委託法、および、状態命題 [トップページに戻る]

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1 用語を導入し仮説を提示する
2 うらうらと
3 うららかに
4 場所と様態と
5 いかに散れとか
6 散れば惜しくぞ
7 まとめ

1 用語を導入し仮説を提示する [「委託法…」冒頭に戻る]

 例えば、「どんなふうに青いか」に対して「美しく青い」と答えることは可能ですから、「美しく青い川」の「美しく」は、用言「青い」を修飾する連用修飾語たりえますけれども、しかし「美しく青い川」は、「美しい、そして青い川」に近い意味のものとして使われることが多いでしょう。さて「美しい、そして青い川」に近い意味の「美しく青い川」における「美しく」は、意味的には「川」を修飾しているものの、「美しく川」とは言えないのですから、そのものとしては「川」を修飾できません。「美しく青い川」の「美しく」が、いかなる川であるかを述べる言葉でいられるのは、続く「青い」が「川」を修飾する連体修飾語だからです。同様に、「その川は、美しく、青い。」の「美しく」が述語として機能できるのは、「青い」が述語として機能できるからです。これらにおいて「美しく」は、みずからがいかなる意味のものとしてそこにあるかをみずから確定することはせず、それを続く「青い」にまかせてしまいます。
 ある語句が、みずからの意味論的なありようの確定を後続の語句にまかせることは、現代語よりも平安時代の京ことばにおいて、一層さかんにおこなわれたようです。例えば源氏・若紫に「かかるありさまもならひたまはず所せき御身にて」――参考までに平安中期の発音・アクセントを記せば(以下もそうします。詳細は御面倒でも『源氏物語を成立当時の…』をご覧ください)、「 ありしゃまお ならふぃい たまふぁンじゅ ところしぇきい おふぉムみいにて」。太字は高く言われることを示します。「ム」は 母音を伴う mu ではなく子音だけの m です。このことや、「ン」のことなど、詳細については、御面倒でも「『源氏物語』を成立当時の…」をご覧ください――とあるのは、「こうした景色に慣れ親しまれることもない窮屈なご境遇で」という意味です。引用は青表紙本の言い方で、河内本は「ならひたまはず」を「ならひたまはぬ」(ならふぃい たまふぁ)としますけれど、意味は変わりません。例えば「思うように行動できぬ窮屈な境遇」は、古風な現代語として問題のない言い方です。しかしこれと同じような意味で「思うように行動できず窮屈な境遇」と言うことは、古風な現代語としてもあまりないのではないでしょうか。例えば「私には理解できぬ奇妙な文章」とは異なり「私には理解できず奇妙な文章」は不文でしょう。「思うように行動できず窮屈な境遇」はせいぜい「…行動できず、それゆえ窮屈な」という意味で使われそうです。また、「思うように行動できない窮屈な境遇」とは言っても、「思うように行動できなく窮屈な境遇」は文法的に問題のある言い方です。平安時代の京ことばでは、「思うように行動できない窮屈な境遇」という意味で「かかるありさまもならひたまはず所せき御身にて」と言うことが問題なくできます。次はその二例。

 うつつにも似(たけ)く厳(いか)きひたぶるごころいで来て 源氏・葵(あふふぃ)(うとぅとぅににいンじゅう たく いかい ふぃたンぶるンごろ〔末二拍推定〕いンえ きいて。正常とは思われないたけだけしく荒々しい気持ちが生じて来て)

 物の心得ひがひがしき人は、立ちまじらふにつけて、人のためさへからきことありかし。同・若菜上(わかな じやう)(ものの ここ いぇンじゅう ふぃンがふぃンがしふぃふぁ、たてぃい まンじらふに とぅけてふぃとの しゃふぇ からい こと あい。物の道理の分からないひねくれ者は、人との交際において、人にまでいやな思いをさせがちですね)

 現在通行の日本語文法の枠組みによれば、「美しい、そして青い川」に近い意味の「美しく青い川」における「美しく」や、源氏・若紫の「かかるありさまもならひたまはず所せき御身にて」の「ず」のようなものは、「連用中止法」で用いられている、ということになります。上の「美しく」や「ず」は連用形であり、かつ、それらのところで〝表現が中止されて〟いる、そこでかような用法をそう呼ぶ、ということのようです。
 しかし、どうでしょうか。例えば「美しく」が連用修飾語である場合の「美しく青い川」の「美しく」では〝表現が中止されて〟おらず、「美しく」が意味上は「青い」とともに「川」を修飾する場合の「美しく」では〝表現が中止されて〟いる、というようにこの〝表現を中止する〟という言い方を使うのは、意味のあることでしょうか。それは事のありようを的確に言いあらわしているでしょうか。
 「中止する」ことと、「一時中止する」こととは一般に異なります。「中止」は「一時中止」と異なり通例再開するだろうことを含意しません。「美しい、そして青い」に近い意味の「美しく青い」の「美しく」には、どう見ても〝表現の(無期限の)中止〟は見られませんから、「連用中止法」は、言わば「連用一時中止法」の省略的な言い方と解されますけれども、そう解してもなお、この「連用中止法」という言い方は、「美しい、そして青い川」に近い意味の「美しく青い川」の「美しく」において起こっていることを、うまく言い当てているとは言いにくいと思います。〝表現を中止する〟という言い方の代わりに〝文を中止する〟〝文節を中止する〟といった言い方をする向きもありますが、これらは言い方として一層あいまいでしょう。
 「連用中止法」の「連用」は一般に連用形の一用法とされます。すると「連用中止法」の「連用」もまた、事のありように即したものではありません。今問題にしている語法は、活用語の連用形にのみ見られるものではないからです。
 例えば源氏・桐壺(きりとぅンぼ)の一節において桐壺の更衣の母は、靫負(ゆげい)の命婦(みょうぶ)に、

 目も見えはべらぬに。かくかしこきおほせごとを光にてなむ。(めえお みいぇえ ふぁべらぬにく かしこい おふぉしぇンごとうぉ ふぃかりにてう。涙で目も見えませんのに。とは申せ、このような恐れ多い帝のお言葉を光として拝見させていただきます)

と言います。この「かくかしこき仰せごと」は、「かかる仰せごと」と「かしこき仰せごと」との二つをまとめた言い方だと考えられます。すなわちこの「かく」は「かしこき」を修飾する連用修飾語ではなく、「かしこき」とともに意味上は「仰せごと」を修飾する連体修飾語です。現代語では、「このような恐れ多いお言葉」という意味で「このように恐れ多いお言葉」「こう恐れ多いお言葉」とは普通言いません。「このように恐れ多いお言葉」「こう恐れ多いお言葉」の「このように」「こう」は、「恐れ多い」を修飾するものと解されることが多いでしょう。少し古風な現代語として、時に「こう暑い日は」など言うのは、「このような暑い日は」を意味するのでしょうけれども、これは一つのイディオムとして古い語法が化石的に残存しているのだと思います。
 「桐壺」の「かくかしこき仰せごと」において文法的な次元で起こっているのは、連用修飾語にもなれる「かく」が、みずからの意味論的なありようの確定を続く「かしこき」にまかせ、この「かしこき」とともに連体修飾語として機能する、という事態です。平安時代の京ことばとして、「かく」のこうした使い方は珍しいものではありません。例えば源氏・夕顔(おそらく、ゆふンがふぉ)において、光る源氏の随身も、「花の名は人めきて、かうあやしき垣根になむ咲きはべりける」(ふぁなの ふぁ ふぃとめう あやしかきねにしゃき ふぁりける。花の名はいっぱしの人間めいていながら、このようなみすぼらしい垣根に咲くのでございますね)と言っています。
 一般に副詞は、用言や副詞や文を修飾する不変化詞として定義されます。しかし上のようであってみれば、副詞は常に修飾語として機能するわけではない、と申さなくてはなりません。副詞は再定義されなくてはなりません。
 「桐壺」の「かくかしこき仰せごと」や「夕顔」の「かうあやしき垣根」のような例では、不変化詞である「かく」やその音便形が、後続の言葉とともに意味上は連体修飾語を形づくっています。みずからの意味論的なありようの確定を後続の言葉にまかせることによって、そうしています。それならば、「美しい、そして青い川」に近い意味の「美しく青い川」の「美しく」のようなものと、「かかるかしこき仰せごと」に近い意味の「かくかしこき仰せごと」の「かく」のようなものとに共通する枠組みが求められてよいでしょう。「連用中止法」を包摂するような概念が求められてよいでしょう。
 連用修飾語として機能しうる語句が、みずからの意味論的なありようの確定を後続の語句にまかせてしまうような語法を、「委託法」と呼ぶことにします。「美しい、そして青い川」に近い意味における「美しく青い川」の「美しく」も、源氏・若紫の「かかるありさまもならひたまはず所せき御身にて」における「ず」も、同・桐壺の「かくかしこき仰せごと」における「かく」も、委託法で使われています。標準的な現代語では、「このような恐れ多いお言葉」に近い意味で「こう恐れ多いお言葉」ということは一般的ではありません。標準的な現代語ではそうできないところでも、平安時代の京ことばでは委託法を使うことができます。
 現在通行の日本語文法は、「対偶中止法」という用語も持っています。しかしこの用語は、端的に言って無用でしょう。委託法を使った言い方において、一つの語句が後続部分にみずからの意味論的なありようの確定をまかせる度合には、高低があります。例えば「美しく青い川」が「美しい、そして青い川」に近い意味を持つ場合、「美しく」はただみずからが連体修飾語として機能することを続く「青い」にまかせます。他方、「美しく青かった川」が「美しかった、そして青かった川」に近い意味のものである場合、「美しく」は、連体修飾語として機能することと、過去なり完了なりを示すものとして機能することとの二つを、続く「青かった」にまかせます。「対偶中止法」は、より多くを後続部分にまかせるこの二つ目のような言い方を指す言葉ですが、しかし、一つ目のような言い方と二つ目のような言い方とで、性質の異なる出来事は起こっていません。
 さて平安時代の京ことばには、以下に概観するとおり、委託法で使える語句が少なからずありますけれども、いかなる語句が委託法で使えるかについて、ひとつの統語論上の事実を指摘できるようです。「あり」やその敬語形に終わるところの、意味的には形容詞に類した、人や事物の性質・状態を叙述する表現形式を、「状態形」と呼ぶことにします。すると、この定義のもとで、次のような命題が成り立つと考えられます。

 古代末期の中央語には、「あり」やその敬語形とともに状態形を作れる語句がある。「あり」やその敬語形とともに状態形を作れる語句は、委託法で使うことができる。

 例えば、「かく」(く)のような指示副詞について、この命題が成り立ちます。「かくあり」(く あい)やその縮約形「かかり」(い)は、「こう(ないし、そう)ある」「このように(ないし、そのように)存在する」という意味でも使えますけれど(注)、例えば大鏡(おそらく、おふぉかンみ)・朱雀天皇に「北野におぢ申させたまひてかくありしぞかし」(きたのに おンでぃ まうしゃしぇえ たまふぃて かく ありンじょし)とあるのは、「道真公(の祟り)を怖れてそんなふうあったのじゃ」といった意味であり、また源氏・須磨(しゅま)に、光る源氏が「見るほどだにかかり。ましていかに荒れゆかむ」(みる ふぉンどンい。て いに あゆかム)と思う所のあるのは、私の目の届くあいだでもこうある、まして(私が須磨にしりぞいたら、ここ二条の院は)いかに荒れてゆくだろう、と言っているという具合で、「かくあり」やそのつづまった「かかり」は、「こうある」「このようある」を意味できます(「かくあり」は通例「かかり」につづめられますが、『大鏡』の例がそうだったように、縮約は義務的ではありません)。つまり副詞「かく」は「あり」やその敬語形とともに状態形を作れます(以下、簡潔を欲して、「『あり』やその敬語形とともに状態形を作れる」という代わりに、たんに「状態形を作れる」と言うことが多いでしょう)。次に、源氏・桐壺の「かくかしこき仰せごと」に見られたように、この「かく」は委託法で使うことができます。今考えている命題を「状態命題」と呼ぶことにすれば、今、副詞「かく」について状態命題の成り立つことを確かめたことになります。

注 現代語における三つ組「こう―そう―ああ」に対応するものとして、平安時代の京ことばは「かく―さ・しか」(く―しゃあ・しか)という二(ふた)系統の言い方しか持ちません。このため、「かく=こう」「さ・しか=そう」とすると、「ああ」に対応するものはないことになりますけれども、実際には対応は、「かく=こう・そう」「さ・しか=そう・ああ」というようなものになります。源氏・夕顔で、夕顔が光る源氏に、「かくのたまへど、世づかぬ御もてなしなれば、もの恐ろしくこそあれ」(たまふぇンど、よンどぅかぬ おふぉムもてなしンば、もの おしょろしょ あえ)と言うのは、あなたはそうおっしゃいますけれど、御ふるまいが普通ではありませんから、何だか怖い、ということです。また同・葵で光る源氏が、「何にさることをさださだとけざやかに見聞きけむ」(なにに しゃ ことうぉ しゃンしゃンと けンじゃきけ)と思うのは、六条の御息所(みやすんどころ)の生き霊(りょう)があらわれ物を言ったことについて、なぜあのようなことをはっきりとあざやかに見聞きしてしまったのだろうと悔やんでいるのです。

 現代語「こう」は状態形を作れず(「こうある」は「こうである」「このようである」を意味できません)、また委託法で使うことも普通できません。平安時代の京ことば「かく」における状態命題の成立を確かめることは、平安時代の京ことばには認められ現代語には認められない一つの言語事実の存在を確かめることです。
 「そう・そのように」などを意味する「さ」「しか」について状態命題の成り立つことは、手みじかな確認で十分でしょう。「さなむ世の中はある」(源氏・夕顔。しゃあよおのお かふぁ。世の中はそんなふうです)や、「それ、しかあらじ」(同・帚木〔おそらく、ふぁふぁンぎ〕。しょれ、しか あらンい。それはそうでないだろう)は、「さあり」(しゃあ あい)、「しかあり」(しか あい)やその縮約形「さり」(しゃあい)、「しかり」(しかい)が「そうである」「そのようである」などを意味できることを示します。つまり、「さ」「しか」は状態形を作れます。同・蓬生(よもンぎふ)に聞かれる末摘む花(しゅうぇ とぅむ ふぁな)の台詞「しか名残なきわざ、いかがせむ」(しか なンごり なンじゃ、かンしぇムう。さような、経済的に逼迫(ひっぱく)したからと言って父宮ゆずりの屋敷をさっさと手放すというようなことを、どうしてできようか)は、「しか」を委託法で使えることを示します。
 状態形を作れる語句は少なくなく、またそれらについて統語論的な水準において状態命題が成り立つようであることを、以下に示します。 [「委託法…」冒頭に戻る]


2 うらうらと [「委託法…」冒頭に戻る]

 今昔を問わず日本語には、「うらうらと」「はるばると」のような、畳語(じょうご)に「と」の添うた副詞――「擬態副詞」と呼べるでしょう――が少なからずありますけれども、現代語とは異なり、平安時代の京ことばではそれらは状態形を作れます。

 日のうらうらとある昼つかた 枕草子・日のうらうらと…(ふぃいの ら〔四拍のアクセント推定〕と ある ふぃるとぅかた。日ざしが、うらうらと、といったありさまのお昼頃〔日ざしのうらうらとしたお昼頃・日ざしのうららかなお昼頃〕)

 南の町も通して、はるばるとあれば 源氏・蛍(ふぉた)(みなみの まてぃお とふぉして ふぁンばと あンば〔六条の院の馬場は〕南の町〔=区画〕にも入り込み、はるばると、といったありさまなので〔=向こうの方まで続いているので〕)

 ほのほのとありあけの月の月影にもみぢ吹きおろす山おろしの風 新古今・冬591(ふぉふぉのと ありあけの とぅきの とぅきかン もみンでぃ ふい おろしゅ やまおしの かンじぇ。ほのかに明るい有明の月の光の中、山おろしの風が紅葉を吹きおろす。「ほのぼのとあるありあけの月」をつづめています)

 ちとまどろませたまふともなきに、きらきらとあるものの見えければ 宇治拾遺物語・101・信濃の国の聖のこと(てぃと〔初拍無根拠〕まンどろましぇえ たまうとお ならと〔「と」以外無根拠〕 あものの みいぇけれンば。一瞬うとうととなさったかなさらないかという時に、きらきらするものが見えましたので)

 状態形を作れる「うらうらと」「はるばると」のたぐいが委託法で使えることは、以下の示すとおりです。現代語では普通「広々とした明るい部屋」という意味で「広々と明るい部屋」などは言いませんけれども(「広々と明るい」の「広々と」は「明るい」を修飾する語句でしかありえないでしょう)、事情は今昔で異なります。

 つれづれと暇(いとま)おほかるならひに 枕草子・すさましきもの(しゅしゃましい もの)(とぅれンどぅれ〔後半推定〕と いとま おふぉ ならふぃ。いつも所在なく暇だらけなせいで)

 はるばるとくもりなき庭に立ちいづるほど、はしたなくて 源氏・花の宴(ふぁなの いぇん)(ふぁンばと くもり なにふぁにてぃい いンどぅる ふぉンど、ふぁしたな。広々とした晴れやかな庭に出てゆく時など、きまりが悪くて)

 ほのほのとをかしきあさぼらけに 同・真木柱(おそらく、まきンばしら)(ふぉふぉのと うぉかしい あしゃンぼ。ほのかに明るい、趣ある明け方に)

 広々と荒れたる所の 更級日記(ふぃンびと〔「と」以外無根拠〕 れたる ところの。だだびろく、荒れた所で)

 かすみ立つ末の松山ほのほのと波に離るる横雲の空 新古今・春上37(かすみとぅ しゅうぇの まとぅふぉふぉのと なみ ふぁな るる よこンぐも〔二拍推定〕 しょ。霞の立ちこめる末の松山はほのかに明るく、また同じくほのかに明るい、白波から離れてゆく雲のたなびく空。意味から見て「ほのぼのと」を「波に離るる」を修飾する語句とすることはできないでしょう)

 次にも委託法が見られます。

 つぶつぶと、きよらなり。源氏・横笛(よこンぶいぇ)(とぅンぶとぅンぶ〔推定〕と きり。まるまるとしていて、この上ない美しさです。幼少の薫の形容。「つぶつぶとあり」としても意味は変わりません)

 髪のすそのをかしげさなどは、こまごまと貴(あて)なり(中略)と見たまふ。同・東屋(あンどぅまや)(かみの しゅしょの うぉかしンげしゃふぁまンま〔四拍推定〕と あてい(…)と みい たまう。髪のさきのあたりの見事さなどは、繊細で上品だとご覧になります)

 話を進めて、擬態副詞について言えることは、「わざと」(ンじゃと)、「あまた」(あま)、「ここら・そこら」(こら・しょら)、「うたて」(うたて)、「なほ」(なふぉお)、「いと」(と)のような副詞についても言えるようです。
 「わざわざ・本格的に・正式に・格別に」などを意味する「わざと」は、状態形を作れます。例えば源氏・若菜下(わかな げえ)に「わざとある上手(じゃうず)どものおどろおどろしく掻(か)きたてたる調べ調子に劣らず」(ンじゃと あ じやうンじゅうンもの おンどろおンどろく かい た しらンべ てうし〔三拍推定〕 おとンじゅ)とあるのは、「専門の名人たちがいかめしく掻きたてた曲や調子に劣らず」といった意味の言い方です。同・藤袴(ふンでぃンばかま)で、夕霧が「わざとさる筋の御宮仕へにもあらぬものから」(ンじゃと しゃ しゅンでぃの おふぉムみやンどぅかふぇも あら ものら)云々と言っているのは、「わざと」を委託法で使った例でしょう。「正式な、入内(じゅだい)という形での帝へのご奉公でもないものの」という意味です。
 「あまた」も状態形を作れます。源氏・桐壺に「ただこの人のゆゑにて、あまたさるまじき人のうらみを負ひし果て果ては」(たンこおのお ふぃとの うぇにて あま しゃるまンじふぃとの うらみうぉ おふぃ ふぁてふぁてふぁ)とあります。この「あまた」は、「負ひし」を修飾するものとも解せますけれど、「あまたある」と敷衍できる言い方とも解せます(「ただただこの人のことが原因で、たくさんの、うらみを負わなくてもよい人のうらみを負った、そのあげく」)。うれしいことに、河内本と別本とは、ここを「あまたさるまじき人(々)のうらみを」云々としています。
 「たくさん・大勢・はなはだしく」など意味する「ここら」や「そこら」も、状態形を作れるようです。源氏・竹河(たけかふぁ)に「そこらおとなしき若君達(わかきむだち)」(しょら おとなしきい わかきムだてぃ)とあるのは、「大勢の成人なさった貴公子たち」という意味の言い方と見られます。
 「うたてあり」(うたてい)が「いやだ」「わずらわしい」「気味が悪い」といった意味の言い方であることはよく知られています。つまり副詞「うたて」は状態形を作れます。「うたて男々(をを)しきけはひなどは見えたまはぬ人なれば」(源氏・椎が本〔しふぃンが もと〕。うたて うぉうぉしい けふぁふぃ なふぁいぇえ たまふぁぬ ふぃれンば。「ををし」はこんなふうにも使われたのですね)は、この副詞を委託法で使った例と解することが可能です。引用は薫をめぐる大君(おおいきみ)の心中思惟の一部で、実際例えば『新編日本古典文学全集』が一節を「いやな気強い様子などお見せにならぬお方なので」と翻訳しているのは、この「うたて」を「うたてある」と同義と見ているのだと申せます。
 ただ、上の引用は、「ひどく男々したそぶりをお見せになる、といったことはない人なので」なども、また、「わずらわしいことにも男々したそぶりをお見せになる、といったことはない人なので」なども解せます。つまりここの「うたて」は、委託法で使われたとも、文副詞的な連用修飾語であるとも解せます。例えば、「ひどく、そして下品な悪口」という意味で「ひどく下品な悪口」とすることはできますが、実際には、この言い方では所期の意味が出せそうにないとして――「ひどく」が「下品な」を修飾する言葉に解されてしまうとして――避けられるのではないでしょうか。「うたて」についても同じようなことが言えるかもしれません。しかし、統語論的な水準において、「うたて」が状態形を作れる副詞であり委託法で使いうることは確かだと思われます。
 似たことは「なほ」についても言えるかもしれません。「なほあり」(なふぉお あい)は「平凡だ」を意味することができますけれども(例えば『伊勢物語』第三十九段に「天(あめ)の下の色好みの歌にてはなほぞありける」〔あえのたの いろンごみの にてふぁふぉおンじょお ありける〕とあります)、これは、「平凡で」というような意味の副詞「なほ」があってこの副詞は状態形を作れる、ということです。ただこの「なほ」も、実際には委託法で使いにくいと思われます。
 最後に、「いとあり」を「はなはだしい」「まったくだ」といった意味で使うことはないだろうものの、「格別でもない」「たいそう、といったありさまでない」というような意味で「いとしもあらず」(も あンじゅ)とは言うのでした(平安末期には同じ意味で「いとしもなし」〔も ない〕とも言いました)。例えば『源氏物語』の「葵」と「若菜下」とに、光る源氏の葵の上への、および柏木の落葉の宮への愛情について、 「いとしもあらぬ御こころざし」(も あら おふぉムこころンじゃし)という言い方が見えています。これらにおいて「いと」は状態形を作る副詞としてあると言えると思います。 [「委託法…」冒頭に戻る]


3 うららかに [「委託法…」冒頭に戻る]

 「かく」「さ」「しか」、「広々と」「うらうらと」のたぐい、「わざと」「あまた」以下のいくつかの言葉は、いずれも副詞でした。つまり単独で連用修飾語になれる不変化詞でした。一般に副詞に分類されるさまざまな言葉の中には、状態形を形づくれるものは、もうあまりないかもしれません。例えば「なるほど・道理で」を意味する「むべ」(ムべえ)は純然たる副詞ですが、「道理である」という意味で「むべあり」という例を知りません(「むべなり」〔ムべり〕とは言います)。「むべ」を委託法で使うこともないのでしょう。
 しかし状態形を作れる副詞は、まだ随分とあります。一般にはそれは副詞とされない、というだけです。「うららかに」(うら)、「しづかに」(しンどぅ)のたぐいは、状態形を作れる副詞です。すでに例えば『精選版日本国語大辞典』は、「形容動詞」の項で、「静かなり」のような言い方を「『あり』が『に』を伴う副詞に接合した」ものとします。つまりそこでは「静かに」は副詞と見られています。
 学校文法では「うららかなり」(うらり)は全体で一語の形容動詞であり、「うららかに」(うら)はその連用形の一つということになりますけれども、しかしこれは事のありように即しているとは思われません。
 「うららかである」を意味する「うららかなり」は、「こうである」そのほかを意味する「かかり」などと、また「うららかである」に近い意味の「うらうらとあり」などと、さらには「いやだ」「わずらわしい」などを意味する「うたてあり」などと同形の言い方です。そうである以上、「うららかに」は、それらにおける「かく」「うらうらと」「うたて」などと同じく、不変化詞、限定すれば副詞と見なすことができ、またそう見なすべきです。
 例えば、「日のうららかにさし出(い)でたるほどに」(枕草子・関白殿、二月二十一日に…〔263(角川文庫版。以下同じ)〕。ふぃいの うら しゃい いンる ふぉンど)における「うららかに」のようなものを成心なく見るならば、この言葉を、「海のおもてうらうらと凪ぎわたりて」(源氏・須磨。うの おもて らと なンわた)における「うらうらと」などと同じく、不変化詞、限定すれば副詞とする見方は、奇妙なものとは考えられないはずです。「うららかなり」は何よりもまず「うららかにあり」の縮約形であり、本質的に動詞「あり」を含んでいます。それならば、「うららかに」と「あり」とのつづまったものの取りうる一つの語形に、「うららかに」という、「あり」を含まないものがあるとするのは、不合理です。「うららかなり」がいかなるものかは「うららかに」を持ち出さずには説明できませんけれども、「うららかに」がいかなるものかの説明にこれと「あり」とのつづまった言い方を持ち出す必要はない、という以上に、持ち出すべきではないでしょう。なお、「うららかなり」が何よりも一つの縮約形であることはそれが「うらり」のようなアクセントで言われたことからも知られますけれど、これについては「『源氏物語』を成立当時の…」の「形容詞のアクセント」(Ⅰ、Ⅱ)をご覧ください。
 「うらうらと」を委託法で使えるように、「うららかに」も委託法で使えます。現代語としての「うららかに」は委託法で使えませんけれども――例えば「うららかな気持ちのよい日ざし」の同義表現として「うららかに気持ちのよい日ざし」とは言いませんけれども(「うららかで…」とは言います)――、平安時代の京ことばでは事情は異なっていて、例えば源氏・御法(みのり)に「やよひの十日なれば、花盛りにて、空のけしきなどもうららかにものおもしろく」(やよふぃの とうぉかンば、ふぁなンじゃにて、しょの けしき なお うら もの おもしく。三月十日なので、ちょうど花盛り、空の様子などもうららかで何とはなしに風情があり)といった言い方ができます。「うらうらと」について状態命題が成り立つように、「うららかに」についても状態命題が成り立ちます。
 「うらうらとあり」は縮約形を持ちません。縮約形を持つということでは、「うららかなり」と「かかり」(い)との近さが目を惹きます。状態形「かくあり」(く あい)が通例「かかり」(い)に縮約されるように、「うららかにあり」は通例「うららかなり」に縮約されます。「見てしまう」の縮約形「見ちゃう」がそうであるように、縮約形は時にもとの言い方とニュアンスを異にしますけれども、「うららかにあり」と「うららかなり」とについてはそうは言えません。「かくあり」は時につづまらないのでしたが、例えば古今・秋下271に収める大江千里(おふぉいぇの てぃしゃと)の歌に、「植ゑしとき花待ちどほにありし菊うつろふ秋に逢はむとや見し」(ううぇし とき ふぁな まてぃンどふぉに あり きく うとぅろ あふぁうとあ みいしい)とあるように、「うららかにあり」も時につづまりません。つまり縮約は完全に義務的なわけではありません。委託法で使うことができ、状態命題の成り立つ点でも、「かく」と「うららかに」とは同趣です。「このように」などを意味する「かく」を活用語「かかり」の連用形としたら奇妙でしょう。それならば、「うららかに」を活用語「うららかなり」の連用形とするのも奇妙です。ついでながら、「このようだ」などを意味するイディオム「かかり」を、多くの辞書が一語の動詞(ラ行変格活用の自動詞)として立項します。これも奇妙な処理だと申さなくてはなりませんけれど、とまれかくまれ現在通行の古典文法の枠組みは、「うららかなり」と「かかり」との間に見られる明らかな性質の類似を、適切に表現できません。これらと「うらうらとあり」「うたてあり」などとのそれも、適切に表現できません。
 「いかに」()を経由しても同じことが申せます。「いかに」を〝形容動詞「いかなり」の連用形に由来する副詞〟とする辞書も少なくありませんけれど、上に申した理由でこれは十分奇っ怪であって、広辞苑も岩波古語も精選版日本国語大辞典もそう見るとおり「いかに」は端的に副詞です。さて「いかに」が状態形を作れることは明らかで、例えば「いかなるぞ」(るンじょお)は「どのようあるのだ(どのようなのか)」を意味できます。この「いかなる」は副詞「いかに」と動詞「ある」との縮約形と見るのが自然です。「いかなる」をそう見て、「うららかなり」はそう見ないのは不整合です。
 なお、現代語の「静かだ」「うららかだ」のような言い方は「静かなり」「うららかなり」のような言い方の子孫だとは申せ、すでに一品詞と見るよりほかにないと思われます。しかしそれゆえ「しづかなり」「うららかなり」も一品詞と見るべきだとは申せません。
 副詞「むべ」は状態形を作らず、委託法で使われることもなさそうでした。他方、副詞「うららかに」は状態形でも使い、また委託法で使えます。同じ副詞のなかに、こうした、性質を異にするものがあることを奇異とするには及びません。副詞には「あり」やその敬語形とともに状態形を作れるものと作れないものとがある、そして状態形を作れる副詞は委託法でも使える、というだけのことです。
 改めて確認すると、一般に副詞は「用言や副詞や文を修飾する不変化詞」として理解されていますけれど、副詞のなかには状態形を作れるものも多く、そうした副詞は委託法でも盛んに使われます。委託法とは連用修飾語として機能しうる語句がみずからの意味論的なありようの確定を後続の語句にまかせてしまう語法のことであり、したがって委託法で使われた副詞は連用修飾語ではないのでした。副詞は連用修飾語としてでなく使われることも多いのです。副詞は、「用言や副詞や文を修飾しうる不変化詞」として定義せらるべきでしょう。
 ついでながら、「うららかに」「しづかに」のたぐいは、「いかに」、「まことに」(まことに)、「ひとへに」(ふぃとふぇ)などと同じく副詞と見られますけれども、これらの末尾の「に」は、副詞の一部であるとも格助詞であるとも言えます。品詞分解は、素因数分解のように一意的におこなえるものではありません。「茸(きのこ)」(木の子)や「木(こ)の葉」の「の」は名詞の一部とすることもでき、一語の格助詞とすることもできます。ちなみにそれらは旧都では、それぞれ三語(「木」「の」「子」、「木」「の」「葉」)と見るならば「きい のお こお」、「この のお ふぁあ」と言われ、それぞれ一語と見るならば「きの」「このふぁあ」と言われたでしょう。どちらが一般的だったかは分かりませんけれども、前者が一般的だったとしても、「きの」とは「きい のお こお」のことであり、「このふぁあ」とは「この のお ふぁあ」のことだと言える限りで後者は言わない言い方ではありません。とまれ、「うららかに」「しづかに」「いかに」「まことに」「ひとへに」は歴(れき)とした副詞でもあり、かつまた、「うららか」「しづか」「いか」「まこと」「ひとへ」のような名詞ないしそれに準ずるものが格助詞「に」を従えた言い方でもあるとしてさしつかえありません。高校生にさあどちらと思うかと解答を迫るのは暴挙です。
 不当にも形容動詞と呼ばれるところのものに関連して、もう一つだけ。例えば陽ざしは今いかなる様子で存在するのかという問いに「うららかにあり」と答える場合の「あり」と、「うららかだ」という意味の「うららかにあり」における「あり」とは、性格をまったく同じくするわけではありません。前者が純然たる実質語ないし内容語であるのに対して、後者は機能語としての性格が強いと申せます(英語のbe動詞などでも同趣の二用法を区別できるのでした)。「うららかに存在する」という意味の「うららかにあり」は縮約されないのに対して、「うららかだ」という意味の「うららかにあり」は縮約されることが多いのは、この差を反映しています。
 学校文法によれば、両者の差は、「うららかに存在する」という意味の「うららかにあり」では「うららかに」と「あり」とは「修飾・被修飾の関係」をなし、「うららかだ」という意味の「うららかにあり」ではそれらは「修飾・被修飾の関係」とは異なる「補助・被補助の関係」をなす、ということになりますけれども、これはとんでもない話なので、「うららかだ」を意味する「うららかにあり」においては「うららかに」は「あり」を修飾していないとするのは不当です。いずれにも「修飾・被修飾の関係」が見られるものの、「うららかだ」を意味する「うららかにあり」の「あり」は機能語としての性格が強く、「うららかに存在する」を意味する「うららかにあり」の「あり」はそうでない、というのに過ぎません。なお、「うららかでございます」の「ございます」のようなものが内容語でもあることを思えば、「うららかだ」を意味する「うららかにあり」の「あり」もまた、純然たる機能語ではありえません。
 さて平安時代の日常的な京ことばでは、「多く」(おふぉく)もまた、状態形を作れる副詞だと申せます。周知のとおり、漢文脈ではもっぱら「多し」(おふぉい)が使われるのに対して、和文脈ではもっぱら状態形「多かり」(おふぉい)が使われます。「多かり」が本質的に「多く」と「あり」との縮約形であり一語とすべきでないことは、「おふぉい」というアクセントそのものが示します。
 「高し」(たかい)、「悲し」(かなしい)といった純然たる形容詞の連用形「高く」(たく)、「かなしく」のようなものも、状態形を作れます。これらの形容詞は、自前の語形で間に合う場合、状態形ではなくそれを使うのが普通ですけれども、「あさぢ原玉まく葛(くず)のうらかぜのうら悲しかる秋は来にけり」(後拾遺・秋上236。あしゃンでぃふぁら たま まく くンじゅう のうらかンじぇの うら かなしふぁいにけり)のような言い方もできます。形容詞と同じように活用する「べし」「まじ」の連用形に終わる「…べく」「…まじく」のような言い方や、打消の「ず」の連用形に終わる「…ず」についても、同じことが申せます。打消の「ず」については、すでに「かかるありさまもならひたまはず所せき御身」のような言い方を引いて、委託法で使えることを見ました。 [「委託法…」冒頭に戻る]


4 場所と様態と [「委託法…」冒頭に戻る]

 何かがどこそこにある、誰かがどこそこにいると述べることは、その何かないし誰かのありようについて述べることでしょう。それならば、場所の「に」に終わる語句は状態形を作れるということになります。すると、「どこそこに」という言い方は、平安時代の京ことばでは委託法で使えるのではないでしょうか?
 現代語では、例えば「鎌倉にある材木座という海岸」という意味で「鎌倉に材木座という海岸」などは言いませんけれど、この「鎌倉に材木座という海岸」式の言い方は、平安時代の京ことばとしては言う言い方です。場所を示す格助詞「に」に終わる語句は、状態形を作れます。そしてそうした語句に関して、状態命題が成り立ちます。実例は少なくありません。

 唐土(もろこし)にことことしき名付きたる鳥の、選(え)りてこれ(=桐ノ木)にのみ居(ゐ)るらむ、いみじう心ことなり。枕草子・木の花は〔34。きいのお ふぁなふぁ〕(もろこし ことことしあ とぅる とりの、いぇりて これにのみ うぃるら、いみンう ここり。中国にいる〔ないし、中国の〕、ものものしい名の付いた鳥が――鳳凰のことを言っています――、好んでこれにばっかり棲むそうだなんて、とってもすごい)

 世のはかなきことを嘆く頃、陸奥(みちのく)に名ある所どころ描(か)いたる絵を見て 紫式部集・「見し人の…」(みいしい ふぃとの)の詞書(よおのお ふぁかない ことうぉ なンげく ころ、みてぃくに なあ ある ところンどころ か うぇえうぉおいて。世の中のはかないことを嘆く頃、陸奥の国にある〔ないし、陸奥の国の〕名所の数々を描いた絵を見て)

 いづくに誰(たれ)と聞こえし人の、さる所には、いかでおはせしぞ。 源氏・手習(てなふぃ)(いンどぅくに たれ きこいぇし ふぃとの しゃる ところにふぁンでふぁしぇしンじょ。どこの〔ないし、どこにいらっしゃった〕、人のどうお呼びした人が、あのような所に、どうしていらっしゃったのです)

 この国に安義の橋といふ橋は、いにしへは人行きけるを、(…)今は行く人過ぎずと言ひいでて、人行くことなし。今昔・二七・一三・近江の国の安義の橋の鬼…(あふくにのぎ〔呉音と見ての推定〕の ふぁしの おに…。このおの くににぎの ふぁしと いふ ふぁふぁいにしふぇふぁ ふぃうぉ、(…)いまふぁ ゆく ふぃと しゅンンじゅと ふぃ いンでてふぃゆく こと ない。この国にある〔ないし、この国の〕安義の橋という橋は、昔は人が通りましたけれども、今は無事には渡れないという噂が立って、人が通ろうとしません)

 京にその人の御もとにとて、ふみ書きて、付(つ)く。伊勢物語・九(きやうに しょおのお ふぃとの おふぉムもとにみ かきて、とぅう。京の都のしかじかの人のお住まいに〔お届けください〕と言って、手紙を書いて、〔京に上(のぼ)るという修行者に〕託します)

 この渡し舟に二十余人の渡る者、づぶりと投げかへしぬ。宇治拾遺物語・三六・山伏、舟、祈りかへすこと(やまンぶし、ふ、いのい かふぇしゅ こと。こおのお わたしンぶじふ よにんの わたる もの、どぅンぶり〔(推定)〕と なンえ かふぇしぬう。〔さる山伏が、陸にいる自分を無視して舟を漕ぎ出した船頭に腹を立てて、水際で仁王立ちになり、遠ざかろうとする舟を身に付けた行力(ぎょうりき)をもって引き寄せ〕この渡し舟に乗っている二十余人の渡ろうとする者を、舟を転覆させてどぶんと海に投げこみました)

 最後の二つの例は、「その」「二十余人の」が活用語の連体形でない点、今までの例と異なりますけれども、「京に」「この渡し舟に」が意味上の連体修飾語として機能できるのは、続く「二十余人の」「その人の」が連体修飾語だからです。『徒然草』のなかで兼好は何度か「因幡の国に何の入道とかやいふ者の娘」(第四十段)、「鎌倉の海に鰹(かつを)といふ魚」(第百十九段)といった言い方をしていますけれども、これは擬古的な措辞です。
 話を進めます。例えば「我輩は猫である」の「猫である」は、「猫としてある」「猫というあり方をしている」「猫という様態においてある」など敷衍できます。この「猫で」のような言い方を「様態」を示す語句、この「猫で」の「で」のようなものを「様態の格助詞『で』」「様態の『で』」と呼べます(断定の助動詞「だ」の連用形の一つとは見ません)。この様態の「で」に相当する平安中期の京ことばは、「に」です(後世、「にて」を経て「で」に転じます)。格助詞の「に」に「として」というような意味のあることは周知です。様態の「に」と「あり」とは、結びあう場合、多く「我は猫なり」のようにつづまりますけれども、歌でも散文でも、

 人を思ふこころ木の葉にあらばこそ風のまにまに散りも乱れめ 古今・恋五783(ふぃうぉ おも ここ こおの ふぁンばしょ かンじぇの まにに てぃお みンだれえ。あなたを愛する気持ちが木の葉であるならば、風のまにまに散り乱れることもあるでしょうけれども)

 かたみに言ひあはすべきにあらねば 源氏・若紫 (かたみに〔四拍推定〕ふぃ あふぁしゅンべ あらンば。意見交換すべきことでないので)

のように時につづめません。様態の「に」に終わる語句を委託法で使えることは、次から明らかです。

 御供に声ある人して歌はせたまふ。同・若紫(おふぉムとうぇえ ある ふぃて うたふぁしぇ たまう。お供の、声のよい人に歌わせなさいます。この巻には「御供なる人」〔おふぉムとふぃと〕という言い方も見えています)

 人もいやしからぬ筋に、かたちなどねびたれどきよげにて 同・夕顔(ふぃお いやから しゅンでぃにかたてぃど ねン〔二拍推定〕たンど きよンげにて。低くない家柄で、容貌など、年こそ取っているものの美男であり)

 御わたくしざまに内々(うちうち)のことなれば 同・少女(うぉとめ)(おふぉムわたくしンじゃま〔末二拍推定〕に うてぃてぃの ことれンば。非公式の内々のことなので)

 様態の格助詞「に」に終わる語句は状態形を作ることができ、そうした語句について状態命題の成り立つことは明らかです。
 「様態の『と』」と呼べるものもあります。今でも「男子たる者は」などいう言い方をしますけれど、この「男子たる」は元来「男子とある」の縮約形です。ここにあらわれる「と」や、次の引用における「うれへと」の「と」は、「様態の『と』」と呼べるもので、用法は限定的だとは言え、「様態の『に』」と似たふるまいをします。

 高家(かうけ)にことよせて、人のうれへとあることなどおのづからうちまじるを 源氏・薄雲(うしゅンぐも、か)(かけえ〔推定〕 こと しぇて ふぃとの うれふぇと あ こと なおのンどぅからてぃい まンじるうぉ。権門勢家に属するおごりから、人の嘆きの種であるようなことなどが自然と混じるものですけれども)

 世の重しとおはしつる人なれば 同上(よおのお おもしと おふぁしとぅる ふぃれンば。世の中の重鎮としていられた人なので)

 ものの費(つひ)えとあらむ。うつほ・祭の使(うとぅふぉまとぅりの とぅかふぃ)(ものの とぅふぃいぇと あらう。無駄な出費となりましょう)

 「今日(けふ)来ずは明日(あす)は雪とぞ降りなまし消えずはありとも花と見ましや」(古今・春上63。けンじゅふぁ あしゅふぁきとンじょお ふりなましきいぇンじゅふぁいとお ふぁなと みいましあ)における「雪と」の「と」のようなもの――「櫂(かい)のしづくも花と散る」(武島羽衣)の「と」のようなものと言っても同じ――と、いま見た「人のうれへとあること」などにあらわれる「と」とは、別ものではないでしょう。桜が雪と降る、という時の「と」は、一般にそう説かれるのとは異なり、「…のように」を意味する言い方――直喩であることを示す標識――ではないと思います。桜が「雪と降る」とは、「雪として降る」「雪という様態で降る」ことです。桜が「雪と降る」という時の「と」は、「見立ての『と』」など呼ぶべきものでしょう。見立ての「と」は様態の「と」の一用法だと申せます。
 ちなみに「見立ての『に』」と呼べるものもあります。例えば「幾世(いくよ)しもあらじ我が身をなぞもかく海人(あま)の刈る藻に思ひみだるる」(古今・雑下934。いくよお あらン わあンがあ みいうぉおじょく あまの かる も おもふぃい みンだる)は、長くもなかろう我が身だというのに、なぜこう、海人の刈る藻さながらに思い乱れるのか、と言っています。見立ての「に」は様態の「に」の一用法だと申せます。
 見立ての「と」、見立ての「に」は、呼び方は別として、一般にも助詞とされます。これらの言葉と、「人を思ふこころ木の葉にあらばこそ」「人のうれへとあること」の「に」「と」とは、様態を示す点で別ものとは考えられませんから、上の「木の葉にあらばこそ」の「に」、「うれへとあること」の「と」も助詞としてよいはずですけれども、学校文法はそう見ません。
 すなわち学校文法は、それらの「に」「と」を、それぞれ断定の助動詞「なり」「たり」の連用形とします。しかし、「咲きたり」の「たり」が本質的に「てあり」の縮約形であるように、例えば「我は猫なり」の「なり」は本質的に「にあり」の縮約形であり、「人を思ふこころ木の葉にあらばこそ」の「に」は助動詞の連用形などではなく、一つの不変化詞、助詞、格助詞です。学校文法が、「咲きてはあり」「咲きてぞある」の「て」を助動詞「たり」の連用形としない一方、上の「に」を助動詞「なり」の連用形とするのは、完全なる不整合です。断定の「なり」や断定の「たり」を、積極的に一語とすべき合理的な理由はありません。[「委託法…」冒頭に戻る]


5 いかに散れとか [「委託法…」冒頭に戻る]

 動詞の連用形は、状態形を作れないでしょうか。例えば「咲いている」という意味で「咲きあり」(しゃき あい)とは言いませんけれども、知られている通り「咲けり」(しゃい)は「咲きあり」の縮約形と言ってよいものですから、動詞の連用形は限定的には状態形を作れるとも申せなくもありません。しかし動詞の場合一般には、状態形は、連用形に「状態の『て』」を添えた「咲きて」(しゃ)のような言い方と「あり」やその敬語形とを結びあわせて作ります。
 例えば源氏・澪標(みうぉとぅくし)の一節「(アル娘ガ)馴れて聞こゆるを、(光ル源氏ハ)いたしとおぼす」(なれて きこゆるうぉ、いたいと おンぼしゅう。場馴れした様子で申しあげるのを、一本取られたとお思いになります)における「て」は「状態の『て』」と呼ばれてよいものです。すると、状態を示す「馴れて」と動詞「あり」との縮約したものにほかならない「馴れたり」(ない)は、一つの状態形です。なお、状態の「て」と「あり」とは通例つづめますけれども、時につづめません。例えば『伊勢物語』第百七段の一節に、「今まで(ソノ歌ノ記サレタ手紙ヲ)巻きて文箱(ふばこ)に入れてありとなむ言ふなる」(いまンで まて ふンばこに いいとる)とあります。
 さて、例えば「咲きたり」(しゃきたい)が一つの状態形だとしますと、「咲きて」(しゃ)のような言い方を委託法で使えるのではないでしょうか。現代語では、例えば「庭に咲いている白い花」という意味で「庭に咲いて白い花」などは言いませんけれど、事情は平安時代の京ことばでは異なりはしないでしょうか。
 例えば、源氏・夢の浮橋(ゆめの うきふぁし)の終わりの方に、ということはこの長大な物語がとうとう終わるというあたりに「所につけてをかしきあるじ」(ところに とぅけて うぉかしい あるン)という言い方の出てくるのは、「所につけたる(とぅ)をかしきあるじ」(場所柄にふさわしい、風情たっぷりのご馳走)ということであり、同・賢木(しゃかき。すべて低い)の、六条の御息所が我が身を振り返るところに、「あはあはしう憂き名をのみ流してあさましき身のありさまを」(あふぁあふぁう ううぉのみ なンがして あしゃましきみいのお ありしゃまうぉ)とあるのは、軽いという、いやな評判をただ流している(流れるにまかせている)、我ながらあきれてしまうみずからのありようを、ということです。平安時代の京ことばでは広く状態命題が成り立つという仮説は、事態に対する正しい予測を与えたようです。動詞が状態の「て」を従えた言い方は状態形を作れます。そしてそうした語句について、状態命題が成り立ちます。
 状態の「て」に準ずる性格を持つ「とて」「つつ」「ながら」に終わる語句や、「て」の反意語と言える「で」に終わる語句も、状態形を作ることができ、それらについて状態命題が成り立つようです。
 「とて」は、「…と言ひて」「(人々が)…と呼んで」「(人々に)…と呼ばれて」「…という名で」を意味できます。例えば源氏・幻(まンぼろし、ないし、まンぼろ、か)に「中将の君とてさぶらふは」(てぃうンじやうの きみて しゃンぶらふふぁ)とあるのは、「中将の君という名でお仕えしている女房は」というほどの意味です。こういう「とて」に終わる語句が状態形を作れることは、

 いまひとところは馬の頭(かみ)にて、顕信(あきのぶ)とておはしき。大鏡・道長(い ふぃととふぁ ムまの かみにてあきのンぶ〔末拍たぶんこれ〕とふぁい。もうお一(ひと)ひとかたは馬の頭でして、顕信というお名前でいらっしゃいました)

 この人々の夫(をとこ)とてあるは、みにくくこそあれ。源氏・紅葉の賀(もみンでぃの があ)(こおのお ふぃとンびとの うぉとことるふぁ、みにしょあえ。この人々〔自分に仕える女房たち〕の夫と呼ばれている人々は、醜い。幼い紫の上の率直な感想です)

などの示すとおりです。この「とて」に終わる語句は委託法で使えます。今しがた引いた「中将の君とてさぶらふは」では「中将の君とて」は「さぶらふ」を修飾する連用修飾語でしたけれども、『落窪』巻一に、

 小帯刀(こたちはき)とていとされたる者、このあこきに文(ふみ)かよはして (こたてぃふぁきとて いしゃれた もの、こおのお あこき〔三拍無根拠〕に ふかよふぁ。小帯刀と呼ばれているたいそう洒落れた男がこのあこきに恋文を贈るようになって)

云々とあるのにおける「小帯刀とて」は、連用修飾語ではありえません。引用は「小帯刀とてある、いとされたる者…」とパラフレーズできる言い方です。ある種の「とて」に終わる語句について、状態命題の成り立つことが確認できます。
 次に、現代語の例えば「見つつある」は、見る動作が進行中であることを意味しますけれども、平安時代の京ことばとしての「見つつあり」(みいとぅとぅ あい)は、見つつ存在する、見ながらそこにいる、みいみいしながら生活する、というような意味の言い方です。例えば『蜻蛉の日記』(かンげふの にっき。元来「の」があったようです)の天暦十年(956)三四月の記事に、「いま一方(ひとかた)の出(い)で入(い)りするを見つつあるに」(い ふぃとたの いンでいり しゅるうぉいとぅとぅるに。姉の所にさるお方の通ってくるのを端(はた)で見ながら暮らしているうちに)とあります。
 源氏・野分(のき)に、

 高欄(かうらん)に押しかかりつつ若やかなる限りあまた見ゆ。(からんに おし かかりとぅとぅ わかる かンぎり あまう)

とあるのは、「つつ」に終わる語句を委託法で使った例でしょう。秋好む中宮の住まいに赴いた夕霧が、東の対(たい)の南の角に立って、そこから寝殿の南面(みなみおもて)を見やる場面に読まれる言い方で、引用は「高欄に寄りかかっている若い女房たちが、たくさん見えます」といった意味に解されます。なお河内本の全部、別本の一部は、この箇所を「高欄に(も)押しかかり若やかなる限りあまた見ゆ」とします。こちらも無論委託法です。
 次に、平安びとは「ながら」を、しばしば「何々したまま」という意味で使いましたけれども――現代語「居(い)ながらにして」が「座ったままで」を意味するのはその名残です――、かような意味の「何々しながら」は状態形を作れます。例えば源氏・若菜下に、

 渡殿(わたどの)の南の戸の昨夜(よべ)(い)りしがまだ開(あ)きながらあるに (わたンどの〔後半推定〕の みなみの とおのお よンべ いりしンが まンあきなンがら あるに。渡殿の、昨夜そこから入った南の戸がまだ開いたままですけれども)

とあります。この「ある」は、「存在する」という強い意味で使われているとは考えにくいでしょう。
 最後に、「何々しないで・何々せずに」を意味する「で」。「いらへもせであるに」(『蜻蛉の日記』天禄二年〔971〕六月。いらふぇしぇえンでえ あるに。返事もしないでいると)など言えることが示すとおり、この助詞も状態形を作れます。
 源氏・胡蝶(こてふ、か)で光る源氏が、

 わざと深からで、花、蝶につけたる便りごとは、心ねたうもてないたるになかなか心だつやうもあり。(ンじゃと ふンで、ふぁな、てふ とぅよりンごとふぁ〔たよりンごとふぁ、などかも〕、ここう もるに こころンだとぅ やうも あい)

と言うのは、この「で」に終わる語句を委託法を使った言い方でしょう。この「わざと深からで」は「わざと深からである」(格別深くない調子である)に言い換えることができます。男性からの、格別深くない調子の、季節の風物に寄せての便りの場合、贈られた側が返事をせずにいると、贈り主の男が小癪(こしゃく)なと思い、かえって本気になるといったこともあります、といっています。
 「まで」「ばかり」「だに」のような、一般に副助詞に分類されるものに終わる語句も、状態形を作れます。
 現代語には「その演奏は息苦しいまでに繊細だ」といった言い方がありますけれども、この「までに」の「に」は普通落としません。平安時代の京ことばでは事情は反対で、多くは「(明石ノ姫君ノコトガ)あやしきまで(=不思議ナマデニ)御心にかかり」(源氏・澪標。あやしいまンで みこころに かかい)のように言い、「あさぼらけ有明の月と見るまでに吉野の里に降れる白雪」(古今・冬332。あしゃンぼけ ありあけの とぅきと みまンでに よししゃとにる しらゆ)のような例は少数派に属します。さて現代語では、「不思議なまで(に)」とは言えても、「不思議なまでに、といったありさまだ」「不思議なくらいだ」という意味で「不思議なまである」とは言いませんけれども、例えば源氏・柏木(かしふぁンぎ)に、

 何事をこの人、心のうちに思ふらむと、見る人も苦しきまでありしかど (なにンごとうぉ こおのお ふぃと、ここてぃ おもと、みる ふぃお くるしいまン ありかンど)

とあるのは、何事をこの人は心のうちに思っているのだろうと、わきで見る人も気詰まりなくらいだったけれども、というのです。同・桐壺にも、

 屯食(とんじき)、禄(ろく)の唐櫃(からびつ)どもなど、所せきまで、春宮(とうぐう)の御元服の折にも数まされり。(とじき〔推定。呉音〕、ろくの からンびとぅ〔後半二拍推定〕ンも など、ところしぇきいまンとうンぐう〔推定〕 うぉりにも かンじゅ ましゃい)

とあるのは、屯食、禄の唐櫃など、置ききれないくらいで、春宮の御元服の折よりも数がまさっています、と言っています。この「所せきまで」は委託法で使われているのであり、「あり」を補って解することができます。
 次に「ばかり」。現代語でも「あふれるほどの情緒」というような意味で「あふれるばかりの情緒」など言いますが、平安時代の京ことばにもさような言い方がありました。そのような「ばかり」が状態形を作れることは、『蜻蛉の日記』の天延二年(974)八月の記事に、

 いかがはせむとて、言(こと)絶えたる人にも告ぐばかりあるに(ンがふぁ しぇえムう、こと たいぇる ふぃとぅンぐンばり あるに)

とあるのなどが示す通りです。天然痘が流行し、とうとう書き手の一粒種の道綱が罹(かか)ってしまう。こうなってはほかに手はないということで、すでに書き手の元夫(もとおっと)というに近い兼家にも知らせることにするほどなので、と言っています。

 こと夏はいかが鳴きけむほととぎす今宵(こよひ)ばかりはあらじとぞ聞く(ことなとぅふぁ いンがきけ ふぉととンしゅ こよふぃンばかふぁ あらンいとンじょきく)

と貫之の詠んでいるのも(『貫之集』)、ほととぎすは去年の夏はどう鳴いたのだろう、いずれ今宵ほどではないだろうと思って聞く、というのです。

 人見とがむばかり大(おほ)きなるわざは、えしたまはず。源氏・蜻蛉(ふぃと みい とンがむンばかり おふぉンじゃふぁ しい たまふぁンじゅ)

は、委託法を使った例と思われます。浮舟の存命を知らない人々がその四十九日の法要を営んだ時、匂う宮(にふぉふ みや)は、公然とはそうできないので、浮舟の乳母(めのと)の子からということにして僧に布施を贈りました。引用はその時のことを言っています。すなわち引用は、人が見とがめるほどの大仰なことはなさるわけにゆかず、というのだと思います。
 最後に「だに」。「…するまであり」が「…するまでに、といったありさまである」を意味しえ、「…すばかりあり」が「…するほど、といったありさまである」を意味しうるのであってみれば、「…だにあり」が「…さえ、といったありさまである」を意味しうるとしても不思議でありません。例えば古今・春下86に収める凡河内躬恒の、

 雪とのみ降るだにあるをさくら花いかに散れとか風の吹くらむ (ゆきとみ ふるンだに あるうぉ しゃくらンばな いに てぃれとかンじぇの)

の言わんとするところは、ほぼ逐語的に「ひたすら雪と降るのさえ、といったありさまなのに、桜よどう散れと、風がこんなに吹いているのだろうか」と解せばおおむね了解されます。風がなくても桜はただただ雪さながらに散る、それさえ悲しいのだから風が吹いたらもっと悲しいのに、実際風が、桜よもっと激しく散れと言うかのように桜の花を吹いている、というのです。一般に説かれるとおり一つの省略語法であり、文脈を考えて適当な言葉を補って解すべき言い方にちがいありませんけれども、「…だにあり」のような言い方ができるのは、「…まで」「…ばかり」などと同じく「…だに」が状態形を作れるからです。[「委託法…」冒頭に戻る]


6 散れば惜しくぞ [「委託法…」冒頭に戻る]

 平安時代の京ことばには状態形を作れる語句が多数あること、かつまた、それらに関して統語論的な水準における一つの言語事実、状態命題と呼びうる言語事実の認められることを見てきましたけれども、状態形を作れる語句の多くについて、さらに次のような言語事実を指摘できます。
 現代語でも例えば、「お宅のほうが私の家よりも静かだと思います」という意味で「お宅のほうが私の家よりも静か思います」と(何とか)言えますけれど、「大人に見きわめる」「好色に非難する」などは、現代語としてほとんど意味不明と言うよりほかにないでしょう。しかし平安時代の京ことばでは次のような言い方ができました。

 おとなしく見なしては、ほかへもさらに行くまじ。源氏・紅葉の賀(おとなしく みい なしてふぁ、ふぉふぇお しゃに ゆくまンじい。〔あなたを〕もう大人だと見きわめたら、〔私は〕よそに行くなんてこと、決してしないでしょう)

 すきずきしう、いとどにくまれむや。同・関屋(しぇきや)(しゅきンじゅきう、いとンど にくまれムやあ。ますます、好色だと非難されてしまうでしょうかね)

 一般には今問題にしている語法は連用形の用法とされますけれども、こうした語法における思考内容の部分には、状態形を作れる語句の多くを置けます。今しがたの引用にあらわれた「おとなしく」「すきずきしう」はいずれも形容詞の連用形であり、また、同じく思考内容を形作るところの、

 おろかに人の見とがむばかりはあらじ。源氏・若菜下(おろに ふぃと みい とンがむンばかふぁ あらンい。妻を粗略に扱う夫であると人が目を止め非難するほどではないように心がけよう)

 宿近く梅の花植ゑじあぢきなく待つ人の香にあやまたれけり 古今・春上34(やン てぃムめの ふぁな ううぇンじい あンでぃきなく まとぅ ふぃとの かあにい あやまたれけり。家の近くに梅の花を植えるのはもうやめよう。味気なくも、わが待つ人のたきしめている香りだと錯覚してしまった)

の下線部中の「に」は、一般にはそれぞれ、形容動詞の連用形の活用語尾、断定の助動詞「なり」の連用形とされますから、これらを見る限りでは、今問題にしている語法は連用形の用法と言ってよいように見えますけれども、しかし平安時代の京ことばでは、例えば、

 いとほしく。うたて思ふらむ。源氏・宿り木(やンどりき)(いとふぉく。うたて おもう。かわいそうに。〔あのお方(浮舟)は〕いやな目に遭ったと思っているでしょう)

というような言い方ができます。今問題にしている語法は、連用形の一用法ではなく、状態形を作れる語句の一用法とすべきものです。
 状態形を作れる語句が思考内容を示す例をいくつか引きます。まず、「うたて思ふ」と同じく副詞が思考内容を形づくる例。

 かく知らましかば、君達(きむだち)をこそ我よりさきに失(う)せたまひねと祈り思ふべかりけれ。 大鏡・道隆(しらましかンば、きムだてぃうぉこしょ わより しゃきに うしぇ たまふぃねえと いのい おもふンりけれ。こうだと〔「かかりと(いと)」〕分かっていたならば、あなた方が私よりさきに世を去るよう神仏に祈るべきだった)

 咲きし時なほこそ見しか桃の花散れば惜しくぞ思ひなりぬる 拾遺・雑春1030(しゃきし とき なふぉしょ みいももの ふぁな てぃれンば うぉくンじょお おもふぃい なりぬる。咲いた時は平凡だと〔「なほありと」(なふぉお あいと)〕思いつつ見たが、そんな桃の花も、散るとなると勿体(もったい)なく思うようになった)

 思考内容の表現に準ずる、次のような例も採集できます。

 もとどりは塵(ちり)ばかりにて、ひたひは禿(は)げ入りて、つやつやと見ゆれば 落窪・二(もとンどりふぁ てぃりンばかにてふぃたふぃふぁ ふぁンとぅとぅや〔推定〕と みゆンば)

 仏のきらきらと見えたまへるはいみじうたふときに 枕草子・正月に寺にこもりたるは…(しやうンぐわてぃに て こもるふぁ)(ふぉとけの ら〔推定〕と みいぇえ たまふぇふぁ いみンたふとき)

 はじめの例は、長扇(ながおうぎ)というもので男のつけている冠を掃い落とすと、その男の「もとどりはほんの申し訳程度、ひたいは禿げ上がり、てかてかとしているのが見えるので」と言っています。次の例は、仏さまがきらきらとしたお姿をあらわしていらっしゃるのは、何ともありがたい気持ちになることだけれど、と言っています。それぞれ「つやつやと」「きらきらと」のあとに「ありと」を補なうことができます。現代語では、「てかてかと光る」「きらきらと輝く」などは言っても、「てかてかと見える」「きらきらと見える」などは普通言いません。
 状態形を作れる副詞相当語句も、しばしば思考内容を形づくります。

 かの空蝉(うつせみ)のあさましくつれなきを、この世の人にはたがひておぼすに 源氏・夕顔(あのお うとぅしぇみの あしゃましつれ うぉこおのお よおのお ふぃにふぁ たンがふぃて おンぼしゅに。かの空蝉のあきれるばかりの冷淡さを、世間一般の女(ひと)とは違っているとお思いになるにつけて)

 御もののけなど加はりて見えさせたまふを 同・若紫(おふぉムもののけ〔四拍推定〕など くふぁふぁみいぇしゃしぇえ たまふうぉ。病を引き起こす邪気などが加わっているようにお見えになりますから。河内本。青表紙本は「御もののけなど加はれるさまにおはしましけるを」〔…くふぁふぁる しゃまにふぁうぉ〕とします)

 これらにおける「…て」は、いずれも「ありと」を添えてつづめた言い方に言い換えることができます。現代語でも「少し変えただけで違って見える」などは言えるものの、「世間一般の女(ひと)とは違ってお思いになる」「邪気などが加わってお見えになる」などは普通言いません。
 次は、思考内容が「まで」「ばかり」に終わる例。

 この皇子(みこ)のおよすけもておはする御かたち、心ばへ、ありがたくめづらしきまで見えたまふを 源氏・桐壺(こおのお みこの およしゅけ も おふぁしゅ おふぉムかたてぃ、こころンばふぇ、ありンがく めンどぅらしいまンいぇえ たまふうぉ。この皇子の日々に成熟してゆかれる御容貌、御性格は、まったく世にも稀なくらいだと拝見されますので)

 女もねびととのひ、飽かぬことなき御さまどもなるを、身にしむばかりおぼゆれど 同・野分(うぉムお ねンい〔推定でした〕ととふぃ、あか こと ない おふぉムしゃまンどもなるうぉみいにい しむンばり おンぼゆンど。いまおひとかたもまさに女ざかり、いずれも文句の付けようのないご様子であるのを、わが身に染みるほどだと感じますものの)

 否定の「ず」――これに終わる語句も状態形を作れました――に終わる語句が思考内容を示せることは、源氏・松風(まとぅかンじぇ、か)に、

 のぼらむことをものうがるも心得ずおぼし (のンぼらム ことうぉ ものうンがも ここ いぇじゅ おンぼい 〔明石の君が〕上京をためらっているのも合点が行かないと〔光る源氏は〕お思いになり)

とあるのなどが示します。現代語では「合点が行かないと思う」という意味で「合点が行かず思う」とはまず言いません。
 思考内容が場所の「に」に終わる言い方はできないでしょうか。例えば「ここにあると思う」という意味で「ここに思う」とは、現代語ではふつう言いませんけれども(「ここだと思う」という意味では「ここに思う」と言います)、平安時代の京ことばでは「ここに思ふ」を「ここにありと思ふ」を意味するものとして使えるのではないでしょうか。実例はないでしょうか。
 拾遺・冬233に収める詠み人知らずの歌に次があります。

 水の上に思ひしものを冬の夜の氷は袖のものにぞありける (みンどぅの うふぇ おもふぃ ものうぉ ふゆの よおのお こふぉりふぁ しょンでの ものンじょ ありける)

 この「水の上に」は、一つには「水の上」(=水にかかわるもの)だと――私にはかかわりのないものだと――という意味に解せますが、それはまた、「水の上にありと」も意味するのではないでしょうか。以前は氷は水の上にあると、そして私にはかかわりのないものだと思ったけれども、冬の夜の氷は私の袖と無縁などではなかったよ。みずからの落とした涙が凍ったようです。
 状態形を作れる語句のことごとくが思考内容を形づくれるとは言えないでしょう。例えば「中将の君と呼ばれていると思う」という意味で「中将の君とて思ふ」と言うことは、むつかしいかもしれません。しかし、状態形を作れる語句の多くが思考内容を形づくれることは確かであり、そしてその中には、現代日本語では言わない言い方がたくさん含まれているのでした。
 状態形を作れる語句の多くについてはまた、次のような言語事実を指摘できます。すなわち、状態形を作れる語句の多くは、変化を示す四段動詞「なる」に先立つことができます。「かくなる」(く なう。こうなる・そうなる)、「高くなる」(たく なう)、「うららかになる」(うらう)など言えるのは尤もとして、平安時代の京ことばでは、「うらうらとした状態になる」という意味で「うらうらとなる」(ら〔推定でした〕と なう)と言えます。例えば『大鏡』の実頼伝に、

 多くの日荒れつる日ともなくうらうらとなりて (おふぉくの ふぃれとぅる ふぃいとお ならと なりて。幾日も荒れた空模様がうって変わりうららかになって)

とあります。宇治拾遺物語・一四三「増賀(ぞうが)上人…」の語るところでは、公序良俗を物ともしない、高僧か怪僧妖僧か定かでないこの人は、やんごとない人々を前にして、なぜ特に拙僧がここに来るよう請われたのか、ひょっとして皆さんは私の「きたなき物をおほきなりと聞こしめしたるか」(きたない ものうぉ おふぉりと きこしめるかあ)、確かに人のよりは大きゅうございますが、 もう年齢(とし)も年齢(とし)、残念ながら「くたくたとなりたるものを」(た〔推定〕と な ものうぉ)、と言い放ちました。
 「いやになる・わずらわしくなる」といった意味で「うたてなる」という言い方のできることを、源氏・桐壺の一節、

 言ひ続けばことことしううたてぞなりぬべき人の御さまなりける。(ふぃ とぅンどぅけンば ことことうたてンじょ なりぬンべきふぃとの おふぉムしゃまりける)

が教えてくれます。光る源氏の万能ぶりについて、このまま言い続けたら事々しくて聞く人がいやになってしまいそうなご様子だったそうです、と言っています。「うたてぞなりぬべき人の御さまなりける」は、「うたてなりぬべき人の御さまにぞありける」(うたてりぬンべきふぃとの おふぉむしゃまにンじょ ありける)と同じ意味です。
 次のような言い方も見られます。

 わが宿のこずゑの夏になる時は生駒の山ぞ見えなりゆく 後拾遺・夏167・能因(わあンがあ やンの こンじゅうぇの とぅときふぁまの やまンじょお みいぇンじゅ な ゆく)

 月ごろくやしと思ひわたる心のうちの苦しきまでなりゆくさまを、つくづくと言ひ続けたまひて 源氏・宿り木(とぅきンごろ くやいと おもふぃわたる ここてぃの くるしいまンゆく しゃまうぉとぅくンどぅく〔四拍推定〕と ふぃ とぅンどぅけ たまふぃて)

 思ふこと今は無きかな撫子(なでしこ)の花咲くばかりなりぬと思へば 後拾遺・賀441(おも こと いまふぁいかあ なンしこの ふぁな しゃくンばり なりぬうと おもふぇンば)
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7 まとめ [「委託法…」冒頭に戻る]

 現代語では一般に、「こうである」という意味で「こうある」と言わず、「広々としている」という意味で「広々とある」と言わず、「咲いている」という意味で「咲いてある」と言わず、「息苦しいまでだ」という意味で「息苦しいまである」と言わず、「うららかである」という意味で「うららかにある」と言わず、「私は猫である」という意味で「私は猫にある」と言いません。
 現代語ではまた一般に、「このような青い川」という意味で「こう青い川」と言わず、「広々とした明るい部屋」という意味で「広々と明るい部屋」と言わず、「うそをつけぬ正直な人」という意味で「うそをつけず正直な人」と言わず、「庭に咲いている白い花」という意味で「庭に咲いて白い花」と言わず、「息苦しいまでの繊細な演奏」という意味で「息苦しいまで繊細な演奏」と言わず、「うららかな気持ちのよい日ざし」という意味で「うららかに気持ちのよい日ざし」と言わず、「わが家の猫である三つになる式部」という意味で「わが家の猫に三つになる式部」と言わず、「鎌倉にある材木座という海岸」という意味で「鎌倉に材木座という海岸」と言いません。
 現代語ではまた一般に、「これこれこうだと分かる」という意味で「こう分かる」と言わず、「広々としていると見える」という意味で「広々と見える」と言わず、「思うように行動できないと思う」という意味で「思うように行動できず思う」と言わず、「咲いていると見える」という意味で「咲いて見える」と言わず、「息苦しいまでだと思う」という意味で「息苦しいまで思う」と言わず、「鎌倉にいると思う」という意味で「鎌倉に思う」と言いません。
 最後に現代語では一般に、「広々とした状態になる」という意味で「広々となる」と言わず、「思うように行動できなくなる」という意味で「思うように行動できずなる」と言わず、「息苦しいまでになる」という意味で「息苦しいまでなる」と言いません。
 しかし平安時代の京ことばでは、現代語では一般的でない斯様(かよう)な言い方を、文法的に問題のないものとして使えます。ながながしく書きつけてきたのは、「(改訂版の)状態命題」と呼びうるところの、そのような言語事実でした。すなわちそこでは、

i. 多くの副詞、例えば「かく」「さ」「しか」のような指示副詞、「うらうらと」「はるばると」のような擬態副詞、「わざと」「あまた」「ここら・そこら」「うたて」「なほ」のような副詞、「しづかに」「うららかに」のような、一般には形容動詞の連用形とされるところのもの
ⅱ. 形容詞や形容詞型の助動詞の連用形、および打消の「ず」の連用形
ⅲ. 場所の「に」、様態の「に」(一般に断定の助動詞「なり」の連用形とされるところのもの)、状態の「て」、「とて」「つつ」「ながら」「で」、「まで」「ばかり」「だに」のような助詞に終わる副詞相当語句

などは、「あり」やその敬語形とともに状態形を作ることができ、「あり」やその敬語形とともに状態形を作れるそれらの語句は、統語論的な水準において委託法で使うことができるのでした。「あり」やその敬語形とともに状態形を作れる語句の多くは、また、思考内容の表現として「思ふ」そのほかのさまざまな動詞に先立つことができ、また変化を示す動詞「なる」に先立つことができました。  [「委託法…」冒頭に戻る][トップページに戻る]

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