然だった、と考うべき根拠があるとは思えません。古人にとっても風はみんなに吹くものだったでしょう。
或るもののなごりとは、その或るもの自体はすでにないがその或るものの気配や影響が残っていること、ないしその或るものの気配や影響そのものを言います。例えば、「おのづから涼しくもあるか夏ごろも日もゆふぐれの雨のなごりに」(新古今・夏264・清輔。おのンどぅから しゅンじゅしくもお あるかあ なとぅンごろも ふぃいもお ゆふンぐれの あめえの なンごりに)は、すでに夕立はやんだがその名残で涼しい、夕立というすでにないものの影響で涼しい、と言っています。さて「なごり」がそういうものだとすると、荼毘のけぶりが雲と化したその雲のなごりとして風が吹く、ということがあるでしょうか。荼毘のけぶりが凝って出来た雲はすでにないけれども、その影響として風が吹く、ということがあるでしょうか。
「夕暮は」の歌は夏の歌なのでした。この歌は、今しがた引いた清輔の「おのづから」の歌や、相模の「さみだれの空なつかしくにほふかな花たちばなに風や吹くらむ」(後拾遺・夏214。しゃみンだれの しょら なとぅかしく にふぉふかなあ ふぁなたてぃンばなに かンじぇやあ ふくらム)や、俊成の「雨ののち花たちばなを吹く風に露さへにほふ夕暮の空」(長秋詠藻。あめえののてぃ ふぁなたてぃンばなうぉ ふく かンじぇに とぅゆうしゃふぇ にふぉふ ゆふンぐれの しょら)を、あるいはこれらの歌が拠って立つところの一連のイメージ群を念頭に置いて解すべきなのではないでしょうか。この歌における「雲」は、夕立を降らせた雲ではないでしょうか。
夕暮、涼しい風が吹き、橘の花の香りがする。このあたりには夕立は降らなかったけれども、夕立を降らせる雲がどこか近くを通り過ぎたのではないか。その名残として、いま、涼しい風が橘の花に吹いているのではないか。それとは言わずに、雨や、涼しさや、橘の花の香りを思わせる歌。そう考えるなら、この歌は「きわめて難解な歌」(久保田淳『藤原定家』〔ちくま学芸文庫〕)ではないのではないでしょうか。
そう解したうえで、橘の花の香りをかいだ詠み手は懐旧の情にひたったにちがいない、と想像してもよいと思いますけれど、必ずそうしなくてはならないとは思いません。相模の「さみだれの空」の歌も、俊成の「雨ののち」の歌も、特に「さつきまつ」の歌を踏まえて解する必要はなさそうです。
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