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1 二つのスタイル
2 見本帖(近代)
3 見本帖(現代)
4 心と詞(ことば)と
5 少々歴史を
1 二つのスタイル [「現代文語を…」冒頭に戻る]
例えば「我、これほど美しき絵を見しことなし」は、「私はこれほど美しい絵を見たことがない」という意味の文語表現です。ここに言う「文語」は、辞書が「平安時代の日本語を基礎として発達した言語表現」といった言い方で定義するところのものですけれども、しかし平安時代の日本語では、「我、これほど美しき絵を見しことなし」は、「私はこれほど美しい絵を見たことがない」を意味できません。
知られているとおり「うつくし」は古今異義語であって、平安時代やそれ以前の日本語ではそれは「愛らしい」「かわいらしい」というような意味で使われました。また、現代語の「何々したことがない」とは異なり、当時の日本語としては「…せしことなし」は、経験の欠如を示す言い方にはなりえません。それは「過去のある時点において何かをしたが、その事実はない」というような、奇妙な意味しか持ちそうにありません。なお、「これほど」という言い方は平安時代も末になって言われるようになったものらしく、『枕草子』にも『源氏物語』にもあらわれません。
文語表現「我、これほど美しき絵を見しことなし」の意味とは、これを現代語に直訳したところのものです。文語表現「我、これほど美しき絵を見しことなし」は、口語表現「私はこれほど美しい絵を見たことがない」を古い日本語に関する初歩的な知識を使って古く見える言い方に変形したものにほかなりません。「これほど」や「美しい」に当たる昔の言い方は何か。「これほど」「美しき」でよいのか。ちがうとすればどう言ったのか。「何々したことがない」に当たる昔の言い方は何か。「…せしことなし」と言ったのか。言わなかったとすればどう言ったのか。こうしたことは不問に付して、ただ「美しい」を「美しき」、「見た」を「見し」、「ない」を「なし」とするのに、古い日本語を読みなれる必要はありません。
すると、「平安時代の日本語を基礎として発達した言語表現」といった定義は、今問題にしている「文語」の内実を言い当てたものではないでしょう。今問題にしている「文語」の基礎は、同時代のいわゆる口語にあります。ここで「現代文語」という用語を導入してみます。「私はこれほど美しい絵を見たことがない」を意味するものとしての「我、これほど美しき絵を見しことなし」は文語表現ですけれども、現代口語文「私はこれほど美しい絵を見たことがない」の直訳としてのそれは、特に「現代文語」による言語表現と呼ばれてよいでしょう。現代文語に拠る言語表現の内実は現代口語であり、そこにおいて古い日本語に由来するのは、もっぱら外形的な要素です。現代文語の書き手は古い日本語を生きている、とは申せません。現代の日本語とは結局のところ現代日本における口語のことです。たしかに現代文語というものは存在するのであり、それに拠る表現は、今も日々たくさん生み出され続けています。しかし現代文語は現代口語の一変種です。現代日本語――一般に明治以降の日本語はそう呼ばれます――の一方言のごときものだということもできるでしょう。現代文語は厳として存在しますけれども、それはそういうものとしてです。
例えば、〈Your tension is low.〉は「君、テンション低いね」(君、元気がないね)を意味する英文ではありませんけれども(英文としてはそれは、「あなたの緊張している状態は低い」といった奇妙な意味しか持たないでしょう)、しかし英語に関する初歩的な知識を使って日本語を英語風に書き換えた特異な言語表現としては、それは「君、テンション低いね」を意味する正しい言い方です。この特異な言語表現としての〈Your tension is low.〉の意味は、それを日本語に直訳したところのものです。それは〈ユー、テンション、ロー。〉に比べればまともな英語に近いと申せますけれども、最近の日本における言語習慣を知らない限り理解できない言い方である点において、〈ユー、テンション、ロー。〉とさして変わりません。近現代の多くの文語表現は、「君、テンション低いね」を意味するものとしての〈Your tension is low.〉に似ています。
さて、「我、これほど美しき絵を見しことなし」のような文語表現は口語直訳的な文語表現だと申せますが、この口語直訳的な文語表現に対するものとして、擬古的な表現を考えることができます。広い意味では「擬古」とは、「古(いにしえ)に擬(なぞら)える」こと、古い時代のスタイルに倣(なら)うことを言いますけれども、もう少し狭い意味では、古い時代の文法や語法に倣うことを言い、さらに狭い意味では、平安時代中期の和文や和歌の文法・語法に――『枕』や『源氏』、三代集などの文法・語法に――倣うことを言います。古い時代の日本語を真似(まね)ること、というように定義する辞書もありますが、例えば英語の文法や語法をきちんと真似(まね)て書いた文は要するに立派な英文なので、「倣う」「従う」といった言い方をすべきでしょう。いま問題にしようとしている「擬古」は、この狭い意味におけるそれです。
「私はこれほど美しい絵を見たことがない」を擬古的な言い方に直すとしたら、「我、かくばかりをかしき絵を見ず」(われ、かくンばかり うぉかしきい うぇえうぉお みいンじゅ)や、「まろ、かばかりをかしき絵を見ることなし」(まろ、かくンばかり うぉかしきい うぇえうぉお みる こと なしい)といったものになるでしょう(括弧内は平安中期の発音・アクセントです。太字は高く言われることを示します。「ン」のことなど、詳細については御面倒でも「『源氏物語』を成立当時の…」をご覧ください)。
おしまいのところから見ますと、例えば『枕』の「中納言殿参りたまひて…」(てぃうなあンごん まうぃり たまふぃて)の段(98〔角川文庫版の段数。以下同じ〕)でその中納言(藤原隆家)が「『さらにまだ見ぬ[扇の]骨のさまなり』と人びとなむ申す」(「しゃらあに まンだあ みいぬう[あふンぎの]ふぉねの しゃまなりい」と ふぃとンびとなムう まうしゅ)と言うのは、こんな扇の骨はまだ一度も見たことがないと人びとが申します、といった意味です。源氏・賢木(さかき)にも「まだひらかぬ(=開(ア)ケタコトノナイ)御厨子(みづし)ども」(まンだあ ふぃらかぬ みンどぅしンども)とあり、時代下(くだ)って『宇治拾遺物語』(鎌倉初期)の「利仁(としひと)薯蕷(いも)粥のこと」にも、「いまだ芋粥に飽かせたまはずや」「いまだ飽きはべらず」(いまンだあ いもンがゆに あかしぇえ たまふぁンじゅやあ/いまンだあ あきい ふぁンべらンじゅ)というやりとりが見えています。まだ芋粥をおなか一杯めしあがったことがありませんか。まだ一度もございません。源氏・手習では横川(よかわ)の僧都が、「われ、〔…〕女の筋につけてまだそしりとらず、あやまつことなし」(われ、〔…〕うぉムなの しゅンでぃに とぅけて まンだあ しょしり とらンじゅ、あやまとぅ こと なしい)と言い、『今昔物語集』の或る説話(31-34)では、さる娘が「我まだ男に触ればふことなし」(われ まンだあ うぉとこに ふれンばふ こと なしい)と言っています。
次に、「これほど」は「かくばかり」(「かくンばかり」のほか「かくンばかり」とも言います)ないしそのつづまった「かばかり」(「かンばかり」とも「かンばかり」とも言うでしょう)。例えば『枕』の今しがた引いた箇所に続いて隆家の「まことにかばかりのは見えざりつ」(まことに かンばかりのふぁ みいぇンじゃりとぅう、など)と言うのは、まことにこれほどのは(つい最近まで)見かけたことがありませんでした、ということです(「つ」によって「見えず」という状態のつい最近終わったことが示されます)。源氏・宿木(やどりき)では中の君が「山里の松のかげにもかくばかり身にしむ秋の風はなかりき」(やまンじゃとの まとぅの かンげえにも かくンばかり みいにい しむ あきいの かンじぇふぁ なあかりきい)と詠んでいます。歌では「かくばかり」が好まれました。
最後に、現代語の「美しい」と等価といってよい形容詞は平安時代の日本語にはないでしょうけれども、例えば『源氏』では、絵について肯定的な評価をする言葉として、「若紫」に四度、「蜻蛉」に一度、「をかし」(うぉかしい)が使われています。ほかに目ぼしい言葉は見当たりません。なお、平安時代の京ことばにおける「まろ」(まろ)には、しばしば現代のドラマで真っ白な顔の公家が「まろは何々でおじゃる」などいう時の「まろ」のような妙なニュアンスはありません。女性も使いました。こうして、「私はこれほど美しい絵を見たことがない」に近い意味内容の擬古的な言い方は、「我(ないし、まろ)、かくばかり(ないし、かばかり)をかしき絵を見ず(ないし、見ることなし)」といったものだということになります。
例えば「春、来(く)。」(ふぁるう、くうう。)がそうであるように、口語を形式的に文語に直訳しただけで擬古的な言い方になることもありますから、口語直訳調の文語による言い方と擬古的な言い方とは必ずしも排他的な関係にあるわけではありません。しかし、口語直訳調の文語が擬古性を獲得するのは偶然によるのに過ぎません。どうしたら口語直訳調の文語が書けるようになるか、どうしたら僥倖を当てにせずに擬古的な言い方ができるようになるかを考えるならば、二つのあいだに本性上の差のあることは明らかです。擬古的に書きあるいは詠む人は、読み手として古い時代の日本語になじんでいる人、ないし古い時代の日本語に興味を持っている人を想定するのに対して、口語直訳調の文語で書きあるいは詠む人は、特にそうした人を想定しない、ということも申せます。
古典文法に照らして近現代のいわゆる文語表現の文法的な誤りを指摘する向きもあります。例えば「走っている」という意味で「走り居(ゐ)る」とするのはおかしい、「居(ゐ)る」は古くは「座る」という意味で使われたから、「走り居(ゐ)る」は「走って座る」という意味にしかならない、というような指摘です(注)。しかし現代文語は昔の日本語とは異なるのであり擬古的たらんことを目ざしませんから(名だたる歌人たちがそう明言しています)、さような指摘は的はずれでしょう。口語表現「走っている」を、例えば「梅が枝に来居(ゐ)るうぐひす」云々(古今・春上5。ムめンが いぇえに きいい うぃる うンぐふぃしゅ)のような「て」のない言い方を参考にしつつ「走り居(ゐ)る」と変形し(その方が「文語っぽい」という考えを多くの方がお持ちのようです)、これに「走っている」を意味させることは、現代文語としては何らまちがいでありません(もっとも、「居」という漢字を使うのはおかしいわけですし、上の「来居(ゐ)」るは「来て止まっている」を意味しますけれど)。ついでながら、「走っている(走っている最中である)」に当たる擬古的な言い方は、同じく口語直訳的な「走りたり」「走れり」ではなく、ただの「走る」(ふぁしるう)です(詳細後述)。
注 正確には「居(ゐ)る」(うぃる)は、平安時代やそれ以前の言い方として、「座っている」「一ところにとどまる」「一ところにとどまっている」なども意味でき、また「走りゐる」(ふぁしりい うぃる)は「走ったり座ったりする」なども意味できます。
「見たことなし」「走ってゐたり」のような口語と文語との混用も時に批判されます。しかし、もともと近現代の文語表現の多くが如上(じょじょう)のものなのであってみれば、あらわに口語的な言い方をしているか、一見そうは見えない言い方をしているかの差を問うことに、さしたる意味はありません。 [「現代文語を…」冒頭に戻る]
2 見本帖(近代) [「現代文語を…」冒頭に戻る]
近現代のいわゆる文語短歌を八つほど取りあげて、擬古的な詠み口と比べてみます。ここで言う「擬古的」とは、平安時代中期の日本語の文法・語法に従うだけでなく、当時の詠歌の作法に従うという意味です。
i.正岡子規は、
昔せし童(わらべ)遊びをなつかしみこより花火に余念なしわれは
と詠んでいます(『竹の里歌』〔明治三十一年〕)。『聞書集(ききがきしゅう)』に収める西行の「竹馬を杖にも今日はたのむかな童(わらは)遊びを思ひいでつつ」(たけムまうぉ とぅうぇにも けふふぁ たのむかなあ わらふぁあしょンびうぉ おもふぃい いンでとぅとぅ) と「昔せしかくれ遊びになりなばや片すみもとに寄りふせりつつ」(むかし しぇえしい かくれあしょンびに なりなンばやあ かたしゅみもとに より ふしぇりとぅとぅ) とを踏まえたものと思われます。「こより花火」は線香花火。子規の造語かもしれません。
「せし」「童(わらべ)」「なし」「われ」のような措辞は歌に古風な趣を与え、特に「われは」で詠みおさめる行き方は一首に万葉歌の面影を与えますけれども、「なつかしみ」は現代語「なつかしい」を踏まえて解すべき言い方です。この「なつかしみ」は形容詞「なつかし」から派生した動詞の連用形とも、形容詞「なつかし」が接辞「み」を従えた言い方ともとれますが(子規は「月をさやけみ」「森ふかみ」など詠んでいます)、いずれにしてもその「なつかし」は、懐旧の情をおぼえる、といった意味において、つまり新義において使われているようです。周知のとおり、万葉の歌うたでも、平安時代の作物(さくぶつ)でも、「なつかし」(なとぅかしい)は「心惹かれる」「親しみがもてる」といった意味で使われました。現代語におけるような意味合いに転じたのは中世以降のようであり、パジェスの『日仏辞書』(web)によっても、ヘボンの『和英語林集成』(web)によっても、当時すでに日常語では新義においてのみ使われたようです。結局のところ一首は、「昔した子供遊びをなつかしみ、ないし、昔した子供遊びがなつかしくて、私は線香花火に余念がない」を、古い日本語に関する初歩的な知識を使って三十二文字に変形したもの、と見られます。
「昔せし童遊び」の歌のような内容を擬古的に詠もうとするならば、「童遊びをなつかしみ」は然(しか)るべく言い換えなくてはなりませんけれども、「余念なし」もそのままには出来ません。「余念なし」は『菅家文草』(道真の漢詩集)にも見えている言い方だそうですが、よく知られているように、万葉集でも、王朝和歌でも、漢語の使用は通例避けられたからです。すでにやまと言葉と化していると言ってよい「菊」(きく)、「梅」(ムめ)などはこの限りでなく、また「極楽」(ごくらく)のような和語に言い換えにくいものはそのまま使われ(例えば慈円が「極楽へまだ我が心ゆきつかず羊のあゆみしばしとどまれ」〔ごくらくふぇえ まンだあ わあンがあ こころ ゆき とぅかンじゅ ふぃとぅンじの あゆみ しンばし とンどまれ〕と詠んでいます〔新古今・釈教〕)、また戯歌(ざれうた)めいたものでは漢語の使用は自由になされましたから(古く笠郎女(かさのいらつめ)が「相思はぬ人を思ふは大寺(おほてら)の餓鬼(がき)の後(しりへ)にぬかづく如し」〔あふぃい おもふぁぬ ふぃとうぉ おもふふぁ おふぉてらの がきの しりふぇえに ぬかンどぅくンごとしい〕)と詠んでいます)、古歌では漢語は使われなかったということはありませんけれど、擬古的に詠もうとするならば、「余念なし」のような、やまと言葉に言い換えの利きそうな言い方をそのまま用いることはできません。ちなみに、「わらはあそび」という言葉ならば古く紫式部や和泉式部が使っていますけれども、「わらはべ」(わらふぁンべ)が転じて「わらんべ」(わらんべ)が生まれ、これがつづまって三拍の「わらべ」(わらンべ)の成立するのは、鎌倉時代になってからのようです。
例えば、
いにしへを思ひいでつつ手花火の影に目かれぬ我にもあるかな
や、
手花火の影に目かれぬ今宵かないわけなかりし折を恋ひつつ
は、「昔せし童(わらべ)遊び」の歌のような内容を擬古的に詠んだものと言えるでしょう。それぞれ、昔を思い出しつつ、線香花火の光から目を離さない私であることだ、線香花火の光から目を離さない今夜であることだ、幼かった頃を恋しく思い出して、と言っています。いずれも、「手花火」――山口誓子に「手花火に妹がかひなの照らさるる」の句があります――を除けば、平安時代の京ことばの文法・語法に照らしてその意味を了解できるといってよさそうです。
今は誰かが自分の子供時代を指して「いにしえがなつかしい」といったら滑稽です。現代語としては「いにしえ」は、遠い昔を指すところの、かなり荘重な、あるいは大袈裟な語感を持つ言葉ですが、しかし平安時代の京ことばでは「いにしへ」(いにしふぇ)は別してそうした印象を与える言葉でなく、また自分の若かった頃も指せます。例えば三十二歳の光る源氏は、自分が十八歳だった時の藤壺とのことを指して、「いにしへの好き」(いにしふぇの しゅき)という言い方をしています(源氏・薄雲)。「いにしへ」もまた一つの古今異義語です。
そのほかの措辞については、次のようなものが参考になります。
大堰川(おほゐがは)幾瀬(いくせ)鵜舟の過ぎぬらむほのかになりぬかがり火の影 金葉・夏151(おふぉうぃンがふぁ いくしぇ うンぶねの〔「うンぶねの」かも〕しゅンぎぬらム ふぉのかに なりぬう かンがりンびの かンげえ)
暮ると明くと目かれぬものを梅の花いつの人まにうつろひぬらむ 古今・春上45(くると あくと めえ かれぬ ものうぉ ムめの ふぁな いとぅの ふぃとまに うとぅろふぃぬらム)
今年また咲くべき花のあらばこそうつろふ菊に目かれをもせめ 詞花・秋128(ことし また しゃくンべきい ふぁなの あらンばこしょ うとぅろふ きくに めかれうぉも しぇえめえ。「目かる」「目かれす」は「に」格をとることが知られます)
春霞(はるかすみ)たなびく山のさくら花見れどもあかぬ君にもあるかな 古今・恋四1031(ふぁるうかしゅみ たなンびく やまの しゃくらンばな みれンどもお あかぬ きみにも あるかなあ )
恋しきをたはぶれられしそのかみのいわけなかりし折の心は 西行・聞書集(こふぃしきいうぉ たふぁンぶれられし しょのかみの いわけなあかりし うぉりの こころふぁ)
いにしへを恋ふる涙にくらされておぼろに見ゆる秋の夜の月 詞花・雑下392・公任(いにしふぇうぉ こふる なみンだに くらしゃれて おンぼろに みゆる あきいの よおのお とぅき「恋ふ」が「を」格をとれることの確認。古くは「に」格をとりました)
「手花火」は平安時代にはなかったから「手花火の影に目かれぬ」は擬古的な言い方でない、とは言えません。例えば〈I love te-hanabi.〉はどこまでも英語の文法・語法に従った言い方であるのと同じく、「手花火の影に目かれぬ」は古い日本語の文法・語法を破っていません。平安時代の都の人士が二人、現代に忽然とあらわれたとします。何年かして彼らは現代日本語にも現代での生活にもかなり慣れたが、余人を交えない時は、そのほうが楽なので平安時代の言葉で話します。彼らの会話には「新聞」「トースト」「CD」などなど多種多様な現代語が登場するでしょうけれども、それは彼らの話す言葉が現代日本語化してきたことを意味しません。ここに言う擬古的な三十一文字とは平安時代の詠歌の作法に従うという意味だと前(さき)に申しましたけれど、それは当時の和歌集のなかに置いても違和感がないという意味ではありません。
ちなみに、上の二つの腰折れは、平安時代初中期の発音・アクセントでは、
いにしふぇうぉ おもふぃい いンでとぅとぅ てふぁなンびの かンげえに めえ かれぬ われにも あるかなあ
てふぁなンびの かンげえに めえ かれぬ こよふぃかなあ いわけなあかりし うぉりうぉ こふぃとぅとぅ
などいったように言われたでょう。「手花火」は申したとおり古語ではありませんけれども、例えば英語を母語とする人は任意の日本語、例えば te-hanabi を自分として 自然な発音・アクセント―― [tehanéibi] でしょうか――で言うことができるでしょう。同じように、もし平安時代の都の紳士淑女に「手花火」という言葉を自分たちとして自然な発音・アクセントで言ってもらったら、「てふぁなンび」(あるいは「てふぁなンび」)のようなものになるはずです。複合名詞のアクセントには言語体系ごとに一定のルールがあります。例えば私たちが「電気そば」なり「そば発電」なりを、さらには意味不明の例えば「ダラニラカスメマ」すら、すらすらと発音できてしまうのと同じように、彼ら彼女らは「手花火」を彼ら彼女らの流儀ですらすらと言えるでしょう。「花」は「ふぁな」、「火」は「ふぃい」、「鬼火」が「おにンび」ですから(「鬼」は「花」と同じく低平連続の「おに」)、「花火」は「ふぁなンび」と言われたでしょう。すると、詳細は省きますが「手花火」は「ねぬなは【根蓴菜】」 (ねぬなふぁ。「根」は「ねえ」、「ぬなは」は「ぬなふぁ」)と同じになる公算が大きく、そうでないとすれば 「をぶくろ【尾袋】」(うぉンぶくろ。「尾」は「うぉお」、「ふくろ」は「ふくろ」)と同じアクセントになります。
ⅱ.与謝野晶子は、
ゆるされし朝よそほひのしばらくを君に歌へな山の鶯
と詠んでいます(『乱れ髪』〔明治三十四年〕)。朝、あの方がようやく私を放してくださったので、私はこうして身なりを整え、お化粧をしつつある。これが終わるまでのしばらくのあいだ、山のうぐいすよ、あの方に歌ってさしあげなさいな。こうした意味に解されますけれど、ということは、この歌において「ゆるす」は古義で使われているようだということです。例えば『源氏物語』では何度かこの動詞が、男が女性の手をとらえるなりからだを抱きすくめるなりするのをやめて、女性を放す、女性に行動の自由を与える、という意味で使われます。後年この物語を現代語訳することになる歌人、「源氏をば十二三にて読みしのち思はれじとぞ見つれ男を」(「つれ」は原文のまま)と詠んだ歌人は、早くから「ゆるす」にこの意味のあったことを知っていたのでしょう。
ちなみに明治後期の日常語として「許す」にそうした語義があったわけでなさそうです。例えば源氏・帚木に光る源氏が空蝉を「許したまひてもまた引きとどめたまひつつ」(ゆるしい たまふぃても また ふぃき とンどめ たまふぃとぅとぅ)とあるのは、女性の行動の自由を奪っている源氏が一旦女性にその自由を与えてもまたお引きとどめになっては、という意味ですが、『与謝野源氏』はここを、「女を行かせようとしてもまた引き留める源氏であった」とします。
「君」を二人称としてではなく「いとしいあのお方」という意味で使う言い方も、「歌へな」のような言い方も、擬古的です。例えば「久方の天(あま)の河原の渡し守君わたりなば梶(かぢ)かくしてよ」(古今・秋上174。ふぃしゃかたの あまの かふぁらの わたしもり きみ わたりなンば かンでぃ かくしてよ)は「天の川の渡し守よ、あのお方が渡ったら、梶を隠しておしまい」というのです。また西行は「寂しさに耐へたる人のまたもあれな庵(いほり)ならべむ冬の山里」(しゃンびししゃに たふぇたる ふぃとの またもお あれな いふぉり ならンべムう ふゆの やまンじゃと)と詠みました(新古今・冬627)。
とは申せ、「ゆるされし」の「し」は、古今異義語を新義で使ったものであり、擬古的でありません。
過去の「き」は古今異義語でもあります。近現代の口語では過去の助動詞「き」やその連体形「し」はむろん普通使いませんけれども(「思いきや」「選ばれし勇者」「聞きしにまさる」などは言います)、現代文語ではこの助動詞は、現代口語の「た」と等価なものとしても好んで使われます。例えば、平安時代の京ことばでは「我に似し人」(われに にいしい ふぃと)は「以前(例えば突如として顔が変わって)私に似た人(私に似た風貌になった人)」といった奇妙な意味しかもちませんが、現代文語としてはそれは「私に似た人」を意味できます。過去の「き」は古今異義語でもあり、現代口語ではイディオムの一部としてしか使われないものの、現代文語では、好んで新義においても使われる、ということができます。
「ゆるされし朝」の歌における「し」も、新義で使われています。この歌では詠み手はついさきほど解放されたのだと見られます。平安時代の京ことばでは、過去の「き」は、自分が(「見きや」〔みいきやあ〕のような疑問文では相手が)以前体験したことを言う時に使われます(漢文訓読では普通「けり」を使わないので、仮名文や歌ならば「けり」を使うところでも「き」を使いなどします)。自分が昔体験したことにも、きのう体験したことにも「き」を使えますけれども、ついさきほど体験したことには使えません。そのような時は「つ」を使います(「近接過去の『つ』」。この「つ」はアスペクトではなくテンスの助動詞であり、自動詞にも付き、「ぬ」と対立関係にありません)。今問題にしている「ゆるされし」は、擬古的には「ゆるされつる」(ゆるしゃれとぅる)としなくてはなりません。
文語短歌の読者は一般に、一首にあらわれる助詞や助動詞を、中学高校で習う程度の知識を使って読むでしょうが、動詞や名詞については、古今異義かもしれないと思いつつ読むことは少ないでしょう。「ゆるされし朝」の歌は文語短歌としては珍しく擬古的な用法をまじえていると思われますけれども、ということはこの歌は
misleading だということで、実際この歌を目にした多くの読み手は、詠み手は何かいけないことをしたのかしらと思うでしょう。
ちなみに、
ゆるされて我は紅(べに)つくいざ鳴きて君なぐさめよ野辺のうぐひす
などすれば、一首を擬古的に翻案したことになるでしょう。あのお方に放していただいて、私は今、紅をつけている。さあ鳴いてあのお方をなぐさめてさしあげなさい、野辺のうぐいすよ。平安初中期の発音・アクセントではこれは「ゆるしゃれて われふぁ べに とぅくう いンじゃあ なきて きみ なンぐしゃめよお のンべえの うンぐふぃしゅ」など言われただろうと思います。
「紅(べに)」は頬紅とも口紅とも解せます。いずれも古くからあったようです。「さす」には「塗る」「塗りつける」という意味があり、例えば『紫式部日記』に「琴柱(ことぢ)に膠(にかは)さす」(ことンでぃに にかふぁ しゃしゅう)という言い方が見えていますから、「紅さす」は古くも言った言い方なのかもしれませんけれど、源氏・末摘む花(しゅうぇ とぅむ ふぁな)では「鼻に紅をつけてみたまふに」(ふぁなに べにうぉ とぅけて みいい たまふに)という言い方をしています。
少し触れたことですが、平安時代の京ことばでは「つく」(とぅくう。下二段動詞の終止形)によって「つけている」を意味させるができます。現代語では「私は紅をつける」は「私は紅をつけている」を意味しにくいでしょう。事情は今昔でおおきに異なります。
少し長くなります。例えば誰かが空を見あげながら「雪が降っている」と言う時には、それがうそでない限り白いものが落ち来ているでしょうけれど、地面を見ながらそう言う時には、それがうそでない限り、白いものはすでに落ちて来ていなくて、ただ白いものが散りしいているばかりです。一般化すると、「ている」には、現在ただ今一つの動作や現象が進行中であることを示す場合と(「進行相」)、一つの動作や現象が終わりその結果が存続していることを示す場合とがあります(「結果存続相」)。
平安時代には結果存続相は多く「たり」「り」を添えて示されました。添えないこともあって、例えば源氏・夕顔で光る源氏は「この西なる家には何人(なにびと)の住むぞ」(こおのお にしなる いふぇにふぁ なにンびとの しゅむンじょ)と問うていますけれども(誰が住むのか〔住もうとしているのか〕ではなく誰が住んでいるのかが問われています)、添えることが多かったと申せます。雪の降った結果が存続している情況、要するに雪の積もっている状況をさして「雪、降りたり」「雪、降れり」と言ってよいことは、例えば『枕草子』の一つの段(176)の冒頭に「雪のいと高うはあらで薄らかに降りたるなどは、いとこそをかしけれ」(ゆうきの いと たかうふぁ あらンで うしゅらかに ふりたる なあンどふぁ、いとこしょ うぉかしけれ)とあるのや、伊勢物語の第九段に「富士の山を見れば、五月のつごもりに、雪いと白う降れり」(ふンじの やまうぉ みれンば、しゃとぅきの とぅンごもりに ゆうき いと しろう ふれり)とあるのが示すとおりです。八代集には、雪について「降れり」(ふれり)、「降りたり」(ふりたりい)ということを言う歌や詞書が三十あまり数えられますけれども(歌ではもっぱら「降れり」が使われます)、いずれも結果存続相を示すようです。現代語ではというと、「雪が降っている」は第一義的には進行相を示すでしょう。「雪が降っている」によって降雪の痕跡のあるさまを指すことはできますが、そうしたさまは、多く「雪が積もっている」といった言い方で示します。
他方、進行相は古くは大抵「たり」「り」なしの言い方で示されました。例えば源氏・夕顔で、京の五条に住まう庶民が、お隣さんに「北殿こそ、聞きたまふや」(きたンどのこしょ〔きたンどのこしょ、かも〕、きき たまふやあ)と問うているのは、「北どなりさん」に、「(私の声を)聞いていますか」「(私の声が)聞こえていますか」というのです。また例えば同・空蝉で或る女房が「昼より西の御かた渡らせたまひて碁うたせたまふ」(ふぃるより にしの おふぉムかた わたらしぇ たまふぃて ごお うたしぇえ たまふう)と言うのは、「昼から西の対のお方がいらっしゃっていて、碁を打っていらっしゃいます(碁を打っていらっしゃる最中です)」というのです。ちなみに、現代日本語では例えば「歌う」と「歌っている」とを使い分け、西洋語でも例えば英語では
〈She sings.〉と〈She is singing.〉とを使い分けますが、フランス語やドイツ語では、後者のような意味合いも前者のような言い方で示します。なお、「たり」「り」はまた「…してある」も意味します。例えば『枕草子』の「内裏(うち)の局(つぼね)は」(うてぃの とぅンぼねふぁ)の段(73)に「三尺の几帳を立てたるに」(しゃムじゃくの きいてぃやううぉ たてたるに)とあるのは、三尺の几帳を立ててあるが、ないし、三尺の几帳が立ててあるが、ということです。
こうして、「私は紅を付けている最中である」という意味の擬古的な言い方としては「紅つけたり」よりも「紅つく」が適切です。「紅つけたり」は第一義的には「紅をつけてある」「紅がつけてある」を意味するでしょう。助動詞の付かない「つく」(とぅくう)、「打つ」(うとぅう)、「歌ふ」(うたふ)のような言い方もまた古今異義なのだと申せます。
下二段の「なぐさむ」は古今同義で、例えば和泉式部が「なぐさむる君もありとは思へどもなほ夕暮はものぞ悲しき」(なンぐしゃむる きみも ありいとふぁ おもふぇンどもお なふぉお ゆふンぐれふぁ ものンじょお かなしきい)と詠んでいます(『和泉式部集』)。敦道親王に贈ったもので、あなたがなぐさめてくださるとは思うものの云々と言っています。
ⅲ.石川啄木は、
何がなしに
息きれるまで駆け出してみたくなりたり
草原(くさはら)などを
と詠んでいます(『一握の砂』〔明治四十三年〕)。「きるる」「駆けいだして」とせず、ただ「息が」の「が」を省き、「なった」を「なりたり」としています。「息がきれるまで駆け出す」の奇妙さは今は問いません。
「何がなしに」や「息、切る(=切レル)」のような言い方は古くはしなかったようです。「たし」は周知のとおり、また後に見るとおり、王朝和歌では普通使いません。また「なりたり」は、誤用でこそなけれ、王朝和歌ではもっぱら「なれり」が使われました。万葉歌には「草原(かやはら)」(「かやふぁら」か「かやふぁら」でしょう)、王朝和歌には「草の原」(くしゃの ふぁら)が見えていますが、いずれにも「草原(くさはら)」はあらわれません。
一首を擬古的に翻案するならば例えば、
何(なに)となく喘(あへ)きぬばかり草の原を走らむとこそ思ひなりぬれ
のようなものが考えられるでしょう。これという理由もなく、喘いでしまうくらい草原を走ろうと思うようになった。なにと なあく あふぇきぬンばかり くしゃの ふぁらうぉ ふぁしらムうとこしょ おもふぃい なりぬれ。
何(なに)となく春になりぬと聞く日より心にかかるみ吉野の山 山家集(なにと なあく ふぁるうに なりぬうと きく ふぃいより こころに かかる みよしのの やま)
男、喘(あへ)く喘く(…)館(たち)に馳せ着きたれば 今昔・二七・一三(うぉとこ、あふぇく あふぇく〔…〕たてぃに ふぁしぇえ とぅきたれンば。今は「あえぐ」と言いますけれど、昔は三拍目は清んだようです)
枕も浮きぬばかり、人やりならず(涙ヲ)流し添へつつ 源氏・柏木(まくらも うきぬンばかり、ふぃとやりならンじゅ なンがしい しょふぇとぅとぅ)
憂き身世にやがて消えなば尋ねても草の原をば問はじとや思ふ 同・花の宴(うきい みい よおにい やンがて〔ないし、やンがて〕きいぇなンば たンどぅねても くしゃの ふぁらうぉンば とふぁンじいとやあ おもふ)
一庭(ひとには)を走りまはり舞ふ。 宇治拾遺物語・三・鬼にこぶ取らるること(ふぃとにふぁ〔後半あやふやな推定〕うぉ ふぁしりい まふぁり まふ。他動詞としての「走る」)
咲きし時なほこそ見しか桃の花散れば惜しくぞ思ひなりぬる 拾遺・雑春1030(しゃきし とき なふぉおこしょ みいしか ももの ふぁな てぃれンば うぉしくンじょお おもふぃい なりぬる)
ⅳ.斎藤茂吉は、
この宵はいまだ浅けれ床(とこ)ぬちにのびつつ何か考へむとおもふ
と詠んでいます(『赤光』〔大正二年〕)。まだ宵の口だけれども(ないし、宵の口だから)床の中で体を伸ばしつつ何か考えようと思う。
「浅けれ」「床ぬち」は万葉集の語法です。平安以前、已然形は時に「已然形+ば」「已然形+ど」の意味を持ちました。「この宵はいまだ浅けれ」は初版の言い方で、改選版(大正十年)の言い方「こよひはいまだ浅宵(あさよひ)なれど」を参考にするならば「宵の口だが」と解するのがよいことになりますけれども、「浅ければ」(浅いので)とも解せます(それぞれ〝修飾先〟が異なります)。次に「床(とこ)ぬち」は「床のうち」をつづめたもので、万葉集に見られる「屋内(やぬち)」(「屋の内」〔やあの うてぃ〕のつづまったもの、ということは「やあぬてぃ」と言われたということでしょうか。それとも「やあぬてぃ」?)などに倣った言い方です。王朝和歌ではこのタイプの縮約は一般的でありません。
しかし「何か考へむ」は、現代語「何か考えよう」の末尾だけを変形した言い方であり、万葉的でありません鎌倉時代より前には、「考ふ」を今の「考える」に近い意味で使うことは、絶無ではないかもしれないものの(複数の辞典がそう説きます)、まったく一般的でありません。古い日本語としては、「何か考(かむが)へむ」(なにかあ かムがふぇム)は「何を糺(ただ)すだろうか」「何かを糺(ただ)すだろうか」「どうして事実を究明するだろうか」などは意味できるでしょう。
「このよひ」は平安時代には言う言い方だったようです。「こよひ」が一般的ですが、『貫之集』に「異夏(ことなつ)はいかが鳴きけむほととぎす今宵ばかりはあらじとぞ聞く」(ことおなとぅふぁ いかンがあ なきけム ふぉととンぎしゅ こよふぃンばかりふぁ あらンじいとンじょお きく)とある歌が(この「ばかり」については「委託法、および、状態命題」5をご覧ください)、『大鏡』の終わりのほうに、「こと夏はいかが鳴きけむほととぎすこの宵ばかりあやしきぞなき」(ことおなとぅふぁ いかンがあ なきけム ふぉととンぎしゅ こおのお よふぃンばかり あやしきいンじょお なきい)として引かれています。
こうして一首は、万葉的な語法を含みつつも非擬古的な現代語直訳調の言い方で詠みおさめた歌、ということになります。万葉的な言い方を一般的な文語や口語で言い換えて、
この宵はまだ浅ければ
床のなかで
のびつつ何か考へむとおもふ
などするならば、啄木の歌だと言って通るでしょう。
擬古的に翻案するならば、
わが身をばまだ宵の間(ま)の床にのべて静かに思ひめぐらして寝む
などいうものが考えられす。わあンがあ みいうぉンば まンだあ よふぃの まあのお とこに のンべて しンどぅかに おもふぃい めンぐらして ねえムう。我がからだをまだ宵のうちの床に伸ばして、ゆっくりと思案して、それから寝よう。
世の中の憂きたびごとに身を投げば深き谷こそ浅くなりなめ 古今・雑体1061(よおのお なかの うきい たンびンごとおに みいうぉお なンげンば ふかきい たにこしょ あしゃく なりなめえ)
夏の夜はまだ宵ながら明けぬるを雲のいづこに月宿るらむ 古今・夏166(なとぅの よおふぁあ まンだあ よふぃなンがら あけぬるうぉ くもの いンどぅこに つき やンどるらム)
月待つと言ひなされつる宵のまの心の色を袖に見えぬる 山家集(とぅき まとぅうと いふぃ なしゃれとぅる よふぃの まあのお こころの いろうぉ しょンでに みいぇぬる)
おきな、首を伸べてたらひにむかひて水影を見て 今昔・二七・五(おきな、くンびうぉ のンべて たらふぃに むかふぃて みンどぅかンげうぉ〔推定。みンどぅかンげうぉ、かも〕みいて)
秋のころほひ、静かにおぼしつづけて 源氏・末摘む花(あきいの ころふぉふぃ しンどぅかに おンぼし とぅンどぅけて)
何事をとり申さむと思ひめぐらすに 同・帚木(なにンごとうぉ とりい まうしゃムと おもふぃい めンぐらしゅに)
一目見し君もや来るとさくら花今日は待ちみて散らば散らなむ 古今・春下78・貫之(ふぃとめ みいしい きみもやあ くると しゃくらンばな けふふぁ まてぃい みいて てぃらンば てぃらなムう。桜よ、お前を一目見たあのお方がまたいらっしゃるかと今日は待ってみて、それから、散ろうと思うのならば散ったらよいではないか。この「て」は「ローマを見てしね」の「て」と同趣のもの。「ローマを見てしね」は、さっさとローマを見に行ってしんでしまえ、と言っているのではありません。「見て」が「焦点」(「名歌新釈」1を御覧ください)だということになります。「しづかに思ひめぐらして」も同様に焦点です)
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3 見本帖(現代) [「現代文語を…」冒頭に戻る]
以下の四首は詞華集『現代の短歌』(講談社学術文庫)から引いたものです。いずれも自選の歌うたのうちの一つです。
i.ホメロスを読まばや春の潮騒のとどろく窓ゆ光あつめて 岡井隆『鵞卵亭』(昭和五十年)
ホメロスを読みたい、春の潮騒のとどろく窓から光を集めて。「ばや」と「ゆ」とが歌に古風な雰囲気を与えますけれども(歌人は安易な「読みたし」を避けています)、しかし平安時代の京ことばでは「読まばや」は、少なくとも第一義的には「黙読したい」ではなく「音読したい・朗読したい」を意味しました。「ホメロスを読まばや」は、特に音読したいという意味に解すべきでしょうか。そうでないならばここでは古今異義語が新義において使われています。なお、「より」「から」を意味する「ゆ」は平安時代にはすでに使われなくなっている一方、「とどろく」も、希望を示す「ばや」も、平安時代に成立したようです。結局のところ歌は、「ホメロスを読みたい、春の潮騒のとどろく窓から光をあつめて」の「たい」と「から」とを古い言い方に書き換え字数を整えた格好のものです。
一首を擬古的に翻案するならば例えば、
ホメロスの書(ふみ)もが春の潮騒(しほさゐ)のとどろく窓の光もて見む
などすることができそうです。ホメロスの本があったらなあ。あったならば、春の潮騒のとどろく窓からの光で読めるだろうに。「本を読む」は昔の言い方では「書(ふみ)を見る」ですが(例えば源氏・若菜上に「俗のかたの書(ふみ)を見はべしにも」(じょくの かたの ふみうぉ みいい ふぁンべっしにも)とあります)、「ホメロスを見る」は換喩と解してもらいにくいでしょう。
ちなみにこれは平安初中期には「ふぉめろしゅの ふみもンが ふぁるうの しふぉしゃうぃの とンどろく まンどおの ふぃかり もて みいムう」など発音されたでしょう。まず「ホメロス」を「ふぉめろしゅ」としたことに関して申します。例えば「でぼちん」という、「額(ひたい)」「おでこ」を意味する、共通語ではないものの、京阪そのほか、全国のさまざな地域で使われるらしい言葉があります。京阪ではこの言葉は「でぼちん」と発音されるようですけれども、これを多くの関東人は「でぼちん」と聞くでしょう(「でぼちん? でぼちんて なんですか?」)。これは関東人は「でぼちん」というアクセントの型を持っていないからで、反対に、共通語のアクセントに慣れていない例えば京都の人に「あさくさ」(浅草)と言ってもらおうとすると、「あさくさ」という発音が聞かれなどするでしょう。発音に関しても同趣であることは、例えば英語のthを日本語を母語とする人がどう聞くか考えれば明らかです。さて平安時代の京ことばは ho や su のような音を持たず、またそこにおいては四拍名詞は普通「ほめろす」のようなアクセントの型では言われませんでした。平安時代の京ことばを母語(ないし〝母言語体系〟)とする人は「ほめろす」を
自分の持っている発音やアクセントの体系というフィルターを通して聞くでしょう。それはさしあたり「ふぉめろしゅ」だろうと考えられます。「あながち」(あなンがてぃ)、「いはかど【岩角】」(いふぁかンど)、「かはたけ【河竹】」(かふぁたけ)、「くれたけ【呉竹】」(くれたけ)、
「このかみ【兄・姉】」(このかみ)、「ささがに【細蟹】」(しゃしゃンがに)、「したひも【下紐】」(したふぃも)、「なめくぢ」(なめくンでぃ)、「なよたけ」(なよたけ)、「はつかり【初雁】」(ふぁとぅかり)、「まらうと【客人】」(まらうと)、「をしどり【鴛鴦】」(うぉしンどり)などがこの型に属します。
語法については次などが参考になります。
住吉(すみのえ)の岸に家もが沖に辺(へ)に寄する白波見つつしのはむ 万葉・巻七1150。しゅみの いぇえの きしに いふぇもンが おきに ふぇえに よしゅる しらなみ みいとぅとぅ しのふぁムう。住吉の浜辺に家があったらなあ。あったならば、沖にまた海辺に寄せる白波を見つつあの人を偲べるだろうに。この「しのふ」は可能態と見るほうが自然かもしれません〔「名歌新釈」1をご覧ください〕)
それもがと今朝ひらけたる初花に劣らぬ君が匂ひをぞ見る 源氏・賢木(しょれもンがあと けしゃ ふぃらけたる ふぁとぅふぁなに おとらぬ きみンが にふぉふぃうぉンじょ みる。平安時代には「もが」よりも「もがな」が好まれましたけれども、「もが」は廃れたわけではありません)
なるかみはなほ村雲にとどろきて入り日に晴るる夕立の空(六百番歌合・夏下・顕昭。なる かみふぁ なふぉお むらくもに とンどろきて いりふぃ〔末拍推定〕に ふぁるる ゆふンだてぃの しょら)
さるべき都のつとなどよしあるさまにてあり 源氏・須磨(しゃるンべきい みやこの とぅと なンど よし ある しゃまにて ありい。「窓の光」が「窓からの光」を意味できることの確認。「都のつと」はここでは「都からの土産」。他方、伊勢物語・十四段の歌(「くりはらの…」〔くりふぁらの…〕)に見えている「都のつと」は「都への土産」。古くは「都よりのつと」「都へのつと」などは言いませんでした)
にほひ濃き花の香 もてぞ知られける植ゑて見るらむ人の心は 後撰・春中69(にふぉふぃ こきい ふぁなの かあもてンじょ しられける ううぇて みるらム ふぃとの こころふぁ)
万葉集の語法を使って、
ホメロスの書(ふみ)もが春の潮騒(しほさゐ)の響(とよ)むい窓の光もて見む
とすることもできるでしょう。
潮干(ひ)なばまたも我(われ)来(こ)むいざ行かむ沖つ潮騒高く立ち来(き)ぬ 万葉・巻十五3710(しふぉ ふぃいなンば またもお われ こおムう いンじゃあ ゆかムう おきとぅ しふぉしゃうぃ たかく たてぃい きいぬう)
鳴る神の少し響(とよ)みてさし曇り雨も(=雨デモ)降らぬか君をとどめむ 同・巻十一2513(なる かみの しゅこし とよみて しゃしい くもりい あめえもお ふらぬかあ きみうぉ とンどめムう)
向(むか)つ峰(を)の若桂の木下枝(しづえ)取り花待つい間(ま)に嘆きつるかも 同・巻七1359(むかとぅ うぉおのお わかかとぅらの きい しンどぅいぇえ とりい ふぁな まとぅい まあにい なンげきとぅるかもお。語調を整えるために置かれる上代語「い」の例。アクセントは未詳)
我妹子(わぎもこ)が形見の衣なかりせば何物もてか命継(つ)がまし 同・巻十一五3733(わンぎもこが かたみの ころも なあかりしぇンば なにもの もてかあ いのてぃ とぅンがましい。「我が妹(いも)」は「わあンがあ いも」でそのつづまった「わぎも」は「わぎも」のようです。また「妹子(いもこ)」は「いもこ」、「わぎもこ」の「こ」はこの「いもこ」の「こ」と同じく「親しんでいう」(広辞苑)接辞です。すると「わぎもこ」は「わンぎもこ」など言われたでしょう。
ⅱ.
おほき月のぼらむとせりわれら坐(ゐ)るくさはらの向(むか)ふの草があかるし 河野(かわの)裕子『桜森』(昭和五十五年)
大きな月がのぼろうとしている。私たちが座っている草原(くさはら)の向こうの草が明るい。
語法を見ます。まず「おほき月」の「おほき」は万葉的な接辞といってよく(例えば「おほき海」〔おふぉきいうみ〕)、平安時代には「おほきおとど」(おふぉきいおとンど〔最後の二拍推定〕。太政大臣)のような言い方にしか残っていません。
次に「のぼらむとせり」は、「(今や)のぼろうとしている」の直訳として得られた言い方と見られます。上代の言い方としても平安時代の言い方としても、「…しようとしている」といった意味合いは、直訳すれば「…しようとする」となる「…むとす」のような言い方で示したようです。例えば源氏・椎がもとの一節に「あはれ、年は変はりなむとす」(あふぁれえ、としふぁ かふぁりなムうと しゅう。ああ、年は改まろうとしている)とあります。漢文脈には「…むとせり」「…むとしたり」のような言い方があらわれますけれど、和文では一般的でありません。
「われら坐(ゐ)るくさはら」の「坐(ゐ)る」は、「すわる」ではなく「すわっている」を意味するのでしょう。これは擬古的な言い方なのでした。一般に、「瞬間動詞」と呼ばれる「座る」「立つ」「持つ」「似る」「結婚する」のようなものは「ている」を付けて結果状態相を示しますが(例えば「座っている」は「座りつつある」を意味するのではありません)、古くは「居(ゐ)る」(うぃる)は特別で、そのまま結果状態相も示せました。つまり現在の「いる」に近い意味を持てました。
反対に「あかるし」は擬古的でありません。「あかるい」は新しい言葉で(成立は近世か)、周知のとおり古くは「あかし」(あかしい)と言いました。また古くは文の主語(主節の主語)が「の」を従える時は文末を連体形にしなくてはなりませんでした(誓子の「手花火に妹(いも)がかひなの照らさるる」は擬古的です)。かくて擬古的には、「草あかし」(くしゃ あかしい)、「草のあかき」(くしゃの あかきい)とは言っても、「草のあかし」とは言えません。「草のあかるし」とはまして言えません。歌人は「草があかるい」の「あかるい」だけを古い語形に改めました。
一首を擬古的に翻案するならば例えば、
おほきなる月いで来(く)らし見るや君をちの草葉の白く光るは
といったものが考えられるでしょう。大きな月が出てくるらしい。あなたは見ていますか、遠くの草の明るく光るのは。ちなみに平安初中期にはこれは、「おふぉきいなる とぅき いンでえ くうらし みるやあ きみ うぉてぃの くしゃふぁあの しろく ふぃかるふぁ」など発音されたでしょう。
「いで来(く)らし」については、「難波潟潮満ち来(く)らし海人(あま)ごろも田蓑の島に鶴(たづ)なきわたる」(古今・雑上913。なにふぁンがた しふぉ みてぃい くうらし あまンごろも たみのの しまに たンどぅ なき わたる)が参考になります。このほかの措辞については、以下などを参照できます。
おもしろく咲きたる桜を長く折りて、おほきなる瓶(かめ)に挿(さ)したるこそをかしけれ。枕草子・頃は(ころふぁ)(2)(おもしろく しゃきたる しゃくらうぉ なンがく うぉりて、おふぉきいなる かめに しゃしたるこしょ うぉかしけれ)
知るや君知らずはいかにつらからむ我がかくばかり思ふ心を 拾遺・恋二754(しるやあ きみ しらンじゅふぁ いかに とぅらからム わあンがあ かくンばかり おもふ こころうぉ)
風吹けばをちの垣根の梅の花香(か)は我が宿のものにぞありける 後拾遺・春上63(かンじぇ ふけンば うぉてぃの かきねの ムめの ふぁな かあふぁあ わあンがあ やンどの ものにンじょ ありける)
秋風の吹きと吹きぬる武蔵野はなべて草葉の色変はりけり 古今・秋上821(あきかンじぇの ふきと ふきぬる むしゃしのふぁ なンべて くしゃふぁあの いろ かふぁりけり)
しろたへの白き月をもくれなゐの色をもなどかあかしと言ふらむ 拾遺・雑下518(しろたふぇの しろきい とぅきうぉも くれなうぃの いろうぉも なあンどかあ あかしいと いふらム。最も原理的には言語には恣意性があるからだということになるでしょうけれども、もう少し事態に即して申せば、転義という現象は本質的に無軌道なものだからだ、ということになるでしょう)
ⅲ.
光線をおんがくのごと聴き分くるけものか良夜眼(まなこ)とぢゐる 水原紫苑『びあんか』(平成元年)
詠み手について知られていることを参照するならば、瞑目する愛犬を月の照らすさまなどを想像するのがよいということになるようですけれども、そう思って読むのが正しいというようなことは無論ないわけです。
「聴きわくる」は、現代語「聴きわける」の直訳として得られたもののようです。平安時代の京ことばでは「ききわか(ず)」(ききわか〔ンじゅ〕)、「ききわき(て)」(ききわき〔て〕)など活用する四段活用の「ききわく」(ききわくう)が使われました。春やとき花やおそきと聞きわかむうぐひすだにも鳴かずもあるかな(古今・春上10。ふぁるうやあ ときい ふぁなやあ おしょきいと きき わかム うンぐふぃしゅンだにもお なかンじゅもお あるかなあ)。「ききわけ(ず)」「ききわけ(て)」などいうようになるのは鎌倉時代以降のことのようです。ちなみに与謝野晶子は「乳ぶさおさへ神秘のとばりそとけりぬここなる花の紅(くれなゐ)ぞ濃き」と詠みましたけれども(『乱れ髪』)、「蹴る」は古くは下一段動詞ですから、古くはその連用形は「けり」ではなく「け」です。いずれも現代文語としては問題のない言い方であること申すまでもありませんが、擬古的でないことは確認されてよいでしょう。
「けもの」という言葉は『新撰字鏡』(平安初期の漢和辞書)に見えているそうですけれど(古くは高いところなしの「けもの」か)、平安時代において一般的だったのは「けだもの」(けえンだもの、ないし、けンだもの)ようです。「けだもの」は、『古今』の仮名序や長歌にも、『うつほ』にも、『源氏』にも、『今昔』にもあらわれます。のちに実朝は「もの言はぬ四方のけだものすらだにもあはれなるかなや親の子を思ふ」(もの
いふぁぬ よもの けえンだものすらンだにもお あふぁれえなるかなやあ おやの こおうぉお おもふ〔「すら」のアクセントは仮のもの。未詳です。「親の」とあるので「思ふ」は連体形ゆえ「おもふ」〕)と詠むでしょう。現代語としての「けだもの」には「けもの」にないニュアンスがありますけれども(「あなたなんてただの…」)、昔の「けだもの」にはこのニュアンスはありません。「くだもの」(くンだもの)が「木のもの」(きいのお もの)であるように、「けだもの」は「毛のもの」(けええのお もの)です。
「とぢゐる」は擬古的な言い方です。「居(ゐ)る」は「一ところにじっとしている」を意味できるのでした。
擬古的に翻案するならば、
澄む月に眼(まなこ)とぢながら向へるは光ききわくけだものか汝(なれ)
といったものが考えられます。しゅむ とぅきに まなこ とンでぃなンがら むかふぇるふぁ ふぃかり きき わく けえンだものかあ なれ。澄んだ月に眼(まなこ)を閉じたまま向っているところを見ると、なんじは光を聞き分ける動物なのか。
ながむるに物思ふことのなぐさむは月は憂き世のほかよりや行く 拾遺・雑上434(なンがむるに もの おもふ ことの なンぐしゃむふぁ とぅきふぁ うきい よおのお ふぉかよりやあ ゆく。全体の構文に関する証歌で、一首は「ぼんやりと見ていると物思いのなぐさめられるところを見ると、月は憂き世を経由しないのか」というような意味です。この意味で「ぼんやりと見ていると物思いがなぐさめられるのは、月は憂き世を経由しないのか」とするのは、一種のアルカイスムということになるでしょう)
ちどり鳴く絵島の浦に澄む月を波に映して見る今宵かな 山家集(てぃンどり なく うぇンじま(二三拍目のアクセント推定)の うらに しゅむ とぅきうぉ なみに うとぅして みる こよふぃかなあ。「澄める月」(しゅめる とぅき)とも言えましたけれど、「澄む月」ともできます)
まなこ閉ぢ給ひし所にて経の心説かせ給はむとにこそありけれ。蜻蛉日記・康保二年(965)秋(まなこ とンでぃい たまふぃし ところにて きやうの こころ とかしぇえ たまふぁムとにこしょ ありけれ)
立ちながら今宵は明けぬ園原や伏屋(ふせや)と言ふもかひなかりけり 新古今・羇旅913(たてぃなンがら こよふぃふぁ あけぬう しょのふぁらやあ ふしぇやと いふも かふぃ なあかりけり。「何々しながら」は「…したまま」を意味できました)
そむきぬと憂き世の人し通はねば窓に向へる心地こそすれ 和泉式部集(しょむきぬうと うきい よおのお ふぃとしい かよふぁねンば まンどおに むかふぇる ここてぃこしょ しゅれ)
恋ひわぶる人の形見と手ならせば汝(なれ)よ何とて鳴く音(ね)なるらむ 源氏・若菜下(こふぃい わンぶる ふぃとの かたみと てならしぇンば なれよ なにとて なく ねえなるらム。みごとな頭韻)
白波のうちしきりつつ今宵さへいかでか独り寝(ぬ)るとかや君 拾遺・恋四851(しらなみの うてぃい しきりとぅとぅ こよふぃしゃふぇ いかンでかあ ふぃとり ぬるとかやあ きみ。歌の最後に呼びかける言葉を置く例)
ⅳ.
男には男の絶望あることを見てしまいたり父の転勤 俵万智『かぜのてのひら』(平成三年)
平安時代の京ことばの言い方で「男には男の絶望がある」に当たるのは、「絶望」をしばらくそのまま使うならば、「男は男の絶望あり」であり「男には男の絶望あり」ではありません。例えば「彼には今子供が一人いる」と「庭には今子供が一人いる」とは同形とも言えますけれど、しかし人間は場所ではありません。平安時代の京ことばでは、前者のような場合、通例「甲に乙あり」ではなく「甲、乙あり」と言ったようです。「在り」とは異なり「有り」は普通「に」格をとらない、という言い方もできます。
大臣(おとど)、子、市女(いちめ)の腹に五つばかりにてあり。うつほ・藤原の君(おとンど、こお、いてぃめえ(三拍推定)の ふぁらに いとぅとぅン ばかりにて ありい。〔この〕大臣に、子が、市女から生まれて五つくらいでいる=〔この〕大臣に、市女に生ませた五つくらいの子がいる)
いみじき絵師といへども、筆限りありければ 源氏・桐壺(いみンじきい うぇえしいと いふぇンどもお、ふンで かンぎり ありけれンば。いくらすぐれた絵師でも、筆に限界があるものなので)
罪に当たることは、もろこしにも我が御門(みかど)にも、かく世にすぐれ、何事にも人に異(こと)になりぬる人の必ずあることなり。同・須磨(とぅみに あたる ことふぁ、もろこしにも わあンがあ みかンどにも、かく よおにい しゅンぐれ、なにンごとにも ふぃとに ことおに なりぬる ふぃとの かならンじゅ ある ことなり。罰を受けるということについて言えば、これは中国でも日本でも、こういう〔源氏の君のような〕、並の人とは違う、万事に秀でた人間に必ずある〔起こる〕ことなのだ)
次に、「見てしまいたり」は擬古的な言い方でありません。「しまふ」は室町時代に成立した動詞のようで、「何々してしまった」というような言い方の成立はくだって近世のようです。「何々してしまった」という意味合いを擬古的に「ぬ」や「つ」で示すのではなく、たんに最後を「たり」に直すことで示した格好の言い方は、例えば「見るだろう」を意味するものとしての「見るならむ」(擬古的には「見む」〔みいムう〕)、「見ないだろう」を意味するものとしての「見ぬならむ」「見ざるならむ」(擬古的には「見じ」〔みいンじい〕。「見ざらむ」〔みいンじゃらムう〕は文末には係り結びの結びなどとしてのみあらわれます)、「見ているだろう」を意味するものとしての「見(て)ゐるならむ」(擬古的には「見るらむ」〔みるらムう〕)、「見るに違いない」を意味するものとしての「見るに違ひなし」(擬古的には「見るべし」〔みるンべしい〕)などと同じく、擬古性から最も遠い文語表現です。
近い内容を擬古的な三十一文字にしてみるならば、例えば、
男(をとこ)はた闇にまどふとふるさとの春を別るる親に知りにき
のような歌を考えることができます。うぉとこ ふぁあた やみに まンどふうと ふるしゃとの ふぁるううぉ わかるる おやに しりにきい。男は男で悲しみにくれて分別を失うものだと、長年暮らした家における春と別れる親で知った。もっとも、王朝和歌では「男(をとこ)」(うぉとこ)という言葉は歌枕「男山」(うぉとこやま、といったところでしょう)を除けばまずあらわれません。ちなみに「をみな」(うぉみな)という言葉も、「をみなへし」(うぉみなふぇし)を除けばまずあらわれません。
春は惜しほととぎすはた聞かまほし思ひわづらふしづごころかな 拾遺・雑春1066(ふぁるうふぁ うぉしい ふぉととンぎしゅ ふぁあた きかまふぉしい おもふぃい わンどぅらふ しンどぅンごころかなあ。四月一日に詠まれた歌で、夏のはじまりの日に、春の過ぎたは惜しい、しかし夏の風物詩は夏の風物詩でやはり味わいたい、ふだんは落ち着いている私の心が思いわずらうことだ、と言っています)
一声(ひとこゑ)も君に告げなむほととぎすこのさみだれは闇にまどふと 千載・哀傷555(ふぃとこうぇえもお きみに とぅンげなムう ふぉととンぎしゅ こおのお しゃみンだれふぁ やみに まンどふうと。我が子〔後一条天皇〕の逝去をいたむ彰子の歌。この五月雨の日々、母は悲しみにくれ分別を失っていると、ただそれだけでも、ほととぎすがあの方に告げてくれたらよいのだけれど)
ふるさとを別れし秋を数ふれば八年(やとせ)になりぬ有明の月 新古今・哀傷798(ふるしゃとうぉ わかれし あきいうぉ かンじょふれンば やとしぇに なりぬう ありあけの とぅき。周知のとおり「ふるさと」は「住み慣れた場所」を意味できます。「別(わか)る」は「に」格のほか「を」格もとります)
秋の夜をもの思ふことの限りとはひとり寝覚めの枕にぞ知る 千載・恋五952(あきいの よおうぉお もの おもふ ことの かンぎりとふぁ ふぃとり ねしゃめの まくらにンじょ しる。「かぎり」は「極限」ということです)
ただ、転勤することになった父親の絶望ぶりを見たという出来事は、男性一般に関する認識を前進させるものとして詠まれなくてもよいわけです。
あまさかるひなの別れの袖の上に君が心の色を見しかな
あましゃかる ふぃなの わかれの しょンでの うふぇに きみンが こころの いろうぉ みいしかなあ。都を離れ遠い田舎に出立するあなたの袖に、あなたの心のありようを見たことです。血の涙が袖に落ちるのを見たと言っている趣です。「あまさかる」は「鄙(ひな)」を起こす枕詞で(三拍目、古くは清んだか)、平安時代の歌詠みの愛用した言葉ではないとは申せ、藤原基俊や俊成が使っています。思ひきやひなの別れに衰へて海人(あま)の縄(なは)綰(た) き漁(いざ)りせむとは 古今・雑下961(おもふぃきやあ ふぃなの わかれに おとろふぇて あまの なふぁ たき いンじゃり しぇえムうとふぁ)
起きあかす秋の別れの袖のつゆ霜こそ結べ冬や来(き)ぬらむ 新古今・冬551(おきい あかしゅ あきいの わかれの しょンでの とぅゆう しもこしょ むしゅンべ ふゆやあ きいぬらム)
梅の花匂ひをうつす袖の上に軒もる月の影ぞあらそふ 同・春上44(ムめの ふぁな にふぉふぃうぉ うとぅしゅ しょンでの うふぇに のき もる とぅきの かンげえンじょお あらしょふ)
なつかしき君が心の色をいかでつゆも散らさで袖につつまむ 山家集(なとぅかしきい きみンが こころの いろうぉ いかンで とぅゆうもお てぃらしゃンで しょンでに とぅとぅまム)
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4 心と詞(ことば)と [「現代文語を…」冒頭に戻る]
「なつかし」「読む」のような古今異義語や「何か考へむ」のような今昔で別の意味になる言い方は新義で使うことを基本とし、「き」「たり」「り」のような助動詞は古義を離れて現代語の「た」と等価なものとして使ってよく、今昔で活用の種類の異なる「聞きわく」のような動詞は新しい活用の種類で使ってよく、古くは歌には使わなかった「…に余念なし」「…してみたし」といった言い方も自由に使ってよく、成立の新しい「あかるい」「…してしまう」も、必要ならば語形は変えた上で使ってよく、古くは和文や和歌では使わなかった「…せむとせり」のような言い方も「…しようとしている」の直訳として自由に使ってよく、「に」や「が」のような助詞は、古くは添えない場合でも現代語としては使うならば添えて構わない。現代文語とはかようなものです。
例えば、和製英語はそのまま使ってよい、〈salaryman〉も〈recycle shop〉も〈fried potatoes〉も〈note personal
computer〉も使ってよい、というよりもそもそも、英訳するのが面倒なら日本語のままでもよい、例えば「私は何々に余念がなかった」ならば〈I
had no yonen in ~〉でよい、いや〈had〉としなくてもよい、〈haved〉でもよい、といったルールで書く特異な言語表現と、それは同趣です。前者は古い日本語としては奇妙なものであり、後者は現代英語としては奇妙なものですけれど、古い日本語なり現代英語なりに関する初歩的な知識だけを使って現代日本語に直訳したところのものがその意味であるという特異な流儀で解せらるべきある特異な言語表現として、それらはただちにとがめられるいわれのあるものではありません。
例えば、東京そだちの人と京都そだちの人とが一緒に暮らしているうちに、「だいこんの煮たの、もう食べちゃった」といった言い方と「だいこんの炊(た)いたん、もう食べてしもた」といった言い方とが混淆してしまい、二人とも「だいこんの煮たん、もう食べてしまった」といった言い方が口をついて出るようになるといったことがありえますけれども、そうした混淆には咎(とが)むべき何ものもありません。しかし、同じ東西の言語の混淆でも、
例えば東京そだちの人が京ことばのはんなりとした雰囲気を好み、自分でも京ことば風の言い方がしたくなって、例えば「だいこんの炊いたの、もう食べてしもた」と言う場合、事情は異なります。「煮る」ではなく「炊く」を使い、「しまった」を「しもうた」のつづまった「しもた」に変えてはあるもののアクセントは東京弁そのままといった言い方では、京ことばの雰囲気は出ないでしょう。京都ではそうは言わないと指摘されても、言われた人は、いや私は何となく京ことばの雰囲気が出ればいいので、京ことばとして正しくなくてもいいんです、と言うかもしれません。それならばその人に向かって言えることはもうあまりありませんが、ただ、「だいこんの炊いたの、もう食べてしもた」は京ことばとは言えないという事実、ちゃんとした京ことばを知っている人には「だいこんの炊いたの、もう食べてしもた」は京ことばには聞こえないという事実、ちゃんとした京ことばを知らないから「だいこんの炊いたの、もう食べてしもた」に京ことばらしさを感じてしまうのだという事実、そして、その人は京ことばに対してしかるべき敬意を持っているとは言えないのではないかという疑惑は残ります。
東京風の言い方をしたくて「だいこんの炊いたの、もう食べてしまった」と言う京都そだちの人についても、同趣のことが申せるでしょう。
二つの言語が自然に混淆するのならばよいが、ある目的のために二つの言語を意図的に混淆させることは問題だ、ということでもありません。例えば、〈Oh, your tension is low.〉と飽くまでも軽口として言う人に英語ではそう言わないと指摘するのは愚かであるように、「あ、こんなところにお金がありけり」とわざと荘重な口調で言う人にその非擬古的なる所以を説くには及ばないでしょう。
実例に就けば、「八時からは『西遊記』がひいき番組なり。夏目雅子の三蔵法師が可愛いが、好評を意識してか、女の表情をだしかけているのはいかがなものなりや」といった文章を、口語と文語との混用はいかがなものか、その文語も非擬古的な口語直訳調であると言って批判するのはお門(かど)ちがいです。引用は大岡昇平『成城だより』の一節で、ネット情報なのですけれど、書き手自身がみずからの文章について「スペース節約のための、文語混じりの備忘録的のへんちきりん言語」と言ったそうです。早く『中原中也』において大岡は「(…)堀口大學の『月下の一群』に至っては、口語、雅語、漢語の大正的混合物で、以来日本の詩歌はだいたいこのぬえ的言語によって製造されている」(下線部は原文傍点)と言っていますが、『成城だより』では大岡は、そのヌエ的言語によって或る種の諧謔の味わいを醸し出そうとしているのだと思います。
俳句についても、『成城だより』のような作物の文体について言えることが言えます。俳句はその簡潔さゆえ、しばしば、口語直訳調の言い方が期せずしてそのまま擬古的な言い方になります。例えば誓子の「手花火に妹がかひなの照らさるる」がそうでした。とはいえ俳句にもまた非擬古的な口語直訳調の文語表現はいくらもあらわれます。しかし俳句における非擬古的な口語直訳調の言い方は、古い日本語にある程度なじんだ人にとっては、一句におかしみを、俳味を与えるものとしてあると言えます。
猫が騒いで鯵の干物を持たされゐる 加藤楸邨
散らばりし筆紙のなかの桜餅 松本たかし(「筆紙」はヒッシなるべし)
元日の日があたりをり土不踏(つちふまず) 石田波郷
どちらかといへば好きなり葛の花 清崎敏郎(としお)
『現代の俳句』(講談社学術文庫)から、手当たり次第に近い仕方で引きました。「持たされゐる」も「散らばりし」も「…があたりをり」も「好きなり」も非擬古的な口語直訳調の文語です。作り手は現代文語の標準的な語法に従っただけで、その語法そのものに或るおかしみをおぼえる者がいるだろうとは思わなかったかもしれませんけれど、周知のとおり俳句も短歌も、作り手の意図に従って味わわなくてはならないわけではありません。『成城だより』に「朝飯時、猫が騒いで、しばし鯵の干物を持たされいし」「しばし芝生にあるに、見れば我が土ふまずに元日の日が当たりおり」「深更、散らばりし筆紙のなかに桜餅を発見せり」「葛の花はどちらかと言えば好きなり」などあってもおかしくありません。上の四句では大岡の言うヌエ的言語がユーモラスな効果をあげていると思います。
非擬古的な口語直訳調の文語表現がそのものとして問題含みだということは申せません。それが問題含みのものになるのは、そのような文語が採用される動機、言語表現からうかがわれる限りでの動機を考えに入れた時です。
近現代の文語短歌は、結局のところ現代口語をもとにして作られ、読み手はそれを現代口語に戻すことにより内容を了解します。詠み手がハナから現代口語に拠らないのは、それでは、平安時代、あるいは時にそれ以前の日本語に由来するとされる、格調の高さなり、簡潔さなり、優美さなり、古雅の趣なりといった美質、口語をそのまま使ったのでは醸し出せないと考えられる美質をみずからの言語表現にまとわせることができないと考えるからだと考えられます。
しかるに、まず、平安時代やそれ以前の日本語は、改めて確認するならば、例えば「ありあけの とぅれなあく みいぇし わかれより あかとぅきンばかり うきい ものふぁ なしい」のような、大方の現代人の耳には奇妙に響くだろうところのものであり、「ありあけの つれなく みえし あしたより あかつきばかり うき ものわ なし」のような、大方の現代人の耳に格調高く、あるいは優美に響くだろうところのものではありません。「私は文語の響きが好きだ」とおっしゃるかたは、「私は(現代)英語の響きが好きだ」とおっしゃるものの、実際にはネイティヴの発音でなく、徹底的にカタカナ英語である、「ハウ・コールド・ザ・フェイス・オブ・ザ・モーニング・ムーン!/
シンス・ウィ・パーテッド / ナッシング・イズ・ソー・ミゼラブル / アズ・ジ・アプローチング・ドーン」のようなものに魅力を感じるかたと似ています(ちなみに原文は以下のとおり。How
cold the face / of the morning moon! / Since we parted / nothing
is so miserable / as the approaching dawn.〔McMillan 2017〕)。大方の現代日本語の話し手の耳に格調高くあるいは優美に響くのは、現代日本語のそれになるたけ近い発音・アクセントで言われる文語です。
そうした発音・アクセントで言われる「ありあけのつれなく見えし…」のような言い方に、あるいはもっと手っ取り早く申せば「選ばれし勇者」のような言い方にある種の格調が感じられるとしたらそれは、現代日本においてそうした言い方がもっぱら高らかな口調で、あるいはそういう口調が自然であるような文脈で言われることが多いからに過ぎません。日常的に「きのう恵比寿にて食べしラーメンばかりうまきものはなし」「さほどにうまきか」「ちぢれ麺のいと細き、スープにいとよくからみて、うまきこと限りなければ、行列の絶えぬもげにことわりなり」のような言い方をしていれば、文語的な言い方一般に格調の高さを感じることはなくなってゆくはずです。京都のかたはみなはんなりとした京ことばをお話しになる、とは申せないでしょう。京ことばははんなりしているとか、大阪弁は騒がしいとかという言い方は大雑把に過ぎます。同様に「ありあけの つれなく みえし あしたより あかつきばかり うき ものわ なし」のような言い方そのものを格調高いものとみなすのは一種の錯視です。
錯視でもいい、自分はそういう言い方を好むのだとおっしゃる向きもあるでしょうけれど、こういうこともあるのではないでしょうか。口語直訳調の文語は、多くの場合、単に古く見えるだけの言い方をすることです。すると、口語直訳調の文語に拠ることでみずからの言語表現に古代の日本語に由来する美質を与えようとすることは、多くの場合、みずからの言語表現を実際にはそうでないところのものに見せかけることによって所期の目的を達成しようとすることです。当人が意識するとしないとにかからわず、「見せかける」という要素が、口語直訳調の文語にはどうしても付きまといます。ちなみに、一生懸命英語らしい言い方をしようとするものの和臭がまざってしまう人は自分の言語表現を英語に見せかけようとする人ではないように、擬古的に書き詠もうとする人は自分の言語表現を昔の日本語に見せかけようとする人ではありません。
こんなことも申せます。口語直訳調の文語に拠ってみずからの言語表現に何らかの美質を与えることができたと思う人は、それによってもともとの口語表現よりもまさる言い方ができたと思う人です。しかるにその口語直訳調の文語は、もともとの口語表現に直訳しなおされることではじめてその意味が了解される底(てい)のものなのでした。口語直訳調の文語によってもとの口語表現にまさる言い方ができているように思っても、彼または彼女は結局もとの口語表現に依存してみずからの言語表現をなしているのです。
こんなこともあります。「元気がないね」を意味するものとしての〈Your tension is low.〉は結局のところチャンポンの言い方なのであり、それがそうでないきちんとした言い方として流通しうるのは、英語の初歩的な知識しか持たない方々の間においてだけです。同じように、「あ、こんなところにお金がありけり」が格調高いあるいは優雅な言い方として流通しうるのは、古い日本語になじみの薄いかたがたの間においてだけです。『レイテ戦記』を書くに当たり、大岡は『成城だより』の文体に拠りませんでした。
『成城だより』や俳句について言えることはある種の短歌についても申せます。「あ、こんなところにお金がありけり」のような言い方が大抵面白おかしいものとして言われるのに似て、「さりげなき高き笑ひが/酒とともに/我が腸(はらわた)に沁(し)みにけらしな」(『一握の砂』)のような歌における口語と文語との混用も、歌に諧謔の趣、にがい諧謔の趣を与えるものとして見ることができます。このことはこの歌に限らず、そして当人が「へなぶり」(狂歌の一体なのでしょう)とした九首にとどまらず、「何がなしに/息きれるまで駆け出してみたくなりたり/草原(くさはら)などを」なども含めた啄木の少なからぬ数の歌について、そしてさらには、茂吉の「この宵はいまだ浅けれ床(とこ)ぬちにのびつつ何か考へむとおもふ」なども含めた近現代の少なからぬ数の短歌についても言えると思います。
しかし、総体として見るならば三十一文字は申さば悲歌(エレジー)ないしメヌエットです(その出自において俳句はスケルツォです)。そういうものとしての三十一文字においては、非擬古的な文語の使用は実は内容にそぐわないものなのではないでしょうか。例えば茂吉の「死に近き母が額を撫(さす)りつつ涙ながれて居たりけるかな」における七七は、言い方としては「あ、こんなところにお金がありけり」と同趣のものであって、そのヌエ性からはどうしても滑稽味が出てしまいます。自分はそうは思わないとおっしゃる向きも少なくないでしょうが、それは失礼ながら古い日本語にあまりなじんでいらっしゃらないからです。ちなみに茂吉は万葉の歌うたのよい読み手だったかもしれませんけれど、詳細は品田悦一さんのご著書に就いていただくとして、例えば三単現のsを落としがちな人はまだ英語が身についていないと言わざるをえないという意味で、茂吉は古い時代の日本語が身についている人ではありませんでした。
むろん茂吉に限りません。悲歌(エレジー)やメヌエットとしての短歌における非擬古的な口語直訳調の文語は、本当は心を、内容を裏切るものとしてあると申さなくてはならないと思います。 [「現代文語を…」冒頭に戻る]
5 少々歴史を [「現代文語を…」冒頭に戻る]
口語直訳調の文語の起源は鎌倉時代の和漢混淆文に求められるでしょう。ただその性格は、現代文語とは異なるようです。
まずは擬古的な詠み口の歴史から。知られているとおり、万葉集の時代から平安時代後期まで、人々は大体において自分たちがふだん使う言葉で詠んだと申せます。平安時代には「言」と「文」とが一致していたと説く向きも多いようですけれど、周知のとおり当時、漢文訓読体という、まぎれもない文語、文章語が存在しました。漢文訓読体では例えば「来(く)」(くうう)ではなく「来(きた)る」(きいたる。平安末期ごろ「きたる」に変化したとみられます)が、「ふたがる」(ふたンがる)ではなく「ふさがる」(ふしゃンがる)が、「せぬ」(しぇえぬう)ではなく「せざる」(しぇえンじゃる)が、「せさす」(しぇしゃしゅ)ではなく「せしむ」(しぇしむ)が使われました。書く時には普通例えば「来(こ)ぬ」(こおぬう)ではなく「来(きた)らざる」(きいたらンじゃる)と書いた、ということではなく、「来ぬ」と書いてもよいが格調高い言い方をする時には「来(きた)らざる」と書いたということでしたけれども、当時、「言」とは異なる「文」は確かに存在しました。そして和歌は、通例そうした言葉づかいを避けつつ詠まれました。近現代の口語直訳調の文語では、漢文訓読的な言葉づかいは嫌われないどころか、時に好まれます。
人麻呂も家持も貫之も和泉式部も文語短歌を詠んだのではありせんでしたが、それらの人びとは口語短歌を詠んだという言い方も、誤解を与えるおそれがあります。現代の口語短歌は漢語も外来語も無制限に使いますけれど、申したとおり当時和歌は、原則としてはやまと言葉だけを使って、優美に詠まれたからです。女性が漢語を多用するのははしたないとされたことは、例えば源氏・帚木からうかがわれるとおりですけれども、しかし、当時の女性が漢語の使用を避けなどしなかったことは、平安仮名文を見れば容易に分かります。
鎌倉時代はじめ、すでに将軍だった実朝に和歌の詠み方を問われた定家は、「詞(ことば)は古きを慕ひ、心は新しきを求」むる(ことンばふぁ ふるきいうぉ したふぃ、こころふぁ あたらしきいうぉ もとむる)ことを勧めました(『近代秀歌』)。ここで言われている「古き」詞とは、すでに使われなくなった詞ということではなく、古来からの由緒ある詞、という意味であり、『近代秀歌』や『詠歌(えいが)の大概』によれば、具体的には三代集に使われた言葉です。よく知られているとおり、例えば当時、話し言葉では「何々したし」(何々したい)という言い方がなされるようになっても、歌人たちはそれを歌に取り入れることを避けました。例えば「千五百番歌合」(建仁元年〔1201〕)の或るラウンドで藤原季能(すゑよし)という人が「いざいかに深山(みやま)の奥にしをれても心知りたき秋の夜の月」(いンじゃあ いかに みやまの おくに しうぉれても こころ しりたきい あきいの よおのお とぅき)と詠んだのを、定家はとがめました。「何々したし」という言い方のあらわれたのは平安時代も末になってからで(注)、三代集にはさような言い方はあらわれません。日常会話では「たし」が使われるようになっても、歌人たちは歌にはこの言葉を使いませんでした。中世を通じて歌詠みたちは、おおむね三代集の流儀で、ということは広い意味での古今調で、ということは、擬古的に詠んだと申せます。彼ら彼女らは、自分たちが話すようにではなく、古人が詠んだように詠みました。
注 この「たし」の初出は、『梁塵秘抄』(十二世紀末)の「琴(きん)の琴(こと)の音(ね)聴きたくは」(きムの ことおの ねえ ききたくふぁ。琴の琴の音が聴きたいならば)のようです。『栄花物語』の「あさみどり」(あしゃみンどり)に、寛仁二年(1018)に詠まれた歌として「けさはなどやがて寝暮らし起きずして起きてはねたく暮るる間(ま)を待つ」(けしゃふぁ なンど やンがて ねえ くらし おきンじゅしいて おきてふぁ ねたく くるる まあうぉお まとぅ)が見えていまして、ここに見られる「ねたく」を「寝たく」と解し、願望の「たし」の初出とする辞書もありますけれど、誤解でしょう。この「ねたく」は形容詞「ねたし」(腹立たしい)の連用形です。結婚二日目の夜を待ちかねている人の歌で、今朝はどうして、このまま一日寝て暮らして夕暮れに目が覚めるのではなく、ねたくも(=腹立たしいことにも)、すぐに目がさめてはまた寝ることを繰りかえしつつ日の暮れるのを待つのか、と言っています。
このありようは近世になっても変わりません。例えば「なつかし」は、中世以降、もっぱら今と同じ意味で使われるようになったと考えられるのでしたが、次の歌うたではその「なつかし」が古義で使われています。
秋かぜにまねくを見れば花すすき誰(た)が袖よりもなつかしきかな 香川景樹(1768~1843。秋風のせいですすきが人の手さながらに手招きするのを見ると、どんな人が振る袖よりも心を惹かれることだ)
君があたり通ふと聞けば何(なに)ならぬ里のわらはもなつかしきかな 八田知紀(はったとものり)(1799~1873。この子はあなたのあたりを行き来すると聞くと、何でもない里の子供にも親しみを感ずることだ)
いぶせしと常は言ひつるからたちも花咲く夏はなつかしきかな 樋口一葉(1872~1896。ついこのあいだまでいつも鬱陶しいと不平を言っていたからたちにも、花の咲く夏は心を惹かれることだ)
香川景樹は近世末において歌壇の主流をなした人で桂園派の祖、八田知紀はその弟子であり、一葉は桂園派の最後の世代に属する人でした。例えば『古今』の仮名序には山辺赤人の「春の野にすみれ摘みにと来(こ)し我ぞ野をなつかしみ一夜(ひとよ)寝にける」(ふぁるうの のおにい しゅみれ とぅみにと こおしい われンじょ のおうぉお なとぅかしみ ふぃとよ ねえにける)が、春下122には詠み人知らずの「春雨ににほへる色もあかなくに香さへなつかし山吹の花」(ふぁるしゃめえに にふぉふぇる いろもお あかなくに かあしゃふぇ なとぅかしい やまンぶきの ふぁな)が見えています。景樹も知紀も一葉も、例えばこうした歌における「なつかし」をお手本としてこの言葉を使ったのだと考えられます。
当人が擬古的に詠んでいるつもりでも、口語の言い方に引かれてつい擬古的でない言い方をしてしまうことは多々あります。げんにさような歌も多かったらしいことは、例えば十八世紀後半、本居宣長が、擬古的に詠み書こうとする人の犯しがちな誤りを多数列挙し解説した書物(『玉あられ』)をあらわして注意をうながしていることからもうかがわれます。実を言えば、中世の歌人たちの歌にも、近世の歌人たちの歌にも、擬古性の点で問題のあるものは少なくありません。しかし中世・近世を通じて三十一文字は、理念としてそうだったばかりでなく、実際にも、総体としては擬古的に詠まれました。三代集や八代集のなかに置いても、霜中の白菊の、見分けがつかないという意味においてではありません。語彙をおおむね大和ことばに限り、そのさい古今異義語はなるべく古義において使い、「てにをは」はなるべく古格を守って優美に詠む、という意味で、歌は長いあいだ擬古的に詠まれました。
この擬古的に詠む伝統は、じつに昭和二十年代はじめまで続いたと申せるようです。明治二十一年、宮内省に歌会のことなどをつかさどる御歌所(おうたどころ)が置かれ、伝統的な詠み口の歌人が多く入りました。彼らは、昭和二十一年同所が廃止されるまで、近代短歌史に名を残す歌詠みたちから「旧派」と呼ばれ、その形骸性や類型性をしきりに笑われつつも、大概はごく広い意味においてではあれ擬古的な歌を詠み続けました。
御歌所の歌詠みたちは、時にはかなり厳密な意味で擬古的な歌を詠みました。一例として、御歌所の寄人(よりうど)というものを務めた千葉胤明(たねあき)(1864~1953)の歌を引きます。紅葉、露伴、子規、漱石よりも三年早く、啄木より二十二年早く生まれ、啄木より四十一年遅く世を去った人です。宮内省のサイトに拠れば、昭和二十三年の、「春山」を題とする戦後二度目の歌会始において、この人の、
ひとのよもなごみゆかなむ木枯のすさまじかりしやまも霞めり
が披講されています。人の世もなごやかになっていってほしい。木がらしが寒々と吹いた山も、今は長閑に霞んでいる。「ひとのよ」「なごむ」「木枯」「すさまじ(すさまし)」、いずれも王朝和歌に見られる言葉であり、語法も古格にかなっています。終助詞の「なむ」など、現代短歌ではまず使われないでしょう。
折口信夫は、昭和二十五年二月に発表された小文「詠進歌の新風」の中で、「あれほど根強く地盤をしめていた旧派の文体が、一万余首あった詠進歌(=歌会始のために献上された歌)に、ほとんど見出されなくなっていた」と書いています。昭和二十年代はじめまで、少なからぬ人が旧派的な歌を詠んだことが知られます。『細雪』の中で谷崎は、主人公の姉・幸子(さちこ)に「ゆく春の名残惜しさに散る花を袂のうちに秘めておかまし」と詠ませ、夫・貞之助に「いとせめて花見ごろもに花びらを秘めておかまし春のなごりに」と添削させていますけれども、これらなども旧派の詠み口です。擬古的に詠む伝統は七百数十年つづきましたが、七八十年前に廃れました。七八十年前に廃れたに過ぎないとも申せます。
さて明治三十年代後半、与謝野寛(鉄幹)や子規のような「新派」の歌人たちは、長きに亘(わた)る詠歌(えいが)の伝統を切断すべく、使用する語彙に制限を設けず、古今異義語を新義において用い、口語直訳調の文語に拠りました。子規の歌はすでに一つ引いています。与謝野寛は例えば「かなしきは楽しむところ異なりぬ我は刹那を君はとこしへ」と詠みましたけれども(『相聞』〔明治四十三年〕)、このような「ところ」は漢文訓読に由来するもので、和歌では使いません。また「異なる」という動詞は古語ではありません。言うまでもなく現代短歌は新派和歌の子ですから、それが誇れるのは、長い伝統を継承したことではなく、旧弊を打破したことです。
新派和歌の詠み手はどこからこの詠み口を得たのでしょう。今度は口語直訳調の文語の歴史をたどってみます。
平安時代における格調高い漢文脈の文は、当時としての文語文にほかならないと申せます。しかし例えば「来(こ)ぬ」(こおぬう)ではなく「来(きた)らざる」(きいたらンじゃる)と書くことは、古風な言い方に書き換えることではなく、口語を直訳したものでもありませんでした。また当時、和文脈では話しことばと書き言葉とはほぼ一致していましたから、結局当時、口語直訳調の文語文というものはありませんでした。
平安末期、話し言葉はすでに例えば中期のそれと同じではありませんでしたが、書き言葉は、漢文脈をとる時はもとより、和文脈をとる時も、同時代の話し言葉をそのまま使う流儀をとらなかったために、「文」が「言」からズレはじめます。「言文二途」の状態がはじまったのです。例えば『平家物語』で清盛は、十六歳の可憐な白拍子(しらびょうし)・仏御前(ほとけごぜん)が今様を歌うのを聞いて、「わごぜは今様は上手でありけるよ」と言っていますが(「祇王」)、『平家』の地の文では、稀には「仏御前は(…)声よく節も上手でありければ」なども言うものの、基調としては、「忠盛も好いたりければ(忠盛モ風流人ナラ)、かの女房も優なりけり(ミヤビデアッタ)」(「鱸(すずき)」)のような前代以来の言い方がなされました。
ただ、その「文」は口語直訳的だったと申せます。例えば同じく『平家』の「祇王」に、清盛が(仏御前に先だち)祇王(という女性)を寵愛したのでその「いもうとの祇女(ぎにょ)をも世の人もてなすことなのめならず」とあります。現代語でも中世語でも祇女は祇王の「いもうと」ですが、平安時代中期の言い方では、「いもうと」は男性から見た女性のきょうだい(姉ないし妹)なので、ということは女性にとって自分の年下の同性のきょうだいは「いもうと」ではなかったので、祇女は祇王の「いもうと」ではありません。祇女は祇王の同性の年下のきょうだいなので、平安時代中期の言い方では祇女は祇王の「おとうと」です。つまり、「いもうとの祇女をも(…)」では、当時すでに古今異義であった「いもうと」が新義で使われています。
この「いもうと」に限らず、また同じ引用文にあらわれる「もてなす」(平安時代中期にはこの言葉は「もてはやす」を意味しなかったようです)に限らず、和漢混淆文として知られるところの中世における基調的な文語文では、古今異義語は一般に新義で使われました。つまりそれは口語直訳調でした。
ただ、当時の口語直訳調の文語は、個人が個人の判断において選ぶことも選ばないこともできる、という種類のものではなかったことが注意されます。例えば当時、子供にとって書くことを習うとは、話す時には「いもうとでありけり」という言い方をするが書く時には「いもうとなりけり」と書く、といったこと習うことだったと申せるでしょう。「上手なりけり」のような言語表現は、中世にあっては文字どおり「文語」、文章語であり、話す時にそうした言い方をする人はいないけれども書く時には誰もが普通そう書く、という種類のものだったと見られます。つまりそれは、みずからの言語表現に何らかの美質を与えようとして採用する人もいる、という種類のものではありませんでした。
近世においても、例えば芭蕉のような人においても、事情は変わりません。芭蕉は例えば「山路来て何やらゆかしすみれ草(ぐさ)」と作りましたが(『野ざらし紀行』)、平安時代には「行きたい」「見たい」といった意味で使われた古今異義語「ゆかし」が、ここでは「心惹かれる」というような新義で使われています。当時話し言葉では、すでに形容詞の終止形や連体形は「ゆかしい」のような語形でしたから、芭蕉は古今異義語を新義で使いつつ、語形は古い日本語のそれに直しています。しかし当時は話す時には「ゆかしい」という言い方をしても書く時には「ゆかし」と書くのが普通だったので、俳聖はみずからの言語表現に同時代の口語表現の持たない雰囲気をまとわせようとしてこの言い方を選んだのではありませんでした。
ただ、俳諧はもともと口語脈を嫌わなかったので(「梅が香にのつと〔ノット・ヌット〕日の出る山路かな」〔芭蕉〕)、「山路来て何やらゆかしいすみれ草」は、句としての出来は別として、考えうる措辞ではあります(のちに一茶が「我と来て遊べや親のない雀」と作るでしょう)。ではなぜそれが選ばれなかったのでしょう。字数のことも、また「ゆかしい」では二句切れと見てもらえないということもあったでしょうけれど、当時、口語体による文章表現は、例えば「梅が香にのつと日の出る山路かな」の中七のようなものは現代人が感じるよりもはるかにくだけた印象を与えたらしいという事情も大きく関与していたと考えられます。言文二途の状況下では、口語的な言い方のステイタスは、現在におけるそれよりもずっと低いものでした。
この事態は現代人にとって必ずしも想像しにくいことでありません。現在、方言、例えば大阪弁は、もっぱら話し言葉として存在します。大阪弁で書くことは無論ひんぱんになされますが、それはくだけた調子の文章においてであって、判決文や、社説や、数学なり哲学なりの論文が大阪弁で書かれることはまずないでしょう。現在のところ、まじめな内容を大阪弁で書くと、どうしても茶化したような調子が出てしまいそうです。そういう意味で、大阪弁は書き言葉でない。ここで注意すべきは、ふだん大阪弁で話す人も書く時はふつう共通語を使うでしょうけれども、それはそうするものだという理由でなされるのであって、みずからの表現に特定の雰囲気をまとわせるためにそれを選ぶのではない、という一事です。
芭蕉は「何やらゆかし」と詠むことによってくだけた言い方を避けたとは言えますが、たんに当時として普通の書き方をしたとも言えます。俳人は個人的な選択として非日常的な言い方をすることでみずからの言語表現に何らかの美質を与えようとしたのではありませんでした。
「昔せし童(わらべ)遊び」の歌を詠んだ明治三十一年の子規にとっても、事情はほぼ同じだったでしょう。史上はじめての言文一致体小説とされる四迷の『浮雲』第一編の発表されたのは明治二十年でしたけれども、人々は、『浮雲』を追ってただちに陸続と言文一致体に移行したのではありませんでした。
明治二十年はじめ、言文一致運動に批判的な勢力が「普通文」(普(あまね)く通ずる文)を提唱しました。例えばそれは、「蕪村の俳句は芭蕉に匹敵すべく、あるいはこれに凌駕するところありて、かへつて名誉を得ざりしものは主としてその句の平民的ならざりしと、蕪村以後の俳人のことごとく無学無識なるとに因(よ)れり」(子規「俳人蕪村」〔明治三十二年〕)というような調子のもので、要するに口語直訳調の文語文のことです。普通文は、「新聞や雑誌の文章も、学術的な論文も、『金色夜叉』や『不如帰』の地の文も」それで書かれるところの、「明治後期における共通語的な文語文」(『日本語の歴史』〔東京大学出版会〕)でした。「普通文」の普及によって言文一致への動きは実際抑制されたようです。
普通文は口語文を形式的に書きかえれば書けるのですから、普及したのはもっともだとも申せますが、それならばなぜ言文一致体ではいけないのでしょう。やはり言文一致体は当時、じゅうぶん軽薄なものに見えたのだと思われます。明治三十一年の時点では、口語的な言い方のステイタスはまだ低いものでした。
冬籠(ふゆごもり)日記に夢を書きつける(明治二十五年)
そこらから江戸が見えるか奴凧(やっこだこ)(明治二十七年)
六月を奇麗な風の吹くことよ(明治二十八年)
えらい人になつたさうなと夕涼(明治二十九年)
子規は俳句ではこうした純粋な口語体のものも作りましたけれども、これは俳句というジャンルがそれを許すものだったからです。「昔した子供遊びを懐かしみこより花火に余念ない僕は」のような歌がついに詠まれなかったのは、そうした措辞は三十一文字に使うにはあまりに卑俗なものに感じられたからでしょう。
普通文を推進した人々もまた、言文一致体の軽さを耐え難いものに思ったと推察されます。それゆえ、内実は口語であるにしても外見上そうは見えない文体が採られたのだと思います。新派の歌人たちについても同じことが申せます。近現代の口語直訳調の文語定型詩は、普通文の韻文版です。
明治二十年代には十分に低かった口語体のステイタスは、明治三十年代後半以降、急速に高まりました。一般的に言って、事態が慣れということに関わる場合、いったん弾みがついてしまえば事のありようはしばしば短期間に劇的に変容するでしょう。言文一致について、野口武彦さんが、問題は「読者が慣れるか慣れないかということ」だったとおっしゃっていますけれども(『近代日本の批評 明治・大正篇』)、「読者」の中に書き手その人も含めてよいのならばそのとおりだと思われます。言文一致は要するに慣れの問題でした。
例えば子規の『叙事文』(明治三十三年)は、口語による写生文の例を紹介したものですが、紹介の言葉は文語体です。『墨汁一滴』は、明治三十四年一月半ばから半年ほど、病床で日ごとに書かれた短文からなりますけれども、この作には文語体で書く日と口語体で書く日とが混ざっています。その次に書かれはじめ、逝去により未完に終わった『病床六尺』(明治三十五年)は、全面的に口語体で書かれています。漱石の『猫』の連載開始は明治三十八年。『坊っちゃん』『草枕』の発表はその翌年。明治四十三年には、ちょうど十年前に発足した「言文一致会」が、所期の目的の達せられたことを祝いつつ解散します。
「昔せし童遊び」の歌の詠まれた明治三十一年とは異なり、明治末年には、話し言葉に近い文体は、軽々しいものには感じられなかったようです。口語のステイタスはすでに低いものでありませんでした。漱石の『明暗』の連載開始は大正五年五月のことですけれども、その第十五回に、三十になる主人公の津田が、自分の父親は「洋筆(ペン)や万年筆でだらしなく綴られた言文一致の手紙」を寄こされるのを好まない人であることを思い出して、書きつけない候文を書くくだりがあります。明治二十年頃に生まれた人間と、その一世代上の人間とで、文語に対する見方の異なっていることが知られます。
ちなみに、かなりの短期間に「言」に近い「文」が現実に成立したということは、判決文や、社説や、数学なり哲学なりの論文をそれで書けるような大阪弁、津軽弁、沖縄弁、「言」に近い「文」としての大阪弁、津軽弁、沖縄弁が成立するという事態は十分おこりうるということでしょう。ある対談で柄谷行人さんは「俺が言文一致で書いたらどないなるねん(笑)」(「おれがげんぶんいっちでかいたらどないなるねん」でしょうか。まちがっていたらごめんなさい)と言い、高橋源一郎さんは「それはそれでおもろいでんがな(笑)」(「それはそれでおもしろいでんがな」でしょうか。同上)と応じていますが(『ダイアローグ Ⅴ』所収「現代文学を戦う」)、もし「文」としての関西弁が成立したら、それで書かれた例えば『世界共和国へ』(現行のものは「です・ます」体に拠る)は言い方のおもろいものとは言われないはずです。おもろいものとは言われない文体が成立した時が、「文」としての関西弁の成立の時です。
明治末年において口語のステイタスは低くなかったということは、そのとき三十一文字がその基調を変えて口語短歌に移行することはありえた、ということだと思われます。しかし短歌は、全体としては口語直訳調の文語を基調とするあり方を維持しました。明治三十九年、史上初めての口語短歌集として知られる青山霞村(かそん)の『池塘(ちとう)集』――正確には、まとまった数の口語短歌を収めた歌集――が発表されるといったことはありましたけれども、口語をそのまま使う詠み口は盛んになりませんでした。
明治の終わり頃には、文語体の小説はすでに珍しいものになったようです。詩はと言うと、昭和に入ってからも朔太郎、達治らが文語に拠る詩を書きつづけるものの、大正年間において、すでに文語の季節は去りつつありました。すぐれた文語詩の書き手だった佐藤春夫は、『殉情詩集』(大正十年)――収められた詩の大半は文語体に拠る――の自序に、「わが息吹なる調べはいつしかに世の好尚と相去れるをいかにせん。われは古風なる笛をとり出でていま路のべに来り哀歌(かなしみうた)す」と書いています。新聞記者も大正末には古風な笛を手に取らなくなりました。公文書が文語に拠ったのもほぼ戦中までです。文語文の歴史は、言わば、玉音放送で読まれた文語文とともにほぼ幕を閉じましたが、ただ定型詩は例外でした。
明治三十年代はじめ、新派の歌人たちは擬古的に詠む伝統を捨てましたけれども、依然として文語に拠りました。口語直訳体の文語に拠りました。彼ら彼女らにとってそれは当然のことだったと思います。しかし現在はそうでないでしょう。文語体に拠ることの意味、口語体に拠ることの意味は、昼が夜になるように少しずつ変化していったので、文語体で詠むのが当然でなくなった時期を特定するというようなことはできませんが、明らかに昼である時分があり、明らかに夜である時分があります。現在、短歌の詠み手が文語体に拠るとしたら、それは個人が個人の責任において選んだ結果ということになるでしょう。個人の選択として口語直訳調の文語体で詠む人は、個人の責任において、みずからの言語表現に口語にない美質を与えようとして口語表現を書き換える、ということをしています。古い日本語になじみの薄い人には古い日本語に感じられるであろう言い方をすることで、古い日本語になじみの薄い人にのみ感じられる美質を与えようとしています。
最後に改めて一言。ここまで、王朝和歌そのほかに主として平安中期の発音・アクセントと考えられるものを記してきました。「『源氏物語』を成立当時の…」の紹介文でも申したのですが、平安時代に詠まれた和歌は当時の音韻やアクセントでのみ音読せらるべきだとは思いません。しかしそうされてはならない理由もありません。どちらかと申せば、それは当時の発音で読まれるのが望ましいでしょう。すると、古い言葉を慕って擬古的に詠まれた和歌についても同じことが言えるでしょう。しかし、口語直訳調の文語に拠る詠み手は、自分の歌が聞き知らない発音・アクセントで音読されることを望まないでしょう。口語直訳調の文語に拠る詠み手は、古語としての古語にそこまでの興味は、あるいは愛は、ないと推察されます。以下に、すでに記した自作の擬古的な腰折れに平安中期の発音・アクセントと推定されるものを貼りつけておきます。
てふぁなンびの かンげえに めえ かれぬ こよふぃかなあ いわけなあかりし うぉりうぉ こふぃとぅとぅ
ゆるしゃれて われふぁ べに とぅくう いンじゃあ なきて きみ なンぐしゃめよお のンべえの うンぐふぃしゅ
なにと なあく あふぇきぬンばかり くしゃの ふぁらうぉ ふぁしらムうとこしょ おもふぃい なりぬれ
わあンがあ みいうぉンば まンだあ よふぃの まあのお とこに のンべて しンどぅかに おもふぃい めンぐらして ねえムう
ふぉめろしゅの ふみもンが ふぁるうの しふぉしゃうぃの とンどろく まンどおの ふぃかり もて みいムう
おふぉきいなる とぅき いンでえ くうらし みるやあ きみ うぉてぃの くしゃふぁあの しろく ふぃかるふぁ
しゅむ とぅきに まなこ とンでぃなンがら むかふぇるふぁ ふぃかり きき わく けえンだものかあ なれ
あましゃかる ふぃなの わかれの しょンでの うふぇに きみンが こころの いろうぉ みいしかなあ
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